ひとむれ
このコーナーでは、家庭学校の月毎の機関誌である『ひとむれ』から一部を抜粋して掲載しています(毎月上旬頃更新予定です)。
職員が、家庭学校を通じて感じたことや伝えたいことを表しています。是非、ご感想をお聞かせください。
※都合により『ひとむれ』本誌と内容が異なる場合がございます。ご了承下さい。
巻頭言
受賞の報告
心理士として十年を迎えて
園遊会を終えて
「待つ」の意味と笑顔
〈児童の声〉
〈理事長時々通信〉⑧
校長 清澤満
二〇二一年三月末から休寮していた楽山寮を十月三日、約一年半振りに一般寮として再開し、石上館、掬泉寮、楽山寮の三寮体制としました。この時期に開寮することとしたのは、今年度上半期に入所した児童が九名と、昨年度一年間に入所した児童数に迫り、十月初日現在、二寮十六名の在籍となったことに加え、各児童相談所からの入所の打診がこの時点で数件寄せられていたので、二寮体制では程なく受入困難となることが予測されたからです。昨年度もこうした状況があり、児童相談所には児童の退所が見込めるまで入所を待って貰わざるを得ないといった苦い経験をしました。とは言え寮を担当する職員が容易に得られるわけではありません。今回の開寮に当たっては、昨年四月、本校での勤務を望んで関東からやって来た平野伸吾・みほろ夫妻に任せることにしました。二人は入職当初から将来寮を持つことを目標に、各寮回りや楽山寮を使っての輪休寮対応などで寮運営や児童支援の実際について学んできた若手の職員です。私としては、二人の仕事に対する意気込みや覚悟の程を見極めていたところでもありました。
家庭学校はここ数年で職員の入れ替わりが一気に進み、私が家庭学校に勤めた四年前と現在とでは職員の平均年齢が約二歳も若返っています。また、平成二〇年代前半までにベテラン職員の退職が相次ぎ、それ以前を知る職員も今は数人しか残っていません。
そうした状況を踏まえて、児童自立支援施設(教護院)の勤務経験が豊富で業務に精通している軽部晴文理事(元家庭学校職員)と水上和俊理事(元道立大沼学園長)に職員研修をお願いし、家庭学校が大切にしてきた伝統や子どもとの向き合い方、職員の心構えやチームワーク・組織力の大切さなどについて話していただきました。生きた経験に基づいた深みのあるお話から、自分は何故家庭学校で働いているのかを改めて考えてみる切っ掛けが得られたのではないかと思います。
三寮体制に戻りましたが、量的にだけではなく質的にも体制の充実が必要です。そのためには職員が協調して子どもの成長を支えていくことが大切であり、組織のチーム力・総合力が改めて試されます。分校や児童相談所など関係者の声に耳を傾けることも欠かせません。守るべき理念や技法を継承しつつ、子どもの権利を擁護する質の高い支援に努め、関係者の更なる信頼を得たいと思います。職員として「家庭学校が好きであることが大切」との軽部理事の言葉が何よりも全てを言い表しているように思います。
主幹(酪農担当) 蒦本賢治
十月一五、一六日に開催された「Japan Cheese Awords 2022」において、当施設のバター・チーズ工房から三種のチーズを出品し、そのうちソフト/ウォッシュ部門で「トメオカ」が銅賞、パスタフィラータ/ストリングプレーン部門で「家庭学校の薪」が金賞を受賞しました。はじめに、工房の立ち上げからこれまでご協力、ご声援やチーズを購入していただいた方々にお礼を申し上げます。今回の受賞は一重にこれらの皆様方のお力添えのお陰と思っております。ありがとうございました。
このようなコンテストへの出品は二〇一九年の工房開設、二〇二〇年からの一般販売開始以来初めてのことで、今回は三種のうち一つが銅賞にでも入ればという気持ちで発表を待っていました。アワードへの参加は日本全国の一〇九工房から三一一品に及び、そのうち今回の金賞受賞は二七品、銀賞は八〇、銅賞は一〇一品でした。その中で金賞に選ばれたことは自分でも大変驚いています。
