ひとむれ
このコーナーでは、家庭学校の月毎の機関誌である『ひとむれ』から一部を抜粋して掲載しています(毎月上旬頃更新予定です)。
職員が、家庭学校を通じて感じたことや伝えたいことを表しています。是非、ご感想をお聞かせください。
※都合により『ひとむれ』本誌と内容が異なる場合がございます。ご了承下さい。
大地の詩
勇気の貯金箱
校長 加藤正男
枯れ草が礼拝堂の参道を覆い尽くしています。その入り口にはかって大きな門柱がたっていました。45センチ角のミズナラの木で、高さ5メートル、屋根をもった門柱でした。右側には
あら楽や虚空を家と住みなして心にかかる造作もなし 一休
左側には
東西南北四本の柱青天井をわが家として 尊徳
32年前には根元がくちてきたため現在は礼拝堂裏側に寝かせて置いています。
幸助先生は「礼拝堂周りの望の岡は農場中の聖地であって、丘陵全体が最も感じのよい自然を持って囲まれているから、わが校の主義とする自然教育にちなみて、二人の聖人の言葉を彫ばめたのである(留岡幸助著『自然と児童の教養』から)。」
クマゲラが赤い頭を見せイタヤカエデの木にとまっています。
門の入口から礼拝堂に続く花壇は霜が降りてかたづけられました。そこにパンジーを植え雪に耐えるよう根を晴らします。雪虫が飛び交っています。
雪の季節は近づいています。
生徒たちは9月27日の園遊会・10月6日・7日・8日・2泊3日の研修旅行、体育の日のマラソン大会とあわただしい日々を過ごしました。
私は今年度も来客等のため研修旅行に一緒に付き添うことはできませんでした。研修旅行は高校生を除くすべての生徒が参加しました。終了の日、私は、玄関門入口で大型バスの到着を迎えました。夜7時過ぎにもどってきました。少し疲れた表情ではありましたが、満足感が漂っていました。
平和寮の生徒と三百間道路を左に曲がり神社山のふもとを歩いていると、夜空全体に星が輝いていました。周りに灯りがないためか、星が近くに迫ってくるような錯覚を覚えました。
「プラネタリュームのようだ」と歓声を上げていました。そして「旅行が終わってむなしい」とささやいていました。まだきたばかりの生徒なので、ここの生活になじんで居ないのかも知れません。
長く生活している小学生も戻った後の生活が一時崩れました。旅行中の生活で緊張したのか、あるいは楽しかった反動なのかもしれません。楽しかった経験がその後に活かされないこともあります。
しかしながら貴重な時間を過ごしたこと、さまざまな体験は体にしみていくように徐々に生徒たちの成長につながっていきます。
今年は、旭川・富良野と比較的近隣な場所を選んでの旅行ですが、旭山動物園、旭川市科学館、ラフテイング体験、当麻フイールドアスレチック、イトムカ鉱山見学等さまざまな体験学習あり、催しもあり、事前には各寮の代表である理事さんたちにより、分校の先生・家庭学校の職員とともに綿密な計画をたてた「しおり」が作られました。前日のひとむれ会では、一人ひとりの生徒にこの研修旅行の目標をたて、それをみんなの前で発表をしました。
一人ひとり、研修の目的を理解して充実した研修となりました。事故もなく全員が満足した表情で戻ってきました。ただその時頑張りすぎたのか、その後、そこでの成果が続かない生徒もおりました。
マラソン大会は、秋の体育の日に行われました。学校内の山林道は二十数キロあります。校内でハーフマラソン大会のできる広さです。登り下りのある厳しい道です。
中学生以上は10キロ、小学生は4キロです。
前回、前々回走った生徒もいますが、来たばっかりの生徒は、2キロも走れないとつぶやきますがなんとか参加します。
分校の先生も走りに参加してくれました。北見の調査官で宿泊され研究・研修をされた方も加わりました。そして遠軽中学の駅伝大会でトップクラスの生徒さん2名が特別に参加して頂きました。
もちろんトップは遠軽中の生徒でしたが、わが家庭学校の生徒も全員完走をしました。
大地の詩 留岡幸助物語 の北海道ロケがはじまりました。地元の新聞には連日取り上げてもらいました。
北海道新聞の10月15日夕刊にも大きな文字が躍っていました。
