ひとむれ
このコーナーでは、家庭学校の月毎の機関誌である『ひとむれ』から一部を抜粋して掲載しています(毎月上旬頃更新予定です)。
職員が、家庭学校を通じて感じたことや伝えたいことを表しています。是非、ご感想をお聞かせください。
※都合により『ひとむれ』本誌と内容が異なる場合がございます。ご了承下さい。
巻頭言
児童の声
アフターケア
百年史編集委員会便り
校長 仁原正幹
去年の四月から楽山寮の寮長・寮母として活躍してくれている千葉正義・珠季夫妻の待ちに待った結婚式と披露宴が、秋晴れの十月八日、旭川市内の結婚式場で行われました。新郎が遠軽町丸瀬布の出身、新婦が室蘭市の出身ということで、両家の親族等が集まりやすい中間地点の旭川を開催場所に選んだようです。二人の人柄を物語るように一四三人もの人が集う盛大なイベントとなりました。
仕事柄北海道家庭学校の職員全員が参加することはできませんが、各寮を守る職員を除く多くの職員と家庭学校の関係者等が祝福に駆けつけました。さらには、いつも連携・協働の形で児童の指導・支援に取り組んでいただいている望の岡分校の先生方も大勢参加されました。『乾杯』の歌を合唱し、皆で喜びを分かち合えたことは大変嬉しく、有り難く思いました。
私は新郎・新婦と職場を共にする者として、僭越ではありましたが祝辞を述べさせていただきました。その祝辞の一部を抜粋して掲載させていただきます。
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千葉正義さん、珠季さん、「結婚式」おめでとうございます。そして、千葉家、岸田家、ご両家の皆様、本日は誠におめでとうございます。
只今、「『結婚式』おめでとう」と申し上げました。皆様ご存じと思いますが、お二人は既に昨年二月に入籍をされております。実は、私ども北海道家庭学校は、児童自立支援施設の中でも、伝統的な「小舎夫婦制」を堅持しております。「小舎夫婦制」の寮長・寮母は、当然ながら正式な夫婦でなくてはなりません。ということで、昨年度当初から「楽山寮」の寮長・寮母を任せられるのはこの二人しかいないという私の勝手な思いから、お二人にムリを言って、入籍を急いでもらったという経過がございます。
ムリなお願いをお二人は快く引き受けてくれまして、新婚生活の余韻に浸る暇もなく、この一年半、お若いながらも、小学生から中卒生までの少年達の親代わりという寮長・寮母の業務に取り組んでいただいています。そのようなことで、随分と時間が経ってしまいましたが、お二人がやっと今日の佳き日に華燭の典を挙げられたということで、私としても、本当に安堵し、大変嬉しく思っているところでございます。
新郎の正義さんは、平成十九年からですから、もう九年になりますが、家庭学校の「本館職員」、そして「寮担当職員」として勤務されております。畑違いの法学部のご出身ですが、児童の指導・支援の業務に生きがいを感じられて、もう今では児童福祉の仕事を天職と考えられているのではないかと、私はそのようにお見受けしております。
千葉寮長が子ども達に語りかける言葉は厳しい中にも愛情が溢れています。日が暮れて真っ暗になっても、寮の周りを電気で照らして、熱心に「夕作業」の指導をされています。集中力や忍耐力に欠ける子ども達ですが、千葉寮長の後について、皆、黙々と作業をしている、そういう姿をよく見かけます。正義さんは非常に熱心で几帳面な仕事をする方で、家庭学校の中核を担ってくれています。
新婦の珠季さんですが、平成二十五年の二月から家庭学校に勤務されています。家庭学校の前にも、児童養護施設で二年半、指導員をされていた経験もあり、
今日ご出席の名寄市立大学の家村先生、家庭学校の理事でもありますが、この家村先生の薫陶を受け、児童福祉の基礎をしっかりと身に付けられ、子どもに対する深い愛情とともに、優れた洞察力も持った方でございます。
寮母としての業務ばかりでなく、本館業務にも積極的に取り組んでおられまして、運動会のクライマックスとなる「全校ダンス」の指導を三年連続して担当されるなど大活躍されています。料理が上手で愛情が細やかな方なので、これからも熱血漢の寮長と力を合わせて、子ども達を優しく包み込んでいただきたいと思っています。
お二人には、新婚生活をのんびりと過ごす時間はほとんどなかったと思いますが、どうぞこれからも、家庭の愛情に恵まれず、そして困難を抱えている多くの子ども達を教え導き、支えてあげてほしいと念願しております。
お二人に、一つ言葉を贈ります。「愛とは、お互いに見つめ合うことではなく、一緒に同じ方向を見つめることである」。