今回金賞をいただきましたストリング/プレーン部門はいわゆる「さけるチーズ」で、そのうち味付け等をしないもののみがエントリーできる部門となります。熟成を必要とせず、あっさりとした味で、初心者にも作りやすいチーズです。とはいえ、それ故に味にも見た目にも特徴を出すことが難しいとも言えます。前回の一昨年のアワードでは初めてストリング部門が創設されたのですが、その時は銅賞が六品、銀賞が一品で金賞の該当なしということでした。それほど高評価を得るのも難しいカテゴリーということかと思います。
当工房で「家庭学校の薪」を作るきっかけとなったのは、大きなチーズを作ったときに型からはみ出した分を集めてストリングにしてみて、食べると意外と美味しく出来たということからですが、実際に販売用に作ってみると手作りゆえに太さや長さがまちまちでスーパーなどでよく見かけるそれより、なんとも不揃いなものが出来上がりました。その不揃いさと縦に裂ける繊維が家庭学校の山林から木材を切り出したときに端材として出てくるいわゆるドンコロに似ていると思い、そしてそのドンコロは家庭学校の子どもたちが風呂炊き用の薪として利用していることから「家庭学校の薪」と名付けました。不揃いなのは様々な個性を持って入所してくる子どもたちのようで家庭学校らしいとも思いますが・・・製品としては均質的な方が良いので、今はできるかぎり大きさが揃うように心がけています。
審査のコメントは後日になるということで、どのような点で高い評価を頂いたのかはまだわかりませんが、市販されている他の同様の製品と食べ比べて、牛乳の味がしっかり残っているというのが当製品の特徴と感じています。原料の味を残すような製造を心がけるということもさることながら、それよりも原料の牛乳が良いということが非熟成系チーズの良し悪しを決定づける要因となります。家庭学校の牛舎で搾られる原料乳の品質が認められたということであれば大変嬉しく思います。
今回のアワードに出品したあと二つの製品は熟成系のチーズです。こちらが「家庭学校の薪」程に高い評価を得られなかったということは、熟成に原因があるのかもしれません。講評を元に技術を研鑽し、次回はもっと高い評価を得られるように、また、今回金賞を受賞したチーズも最優秀部門賞を取れるように、さらに品質を上げ、美味しいチーズを広く提供していきたいと思っています。
主幹(心理担当) 姜任
二〇一三年四月から家庭学校の心理士として働き始める。今も鮮明に浮かぶ風景がある。遠軽駅に迎えに来てくださった熱田先生(当時校長先生)の車に乗せられて学校に向かう時にどんなところに行くのだろうと不安の気持ちで外に目を向けると穏やかな田舎の景色が目に入った。平和だった。その平和なところは今も変わってない。
それから十年、一番大切に思うのは人との出会いである。生徒たちと職員たちとの出会い。家庭学校というひとむれに共に住みながら生活している。出会いは自分が選択したものではなく、神様からの贈り物だと思うが、時には合わない人との出会いで悩む時間もある。しかし、悩んでいた時間こそ、貴重な時間を頂いていたと今になって分かることが多い。また、毎日のようにかんしゃくを起こした子どもが退所した日は自分の部屋で泣いたことがある。もう少し寄り添って行けば子どもは楽に生活したかもしれないという悔しい思いがあったからである。
大半の子どもたちは心理面接の時間に色々なことを喋ってくれる。楽しいことや悲しいこと、悔しい思いをしたことなど様々だが、人とのつき合いで悩むことが多い。気持ちを素直に言えず、我慢ともやもや、躊躇、怒りなどに現れる。集団生活に慣れてない子どもたちが家庭学校というひとむれで生活しながら成長して行く。それと同じ様に職員も成長の場所であるのは間違いない。
