ひとむれ
このコーナーでは、家庭学校の月毎の機関誌である『ひとむれ』から一部を抜粋して掲載しています(毎月上旬頃更新予定です)。
職員が、家庭学校を通じて感じたことや伝えたいことを表しています。是非、ご感想をお聞かせください。
※都合により『ひとむれ』本誌と内容が異なる場合がございます。ご了承下さい。
巻頭言
実習担当を経験して
〈児童の声〉
〈理事長時々通信〉④
校長 清澤満
本館前の庭に校祖留岡幸助先生の胸像が建てられています。この胸像は一九三四(昭和九)年九月に幸助先生の古稀を祝して建てられた古稀記念文庫の落成式に併せて製作されたもので、記念文庫の閲覧室に長く置かれていました。作者は高知桂浜にある坂本龍馬像の製作者として著名な本山白雲で、胸像の右肩に「白雲作」と刻されています。
胸像が現在の本館前庭に移されたのは一九六〇(昭和三五)年のことです。この年の創立記念式が行われた九月二十四日に本館の落成式とともに胸像の除幕式が挙行されました。その様子については「ひとむれ」の創立記念特集(第二一四号)で詳しく伝えられていますが、参会者は二五〇名に達し、翌日の地元日刊紙「北東民報」でも第一面を飾るなど、当時大きな注目を集めた出来事だったようです。胸像の除幕と挨拶は幸助先生の長男留岡敏さんの奥様であるよし子さんが、その後礼拝堂で行われた本館落成式での挨拶は長女の鴫原富恵さんが述べられた旨創立記念特集には記されています。校祖のご遺族を代表してこの日のために東京からわざわざ来道してくださったようです。
当時校長を務めておられた留岡清男先生は、新装なった校舎前庭に胸像を建てることについての検討経過やエピソードを「ひとむれ第二一二号」の巻頭で語っておられます。どんな胸像を建てるのか。職員が手分けしてあちこちの胸像を見て歩いたようです。当時洗心寮長をされていた齋藤益晴先生は北海道大学のクラーク胸像に引き寄せられて北大まで出向き、清男先生と一緒に土台の寸法を測ったり、様々な角度からの写真を撮ってこられました。それらを職員会議で示し、クラーク博士の胸像の建て方に倣うことが決定されたようです。清男先生は胸台の設計を本館の設計を請け負っていただいた建築家田上義也氏に依頼しました。その依頼に対し「田上先生は、私の申出を快諾して、無報酬で奉仕的に胸像建立の設計を引き受けて下さったのである。」と書かれています。因みに一九六三(昭和三八)年建築の桂林寮(現在は博物館)も田上義也氏の設計によるものです。
そして何より家庭学校らしさを思わせるのは胸台を据える基礎工事が生徒と職員の手で施工されたということです。厳寒の地北海道は凍上対策をしっかり施さなければならないので「必要以上に頑丈なものにした」とのことで、その作業の様子を「それはそれは念のいったもので、労力と時間とを惜しみなく注ぎ込んだ。」と記されています。生徒の作業指導に当たったのは齋藤先生と後に柏葉寮長を長く務められた平本良之先生でした。
胸台の正面には校祖の座右の銘である「一路到白頭」の文字が刻まれており、背面には次のとおり印されています。
『留岡幸助先生は、明治二七年監獄改良事業を勉学する目的をもって、アメリカ合衆国に留学。エルマイラ感化監獄に起居して、勤続五十二年の典獄ブロックウェーに師事す。ブロックウェーに座右銘あり THIS ONE THING I DO 先生はこれを邦語に翻訳して「一路到白頭」となし、永く自戒の指針とす。
正面の五字は、大正十二年の自筆。
一日庵は雅号「一日の苦労は一日にて足れり」の意』
ブロックウェーの座右銘は聖書にある言葉からと聞きましたが、それが聖書のどこに書かれているのかは知りませんでした。ある日、偶々「ひとむれ創立100周年記念誌」に目を通していると北海道教育大学旭川校教授の二井先生が寄稿された文章にその答えがあったのです。二井先生はこれを最も好きな言葉として紹介されており、聖書の箇所も示されていました。
私は早速聖書を手に取りました。フィリピの信徒への手紙第三章一三節を捲ると「one thing I do」とあり、「なすべきことはただ一つ」と訳されています。ここで言う「なすべきこと」とは一体何を指すのでしょうか。続けて一四節に「神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」とあります。これを監獄事業に一生を捧げたブロックウェーの場合で考えてみると、ただ一つのなすべきこととは「監獄事業」であり、目標とは「理想とする監獄事業の実現(監獄改良)」であり、そのためにはひたすら努力し続けることが必要だ、ということになるでしょうか。そして幸助先生はそれを「一路到白頭」と翻訳されたのです。