フランスの作家、サン=テグジュペリの言葉です。お二人が温かく、素晴らしいご家庭を築かれることを、私は確信しています。どうか今日の日の、この感激・感謝の気持ちを忘れずに、末永く幸せに、そして力を合わせて長い人生を歩んでいってください。
○
二人の結婚式に先立つ十月二日の日曜日の校長講話の中で、私は子ども達に吉野弘の詩『祝婚歌』を紹介しながら、「皆で楽山寮長・寮母の結婚式を祝福しよう」、そしていつものとおり「人の気持ちがわかる人になろう」と語りかけました。この詩の中で特に子ども達に聴かせたかった二つのフレーズを紹介します。
「二人のうちどちらかが◇ふざけているほうがいい◇ずっこけているほうがいい◇互いに非難することがあっても◇非難できる資格が自分にあったかどうか◇あとで疑わしくなるほうがいい」
「正しいことを言うときは◇少しひかえめにするほうがいい◇正しいことを言うときは◇相手を傷つけやすいものだと◇気づいているほうがいい」(『祝婚歌』抄)
楽山寮児童ら
千葉先生と珠季先生へ
中三 タイチ
結婚式おめでとうございます。たぶん自分が去年の四月に入所してから、苦労と迷惑しかかけていないから、結婚しても式を挙げるのが遅くなったのかもしれません。
いつも千葉先生と珠季先生を見ているとケンカらしい素振りもなく、表現しづらいけど、『祝婚歌』にもあったようにどちらかがずっこけて、どっちかがしっかりしているように見えます。その二人の先生に反抗した時期もありましたが、先生達の下で、寮で生活できて自分達はとても幸せ者だと思います。本当は自分も招待してもらい、招待客として先生達の見慣れない姿を見たかったけど、居ない間も生活をしっかりしないといけないので、自分達は遠軽から祝っています。 自分達は、千葉先生と珠季先生になるべく苦労をかけないように努力しますので、先生達も、離婚とか浮気をしないように末永くお幸せに暮らしてください。
千葉先生、珠季先生と出会って
中三 ショウゴ
千葉先生、珠季先生ご結婚おめでとうございます。まず千葉先生と僕が出会ったのは6月の上旬でした。僕の第一印象は、真面目で優しい先生だなと思いました。でも生活してみると、一々文句をつけるうるさい人だなと思いました。でも今思えば、それも僕の為に言ってくれているのかなと思います。なのでこれからも一々うるさく言ってください。
次に珠季先生は、いつも料理を作ってくれてありがとうございます。珠季先生のご飯は、おいしすぎで、たまにほっぺたが落ちることがあります。あと珠季先生はいつも誕生日の日にケーキを作ってくれるのでうれしいです。これからもおいしいご飯を作ってください。
最後になりますが、これからも体には気を付けて僕達のことを見守っていてください。
祝辞
中二 コウダイ
正義先生、珠季先生、今回は、誠に、ご結婚おめでとうございます。多分、先生達は、今、すごく、幸せだと思います。でも、多分ではないと思います。ものすごく、幸せだと思います。
珠季先生は、いつも、笑顔で、明るい人です。そして、いつも、おいしい料理をつくってくれて、ありがとうございます。おいしいです。
正義先生は、質問に答えてくれて、自分も気づかない、努力を見て、ほめてくれます。うれしいです。今年は、先生との信頼を、すごく、崩したので、はやくたてなおして、もっと信頼される人になりたいです。
これからも、明るい寮長先生寮母先生でいてください。これからも、こんな自分を、育ててください。
ご結婚をお祝いして
中二 ハヤト
おだやかな秋の日の今日、幸せに包まれた楽山寮の寮長千葉先生、寮母珠季先生、このたびは、ご結婚おめでとうございます。
いつも優しくしてくれる先生には、本当に感謝しています。またこれからもよろしくお願いします。そしてお二人の良いところを話します。
まず千葉正義先生はいつもおもしろい事を言ってくれる所や作業を優しくおしえてくれる所は、僕の生活が良くなった点の一つです。
次に珠季先生の良い所を話します。珠季先生は、いつも作ってくれるご飯がとても美味しいです。また相談に乗ってくれる所がすごく良い所だと思います。お二人が末永く幸せになれますように。
祝ご結婚おめでとうございます
卒一 タイキ
千葉先生、珠季先生、ご結婚おめでとうございます。
自分は千葉先生ご夫妻と同じ寮で生活していて、楽しい時や怒られる事がありました。自分はこれからの生活を改善して、千葉ご夫妻と楽しい生活を送りたいです。
これからも色々あると思いますが、幸せな家庭でいてください。
まさよし先生たまき先生へ
小四 リク
けっこんおめでとうございます。
ぼくは、いつも千葉先生にめいわくをかけてしまってます。これからもめいわくをかけると思うけどよろしくおねがいします。
