ひとむれ
このコーナーでは、家庭学校の月毎の機関誌である『ひとむれ』から一部を抜粋して掲載しています(毎月上旬頃更新予定です)。
職員が、家庭学校を通じて感じたことや伝えたいことを表しています。是非、ご感想をお聞かせください。
※都合により『ひとむれ』本誌と内容が異なる場合がございます。ご了承下さい。
巻頭言
始めての夏残留を運営して
朗読会の講評
「北海道家庭学校卒業生の『予後経過』に学ぶ」を受講して
〈児童の声〉
校長 清澤満
二〇二一(令和三)年九月一六日は、北海道家庭学校の歴史に新たな一ページを刻む日となりました。今から四年前の二〇一七(平成二九)年九月に本校展示林にある「1964東京オリンピックゆかりの木」から採取した種子が苗木となって、再び展示林に戻ってきたのです。
四年前、子ども達の手で採取された種子は、遠軽町内の圃場に播かれた後、順調に生育し、八〇センチくらいの苗木に成長していました。この日の全校作業で植樹したのはロッジポールパイン(アイルランド産)とトウヒ(カナダ、ブルガリア産)の二種類で、約三五〇本の苗木を子ども達と職員と分校の先生達の手によって植え終えました。
「オリンピックゆかりの木」のことについては、八月一日発行の本誌ひとむれでもお伝えしたとおり、一昨年完成した日本オリンピックミュージアムの建築資材の一部として活用されたり、一年遅れで開催された「東京2020五輪」の開会式のアトラクションで、巨大な五輪マークのオブジェに使用されるなどして注目を集めました。
この日植樹に関わった子ども達は、第二世代の苗木を展示林に植え戻すことで歴史を繋ぐ役割をしっかり果たしました。四十年、五十年先には大人になった子ども達が立派に育った大木を見上げる時がやってくることでしょう。
さて、校祖留岡幸助先生が遠軽のこの地に家庭学校農場と分校を創られたのは、一九一四(大正三)年のことで、今から百七年前になります。創立記念日である九月二四日には、創立百七周年の記念式を礼拝堂で行いました。がんぼうホームの清水ホーム長による記念礼拝の後、校長講話を行いました。昨年は幸助先生が何故この地に少年のための教育的な施設を創ろうとされたのかについて話しましたが、今年は少し趣向を変えて、古い写真を見てもらいながら歴史を振り返ってみることにしました。冒頭、子ども達と職員に次のようなお話をしました。
皆さんの右側に掛けられているのは家庭学校を創った留岡幸助先生の写真です。幸助先生が遠軽のこの地に家庭学校農場と分校を開設して今年で百七年になりました。多くの人達に支えていただきながら、本日ここに創立記念式を無事迎えられたことに、皆で感謝したいと思います。
生徒の皆さんは、今日のこの日を自分自身の生活を振り返って見つめ直し、ここで生活することの意味を改めて考えてみる一日にして欲しいと思います。
周りの人たちと仲良く、いつも感謝と思いやりの心をもって一日一日を大切に過ごして欲しいと強く願っています。
そして職員である私達は、子ども達がまっすぐに、逞しく育つよう力を結集し、皆で支援していくことを改めて確認する日にしたいと思います。私達は人を支える仕事をしていますが、それが上手くいかないこともたくさんあります。子ども達と生活を共にする中で、私達も成長していきたいと思います。
さて、幸助先生は少年のための教育的な施設として家庭学校を創りましたが、今日は、皆さんに写真を見てもらいながら、家庭学校の長い歴史の一端を一緒に振り返ってみたいと思います。
古くから行われてきた作業の多くが現在も続けられており、そうした生活を家庭学校は大切にしてきたということも、写真を見ながら皆に知って欲しいと思います。用意したのは大正初期から昭和三十年代頃までの写真が中心です。
ここからは五十枚ほどの写真を「難有」の額が掛けられている正面の壁に順に映し出し、それを見ながら話を続けました。