最近、生徒たちの児童票の記録を検討しながら一〇〇%がコミュニケーションの能力の欠如に困り感を感じている。気持ちをうまく伝えることが難しいと書いていることを目にして職員間も同じくコミュニケーションの大変さがあることに気づく。特に、先輩と後輩での間に仕事に関する話が以前より少なくなっていると感じる。以前は、生徒の話も教務室でわいわいしながら話をすることが多かった。色々なことで話をすることによって仕事のストレス解消もできる。笑いがあり、ユーモアがある会話は人に活気を与える。その時間は毎年減っている。なぜなのかと思った時に素直になれない自分がいることに気づいた。
児童自立支援施設という特殊な環境で職員間がよりよくうまくつき合いができることは幸いなことであると思われる。特に人にわからないことを素直に聞くことでコミュニケーションが成り立つ。入社してからかなり先輩たちに聞くことが多かった。たまには怒られることもあった。しかし、今はそのような様子はあんまり見ない。小さいことでも大きいことでもいいので聞きながらやることの大切さが欠如していると思う。聞くことを躊躇う必要はない。聞く、答える、考える。そうしたやり取りがコミュニケーション能力の向上に繋がることが多い。
心理面接でも最初は凸凹な子どもが素直になり、可愛げが出てきたら退所に近づいたと感じることが多い。その子どもの可愛げはコミュニケーションツールが上手く機能しはじめたからだと思う。職員も同じく家庭学校というひとむれで素直になれる職場作りが大切であると十年働いて強く思うところである。
児童自立支援専門員 大里真子
十月十七日に園遊会がありました。園遊会は毎年秋に行われて、たくさんの模擬店が出店されます。毎日給食棟で食べている昼食とは一味違い、屋外でいろいろな種類の食べ物が並ぶ、子ども達にとって楽しい行事の一つだと思います。
また、子ども達が店の看板のポスターを作成したり、寮長・寮母と協力しながら食材の準備をして出店までこぎつけた背景が窺えることも、園遊会の醍醐味だと思っています。
当日は天候が不安定だったので、三十分早めてスタートしました。幸いにも序盤は暖かい日差しの中で行われました。
今年の出店は石上館が鳥串、掬泉寮が鈴カステラ、楽山寮がバターチキンカレー、望の岡分校がハッシュドポテト、給食棟が肉そば、酪農班がソフトクリームとラクレットチーズ、職員の小長谷・稲田屋がおしるこ、竹中商店がチーズケーキと、とてもバリエーションに富んでいました。どれも美味しかったです。
子ども達は店番組とお店を回りご飯を食べる組とに分かれて、交代しながら上手に回っていました。その中で、食べ物を受け取る時にお礼を言ったり、美味しいという言葉を直接言ってくれたりで、とても素晴らしいと思いました。楽しむ時は楽しんで、店番をする時は一生懸命していて、そのメリハリのある様子にも感心しました。何のトラブルもなく、とても有意義な時間を過ごせたのではないかと思います。
私は毎年給食棟の方々と共におこわを作って出店していましたが、今回は人手が足りずやむなく肉そばを提供することになりました。肉そば自体は評判が良かったのですが、伝統のメニューができず、申し訳ない気持ちになりました。来年度はまたおこわが復活できるよう、人手が増えて欲しいと切に願っています。私自身も努力を惜しまず日々調理に勤しみ、スキルアップをして給食棟を支えていけるように頑張りたいです。また、食を通じて子ども達とより良い関係性を築いていきたいです。
コロナ禍によりここ数年、ボランティアで出店してくださる方々やお客様をお招きできない状況が続いています。外部の方々に子どもたちの気持ちの良い対応をご覧いただける日が待ち遠しいです。大人数で盛大な園遊会がまた開催できることを願っています。
がんぼうホーム児童生活指導員 伊東睦子
ホームに勤務して暫くは、子供に対して何を話せばよいか分からず声掛けができない私でした。それは入居してくる子供たちも一緒で、話しかけられた事に対して返答するのみであまり触れてほしくないオーラを発し、会話を途切れさせるような対応をしてくる子もいます。意欲がなく、病んでいる子供たちとの生活は月日が解決してくれることもあり「待つ」ことの大切さを教えてくれました。
