ひとむれ
このコーナーでは、家庭学校の月毎の機関誌である『ひとむれ』から一部を抜粋して掲載しています(毎月上旬頃更新予定です)。
職員が、家庭学校を通じて感じたことや伝えたいことを表しています。是非、ご感想をお聞かせください。
※都合により『ひとむれ』本誌と内容が異なる場合がございます。ご了承下さい。
巻頭言
退所生との交流
家庭学校とキリスト教
二年目を迎えて
〈児童の声〉
校長 清澤満
九月二四日、北海道家庭学校創立一〇八周年の記念式を行いました。コロナ禍のためここ数年は子どもたちとの昼食会を控えさせていただいておりますが、午前中の礼拝堂での記念式には今年も変わらずお客様が足を運んでくださいました。心から感謝申し上げます。
記念式の校長講話では、社名淵分校開設時の様子や校祖留岡幸助先生の家庭学校創設の理念・精神について子どもたちと職員に話しました。
北海道家庭学校がこの地に開設されたのは、一九一四(大正三)年のことです。それから今年で一〇八年が経ちました。
今日は、家庭学校を創った留岡幸助先生が一面原生林だったこの地に足を踏み入れて生活を始めた頃の様子などについて、当時の記録などを基にお話しします。
幸助先生はまず、東京の巣鴨というところに家庭学校を創りました。今から一二三年前の一八九九(明治三二)年のことです。東京の家庭学校での経験から少年たちの教育にもっと適した環境が必要だと考え、豊かで厳しい自然が得られる北海道に家庭学校の分校と農場を作るための広い土地を求めました。
それが今、皆さんと私たちが生活しているこの場所です。ここの土地は、幸助先生が国からの払下げを受けて手にしたもので、今よりもっと広い面積がありました。当時、家庭学校のあるこの一帯を社名淵と呼んでいましたがここに約七百町歩と、皆さんが夏に草刈りなどの環境整備に行った済美館がある白滝の支湧別というところに約三百町歩の合わせて約一千町歩の面積でした。一町歩が大体一㌶の広さですから、社名淵だと約七百㌶になります。一㌶は百㍍×百㍍の面積(一万㎡)なので、七百㌶は、それが七百個分です。イメージするのも難しいくらいの広い面積です。後に農地は分家(小作人)の人たちに解放しましたので、今現在残っているのは四百三十九㌶ですが、それでも東京ドーム93個分と広大です。因みに白滝には済美館が建っている場所とその周辺の土地が僅かに残っているだけです。
さて、払下げを受けた土地を開墾するために、東京の家庭学校の職員が先発隊として北海道に渡ることになったのですが、そのことが幸助先生が創刊した「人道」という機関誌に書かれています。そこには、北海道の福田福松先生という農場主任から「土地の買収も既に終わって家屋の建築も一部出来上がったので開墾に従事する人を至急送り込んで欲しい」と東京本校に連絡があり、東京本校で農場主任をしていた鈴木良吉先生が助手一名と生徒二名とともに大正三年六月五日に東京の上野を発って北海道に行くことになったと記されていました。今年の墓参で鈴木良吉先生のお墓にお参りしたので、参加した人は名前を覚えていると思います。
そして、同じ年の七月に幸助先生は東京から社名淵に向かいます。その時の様子を幸助先生が「自然と児童の教養」という本に書かれています。
その部分を読んでみます。『さて愈々私は大正三年七月下旬に数人の同志を率いて社名淵へと移住した。当時の通路は上野から函館、函館から釧路行きの汽車に乗り、十勝の池田で網走行きに乗り換え北見の野付牛で一泊して、翌朝一番でルベシベまで行き、それから山道を十二里徒歩したのである。』
ルベシベ(留辺蘂)から家庭学校まで歩いたんですね。留辺蘂は皆さん知っていると思いますが、今年七月に釣り遠足で行ったところです。皆さんはその時バスで移動して大体五〇分程掛かったと思います。車で五〇分掛かるところを歩いた。十二里はどの位の距離か分かりますか。一里は四キロメートルなので四八キロです。ものすごく時間がかかったと思います。当時は、交通機関もまだ十分に発達していなくて鉄道がない所は歩くとか馬に乗るしか方法がなかったので、東京本校から家庭学校分校のある社名淵までの移動は本当に大変なことでした。