たまき先生は、いつも、ごはんを作ってくれてありがとうございます。毎日おいしいごはんをありがとうございます。これからも、おいしいごはんを作ってください。
ご結婚をお祝いして
中一 コタロウ
千葉先生、珠季先生、ご結婚おめでとうございます。
いつも、僕達の面倒をみてくれていてありがとうございます。
僕は、千葉先生に怒られてしまうことが多いけど、これからは、できるだけ怒られないようにしたいです。
結婚おめでとうございます
小六 ユウキ
今まで、色んなことがありました。反抗したり、言う事聞かなかったりしました。でも、僕は、心から祝っています。輪休ではもめることもありますが、帰ってきたらいい報告ができるように一生懸命頑張ります。これからも迷惑かけると思いますが、何卒よろしくお願いします。
自立支援部 主幹 楠 美和
平成27年度に入所し、現在は退所している子ども達の様子を報告します。
子ども達は私達の手元を離れた後、いろんな問題にぶつかりながらも、周りに支えられ、精一杯自分の足で歩んでいる様子を窺うことができます。
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OM君は、中学卒業を機に児童養護施設への措置変更となり高校に進学しました。高校ではテニス部に所属し、学習面でも漢字検定2級に合格する等頑張っています。早朝の時間を利用して新聞配達のアルバイトをしています。養護施設の友達や職員との関係も良好のようです。
MJ君は、中学卒業を機に家庭復帰し、父親と同じ職場で就労しました。職場では要領の悪さから注意されることが多く、家でも生活面で注意されることが多いために、7月下旬に家を飛び出してしまいました。現在は自立援助ホームに入所してアルバイトをしています。
KM君は、中学卒業を機に家庭復帰しました。当初は定時制高校進学を考えていましたが、アルバイトに専念することになりました。母親の紹介で飲食店に勤めていましたが、物足りなさに辞めてしまいました。家での居場所もなくなり家を飛び出してしまいました。一ヶ月ほど行方がわからなくなっていましたが、その間友人宅を転々としていたようです。その後仕事を自分で見つけて、現在は大工仕事に就いています。
TY君は、中学二年進級時に家庭復帰し、地元の中学校に復学しました。当初学校では授業への取り組みも良く、クラブ活動にも積極的に参加していましたが、5月下旬頃から生活が乱れ始め、学校でも落ち着いて授業を受けられなくなりました。現在は学校や地域の協力のもと、支えてもらいながら頑張っています。
SA君は、中学三年進級時に家庭復帰し、地元の学校に復学しましたが、残念ながら登校はしていません。普段は家の手伝いをしています。家族との関係は良好で、休みの日には兄弟と遊びに出かけることもあるようです。
IY君は、7月に退所後地元のグループホームに入所し、福祉就労支援事業所に通い、9月に一般就労に移行となりました。時々連絡を寄せては、元気であること、しっかりと頑張っていることを報告してくれます。また、スポーツクラブに入り、週に一度汗を流しているなど、充実しているとのことです。
TF君は、中学卒業を機に退所し、地元の高等養護学校に進学しました。学校では落ち着く事ができず、日課に乗れない日もあるとのことですが、周囲の協力もあり、退学に至らないで頑張っています。夏休みに寮長が再会した時、話の内容や口調が以前よりも乱れていましたが、次第に入所中のような落ち着いた表情に戻れたそうです。本人から夏休みのよい思い出になったと喜ばれたそうです。
BY君は、中学卒業を機に退所し、地元の私立高校に進学しました。入学当初は落ち着いた生活を送り、学校でも学級委員長に立候補するなど前向きな姿勢が見えましたが、5月に入る頃から崩れ始め、授業中に注意を受けたことから、物に当たったり、先生ともめてしまい、退学処分となりました。現在はアルバイトをしています。
IS君は、中学卒業を機に退所し、地元の高等養護学校に進学しました。現在のところ授業態度も問題はなく、保護者との関係も良好で、運動会の様子などを寮長に報告してくれます。車の免許を取得したら学校に遊びに来たいと言っています。
TK君は、中学卒業を機に退所し、地元の高校に進学しました。学校へは休むことなく通学しています。保護者との関係は、距離感はあるが互いに尊重し合うような状況で、家族間でもめるようなことは見られないとのことです。
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調子の良い時だけでなく、しんどい時こそ連絡をしてほしいものです。見守ることしかできませんが、長く応援していきたいと考えています。関係者の方々、今後ともご支援のほどよろしくお願いします。