『人が生きる意味考えた』留岡幸助を演じる主演の村上弘明さんは、「自分の得のためではなく、他人のために人生をささげる留岡の精神を、多くの人に伝えたい」と力を込める。山田監督も「他人を愛す思い 抱いてほしい」とのコメントが新聞に載りました。主演の村上氏は、出演に際して、留岡幸助先生の関連著書や聖書を読み込み「厳しい自然と向き合いながら、少年の更生に尽くした留岡の生き方から、人間が生きる意味を考えさせられた」と語っています。
村上さんは、校長室等で休憩している時もセリフの暗記に余念がなく、またとても周りの人に対する気遣いが感じられ留岡幸助先生の魂をしっかり体にしみこんできている様子でした。
この二日間に対して地元主婦の方々のべ60人を超える人々が、手料理にて役者さん・監督さん、スタッフを始めエキストラの方々に対して食事ボランティアをしていただきました。
中心的に応援して頂いた辻本宣子さんは、おばあちゃんとともに家庭学校によくきていたとのことでした。家庭学校は昭和14年から昭和54年までの40年間、本校に必要な鮮魚類の一切を、辻本さんの祖母である丹野さんの手を経て購入していました。(1971年のひとむれから)丹野さんは、40年間一貫して、深い愛情をこめて、周到で細心な配慮をしていただきました。
家庭学校には多くの方々が関わってきています。そして今また、さまざまな方が家庭学校の営みを応援して頂いています。
留岡幸助先生の精神に光が当てられ、今の人たちにもう一度その精神を再認識して頂きたいと願うものです。
10月2日・3日は家庭学校にてロケが行われました。家庭学校の自然林の場所で、明治の半ば受刑者さんたちの道路開拓場面や、当時の家庭学校生徒の樹木の伐採シーンなどでした。地元の中学生や多くのボランティアの方々が参加しました。
三日は礼拝堂で留岡幸助先生役の村上さんが教育講演会を行っているとの場面で百六十名をこえる人々に集まっていただきました。女性は昭和初期の着物などの格好です。礼拝堂は少し冷え込んでいましたが、熱気あふれる撮影現場となり、地元のみならず遠くの方からもエキストラとして参加して頂きました。
その後は、野幌の開拓の村で二週間ロケが行われ、最後は留岡幸助先生の生誕地であり、出身地である岡山の高梁のロケで十月二三日に終了しました。来春の公開予定です。
映画作りはとても費用がかかることであり、家庭学校は制作協力という形で全面的に応援をしています。この映画を期待して多くの方々からご支援をいただいていますが、さらに多くの方々に、映画制作のご支援をお願いしているところです。
今まで家庭学校が映画に取り上げられたのは二つあります。
一つは、1980年、木下恵介監督により映画化された「父よ母よ」です。その中で非行少年のルポタージュ役として主演の加藤剛さんが好演していました。寮長役として若山富三郎さん、非行少女役で三原順子さんが出ていました。
二つめは1983年、現代ぷろだくしょんの山田典吾監督により当時寮長であった藤田俊治著の「もう一つの少年期」の映画化です。ここではさとう宗之さんが寮長役でした。寮母さん役は木原光知子さんでした。不良少年役の船越英一郎さんがとても若々しく生徒役を生き生きとして演じられています。
今回が三作目ですが、留岡幸助先生の物語を取り上げられており、その精神と生きざまを描くのは初めての試みです。
平和山の頂上にある記念碑には毎月、月命日の5日には登山して生徒たちに幸助先生の思いを伝えています。
留岡幸助先生の生誕15年はあと4年後に控えています。 この映画の完成によってその精神に光が照らされることを心から祈っております。
捧 明美
古い荷物を整理していたら、20年ぶりに教母資格を得るため、道庁に提出した文が出てきました。昔の文章をそのままの形で載せることに、ためらいもありますが、子供たちと20年間暮らし続けてきた原点を振り返りたいと思いました。
家庭学校で働いて
北海道家庭学校に職を得て、来年の4月12日で満4年が過ぎようとしています。不良行為を重ね続けたために、学校から、社会から、家庭から、はじきだされるようにして親元を離れた少年たちが、日々の生活を考えなおす場として教護院が設けられていることを、昭和60年の夏に初めて知りました。
手にした本には、子供たちと職員の暮らしのやりとりが書かれてあり、静かな温かさとその裏に、重く厳しい声にならない言葉を聞き、現実なのだろうか、夢、架空のことなのだろうかと困惑してしまったことを憶えています。
家庭学校に来てからの生活は、毎日が分刻みのように新鮮なことに触れる嬉しさ、悲しさ、至らなさの感情が吸い込まれて過ぎてしまいました。