続けて読んでみます。『社名淵に着いてみると、十坪斗りの板屋が田中理事の尽力で建築され、一か月斗り前に鈴木良吉君が三人の生徒を連れて共同生活している、その小屋みたいな板屋に私等も転げ込んだ。十坪の小屋はどういう風に使用されているかと言うに、内部の半分は米麦の俵や、味噌醤油の樽で塞がれ、言わば物置である。其の半分が職員生徒の住家である。雨が降ると雨戸が出来ていないから雨垂れの滴が枕元に飛沫るので有り合わせの風呂敷を綴づくって防いだのである』。
雨戸がないなど急ごしらえの建物だったようです。十坪の半分、五坪が生活スペースということですので、畳の数で言うと一坪が畳二枚くらいの広さですから、五坪は十畳くらいの広さになります。その小屋で、先発隊の鈴木良吉先生と生徒三人、幸助先生一行は暫く生活することとなったようです。
幸助先生たちが社名淵に着いて一番最初にしたことは、土地を切り開いていって道をつけることでした。今は立派な道路になっている校門からの三百間道路ですが、そこの開墾作業から始めたのです。しかし、ボウボウに茂っている雑草の中や地中にはたくさんの蜂の巣があり、それを退治しながらの開墾だったので大変な苦労をされたようです。
そして、三百間道路が漸く通ったその先(望の岡)に、開墾で切り倒した楢の木を並べて長椅子の座席をいくつも作りました。それを最初の礼拝の場所(林間礼拝堂)としたようです。そして、一九一四年八月二四日、その場所で分校と農場の開場式が一五〇人ほどの農民たちを招いて行われました。これが開場を祝う最初の式でした。以来、毎年こうして創立記念式を行っているのです。
皆さんは、家庭学校ではなぜ日曜日に礼拝があり、創立記念式のように大切な行事の時にはいつもこうして礼拝堂に集まるのか、考えたことがありますか。
家庭学校を創った幸助先生はキリスト教徒、キリスト教の信者でした。少年時代のキリスト教との出会いが、後に少年のための教育施設創設への強い決心に繋がったのです。キリスト教との出会いがなかったならば、家庭学校は存在していなかったのではないかと思います。
幸助先生は、そのキリスト教の教えを家庭学校の教育理念として位置付けたので、礼拝堂を建てるということはとても重要で大切なことでした。でも一方で、宗教自体は生徒達の精神教育の基本としているものであって、ここで生活する生徒達にキリスト教を教えたり信者を増やしたりすることが目的ではないということも述べられています。
私たちは今、家庭学校を創った幸助先生の意志を受け継いで、食前の祈りを捧げ、夜の集まりでは聖書を輪読し、就寝前の祈りを捧げています。そして、日曜日にはこの礼拝堂に集まっています。
皆さんは日曜礼拝の時間をどのように過ごしていますか。静寂な礼拝堂に入ると何となく心が静まり、落ち着いた気持ちになれます。その時間を使って、家庭学校での目標やここで過ごすことの意味を思い返し、今の自分の生活を振り返ってみる。私は皆さんに、そうした意味のある時間にしてほしいと思っています。
そして、私たち職員も家庭学校に導かれた者の一人だということを忘れてはなりません。創立記念式に当たり、児童生徒の皆さんと私たち職員がそのことを改めて考えてみる、そういう日にしたいと思います。
創立記念式のある九月を迎えると、目に飛び込んでくる草木の色付きがいよいよ「秋」を感じさせてくれます。「秋」というと、食欲の秋、行楽の秋、芸術の秋・・・。様々ありますが、家庭学校にもいろんな秋が訪れました。
まずは「芸術の秋」。九月二日、旭川市出身で、幼少期には白滝で生活されていたバリトン歌手の豊島雄一さんが、ピアニストの芦沢真理さんとご一緒に、本校礼拝堂にてスクールコンサートを開いてくださいました。ご自身の生い立ちやオペラ歌手を目指すこととなった経緯(いきさつ)などのトークを交えたコンサートに、会場の子どもも大人も心惹かれ、豊島さんの歌声に引き込まれていくような空気感が礼拝堂に漂いました。私自身も重厚感溢れるバリトンボイスをこうして間近に聴くのは初めてのことでしたので、子どもたちとともにこのような機会が得られたことを大変嬉しく思います。
コンサートは、サプライズ企画で歌ってくださった「北海道家庭学校校歌」(讃美歌380番のメロディ)に始まり、「ふるさと」や「この道」、「オー・ソレ ミオ」などプログラムに掲載された六曲のほか、アンコール曲も数曲用意してくださいました。普段はなかなか集中が続かない子どもたちなので失礼がないか心配していたのですが、約一時間のコンサートは最後まで楽しみながら聴くことができたようです。