編集委員 富田拓(国立きぬ川学院・医務課長)
私は今、「北海道家庭学校百年史」の中の「北海道家庭学校在籍児童の推移」という項目を担当しています。これは、家庭学校に残されている児童に関する資料を用いて、一世紀にわたる在籍児童の特性とその推移を探ろうとする試みです。この仕事を任されたとき、すぐに私が思い浮かべたのは、創立五十周年の際に出版された「教育農場五十年」における、奥田三郎医師による実に見事な予後調査の分析です。家庭学校にかかわったことのある精神科医として、私にもそれに続くようなものを、と期待されたのだということはすぐにわかりました。しかし、彼我の大きな能力差を別としても、それはあまりにも過重な期待でした。というのは、奥田による分析は、創立以来の家庭学校卒業生に直接はがきを送り、現在どのように暮らしているのかを返信してもらうという、現在では到底実施不可能な調査に基づいたものだからです。今、そのような調査を実施しようとすれば、プライバシーの侵害であるとして、実施しようとすること自体が非難を受けるでしょう。ですから、私にできることは、家庭学校に残された児童の資料から使えるデータを抜き出し、その時代ごとの変遷を見ていく、ということに過ぎませんでした。
「教育農場五十年」における奥田論文が興味深いのは、何といっても、家庭学校入校時点あるいは在学中に見いだされた児童の特性と予後の関係を分析している点にあります。入校までの経路、卒業後の経路、出身家庭の経済的状況、知能、積極性、在校期間、家族構成、家庭内環境、家庭外環境、本人自身の特性、卒業時の支持条件といった様々な要因を詳細に分析し、何が卒業後の予後に影響を与えているのかを探っているのです。
奥田の分析の母集団は大正三年創立以来の九八八名の入校者(当時)です。うち九〇五名が退校し、改善退校は六七〇名(七四%)、事故退校は二三五名(二六%)であり、調査対象としたのは改善卒業した六七〇名で、ただし満十九歳に達しない者、卒業後三年を経過していない者は除いています。奥田は、大人になり切っていない者、卒業後三年を経ていない者はまだまだ予後を判定するには不適切、と考えたわけです。最終的な調査対象者は五一〇名で、ほとんどが昭和三四年以前の卒業生です。このうち予後を明らかにできたのは二九五名(五一〇名中の五八%)であり、これは改善卒業生全体の四四%、退校生全体の三三%に当たります。うち、二六歳以上が六三%というから驚きです。この当時の退校年齢の多くは十五.六歳だったというのですから、退校後十年以上を経た卒業生が予後調査の過半数を占めるという、おそらく日本における非行少年の施設予後調査で空前絶後のものと言えるでしょう。予後自体も、優秀群(会社経営者など、社会的に大成功を収めているというべき者)一二.五%(三七名)、成功群二八.五%、以上小計四一.〇%(二〇〇名近い)、良好群二六.〇%、以上累計六七.〇%、未安定群一二.〇%、失敗群二一.〇%(うち一二名は常習性犯罪者)という極めて優秀なものです。これらの分析の結果、奥田は基礎教育、職業教育、進路指導のいっそうの配慮充実と、卒業時の支持条件をできるだけ完全にすること、積極性を開発するための工夫、意思持久力鍛錬と社会性の啓培が重要であると結んでいます。近年の個人情報についての扱いや、プライバシーに対する配慮の必要性を考えれば、二度と行うことのできない非行研究の金字塔と言える成果です。
一方、今回の分析では、予後の調査ができない以上、これらの点については何も分析することはできません。できるのは、児童の特性の時代ごとのトレンドを見ることだけ、なのです。このことにも、もちろん大きな意味はあります。百年に及ぶ非行少年の特性の変化はもちろんですが、例えば法制度が変化するごとに、家庭学校に入所する児童の特性に変化があったか否か、ということを確かめることができれば、それは十分に興味深いことです。今後の少年非行や社会的養護にかかわる法制度の検討の貴重な資料ともなりえます。しかし、それはあくまで歴史的な視点から児童の変遷をたどる、ということであり、それが今現在の児童の支援に直接生かせるか、というと難しいところです。奥田論文の、児童の特性と予後の関連を探ることによって、これからの家庭学校での支援の向上に生かそうというダイナミックな視点には到底届きようがない、というのが正直なところでした。