払下げを受けた広大な土地の開拓には、蜂や虻に襲われるなどして大変な苦労があったことを開設当初の門柱が写っている写真(現在の正門で「恵之谷入口」と書かれています)や当時の鳥瞰図を示しながら伝えました。家庭学校農場の事務所や分家(小作人)の人達の住宅の様子が分かる写真なども残っています。
約三年の歳月を経て一九一九(大正八)年に完成した礼拝堂は、壁などに原始林の開拓で切り出した樹木を使い、土台や煙突には掘り起こした軟石を使って建てられたもので、百年以上経った今も当時のままの佇まいであることを説明しました。礼拝堂の前方には林間礼拝堂があってそこで日曜礼拝を行っている写真も見ました。礼拝堂に入りきれないほどのたくさんのお客様が写っている創立一五周年記念式の写真も見てもらい、家庭学校が古い時代から多くの人々に支えられてきたことを感じ取ってもらいました。
今も一般寮として稼働している掬泉寮、楽山寮、石上館の古い写真を見ながら寮の歴史を振り返りました。一番最初にできたのは一九一五(大正5)年の掬泉寮で、最初は今の寮の向かい側にある生命(いのち)の泉近くに建てられ、その後、楽山寮や石上館などが次々と建ち、多くの子ども達が暮らすようになりました。
昔の作業の様子を伝える写真も数多く残っています。開設の翌年に始まった酪農は、幸助先生が上川の知人から購入した乳牛一頭と寄附された種牛一頭から始めました。その牛二頭を家庭学校まで運ぶのに留辺蘂から馬車で引いて歩かせ、到着まで二日も掛かるなど大変な苦労があったようです。また、現在の作業班の形が作られたのは第四代校長の留岡清男先生が教頭時代のことで、多い時には十を超える作業部があり、畑作業や山からの薪の運搬など生活に密着した多くの作業が今の私達に引き継がれていることを写真を見ながら知ってもらいました。
新しい事業を始めた時や建造物の完成を見た時などは史実として家庭学校の歴史に記されます。一方で家庭学校の生活を支えている日々の作業の様子や植樹など全校を挙げて取り組んだことについては、家庭学校の歴史を刻む大切な営みとして、いつまでも後世に語り継がれるものであることを子ども達に伝えました。
最後に、本館の廊下に飾られている大壁画を映し出しました。清男先生が大きな節目である創立五〇周年(一九六四(昭和三九)年)の記念事業の一つとして壁画制作を位置付け、生徒達が村井武雄先生の指導の下、四か月掛けて完成させた作品です。壁画には当時の家庭学校の生活や作業の様子が詳細に描かれています。創立五〇周年という節目の年は、後に展示林で話題を呼ぶことになる「東京オリンピック」が開催された年でもあり、その重なりに不思議な縁を感じます。
児童自立支援専門員 平野伸吾
八月の初旬、本館職員として夫婦で子どもたちの夏の残留行事を運営させていただきました。夏残留では入所している子どもの内、家庭に一時帰省するのが難しい子を対象に、家庭学校に残り残留行事などをしながら過ごします。残留をすることになった子どもたちは普段生活している寮から離れ、別の一つの寮に集まり、残留担当職員と共に一週間から二週間の生活を共にします。特に残留期間中の重要事項の一つとして「残留期間を楽しく過ごしてもらう」ということが職員にとって大きなミッションであることを先輩職員からお聞きしました。一時帰省する子たちは家族や保護者と会い、特別な場所に連れて行ってもらったり、美味しい食べ物を食べさせてもらったりする一方で、残留をする子どもたちだけ通常の日課を過ごすことは、とても心苦しいものがあります。そのため「楽しく過ごしてもらう」必要があることを教えていただきました。
とは言いましても家庭学校という「一施設」が準備できるものには限界や制限があります。例えば、予算を考えれば美味しい食べ物を用意することや多くの娯楽施設に連れていくことは難しくなります。また子どもたちの特性を考慮したり、新型コロナウイルスの関係で自粛しなければならない行事もあり、企画の段階で試行錯誤をしてきました。
そんな厳しい現状下でしたが、制限が多くある点を考えるのではなく、逆に「家庭学校でしかできないことを考えよう」「全道(北海道)から来ているのでオホーツク地域の色が出せたら面白いかも」と発想を変え、様々な内容を考えました。