常駐してくださっているホーム長ご夫妻を中心に職員が日々の生活の中で声掛けや何気ない話題から会話が少しずつ増え、話をしても安全な場、自分の話を聞いてくれる場所・人達なんだと認識してくれるようになります。そうすると子供の方から天気のことや隣の敷地で行われている高校の学校行事等をきっかけに話しかけてきてくれたり、口を開く回数が増え、徐々に心配事や疑問・質問が出てきます。ただ個人差があるので、環境や職員、生活に慣れないまま仕事探しが始まり、タイミングが良ければあっという間に仕事が決まり就労し、かなりの緊張感のもと生活をやり過ごしているケースの子は、会話が少ないような気がします。
経験したことがないことだらけの生活は全てうまくいくとは限らず、仕事内容や職場環境、人間関係の事は少し話しますが、自分の失敗は殆ど言わないので我々は順調だと信じて見守っていると、突然不調をきたす子供が多いです。この不調期の間に、失敗、躓き、立ち止まり若しくは後退からでも進展はいくらでもあり、小さな一歩、歩むスピードは遅くても前進できることを機会を見ては伝え、自らが行動を起こす回復の時期を待ちます。この「待つ」時間の必要性を富田医師や姜心理士、理事長から聞く度に理解しているつもりですが、私は待つことが苦手で苛立ってしまい、不満や腑に落ちない点を職員の皆さんに聞いていただき(ほぼ一方的に近いかもしれませんが)、共有し、助言や今後の対応策を協議します。もしかするとこの「待つ」時間は、職員にも有効で、今後の対応策を話し合ったり情報を収集する機会なのだと思います。そして子供と一緒に抱えている悩みや課題の解決策を考えたり、背中を押す寄り添いの時間なのだと思います。
会話が増えた子供からは、自分でも「心身共にタフになった」と自覚する言葉があったり、具体的な目標を掲げるようになりました。何より私たちの癒しになったのは笑顔が増え、声をあげて笑う姿、冗談やくだらない話ができる、当たり前の光景です。入居当時とは明らかに違い、表情が明るくなり自分の考えや発言ができるようになり、して欲しい事が言え、ちょっとした甘えが出てきた事で今まで足りなっか部分を少し穴埋めできたのではないかと思います。
他施設の通信に「子供の居場所に大人がどう関わっていくか」「子供を放っておく勇気」とありました。子供の力を信用し見守る、本当に困ったときにSOSを出せるようにするためにも、職員は理念を共有し、待つ姿勢や心構えが必要なのだとわかりました。
人の心を動かすには時間がかかりますが、子供たちが退居して楽しい青春と生活を過ごせるように、目を見張り、ちょっと気づかい、微力ながら手助けをしたいと思います。
中三 R・中一 S・中三 S
「研修旅行を振り返って」
ぼくは二泊三日のバスに乗っての研修旅行を経験して色々な事を学ぶことができました。
初日は、美幌峠に行きそのあとに屈斜路湖の和琴半島でネイチャーボート体験をした。最初はボートに乗るのがこわかったけれど、途中からなれて楽しく感じてきて、湖に出て水面を見ていたりするとエビや小魚がたくさんいて、とりあえずボートから落ちずに楽しみながら、最後は他のボートと競争して岸まで戻った。岸に着いたボートの順位の結果はさておいといて、たのしく終えることができた。屈斜路湖を後にして、次は砂湯を掘って掘るたびにお湯が出てきておもしろかった。そしておどろいた。その後はまたバスの乗って宿泊するネイパル厚岸に行った。夜ごはんはカレーライスをたべて、部屋に行くとヘラクレスという名前だった。部屋では楽しいぐらい騒がしくなったけれど、みんな疲れていたのかすぐに寝てしまった。ぼくは何回も夜中に目をさましてしまったので、十分なすいみんがとれてなかったような気がして、起床してから昼間に眠ってしまわないか不安な気持ちになっていた。