胸像の幸助先生は凛としてまっすぐ前を見ています。近づいて下から見上げると厳しい顔つきに感じますが、目の高さを合わせてみると口元や目尻は少し微笑んでいるようにも見えます。更に近づくと、あろう筈もないことなのですが六〇年以上もの間雨風に晒され続けた結果、額や目尻の皺が随分増えたなとつい錯覚してしまいます。
幸助先生はいつも本館前の庭に居て、何を思われているのでしょうか。清男先生の「教育農場五十年」に幸助先生についてのこんな記述があります。『彼は、生前、よく語ったものである。自分は初代の校長である。初代の校長は、やっと地ならしをする位が関の山である。仕上げは、二代、三代の後継者によってなされるだろう、と。』
〔私の後に続く諸君は「一路白頭ニ到ル」の想いでこの路に注力しているか。懸命な努力なしには目標に近づけないものだ。歩みを止めてはならないぞ〕、と胸像は語りかけているように思います。
児童生活支援員 稲田翔平
現在、入職して十か月、副寮長に選任されてから七か月が経ちました。まだそんなものかと、まだまだひよっこで何もできない自分にやきもきしてしまいます。
そんな中で九月から担当寮に実習生が来ることになり、現在までに三名の実習生を担当しました。自分自身、まだまだ経験がごく浅い中で実習担当に選任され、ひとに教える立場になってしまい不安と緊張と困惑が入り混じっていました。私も短大で福祉の学校に通っていたため施設実習を行い、実習担当の先生にお世話になったことがあったが、まさか自分が先生側の立場になるとは思っていませんでした。実習担当になるという話を自立支援部長から聞いた時、当時のお世話になった実習担当の先生方の顔が浮かんできました。そして、もし今回の実習で当時の私が来たとして、実習に対してどう思っていたか。そんな自分に私はどんなアドバイスをするかと悩みました。実際思い返すと、テキパキ動けなきゃ叱られるかな。何かすることを見つけなきゃいけないけど何が何だかわからないな。早く色々覚えないと、でもさっき一回聞いたことが分からなくなってしまったけれど聞き返すのは失礼かな。などと私は常に焦っていました。その分やはり空回りしていたし、その気持ちを常に持っていて非常に疲れて実習中は本当に嫌な気分でした。そのため実習に対していいイメージを持っておらず、そんな気持ちで実習を終えさせてしまっては駄目だろうと、実習にあたる前からその部分に対して実習生にどうしてあげたらいいか考えていました。
いよいよ実際に実習生を担当して思ったことは、自分が実習をしていた時に考えていたことよりも、実習生に対して仕事をして欲しいであるとか、早く覚えてほしいという気持ちは無く、この施設で子ども達はどんな事をしているのか、子ども達と打ち解けて仲良くなってほしい、子ども達がどんな気持ちで生活しているのか感じてほしい、という部分が大きかったです。また、私自身も施設についてや、その歴史についてはこの実習担当を機に私自身が知ることもできるくらいに分からないことが多すぎたため、その点について助言や教える事があまりできず自分自身への反省はありました。だからこそというか、そうするしかなかったというべきではあるが、施設についてや入所児童の特性等の知識や経験が必要な部分の分からない事は素直に分からないと伝え、私からではなく他の職員や寮長先生に頼るようにし、実習生には実習に対する考え方や、こちらが実習生に求めている事、もっと気を楽にしてほしいという事、子ども達と一緒に生活してみて何を感じるか等を中心に伝えるようにしました。
これでまともな実習になっているのか疑問に思ってしまいますが、自分にできる精一杯のことは教えることができたかなと思いますし、最終的に実習を終えてから、家庭学校で子ども達と生活したことが良い思い出として残っていれば良いかなと考えています。しかし今回実習担当を経験して、やはり自分の知識の浅さを強く感じることができました。歴が浅いからといえばそれまでですが、しかしそれは私にとっての課題をはっきりとさせてくれる良い経験だったと思います。
石上館 中一 S・中三H・中一K・掬泉寮 中二M
一群会の理事長に選ばれて
僕が理事長に就任して思った事についてです。
僕は、思った事が、二つあります。
一つ目は、責任の重大さです。毎月、一群会でたてている月目標を僕は、毎回、ちゃんと守れるかなと心配な気持ちで、沢山です。そんな時は、いつも、自分が守れなくて、一群会理事に入っていない人が守れていたらどうしようと思っています。これからの月目標を守れるように、今から、頑張りたいです。