その一つとして家庭学校を舞台にした謎解きゲームを実施しました。家庭学校の広大な土地を利用し、クイズ(謎)を解いて家庭学校内を探索していく、といった内容です。探索した場所は牛舎や礼拝堂、分校教室や家庭学校博物館など様々で、夏休み期間の静かな家庭学校内を探索していくワクワク感や解放感を子どもたちに味わってもらいました。また残留をした子どものほとんどが入所して半年に満たない子だったため、家庭学校の歴史がつまった博物館や当番等でしか訪れない牛舎を訪れることは子どもにとって新鮮なことだったかもしれません。
こうした企画だけではなく、工夫したものとして「人間すごろく」を行ったのも新しい試みでした。人気ゲーム「マリオパーティー」を元にして、体育館に簡易パネルを利用した巨大すごろくを作成しました。さいころを使用して、止まったマスに応じてミニゲームを実施。ゲームの出来に応じて得点が加算されていく内容のゲームです。ミニゲームは身体を動かすタイプのゲーム(フリースローやボーリング、ストラックアウトなど)と頭を使うゲーム(限定しりとり、魚へんの漢字を書く、カタカナ表記のお笑いコンビを答える等)を織り交ぜたゲームを行い、思いのほか盛り上がりました。参加する子どもの中でも年齢や体格差の違いがあることはもちろん、運動の得意不得意、発達の特性、女性職員の参加なども考慮に加えたミニゲームだったので様々な種類のゲームを楽しめたのは良い点だったかと思われます。ゲームを通して、子どもたちの新しい一面も垣間見えたのも良い経験でした。
また違う企画では、例年、お世話になっている遠軽町の方にご協力をいただき、オホーツク海沿岸で船釣りを経験させていただいたり、先述した牛舎(酪農部)にて専門職員による乳しぼり体験やアイスクリーム・ヨーグルト作りなども行い、地域資源を活かした取り組みも行うことができました。子どもの中には「牛が大きくて怖かった」「子牛が可愛かった」「カレイが釣りたかった」「船釣りで意外と酔いますね」という感想もあり、生き物や自然の偉大さを感じてもらうことができました。
夏の風物詩といえるものとしては、家庭学校で採れたスイカを使ったスイカ割り、花火、バーベキュー、流しそうめんなどを行いました。特にバーベキューでは、オホーツク海でとれたホタテや牛・豚・羊肉など幅広い種類を食べることができ、一番楽しかったと言っていた子どももいました。また流しそうめんを企画した際には「北海道では竹が少ない」という問題にも直面しましたが、ペットボトルをつなげてウォータースライダーを作成するなど代替品で行い、子どもたちにも楽しんでもらうことができました。
夏残留を運営して上記のような企画や行事を行ってきましたが、子どもたちも比較的楽しく過ごしてもらえたと感じています。その一方で通常の日課とは違うため、楽しめるときもあれば、子どもたちの中には気持ちが沈んでしまう場面もあったため、全てが彼らにとって楽しめた期間ではなかったかもしれません。私自身も運営をしていて、例えばVRゴーグルを使った遊びはあまり良い反応がなかったりもして、失敗したところもありました。それでも全体を通して楽しめた残留期間になったのではないかと感じています。
今回、はじめて残留期間を運営させていただきましたが、上記のような奇抜な企画が果たしてよいものなのかどうか、悩んだ時もありました。ただそういう部分であっても職員の方々は「思いきってやって良い」と後押しをしてくださったり、リスク管理やサポート体制を整えてくださったことが、本当に大きな支えとなりました。コロナ禍の難しい残留期間ではありましたが、この経験を次の冬の残留や今後の子どもたちへの支援に活かしていきたいと思います。
児童自立支援専門員 大里真子
9月の朗読会で「1年と6ヶ月間を振り返って」というK君の発表についての講評をしました。K君が発表した作文は朗読会10月号に載っていますので、ご覧ください。