二日目は、釧路湿原に行った。とてもきれいな景色が広がっていて湿原を一望できる展望台で感動した。昼食は山花ビブレという施設で食べ、和食と洋食がいっしょになった食事で味はおいしかった。施設のロビーには牛乳パックで作った牛が展示されていて、それがとても気になってしまった。またバスに乗り今度は阿寒湖に行き、アイヌシアターイコロというところで、舞踊をみることができた。舞踊を見てアイヌの人々はこういうことをして育って生活をしていたんだと初めて知って色々な物に神々が宿っているんだということも知った。二日目の宿泊先は阿寒湖のホテル御前水で夜は温泉街で買い物をすることができた。見たことのない色々な物が売っていて、買うと店員さんがおまけをしてくれたりして、とてもやさしかった。ホテルの風呂に入った時は、サウナがあると思っていたけどそれがなくてがっかりしてしまった。その分長めに風呂に入り天井を見たらガラス張りになっていて、自分の姿が見えてびっくりしてしまった。
三日目は、阿寒湖の遊覧船に乗ることができた。大きめの船が水のうえをぐんぐんいくことに驚きをかくせなかった。その遊覧船で島についてマリモ博物館に入ることができた。そこでマリモがどういうふうに育っているのかが知れた。阿寒湖からバスに乗って次は足寄の化石博物館に行き、たくさんの骨や化石などを見ることができた。その日の昼食は豚丼を食べた。こうして色々な経験ができて研修旅行が終わった。研修旅行を通して、ぼくは知らないことを知って学ぶことができたので、それをいかせるように頑張っていきたいです。
「園遊会」
ぼくは、十月十七日にあった園遊会でたくさんのおいしいものを食べました。
自分たちは、ビートシロップを使ったすずカステラを作りました。ビートシロップは掬泉で収かくしたビートを使って作りました。一番大変だった作業は皮むきです。たくさん量がありすぎて本当に終わるのか心配になりました。終わって、できたのは、収かくしたビート百キログラムで、たった三リットルしかできませんでした。あんなにがんばって作ったのに、「これしかできないのかよ」と思いました。でも長い時間をかけて作ったら、終わった後、達成感があって気持ちよかったです。すずカステラを食べてみての感想は、思ったよりももちもちであますぎず、とてもおいしかったです。
これから園遊会で食べたものの中で、ぼくが特においしいと感じたものを三つ紹介します。
一つ目は、楽山寮のバターチキンカレーです。これは園遊会で食べたものの中で一番おいしかったと言えるほどおいしかったカレーでした。ターメリックライスとルーとのあいしょうがよくて、とてもおいしかったです。
二つ目は、酪農班のラクレットチーズです。家庭学校でとれた、とれたての牛乳を使って作ったチーズでした。とてもおいしかったです。
三つ目は、これも酪農班のソフトクリームです。これも家庭学校でとれたとれたて牛乳を使って作っています。味は、牛乳のあまさが強い感じの味になっていて、とてもおいしかったです。
その他にも、石上館の鳥串や分校のハッシュポテト、給食棟の肉そば、小長谷・稲田屋のおしるこ、竹中商店のチーズケーキ、どれもとてもおいしかったです。
「転寮してかわったこと」
ぼくが、きくせん寮から転寮してかわったことやこれからの生活のいきごみをかこうと思います。
一つ目は、転寮してよくなったことをかきます。よくなったことは、ぎゅうしゃときゅうしょくとうがちかくなったことです。ぎゅうしゃは、あさ作業でいくときに、いままではけっこうつかれていたけどきょりがちかくなったのでかなりあさ作業のやる気がでます。あとは、きくせんにいたころもたのしかったですが、転寮してもたのしい生活をおくれているのでうれしいです。
二つ目は本館へのいどうきょりがとおくなったことです。たぶんまいにちつかっている本館がとおくなったのは、あるいている時けっこうつかれるので授業する前からつかれていることが多いです。
これからの生活でのいきごみは、きくせんにいたころよりもしっかりやろうということです。