そこで、奥田の時代の予後調査と同等のものを行うのは到底不可能だとしても、何らかの形で卒業生の予後をその一部でも調べる方法はないものだろうか、と考えました。家庭学校に残された資料の中には、卒業生からの年賀状など、その動静を伝えてくれるものがきちんと保管されているものもあります。今回、資料をデータベース化するにあたって、そのような資料の有無についても入力してもらうこととし、いくらかでも予後を探ることを試みました。しかし、やはり、そのような資料が残されているものはごく一部でしかありませんでした。また、今回百年史の作成にあたって行われる、寮長経験者の方々の聞き取り調査において卒業生の予後を追うことができないか、とも考えましたが、寮長経験者の記憶に頼るのは無理がありました。これらによって予後を確認することがほぼ不可能であることが分かった時点で、奥田が行ったような分析は到底不可能、ということになりました。表題の通り、「児童の推移」を分析するしかない、とほぼあきらめかけました。この夏、七月に行われた百年史の編集委員会でも、あくまでその線でごく簡単な報告を行いました。そのあとでふと、自分が家庭学校で寮長をやっていたとき、何度か予後指導に行かせてもらったことを思い出しました。自分の寮の卒業生が今どうしているか。その地域に出かけて行って直接会うのです。広大な北海道のことですから、一人で自分の寮の退所生のいるすべての地域に出かけることは不可能です。そのため、職員が地域ごとに分担し、他の寮の卒業生にも会ってきます。そのあとで、それぞれの子の状況について、「ひとむれ」に簡単な報告を書いていたことを思い出したのです。そこで、副校長である軽部先生にその「予後指導」の結果をまとめたものはないのだろうか、と尋ねてみました。しかし、残念ながら、そのようなものは存在しない、とのことでした。自分が在職していたときにもそのような集計資料を見た覚えはなかったので、「やはりそうですよね、残念」と返事をしたところ、軽部先生から「ひとむれ」の原稿からそれを拾っていきましょう、という願ってもない提案をいただきました。なにしろ記述を拾っていくだけでも膨大な作業です。しかも、卒業生に関する報告なので、その当時でも個人を特定できないよう、頭文字で「Tは現在○○に勤務しており」といった記述しかなされて
いないのです。それを、退所時期、予後調査の時期、訪問地域などを照らし合わせたうえで、「T」が何者かを特定する、というとんでもなく厄介な作業が必要です。それをやろう、というのです。まさに望外というべき提案でした。
九月の半ばに、家庭学校から分厚い資料が届きました。「ひとむれ」昭和四七年三月一日号から昭和六〇年四月一日号までの予後指導の記述から、「ひとむれ」における生徒氏名の表記(多くは頭文字のみ)、可能な限りにおいて特定された氏名、入所年月、所属寮、退所年月、退所時の方途(家庭復帰か、自立就職か、など)、一人一人の訪問時の状況、保護者の居住地をまとめた資料でした。その件数は四〇五件(ただし、同一の児童が複数回予後指導を受けている例も少なくないため、実人数とは異なる)、氏名が判明した数は三八四件で率にして何と九四.八%にのぼります。いかにも軽部先生らしい、緻密な仕事でした。先に述べたような予後指導の記録に基づくものですから、それぞれの子の退所から予後指導までの期間は一定ではなく、退所後数か月の子もいれば、二年経過している子もいます(今後精査が必要ですが、おそらく、退所後二年目までの子を対象としていたのではないかと思われます)。退所後の期間という点では奥田の調査には到底及びません。しかし、何しろ職員が直接地域を訪問した上での報告ですから、自己報告に比べ、うまくいっていない場合なども含めて、状況の把握の精度や捕捉率はむしろ上回っていると考えられます。また、最近の少年院法の改正以前は、少年院では少年の担当職員が退院生と接触することは禁じられていましたから、この家庭学校の予後指導のような形での予後調査は少年院では全く行われていないはずです。これらの点を考えると、軽部先生が作成されたこの資料は、その資料の数と調査の継続年数、そして精度・捕捉率において、日本の少年非行研究史上これまた空前の貴重なものと言えるのではないかと思います(さらに、昭和六〇年以降についても現在作成が継続されている)。
勇気百倍、とはこのことです。予後指導がいつからいつまで行われ、退所生のどのくらいの率をカバーしているのか、といった基礎的な調べもまだできておらず、現在作成している入所児童のデータベースとどのように統合できるかもこれからの検討課題ですが、家庭学校の貴重な宝の一つが新たに掘り起こされ、それが今回の「北海道家庭学校在籍児童の推移」の解析に大きく厚みを加えてくれることだけは確かだと言えそうです。