発表お疲れ様でした。作文にもあった通り口を大きく開けて意識していた発表で聞き取りやすかったです。作文を見てまず文字が大きく丁寧に書かれていてとても読みやすかったです。この作文を読んでみて私もK君の変わった所、改善した方が良い所を考えてみました。
まず、変わった所では体力面の事を話してくれましたが、内面も成長してきていると思います。初めの頃は嫌な事から逃げるという姿が目立っていました。目標を立てて、やろうとしても計画通りに行かず、投げやりになってしまう事が多かったと思います。それが今では自分に見合った目標や計画を立てることができ、投げやりなK君は最近では余り見なくなりました。自分でも少し気持ちに余裕が出てきているのを感じていると思います。この調子で頑張って下さい。
次に改善した方が良い所ではK君は人との距離を保つことと発表してくれました。その通りでしっかり自分の事を分かっているんだなと思いました。一方的に話をする時のK君は興奮状態で周りが見えなくなってしまいます。なので、話し出す前に一度深く呼吸してから話をする等自分の中でルールを作ったら良いのかなと思います。よく周りを見て発言することを意識しないと改善する事はなかなか難しいと思います。家庭学校のように先生達がいつも近くにいて、子ども同士の関係を見てくれる所は珍しいと思います。ここにいる間に場の状況をしっかり見極めて行動、発言するということを少しでも身につけて友だちとより良い関係を築いて行って欲しいと思います。
この作文に書いた目標を達成していけるように意識して生活して下さい。応援しています。以上で講評を終わります。
K君のことは小学校6年生の時に入所してからずっと見守ってきましたが、少しずつ成長がみられています。K君も自分の成長を分かっていて家庭学校での生活に力を入れている所だと思います。近年は自閉傾向の子の入所が増えて対応の難しさはありますが、K君のように家庭学校で生活して成長を感じられる子が1人でも増えていくようにこれからもサポートしていきたいと思います。
児童生活指導員 野沢杏
北海道教育大学旭川校の二井仁美教授が研究代表者を務めておられる「児童福祉アーカイブズに基づく教護院退所者の社会的自立に関する総合的研究」の研究協力者である椿百合子先生(元法務省大臣官房審議官)に「北海道家庭学校卒業生の『予後経過』に学ぶ」と題して講義をしていただきました。椿先生のお話から学ばせていただいたことを報告したいと思います。
はじめに、椿先生が調査対象とされたのは昭和22年12月12日~昭和35年3月31日入所の約420例の児童であり、北海道家庭学校保管の児童相談所資料・措置解除資料・予後経過資料・指導経過資料を基に調査を実施されたとのことでした。
まず戦中、戦後の混乱期でまだ児童相談所の機能が充実しておらず、家庭学校がその役割を担っていたという話を伺い、そのことに驚きました。また、児童の措置に関わるものから退所生との手紙、聴き取りメモに至るまで、貴重な資料の数々が家庭学校に保存されていることを職員ながら初めて知りました。児童自立支援施設を退所し社会に出ていく子ども達はどのような人生を辿り、どのような傾向があるのか、職員や関係者はどのような関わりをしていたのか、また職員として今後私たちが子ども達とどう関わっていくべきなのかを考える機会となりました。
先生の所見として、
・退所時の進路調整の実際と変化から学ぶ
・家庭学校が直接的に行う就職あっせんと予後支援
・本人の希望と適性考慮、理解ある雇用主との連携、息の長い支援「本人の幸せになれる道を選びたい」
・就職先確保について、保護者に当事者意識を持たせる働きかけ
・就職先確保や保護者調整を児相に依頼
・就職先よりも進学を重視する社会の変化
についてお話がありました。中でも私が印象に残ったのが、退所後の就職先について、家庭学校の先生方は何よりも本人の希望を大事にしていたということです。出来ることから就職先を選んでいくのではなく、多少無理が必要でも可能な限り本人のやりたいことを尊重し、支援するというやり方は、私たち職員の目指すべきところであると感じました。