私は、他の職員のご厚意で2年ほど子供たちと昼食をともに戴いていました。本館から給食棟へ向かう200メートル程の道のりは、唯一子供たちと触れ合うことのできる貴重な時間でもありました。いつも元気でいなければならない。笑顔を絶やしてはいけない。何か聞かれたならばしっかりと答えなければいけない。〜しなければいけないと自らの力量を省みることなく全身に力が入っていました。
「こんにちは、元気かい」としか言葉を交わすことができず沈み込む毎日でした。そのような時間の中で、数株分けていただいたレタスの苗を定植しているとF君が通りかかりました。
「そんなんじゃ、大きくならないですよ。おれの叔父さんの家農家だから、ちょっと貸して下さい」と言って今深く植えたばかりの苗を掘り起こし、少し浅めに穴をあけ、端から土を寄せギュッと手で押しつけ、ニコッと笑いました。10分程、叔父さんのことやら、自分がなぜここに入校したのか分からないし、何も悪いことはしていません、と怒りをぶつけるように話します。頭の中は、君は社会の約束事を破ったのだからここにいるんだよ。もっともっと考え直さなければという気持ちでいっぱいでしたが、口をついた言葉は「そう、おかしな話だね」と、はなはなだ頼りない答えでした。どうしてこんなことを話してくれたのか、怒りの対象は何なのか、私は彼らの笑顔だけを求めて気持ちの安定を取り繕うとしていたのではないか。もっと思慮深く心をゆるやかにして考えなければならないのは私自身でした。
行事をひとつ終えるごとに子供たちとの会話も多くなりました。自分の自慢話を繰り返したり、大人への不信を話したり、子供たちの話はいろいろです。
2度目の冬が過ぎ、福寿草の花が校内のあちらこちらで目につき始めると、学校の花壇を彩る花の苗仕立ての話が聞こえてきます。私たちも、初心者向とも言われるマリーゴールドの苗を、開花時期をよく確かめることもせず400本程つくってしまいました。土を入れ準備をしておいたポットの中央に素手で穴をあけ、5センチ程の苗をピンと立たすことは、初めての私には技術と根気を必要とし、孤独な作業でした。それでも、15鉢入る箱が1つ2つと増えていくにつれ土の冷たい粒子ひとつぶ一粒に触れたような感触が心地よく、自然界の営みに対して人間がちっぽけな存在に映り、自然から教え諭されることの大切さがしみじみ胸に刻み込まれました。子供たちも毎日の作業の中で必ず一瞬悟ることがあるように思います。厳しい冬の寒さに耐えなければならない。この広大な自然の中での生活は本当に尊いことだと思います。
寝食をともにするという生活形態は子供たちとの深い心の交流を可能にし、またそれを求めています。志操たかくありたい、心からそう願っています。
大先輩の教母が留守寮の昼食の準備に行かれる時に、ご一緒させていただいたことがあります。日曜礼拝から戻ってきた生徒たちに、今日はどのようなことを聞いてきたのと問いかけます。生徒たちは少し困ったようになかなか言葉にならず、ぽつりぽつりと話すなかに間の手でも入れるように、上手に巧みに言葉をひきだし、こんな話だったんだよねと優しく話の内容を返してあげていました。
子供が寮長に叱られている時は、戸の陰からでも子供の顔を見て、怒りとして後に尾を引くものなのか察知しなければならない。子供は子供なのだからと話して下さった教母もおります。
私はようやく「生活することが仕事なんだ」と思える出発点にたどり着いたような気がするのです。
家庭学校の生活の中で、1人私の心の奥深くに住みついている少年がいます。入校当初から、度々話をする機会に恵まれた少年でしたが、不自由なく幸せに暮らしてきた私には、考えも及ばぬ家庭環境で育ち過ちを犯したことは、彼の罪ではないように思えるのに、母を慕い、妹を心配し、深く家族のことを恥じ哀しんでいました。そのように思うことで自分と闘っていたのかも知れません。無断外出を繰り返しての退所でしたが、自分の頭の悪さをぼそぼそと恥ずかしそうに言い、もっと勉強したいと話していたのが忘れられません。
ヨハネによる福音書第9章39節に、
『そこでイエスは言われた。「わたしがこの世にきたのは、さばくためである。すなわち、見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためである」』