二つ目は、行事のあいさつを考えながら、学校の勉強をこなす大変さです。僕は、今理事長なので、毎月ある誕生会のあいさつをしなければなりません。なので、あいさつの言葉を考えなければならないのです。そして、もう一つやらなければならない事が、勉強です。なので、あいさつをしなければならない行事がある時は、ものすごく大変です。今まで僕が見てきた理事長の人達はうまく、勉強とあいさつを両立してこなしていたので、とてもすごいなと毎回思っています。
最後に、僕は、まだ中学一年生で分からない事だらけで色々な人に迷惑をかける事もあると思いますが、その時は、大人に頼り、自分のできる事を一つ一つ増やしていきたいです。
高校進学を決めて
僕は、11月9日火曜日に児相の先生と進路について話しました。それまでは、農業高校に進もうかなと考えていました。ですが、児相の先生から、とある高校をすすめていただきました。その高校は、自分の家からはすごく遠いのですが、自分の1番やりたいことであるパソコンについて学ぶことができ、ランクも自分に適していて、さらに近い所に寮がある、とても良い所でした。また家から離れて生活すると決めましたが、正直に言うと淋しい気持ちがあります。ですが、そんな気持ちに負けず、しっかりと勉強し、部活もしながらバイトをしていきたいなと思っています。その高校でも自分の課題と向きあって、解決し、より良い生活をしていきます。その高校には、知らない人しかいないと思いますが、家庭学校に来たばかりの時のように、少しずつでもみんなとの仲を深めていきたいです。冬帰省では、しっかりと親と進路について話したいと思います。そして、その受験で落ちてしまわないように、しっかりと勉強して備えようと思っています。
結婚式に参加して
家庭学校に入所してすぐに平野先生がたの結婚式に参加しました。結婚式は礼拝堂でやったあとに給食棟で食事をしました。給食棟で石上館のみんなで歌とお笑いの出し物をしたんですが、僕はお笑いのほうを3人でやりました。この日まで夕方や夜の自由時間と休みの日の午後に練習を何度もして、役をきめてからは、体の動きや言うセリフのスピードをいっしょにやる二人と会うように考えながらやって、最初は紙を読みながらセリフの練習をして、ネタはほかにもあったけど、言いやすくておもしろいのを選び声が小さくならないようにやりました。みんながだいたいできるようになってから、給食棟に行って、歌の人もみんなで歌ってみたり、お笑いも3人で声が聞こえるかをやってみて大丈夫でした。本番はあまり緊張することは、なかったです。なぜかと言うと、前にも僕が所属していた少年野球の集まりでもこういう経験があるからです。歌を歌う人たちのほうがやる前に静かになって緊張していたと思います。他の寮が先に出し物をやっていてジュースを飲んで待っている時は、一緒にやる二人は静かで話をしなくなっていたので少し緊張しているように見えたけど、順番が来て始まったらそんなことがなく、練習のときと同じく動いて言うことも大きい声を出してやりました。お笑いをやって終わった時は、給食棟にいるみんなが笑ってくれたので良かったです。結婚式にみんなで、出し物ができて楽しかったです。結婚おめでとうございました。
平野先生、みほろ先生の結婚式
僕はこれから平野先生、みほろ先生の結婚式で思ったことをいくつか書きたいと思います。
1つ目は家庭学校で式を挙げてくれてうれしいということです。なぜならここで式を挙げてくれたことで僕やみんなが結婚を祝うことができたからです。
2つ目は平野先生の着ていたタキシードとみほろ先生の着ていたウエディングドレスがとても美しかったことです。僕は小さいころに一度いとこの親の結婚式に出たことがあるのですがそのきおくはもうないのできおくの中ではこれが初めてということになります。初めて見るタキシードとウエディングドレスはとてもきれいなものでした。
この結婚式はとてもいい経験になりました。そして平野先生、みほろ先生、今回はご結婚おめでとうございます。
これからも幸せにすごしてください。
理事長 仁原正幹
これまで『ひとむれ』などでも繰り返し述べてきたことですが、「児童福祉」の真の目的と役割は「子どもの人権を護ること」であると、私は考えています。
国連が一九八九(平成元)年に制定し、我が国が一九九四(平成六)年に批准した「児童の権利に関する条約」というものがあります。この条約の中で、「子ども」は、自分のことについて自由に意見を述べ、自分を自由に表現することが認められるべきであり、また、私生活・家庭・住居・通信に対して、不法に干渉されないことや、暴力や虐待といった不当な扱いから守られるべきものであることなどが定められています。「子ども」を単なる「保護の対象」としてではなく、独自の考えや主体的な能力を持つ「大人と対等な一人の人間」として捉え、発達段階に応じてその権利を行使しながら社会に参加していく存在であると考えていることが、この条約の特徴です。「子ども」を一人の権利主体として捉える人権史上でも画期的な条約であると、高く評価されています。