そして、先生は「本人の希望や適性を考慮して就職させた事例」「本人の希望を尊重し複数の関係者が連携した事例」「積極的な支援が予後を安定させた事例」「積極的支援にも関わらず不安定が続いた事例」「危機場面で家庭学校を頼っている事例」「裏切られても支援を続けている事例」「保護者が高校進学のため引取りを求めた事例」「学力が低い者の就労を軽視していた事例」を示され、職員(家庭学校)と児童の関係について見えてくることについて話されました。安定した児童に共通していることは、ことあるごとに児童が家庭学校を頼って報告・相談をしているということ、雇用先等関係機関との連携が強固に取れているということでした。また、失敗を繰り返しなかなか上手く行かない子も見捨てずに根強く関わることで、職員との繋がりが支えになっている児童もいました。中には児童の結婚に際し、家庭学校職員が行方の分からないその児童の両親の所在を探すのに協力している事例もあり、家庭学校が児童にとって故郷のような、もう一つの家族のような存在になっていることを感じました。
私は昨年度まで福島学園に勤務していましたが、北海道家庭学校の広大な敷地、伝統と歴史に惹かれて今年度より入職しております。まだまだ未熟な若輩者ですが、夫婦制での寮運営を間近で体験し、敷地内に住むことで、「Withの精神」と「住み付く感覚」の大切さを改めて感じております。また、今回の研修を通してアフターケアが児童にとっていかに大切であるかを学び、子ども達にとって職員が安心して関われる存在になれるよう、日々のコミュニケーションの積み重ねを大事にしなければとより一層感じる機会となりました。
椿先生、ご講義ありがとうございました。
石上館 小六 I・掬泉寮 小六 R・石上館 中二 S・掬泉寮 中二 M
ぶどうがり
九月に合氣道の吉野先生のご自宅のおにわに植えてあるぶどうをとりにいきました。
緑のぶどうやむらさきのぶどうがキレイにみのっていました。緑のぶどうは少し酸味がありシャインマスカットのような形をしていました。むらさきのぶどうは酸味がなく、のうこうでとても甘かったです。どちらのぶどうもとても甘くておいしかったです。すごくいっぱい収穫しました。車のトランクがいっぱいになるほどとりました。
吉野先生のご自宅に植えてあるぶどうを家庭学校にもうえようということになりました。吉野先生のご自宅のおにわにあるぶどうの木をもってきて家庭学校に植えるのですが、ただ植えればいいというわけではありません。ぶどうの木がからまりやすいように鉄パイプでドームを作りそれにネットをはったりする準備が必要です。その作業を石上館全員でやってます。僕はそっせんしてドームを作りました。
ぶどうを植えるのは来年の春です。木が成長し実ができるころはもう僕はいないかもしれません。ですがそのときにいる生徒や先生方にいっぱい食べてもらいたいです。実ができたらぶどうのジャムやおかしなどいろいろな料理ができます。
今回ぶどうがりをしたりぶどう用のドームを作ったりできたことはいい経験になったと思います。この経験を忘れずこの経験をいかせる時があったらいかしていきたいです。
マラソン大会一位になって
ぼくは、マラソン大会で二回とも一位をとりました。
ぼくは、マラソン大会で、自分の目標をたてて、一〇分はきろうと思っていました。そしてはしってるあいだ、一回目よりも走るペースがはやかったので、あとちょっとと言うところでペースがおちてしまいました。もうむりだと思って歩きそうになりましたが、タイムをできるだけちぢめたいと思い、がんばって走りました。そのおかげで、二回とも一位をとれました。
ぼくは、最初にゴールしたので、何もすることがなく、もう少しだけ走ってようと思い、グラウンドを走りました。そのときにM君がやばいと先生方が言っていたので水とコップをもって、とどけに行きました。