これから、あたらしく新入生もはいってくるかもしれないので、これからも、きちんとがんばって生活していこうと思います。
ぼくら楽山寮をこんな寮にしたいです。
一、平和な寮・・・みんながたのしくすごせる寮
一、おたがいをみとめあう寮
一、よくめしをくう寮
理事長 仁原正幹
家庭学校の長い歴史の中には、遠来のお客様など珍しい来校者がしばしば登場します。各種出版物や『ひとむれ』バックナンバーなどにも、そうした方々の動向が記されており、最近私の頭の中で、様々な登場人物がエピソードなども交えながら次々と繋がる事態、記憶の連鎖のような現象が生じましたので、新旧今昔織り交ぜてご披露したいと思います。
まず第一弾は、新聞等で九月二十六日物故の報に触れた、ノンフィクション作家・佐野眞一さんのことです。佐野さんは七年前の晩秋、二〇一五(平成二十七)年十月三十日に、出版社の担当編集者と二人で来校されました。六〇年安保時代の寵児で元全学連委員長・唐牛(かろうじ)健太郎の評伝『唐牛伝――敗者の戦後漂流』の取材、おそらく最終確認のために紋別まで来られた折りに、遠軽の家庭学校にも足を伸ばされたものと想われます。翌年七月に刊行され、出版社から送られて来た本を、このほど読み返してみて、記憶を新たにしました。本の一部を引用します。
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問題児が最後に来る学校
紋別から車で1時間ほどかかる遠軽町を訪ねた。(略)遠軽町を訪ねたのは、唐牛がブントにオルグした元同志社大生の高野澄から唐牛があるとき「おれは本当は、お前が出た同志社の出身で遠軽に北海道家庭学校をつくった留岡幸助みたいな仕事がしたかったんだ」とぽつりと漏らしたことがあるという話を聞いていたからである。(略)留岡は念願の私立感化院「家庭学校」を明治32(1899)年に東京・巣鴨に設立した。後に名テナーと謳われるスコットランド人との混血不良少年の藤原義江もここで学んだ。(略)
取材に対応してくれたのは、仁原正幹校長と軽部晴文企画総務部長の2人である。(略)ガリ版刷りの「ひとむれ」という小冊子を持ってきた。発行日は昭和55(1980)年の5月1日である。その4月28日の項に、こんな記述があった。〈北大工学部榊原勝昭氏、唐牛健太郎氏夫妻来校〉(略)ちなみに唐牛がここを訪れたのは、母親の死からちょうど1年後のことである。再出発を決意するにはふさわしい頃である。(略)
――実は元全学連委員長は私生児なんです。ほとんど父親を知らずに育った。そんなケースの子どもはいますか。「むしろ、そういうケースが多い。今でいうステップファミリーといいますか(略)ここは、児童福祉法の一番難しくなっている子どもが最後に来る場所なんです」
(略)唐牛氏は全学連委員長を務めたあと、ヨットスクールをやったり、居酒屋をやったり、果ては紋別でトド撃ちになったり、いわば〝自分探し〟の旅に出ます。そして43歳で辿りついたのが、この「家庭学校」でした。彼は自分の出自を重ね合わせて、ここで働いてみようという気になったのかもしれません。(略)
前年に母を亡くした唐牛は、人並み以上の知力を持って生まれ、母親から格別の愛情を注がれて育った自分は何とかここまでやってこれた。だが、それ以下の境遇だったらこの北の果ての原野に建つ「家庭学校」に入れられていたかもしれない。 (『唐牛伝』小学館)
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この本の中にオペラ歌手・藤原義江の名前が出てきたのは、私が博物館を案内しているときに、藤原が家庭学校の卒業生であることを一言漏らしたからで、佐野氏はそのことにいたく関心・興味を示し、藤原が長年にわたり帝国ホテルを自分の住まい代わりに使っていたという豪快なエピソードを面白そうに話してくれたのでした。実は今般『唐牛伝』を読み返してみて、こうして活字の本となって広く世に出回って良かったのかな……と、今更ながら若干不安を覚えました。どんなに成功した方でも家庭学校卒業の経歴を伏せている場合が多いからです。