翌三日には、遠軽ロータリークラブの皆様からのお招きで、「えんがるコスモス開花宣言花火大会」を観覧させていただきました。私は所用で引率できませんでしたが、子どもたちに聞くと、今回もまた花火の大輪を頭上に仰ぐ特等席をご用意いただき、迫力満点の花火や芸術性に富んだ花火を存分に楽しむことができ大満足の様子でした。
次に「スポーツの秋」。十六日には、恒例の秋季マラソン大会を開催しました。小学生は二.五キロ、中学生・中卒生は五キロのコースを走ります。自分で設定した目標タイムのクリアを目指し誰一人として棄権することなく走りきりました。子どもたちの頑張りに天晴れです。
そして「行楽の秋」。月末の二十八日から三十日までの三日間、児童生徒全員で研修旅行に出掛けました。今年の行先は、弟子屈、厚岸、阿寒方面でした。屈斜路湖でのネイチャーボート体験や阿寒での古式舞踊鑑賞、工芸木彫り体験などを楽しみました。
旅行中、野生動物との遭遇がありました。バスで移動中のことでしたがヒグマが道路脇に出現し、大型バスに驚いたのか山に向かって走り去りました。もう一つは立派な角を持った大きなシカ。海事記念館の入口近くに何食わぬ顔をして佇んでいました。
沢山の思い出ができた旅行も留辺蘂道の駅を最後に無事帰路につきました。
掬泉寮寮母 藤原美香
二〇一六年三月末から掬泉寮を夫婦で受け持ち、早くも丸六年の歳月が過ぎ、私たちが退所を見届けた児童は延べ三九名になりました。いくつもの別れの中から、今回は退所してからも私たち夫婦と交流してくれている退所生と関わりについて述べさせていただきます。
小学生で入所してきたA君は入所当初から家庭学校の生活に興味津々でした。四人部屋ではありますが、自分だけの机、いす、ベッド、スペースがあること、毎日の作業で体を動かせること、食べ物がお腹いっぱい食べられることをとても喜んでいました。これまで入所してきた子ども達のほとんどは相部屋であることに不満を持ったり、ゲームができない、好きな時間にテレビが見られない、スマホが持てないなど、今までの生活と異なる寮生活に窮屈さを感じ、家庭学校での生活への不満や不安を多々口にしてきました。そのため、寮を案内した時に見せたA君のキラキラした目から、これまで接してきた子ども以上に抱える家庭の複雑さ、過酷さを感じずにはいられませんでした。また、怪我をしたときや体調不良の時に病院に連れて行こうとすると、自分が悪いから病院には連れて行かないでも大丈夫と話し、その背景には通院が必要な状況であっても、保護者から本児自身のせいだから病院には連れて行かないと言われ続けていたことがありました。そのような生い立ちもあり、子どもが子どもらしく慈しみ愛される経験をしてもらいたいという思いがより一層強くなった出会いでもありました。
家庭学校はおおよそ一年から二年で退所の時期を迎え、退所後については、家族再統合がなされて家庭復帰となる生徒のほか、児童福祉施設への措置変更となる生徒、中学卒業と同時のタイミングで寄宿舎付きの高等学校への進学など、退所後の進路や生活場所は生徒によって様々です。また、入所理由も相まって、退所後の生活拠点が決まるまでが難航し、紆余曲折を経てやっと決まるという生徒も少なからずいます。そのような退所後の生活を考えた際に参考になるのが、夏季と冬季にそれぞれ約二週間の帰宅訓練期間として設けられている一時帰省です。もちろん家庭の事情で全員が帰省の対象とはなりませんが、児相の一時保護所を活用したり、家庭での帰省が難しい生徒は家庭学校で残留として行事を過ごします。いつもと違った日課や生活を通して、これまでの生活で成長した部分が発揮される良い機会ともなります。