私が見えている、分かったと思っている哀しみは、真実心の底からのものではなく、彼のように、1人胸の奥深くに秘めている重いものかもしれないと思うようになりました。家庭学校で暮らす少年たち、何年過ぎてもいい、いつか自分の不幸を断ち切り、強く暮らして欲しい、そう祈っています。
振り返ると、改めて恥ずかしさの中に諸先輩の教えと歳月を感じます。「生活することが仕事なんだ」という思いは変わりませんが、子供たちへの対応に医学的判断を必要とすることが多くなりました。
子供たちのもつ拘りがもった資質なのか、環境による2次的な要因が主であるのか。子供たちの行動ひとつひとつに、より具体的な判断を求められるようになりました。
私の心に住みついていた少年は、退所後10年を経て妻子と一緒に学校を訪れてくれました。
自分は正規の退所ではなくその後も様々な迷惑をかけ続けてました。先生方が言い続けた話は分かっていましたが、自分のプライドがありました。でも忘れたことはありません。いつも頭の中にありました。自分が立ち直ろうとしたとき、教えてもらいたいことが本当に力になりました。しみじみありがたかったです。母さんは昔と相変わらずの生活をしています。自分は母さんのことを考え続けていたけれど、とうとう母さんは俺の気持ちを分かってくれませんでした。でも、俺は家族を大事にしますよ。絶対に間違いはしない。そう誓ったんです。だから、お互い一生懸命話をします。話し合いのできる家族を作りたいと思っていたから。
16歳の少年から、責任ある大人へ。様々な間違いもしましたが、勇気をもって戦い続けたことで、彼の今があることを知りました。
いま原稿を書いている11月のこの頃から、来春に退所を予定されている子供たちも進路選択に向けて重い腰をあげ始めます。年度当初から、分校、家庭学校それぞれからアドバイスを受けていても、子供たちの進路はなかなか具体的なものになりません。進学を希望する子も、就職を考えている子も、どちらも退所後の受け皿が一番の問題です。地元へ帰るためには保護者との関係調整をしなければならず、学力の問題もあるからです。
昨年、石上館には7人退所予定の子どもがいました。家からの高校進学を決めていても、はっきりと家に帰ってきなさいと言われないために、不合格だったらどうなるのかという不安で鬱ぎみになった子どももいます。保護者に連絡するたび、話の内容が微妙に違い、保護者と子どもの間で翻弄された苦い思いは、今になっても心の澱となって沈殿したままです。
保護者宅、あるいはその近くの職場をのぞんでいても、保護者から拒否された子どももいます。子どもたちは、不安と憤りを抱えたまま職場を探しますが、まだまだ親からの後ろ盾が欲しい年齢です。一つの就職に失敗しては家庭学校に戻り、必死に自分を立て直し次の職を探すのです。
「○○の好きなようにしなさい。中学を卒業したんだから、これからは自分で決めて責任を持ちなさい」
家庭学校に入れられた、と思いながら入校し、今度は自分で責任をとりなさいといわれる。
子供たちの混乱は、道を指し示す大人の不在からもたらされたように思えてなりません。
ヨハネによる福音書第9章39節は、礼拝で何度か説明を受け「ああ、そうなんだ」と納得しては疑問に思う、とても奥が深く感じられる箇所です。私は、クリスチャンではありませんが、この教えは道に迷いそうになると必ず、心に蘇り、ひととき静かな気持ちにさせてくれます。また、子どもたちとの生活を続けているうちに、その教えが私なりの言葉として表現できるようになりました。
日常生活の中で、子供たちの話す内容は、自分の失敗談、武勇伝だったりします。たとえ話を何度も引き合いにだし、私から参考意見を聞いては、自分の理解が進むことに一喜一憂する、その一つをとっても、彼らに人に対する遠慮を感じるのです。
経験しなくてもよい経験を強いられたため、極端な悪ふざけや攻撃は彼らの武器となりました。分かっていても次の行動になかなか移れないでいる姿に、勇気を出してと囁き続けることが今の私の仕事です。
子どもたちにとって、その勇気がとても重たいことも私は知っています。でも勇気を出して歩こう。少し本当の自分を信じよう。勇気の貯金箱に勇気を貯めて、いっぱいにならなくてもいいから、使って、また貯めて歩こう。20年子供たちと暮らし続けて、そう語り続けたいと思うのです。