そこで、ここから第二弾です。私は急いで古川薫氏の『漂泊者のアリア』の文庫本をネット通販の古書店から取り寄せて確認しました。この小説は一九九〇(平成二)年下半期の直木賞受賞作として有名で、キャッチコピーが「世界的なオペラ歌手藤原義江の波瀾の生涯」でした。この本で藤原がスコットランド人の貿易商の父と下関の琵琶芸者の母との間に生まれ、波瀾万丈の生涯を送ったことを知りました。そして、安堵しました。小説の中に家庭学校のことが銘記されていたからです。以下、当該箇所の引用です。
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母親が引き取りを拒絶してきたので、瓜生寅は義江を外巣鴨の「家庭学校」に入れた。始末におえない名家の子弟を預かるキリスト教系の私立感化院といった学校である。ここで二年間、厳格な校風に押さえ込まれて、とにかく卒業することはできた。
(『漂泊者のアリア』文春文庫)
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さらに私は、この小説の中に面白い記述を見つけたのです。家庭学校卒業後の義江少年は、家庭学校の思(し)斉(さい)塾から山手線で明治学院の中等部に通うのですが、その車中で乃木大将に遭遇し、乃木・ステッセルの風説を想起するのです。
以下、関連する箇所を引用します。
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(略)新宿を発車したころ、入口近くから席の空いた中ほどに入ってきた平服の老人が、乃木大将だとわかって、乗客の緊張した視線がそこに集まっていた。義江が勇敢に近づいて行く。国東の寺で戦争ごっこをしたとき、義江はいつも乃木大将になりすまし、ステッセル役の子をいじめたものだった。
(『漂泊者のアリア』文春文庫)
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こうした記載にもあるように、藤原義江の幼少の頃には、日露戦争の勝利を称える歌「水師営の会見」などで、乃木将軍とステッセル将軍の風説が人口に膾炙していたものと思われ、私としては改めてそれを実感し、再認識したのでした。
そこで、ここから第三弾、ステッセルのピアノです。北海道家庭学校に古くから伝わる大切な宝物として、日露戦争縁(ゆかり)のステッセルのピアノがあることは、これまでも何度か記載してきました。
作家の五木寛之さんが、乃木・ステッセル伝説に謳われている歴史的なピアノが国内に四台現存することなどに着目して、遠軽、旭川、水戸、金沢などを訪ね、中国やロシアにも旅をしながら、平成五(一九九三)年に『ステッセルのピアノ』という本を書かれました。
以下、『ステッセルのピアノ』からの引用です。今も昔も変わらない家庭学校の子ども達の様子が伝わってきます。
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(略)突然、谷先生が私に言われた。
「一日に一回、昼食だけは全生徒が集まってするんです。お口にあうかどうかわかりませんが、職員や生徒たちと一緒にどうぞ、ピアノをご覧になるのは、その後になさってはどうでしょう。
ごちそうになります、と答えて私は立ちあがった。食堂は本館からすこし離れた場所にあった。私が雪道にそなえて横浜からはいてきたブーツを脱ぐのに苦労しているところへ、学生服の生徒たちが次から次へと駆け込んできた。