その期間を前述のA君は毎回全期間家庭で過ごし、約二週間後に家庭学校に戻ってくることを繰り返しました。家庭学校ではリーダー的な存在となり、体力や学習、作業においては寮一番とも言えるほど積極的且つ意欲的に生活しみんなを引っ張ってくれる存在となっていきました。しかし、当の本人は家に帰りたいという思いと、帰る度に「ここは人が生活するような場所でない」という気持ちとがせめぎ合い、いつも児相に送る帰省初日は「帰るのは楽しみだけど、きっと早く寮に帰ってきたいという気持ちになってくと思う」と話すのでした。また、帰省から「ただいま」と寮に戻ってきた夜は「やっぱり何にも変わんなかった」と落胆して家での生活を教えてくれるのでした。今までは親の意見が絶対であったA君にとって、自分がこれまで経験してきたことと家庭学校に来てからの経験のギャップに悩んできたのだと思います。
退所を意識するような時期に入ると、保護者からは家に帰ってくることを求められてきましたが、本児自身は家庭には戻れないという気持ちと施設で生活した方が良い人生を歩めるのではないかと、自身の進路を強く意識し始めました。それと同時に保護者の思いを無下にしてしまった自分は親不孝者であるという思いが強く感じられました。
私たちは約二年ずっと一緒に生活してきたからこそ、A君の進路を決定するにあたり、A君が自分で決めて進んでも良いんだよということを伝えていきたいとも思っていました。そのため、迷っているA君に措置変更先として挙がっていた児童養護施設への見学を一緒にし、自分自身の今後の生活をより具体的にイメージしてもらえるよう取り組みました。その結果、A君は親元には帰らずに施設変更して自分の進学したい高校へ行けるように勉強も頑張りたいと気持ちを固め、その意志を尊重できるように児相の方々も力を注いでくださいました。
措置変更したその後も、クラブや勉強、アルバイトとがんばっていることを連絡してくれたり、面会に来てほしいとお願いしてくれ、何度か私たちも休日にA君に会いに行き、学校や施設生活のことを聞いたりと交流が続いています。その中で、「親に手紙を書いて出したけど返事は来ない」という報告がありました。コロナ禍になり、なかなか思うように面会ができない期間が続いていましたが、メールやSNSツールを使っての交流は続いていました。そして、数年ぶりに家族に会う、という連絡が来ることになりました。数年ぶりの親子交流はA君の今後の進路に影響を与えているようですが、困ったときに相談できること、自分の気持ちを聞いてくれる存在を見つけていることが私たちにはA君の成長と生き抜く強さのように感じられました。
A君の事例は私たちが受け持った生徒の一人の出来事ですが、退所した三八名それぞれの予後があり、安定した生活を送っていることを願ってやみません。定期的に電話やメール、また来寮して顔を見せに来てくれる子は今は八名ほどです。受け持った子のほとんどは連絡が途絶え、また、家庭復帰後や措置変更後も不適応や入所前の問題行動が再発するなどして児童相談所や警察の介入が必要な事例も多くありました。そのたびに、私たちがしてきたことは何だったのか、自問自答することが多々あり、一人一人の性格、家庭環境、進路など適切に判断できていたのか、という力のなさを感じることがあります。それでも、困っている時や何か嬉しいことがあった時に私たちを選んで連絡してくれることのありがたさ、また、相談する力が身についていることのうれしさは格別であります。
家庭学校へ入所した子どもが、寮生活や家庭学校生活の中で少しでも安心できる心地よさを感じ、同年代の仲間と味わう達成感や楽しさ、青春を味わいながら、これまでの自分自身を振り返る力を蓄えて巣立ちの日を迎えてほしいと願い続けています。
児童自立支援専門員 佐藤高志
家庭学校に勤務して、キリスト教を基につくられた施設だなと感じさせることがいくつかあります。一つ目は、一九一四(大正三)年に家庭学校の分校として留岡幸助がキリスト教精神に基づきこの地に設立して以来、日曜礼拝がほぼ毎週守られていること。二つ目は、一九一九(大正八)年に完成した立派な禮拝堂があること。三つ目は、食事の前に主の祈りなど感謝の祈りを神様に捧げること。四つ目は、就寝前の集いで職員と児童が聖書を輪読すること。五つ目は、クリスマスには礼拝をし、礼拝を終えてからの晩餐会では児童による生誕劇や聖劇が披露されることです。
日曜礼拝の現状について
礼拝は、毎週日曜日の午前一〇時から禮拝堂に生徒や職員が集い、二〇分ほど行われています。始まる前には合図の鐘が鳴らされます。冬期間は本館音楽室に代わりますが、クリスマス礼拝は禮拝堂で行っています。