ぼくは、一回目のとき、とにかく一位をとることにむちゅうで、人のことをはげましたり、ドンマイとか、がんばれとか、そういう言葉がかけれませんでした。ですが、二回目になると、一位になってゴールしたとき、ものすごくほめられました。とてもうれしかったです。そのときに、ほめられるってとてもイイなー、と思いました。だから、みんなもほめられるように、がんばれーと言って、みんなあきらめずにゴールまで行って、ほめられるように、声かけをしました。
たった二回のマラソン大会で、ぼくは、ものすごい成長をしたと思います。
ぼくはこの二回のマラソン大会で、大事なことを学びました。
研修旅行について
自分にとっての初めての研修旅行では楽しかったらいいなと思いながら始まりました。
楽しかった事は昼食でイートアップという所でバイキングで食べたりグリーンランドという遊園地ですごく遊んだり売店へ行って物を買ったりしましたが一番思い出に残った楽しい事は体験学習でした。
三日間のうち一日目と三日目で体験学習がありました。
一日目では陶芸体験とトリックアート美術館でのコップにもようを付ける事でした。陶芸体験ではカレー皿を作る事でした。粘土をうすく切って粘土の表面をきれいにしたり色粘土があってブルーとピンクと茶色があったのでその粘土をはってこすってもようを作りました。そして型に粘土をのせて形をととのえました。そして焼き上がりは一ヶ月後ですが楽しみです。ガラスコップのもよう作りではドリルでガラスコップを削ってもようを作っていました。紙に自分の好きなもようを書くか用意されているもようの紙をとってコップのうちがわにはってそのもようをなぞってドリルで削りました。陶芸体験やガラスコップのもよう作りもむずかしかったですが、楽しかったです。
三日目の体験では植松電機でのロケット作製です。まず社長の講演を聞いた後ロケットの組み立てをしてその後ロケットエンジンの燃焼実験を見ましたがその実験ですごくでかい音が出てビックリしました。そして自分の組み立てたロケットを飛ばしましたが思ったより飛んでびっくりしました。飛んだ後はパラシュートを開いてかえってきました。もう一回飛ばしたいと思いました。組み立てるのとデザインを決めるのがむずかしかったですが楽しかったです。
すごく楽しくてもう少し長ければよかったなあと思うくらいの研修旅行でした。
研修旅行で感じたこと、学んだこと
僕は研修旅行でした体験で色々なことを感じました。その感じたことをこれから発表したいと思います。
まずは陶芸体験で感じたことです。陶芸体験はわくわくして楽しいと感じました。なぜかと言うと、自分の作っている物は焼き上がったらどうなるんだろうと考えていたからです。一ヶ月後に焼き上がったものがくるので、楽しみです。
次は深山峠アートパークでの体験です。ここではトリックアートを見ました。トリックアートはとても不思議だと感じました。なぜかと言うと、かべに書かれているだけなのに、とび出て見えるからです。
次は北海道グリーンランドでの体験です。ここでは色々な遊具にのったりして遊びました。一番楽しかったのはメリーゴーランドです。ここで感じたことは、集団行動が大切だと感じました。
北海道グリーンランドの後に行った、砂川ハイウェイオアシスでお買い物をしました。僕がここで買ったのはトトロのストラップとトトロの下じきです。
次は植松電機での体験です。植松電機では、植松努さんの講演を聞いたり、ロケット作成をしたりしました。講演では「夢」の話をしてくれました。僕はこの話を聞いて感動しました。
次は扇松園で感じたことです。扇松園にはおいしいご飯を出してくれたり、きれいなおへやを使わせてくれたりしてとても感謝しています。
最後に今回の研修旅行で学んだことを発表します。みんなでまとまって行動する集団行動の大切さや、楽しむのと、さわいで迷わくをかけるのはちがうということを学びました。
この研修旅行で学んだことをいかし、日々の生活に役立てていきたいと思います。