「こんにちは!」「こんにちは!」と、どの子もどの子も私の顔を見て元気な声をかけてゆく。その生徒たちの活溌な声に、規則できめられたことをやっているといった空虚な感じがほとんどないのがふしぎだった。挨拶ということを、人間の基本的マナーとして、日常の暮しのなかで教えられているらしい自然な明朗さが彼らの表情にはあった。
(『ステッセルのピアノ』文藝春秋)
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家庭学校では、このステッセルのピアノを長年礼拝堂で活用したあと、近年は博物館で大事に保存してきました。博物館ご案内の際に、腕に自信のある人に試しに弾いていただくこともありました。
そのステッセルのピアノですが、このほど遠軽町教育委員会はじめ地域の皆さんからの要請に応える形で、この九月にJR遠軽駅前にオープンした「遠軽町芸術文化交流プラザ(メトロプラザ)」に貸し出すことになりました。地域の皆さんや旅行客の皆さんなど一般の方々にもわかりやすいように、佐藤京子学芸顧問に改めて文献調査などをお願いし、原案をまとめていただいて、そこに私も加筆等の最終調整をさせていただく形で、掛け軸状の「案内パネル」を作成しました。文章のみを引用してご紹介します。
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『ステッセルのピアノ』
このピアノは遠軽町内にある北海道家庭学校に九十年前から伝わる「ステッセルのピアノ」です。十九世紀後半にドイツで製造され、ロシアで使用されていたことが記録されています。
日露戦争(一九〇四年~一九〇五年)の終結時において、日本の司令官の乃木希典将軍がロシアの司令官のステッセル将軍と水師営(中国大連市旅順)で会見した際の戦利品の一つと伝えられています。一九〇六(明治三十九)年十二月に、当時東京巣鴨に所在していた家庭学校に国から寄贈されました。
「北海道家庭学校」
1914(大正3)年
家庭学校の創設者(校祖)・留岡幸助は、感化教育事業の一層の展開を図るために豊かで厳しい自然を求めて北海道オホーツクの地に分校と農場を開設しました。それが現在の北海道家庭学校の起源となっています。
1932(昭和7)年の夏
北海道分校教頭の留岡清男(校長の四男で後の第四代校長)が子ども達の情操教育のための音楽活動に活用しようと考えたことから、このピアノは東京の本校から北海道の分校に運ばれました。望の岡の礼拝堂に備え付けられたピアノは、家庭学校全体の音楽活動の要となり、家庭学校と地域の人々をつなぐ絆ともなりました。
「全国からの思いで修復」
1994(平成6)年7月
戦後の昭和20年代には故障がちとなったため、一旦現役を退きましたが、1994(平成6)年の北海道家庭学校創立80周年記念事業の中で再び脚光を浴びることになります。
前年の1993(平成5)年3月、作家の五木寛之氏が取材に訪れ、同年『ステッセルのピアノ』(文藝春秋)が刊行されました。北海道家庭学校のことが「遠軽の雪の学校にて」という第一章に記載され、全国的に大きな反響を呼びました。このことを契機に、地元からこのピアノをよみがえらせようとの声があがり、遠軽町内をはじめ全国各地から沢山の寄付が寄せられ、1994(平成6)年7月、静岡県のヤマハの工場で修復されたのです。
「ロマンを伝える優美な姿」
それ以来北海道家庭学校の礼拝堂で、日曜礼拝や演奏会、クリスマス会、結婚式などの際に、このピアノは多くの人々に演奏され愛されてきました。
その後時代も変わり、ロジャース・オルガン(デジタル式教会向けクラシックオルガン)導入などを契機に第一線を退くことになり、近年は博物館で展示されていました。
今般多くの皆様にご覧いただくために、メトロプラザで展示されることになりました。優雅な姿は今も変わらず、往時のロマンを伝えています。
令和4年8月
社会福祉法人北海道家庭学校
(遠軽町メトロプラザ・案内パネル)
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