礼拝の式順は一般的なキリスト教会で行われているものを短くしたものです。礼拝は、前奏と黙祷に始まり、讃美歌、主の祈り、聖書朗読、お祈り、讃美歌、奨励(短めの信徒による説教のこと)、お祈り、讃美歌、後奏と黙祷で終わり、解散して各寮に戻ります。
礼拝を司式と奨励は、一人が行い、がんぼうホームの清水ホーム長、清水律子先生、姜先生、私の四人で担当しています。奏楽は蒦本広美先生にしていただいています。
聖書朗読は、教会の日曜学校で使われる教案誌のカリキュラムに沿って、旧約聖書と新約聖書からその日の箇所を選びます。奨励はその箇所に沿った内容を話しています。
児童生徒と礼拝や聖書について
本来礼拝は、イエスキリストを信じる者が集い、神様を賛美すること、聖書を通して神様の業や言葉を知ること、自らの罪を告白し神様の許しを祈ることだと言われています。そして、聖書にある主イエスキリストの愛に満ちた言葉をもとに日々の生活をすることだともいわれています。
家庭学校の礼拝には、信じているものばかりが集うわけではありません。私としては、家庭学校での日曜礼拝は、児童生徒などの参加者に、聖書を通して神様の言葉に触れる機会となることを目的にしています。そのことを意識して、信仰を押し付けるのではなく、聖書やイエスキリストのことを知ってほしいとの思いで奨励をしています。気楽に聴いてほしいと思っています。
児童生徒の皆さんには、手元に聖書が渡されていますので、ぜひ読んでほしいと思っています。聖書には、思わずのめりこんでしまいそうな物話や、人生の励みになる言葉がたくさんあります。聖書を読みキリスト教のことを知って、神様を畏れ、人を愛するような人になってほしいとも願っています。
家庭学校を退所する児童生徒には、聖書を記念品として贈呈しています。退所生には、これからの人生で、迷ったり悩んだりしたときに、礼拝や輪読したときの聖書の箇所を思い出して、聖書を開いて読み直して欲しいと願っています。
最後に、礼拝堂に掲げられている「難有」の額にちなんで、聖句を「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」ローマの信徒への手紙第五章三節~五節
児童自立支援専門員 野沢杏
自立支援部の野沢です。現在本館職員として勤務しております。家庭学校で働き始めてから丁度一年と半分が過ぎました。二年目を迎えて感じたこと、学んだことをお話しさせていただきたいと思います。
今年の五月に、念願の児童自立支援専門員になることができました。私にとっては、喉から手が出るほど欲しかった資格で、とても価値のあるものです。辞令を頂けたときはとにかく嬉しくて舞い上がり、家族や福島学園の先生方に夢見心地で報告しました。その名に恥じぬように力を付けていこうと、日々勤務しております。
また、私事で恐縮ではございますが、この度十一月に同じく家庭学校で働いている藤田支援員と結婚する運びとなりました。将来は二人で夫婦制の寮運営をすることを目標に、石上館の輪休を二人で持たせていただく等して修行させていただいております。まだまだ未熟でスムーズにいかないことも多く、特に石上館の子供たちには迷惑をかけて申し訳ないと思っています。ですが彼らも心配なのか気を遣って動いてくれるので、日々助けられています。西村寮長はじめ各先生方にもサポートしていただき感謝の気持ちでいっぱいです。これからも力を合わせて経験値を積んでいきたいと思います。
ここまで前向きな話が続きましたが、現実、ここ最近は自分の行動を振り返っては落ち込む日々が続きました。児童自立支援施設で働き始めてからは三年しか経っていないので、まだまだひよっこなのは間違いないのですが、昨年、一昨年に自分が思い描いていた三年目とはギャップがありました。それは、子供たちとの関わりの部分で、あまりにも自分が成長していないということです。一年目と今で、何が成長しましたかと聞かれたら、今の私は何も答えることが出来ません。一時期は、なりたくて仕方なかった専門員を、自分は名乗る資格なんてないと思っていました。今も少し思っています。理由としては、最近は輪休と給食棟での調理が勤務の大半を占めていて、それに逃げて子供たちと向き合う時間が減ったことにあります。