「児童の権利に関する条約」は、つい五年前にも脚光を浴びました。二〇一六(平成二十八)年の「児童福祉法」改正の中で、初めて第一条の条文中に組み込まれ、銘記されたのです。「児童福祉法」の理念をより一層明確にする目的でなされたことだと想います。(以下引用)
「第一条 全て児童は、児童の権利に関する条約の精神にのつとり、適切に養育されること、その生活を保障されること、愛され、保護されること、その心身の健やかな成長及び発達並びにその自立が図られることその他の福祉を等しく保障される権利を有する。」(第一条のみ抜粋)
「児童福祉法」は戦後間もない一九四八(昭和二十三)年に制定された児童福祉の根幹となる法律であり、その法律の基本理念を示す第一条の条文が、法律制定後六十八年もの星霜を経た二〇一六(平成二十八)年になって、「児童の権利に関する条約の精神にのっとり」という文言をわざわざ付加した形で大幅に改定されたことは、重大かつ深長な意味を持つことだと、私は捉えています。
児童相談所や児童福祉施設で仕事をする人達が、熱心なあまり、早急な成果を求めるあまり、効率性を重視するあまり、大人の目線で子どものために良かれと思ってケアや措置を行うことが往往にしてあります。そのことが果たしてその子どものためになっているのか、「子どもの人権を護る」ことにつながっているのか、我々は常にそのことを意識し、自省しながら仕事を進める必要があります。
子どもの気持ちや意向を無視して、無理強いして、力尽くで対応すること、力技の指導・支援をすること、所謂(いわゆる)強制的な手段を講じることは、児童福祉や感化教育の手法とは真逆のやりかたです。決して良い結果をもたらしません。そればかりか、多くの場合、児童虐待にもなり得る重大な危険性を孕んでいるということを、児童福祉を担う者はゆめ忘れてはなりません。何のための児童福祉なのか、誰のために仕事をするのか、そのことを常に意識し、「子どもの人権を護ること」を肝に銘じながら、虚心坦懐に児童福祉の仕事に取り組むことが必要です。
さて、これまでも本欄に度々記載してきた札幌市児童相談所との折衝・協議の状況について、その後の経過なども含めご報告します。内容は札幌市児相の一時保護所における不適切な対応に関することで、問題行動が懸念されるというだけの理由で、ある一定の子どもが他児童から離れた場所にある「拘禁部屋」に行動の自由を制限されながら長期にわたって閉じ込められ、隔離されている実態です。このことは「子どもの人権」にも深く関わることであり、北海道家庭学校としてばかりでなく、広く一般的見地からも看過できない重大な問題であることから、私は今日(こんにち)まで二年四カ月にわたって札幌市児相に改善を求め、文書や面談などで協議を重ねてきました。
八月四日になって札幌市児相から事務連絡文書(未定稿の改善案)が届きました。ただ、改善案の内容が「拘禁部屋」の解消ではなく、何とか理由を付けて存続させたいという思惑が透けて見えたことから、私からは八月十九日付け事務連絡文書で、改善案の内容には私が提言してきた内容と相容れない根本的な問題がある旨、具体的に指摘して回答しました。
十一月九日には、私が三度目の札幌市児相訪問を行い、藤崎賢治家庭支援課長など四人の職員と二時間ほど協議を行いました。札幌市児相としては、現在内部組織を立ち上げ、所を挙げての検討を進めているとのことでしたが、結論がいつ出るかは明言されませんでした。
私が問題提起したのが二〇一九(令和元)年七月のことですから、それから二年四カ月もの長い時間が経過してしまいました。私としては、札幌市児相の自浄作用を期待しながら、粘り強く辛抱強く説得してきたつもりですが、表立って何の反論も示されないまま、ただアドバイスを続けてきたような形になってしまいました。この間の議論の中でいくつかの改善点も認められますが、一時保護所の「拘禁部屋」問題については、児童虐待に絡む案件なので、もうこれ以上結論を先延ばしされるのを、安穏と見過ごしているわけにはいかないと考えています。
札幌市民の「子どもの人権」に関わる重大問題ということで、本日、札幌市児童相談所の山本健晴所長宛に「児童虐待通告」を兼ねた意見書を発出し、所管する児相長としての責任ある判断と早急な解決を求めました。家庭や児童福祉施設において札幌市児相の一時保護所と同じことをした場合に児童虐待との判断を下さないかを確認するためでもあります。