輪休をしていても、一年目はもっと子供たちと関わる時間を作っていたのですが、疲れたから、やることがあるからと逃げる部分が増え、今は圧倒的に少なくなってしまいました。実際に調理の面で気付くことも増えたので、やることがあるときは仕方なくとも、逃げや甘え、向上心が減っていたことは紛れもない事実です。このままでは、信頼される寮母にはなれないですし、力も付くわけないだろうなと感じていました。そんな話を何人かの先生方に話したのですが、「気持ちは分かるけど、まずはあなたが作るご飯で関係を作る。野沢先生のご飯は美味しいと子供たちが思えば、そこから関係が生まれる。それが家庭学校じゃないかな。」という助言を頂いて、ハッとなりました。今まで自分が悩んでいたことはあれもこれも上手くやりたいというあくまで自分中心の考えであって、自分がどういう役割で、今一番に何を頑張るべきなのかということに気付くことが出来ました。分かっていたはずなのに、実際の私は調理と自立支援を別物として考えていたのだなと感じました。これが、最近学んだことです。これを生かして、大きな目標に向かって、目の前のことに取り組んでいきたいと思います。
ひとむれ会理事長 S・掬泉寮 中三 S・石上館 卒一 R
豊島雄一 様
先日は慰問コンサート~生きる力を伝えたい~を開催していただきまして、誠にありがとうございました。素敵な音楽を生で聴く機会は、私自身、今回が初めてで一番最初に思ったことはやはり声がすごく大きいということでした。六曲を歌っていただいてさらにアンコールで歌ってもらえてすごく楽しかったです。自分が聴いたことがあるのは三曲しかなくてどんな曲なのだろうとわくわくしていました。やはり曲を聴いていたらリラックスできました。
寮に帰ってみんなと話をしていたら豊島さんの話が出て、皆も楽しめていたと思いました。また時間があったら歌ってくれた歌を聴こうと思います。大変楽しいコンサートとなりました。ありがとうございました。
北海道家庭学校ひとむれ会
理事長 S
※ 九月二日にバリトン歌手の豊島雄一 さんが開いてくださったコンサートの お礼の手紙を掲載しました。
「すごかった花火大会」
ぼくは、遠軽町の花火大会にいってすごいなーと思ったことやびっくりしたことを、かきたいと思います。
一つ目は、ロータリークラブさんにおさそいいただいたことです。花火をみにいけることじたいすごいと思うけど、おやつやジュースなどももらったので、すごく感謝の気持ちで、いっぱいになりました。
二つ目は、花火がうちあげられている時のことです。とてもきれいだったし、すごくごうかで、「遠軽町金持ちだなー」と思いました。
三つ目は、家庭学校がすごいと思ったことです。町からのバスもだしてもらって、いちばんいいせきもよういしてもらっていて、ものすごくいいたいぐうをしてもらっていたので、家庭学校はすごいとこなんだなぁと思った。
最後に、まだここでの生活になにがあるかは、わからないけど、もしまたこのようなきかいがあれば、さそっていただけたら、すごくうれしいです。
「後悔のあったマラソン大会」
僕は、秋季マラソン大会で一位になることができました。その時僕は、嬉しい気持ちもありましたがすこし気まずい感じもしてとても複雑な気持ちになりました。
家庭学校に来てマラソン大会に出たのは、今回が六回目になります。その中でメダルを貰ったのは、今回が初めてでした。ふつうでは、やっと貰うことができたと嬉しい気持ちになれるのですが、僕は、前のマラソン大会で最大限の力を出さずに走ってしまっていました。本当はもっと走れるのになまけてしまったり、面倒くさいと思ってしまうことがあり、あまり良い結果では、ありませんでした。なので、今回は、全力で走ることを目標にして、走って一位になることができましたが、いままでのマラソン大会の僕の結果を知っている人は、なんでしっかり走ることができるのに前のマラソン大会でしっかり走らなかったのだと思われてしまいました。僕は、前のマラソン大会でも全力を出して走り、なまけたり、面倒くさがったりしなければよかったと後悔しました。なのでまたこのような思いをしないように考え、なに事にも手抜きをせず全力で取り組むことを忘れずに生活していきたいと思います。