ひとむれ
このコーナーでは、家庭学校の月毎の機関誌である『ひとむれ』から一部を抜粋して掲載しています(毎月上旬頃更新予定です)。
職員が、家庭学校を通じて感じたことや伝えたいことを表しています。是非、ご感想をお聞かせください。
※都合により『ひとむれ』本誌と内容が異なる場合がございます。ご了承下さい。
創立96年記念と映画
開校2年目を迎えて
校長 加藤正男
急に寒くなりました。今年は暑い日々か続いたため、収穫したジャガイモの中に空洞がはいっています。花壇の花も背丈は伸びるのですが、肝心の花が広がっていかないものもあります。
家庭学校玄関入口広場から展開される花壇は、ここを訪れる人々にそして、ここで生活している者にとっても心の奥深く入っていく風景です。
今年は、毎年行われる遠軽町の花壇コンクールの優秀賞等のコンテストはなくなりましたが、企業の部門で功労賞に輝き、遠軽コスモス祭りにて表彰を受けました。
どんぐりが木々の風の音とともに地面にはねる音が聞こえてきます。今年は、実も小さかったり割れたものも少なくありません。
小学生の生徒たちが遠足に礼拝堂の周辺のドングリ拾いに来ました。山の木々も色を変えています。
9月24は、北海道家庭学校の創立記念日です。今年は創立96年を迎えます。東京の家庭学校は創立111年です。
1899年、東京巣鴨村に家庭学校を創立した時、留岡幸助先生、35歳の時です。
これを維持するための費用はなかなかあつまることができません。
「岡山孤児院の石井十次氏は私より先に身をていして孤児の救済にかかられたのである。こちらの方は世間の同情を得ていたが、不良少年に対しては、人のものを盗んだり、人をなぐったり、人の家に火をつけたり、甚だしきは人を殺すようなものもあるが、このような少年はどうなってもよいではないか・・・」という当時の世間の見方に対して、幸助先生は感化事業理解を深めてもらうため、『感化事業の発達』という本を出版にこぎつけることができました。
今も経営は厳しいのです。かって80人いた生徒が現在では43人です。一つの寮の定員は12名ですが、9名ぐらいが適正なのです。夫婦寮で家庭的な雰囲気を維持していける寮運営が望ましいと考えます。一人ひとりの生徒たちのかかえている問題が大きいのです。荒れた寮になっていっては児童自立施設としての機能を果たせなくなります。入所してくる生徒にとっても過酷です。
措置費の収入に頼る民間の施設として、措置された人数が半分ということは経営的には致命的になりかねません。
現在一つの寮が再開され五ヵ寮で運営していますが、老朽化が進み使われていない寮を全面改築し、新たな夫婦寮を創出していかなければなりません。そして夫婦で生活をともにする人を求めていかなければなりません。永井 信理事長のもと理事会、職員一体となり、この困難な局面を切り開いていきたいと思います。
生徒たちの生活環境、職員の待遇、勤務環境もレベルアップしていかなければなりません。
生徒たちのトイレの簡易水洗化の工事も今年度は石上館を行います。残り平和寮、洗心寮については来年度簡易水洗化が可能となるよう各方面に働きかけていきます。
多くの人々からの支援金を大切に、有効に、そして生徒たちの最善の利益につながるよう、私たちの業務を点検していかなければなりません。
広い敷地に展開されているさまざまな生産活動についても、教育農場として教育活動として効率の面からも厳しい振返りが欠かせません。無駄があってはならないのです。
幸助先生は、三年間空知集治監で教誨師として努めた後、私費でアメリカにわたり、監獄事情や児童養護施設や感化施設に関する勉強を続けました。
明治27年5月25日の幸助先生日記には、「ロッキー山に登りなるため機関車を三つになして登れり、・・・ロッキー山の天然のおのずとして偉大な豪壮なるにあり。・・・」
「7月4日 この日は独立日にて、当国の人は田舎、都の別なくすべての業を休みて祝うなり。大なる声をして花火を掲げ、杯するなり。・・・」
雄大なロッキー山脈の景色やアメリカ独立記念日のお祭りの雰囲気に圧倒されています。
最初、アメリカの監獄で受刑者とともに職業技術の習得に励みながら、肌で監獄の実態を学んでいきました。その後、感化院や養護施設等を多数数訪問し、それぞれのよさを学んでいきました。ライマンスクールの感化院では、女子職員の働きに注目をしています。家庭的な雰囲気の中、小人数で生活しているシステムを取り入れ始めていることに感心しています。
1899年にスタートさせた巣鴨の本校は、当時、森で狐が鳴いていたほどさびしいところであって、樹木もたくさんあり、栗林があり、環境の極めてよいところでありました。『自然』の感化力をえるのには格好な場所でありました。しかし、日露戦争後、急激に都会化してきました。
自然の感化力を大事にしていた幸助先生は、大がかりに厳しい自然の中で少年たちを育てたいとの思いが強くなってきました。
幸助先生50歳の時、決断しました。
1914年8月24日、雨が激しく降る中、130人の人々が望みの丘にあつまりました。留岡幸助先生は、遠軽の土地で北海道の分校を開くことを高らかに宣言したのです。千町歩に及ぶ北海道からの土地の払い下げを受け、新しい村の建設と生徒たちの心の開拓です。
その後白滝の村に300町歩の払い下げを受け、その地ではさきがけの開拓でした。現在は済美館という建物が大切に保存されています。
礼拝堂は大正6年から建築がはじまり、大正8年に完成しています。
多くの方々がここに訪れます。
ミズナラの木々に隠れるように礼拝堂が見えてきます。初めて訪れた人々は、望みの丘から礼拝堂に入るところの木々の下を通ると、空気が違うと話されます。その姿に驚きます。そして、あちらこちらで作業をしている生徒たちの明るい声と生き生きした姿に出会います。びっくりされます。
悪いことしたら感化院にいれるよと親に言われて育ったという方は、ここで生活してみたかったと言われます。
確かに悪いことをして入っている少年たちもいますが、家族が育てる環境でなかったり、最初から養育を放棄してしまうなど虐待が疑われるケースが増えています。
児童相談所から送られてくる子どもたちの成育歴を読んでいくと、厳しい環境の中でここに入らざるを得なかった状況が書かれています。厳しい環境の中でも、周りの支えや本人の努力で乗り越えられていく人々は多いと思いますが、当学校に入る生徒には、どこかで違う方向に行ってしまったのです。
留岡幸助先生は、いわゆる不良少年はモデルとなる家族がいないことや都市の発達の悪い面から影響をうけ、悪化したと考えていました。少年を天然の感化力と家庭の感化力で立て直すとの思いがあふれていました。
「現今の社会状態は自然と人間との結合全くやぶれ、生活の状態いよいよ不健全にして・・・
この不幸なる状態より人間を救い出すのは、再び元の自然へ人間を結びつけることなのである。・・ 自然七分人間三分というような生活ぶりこそ人の子を教育する適地である。」
自然はすべての人を受け入れてくれる。非行少年であろうとなかろうと変な色眼鏡で見ることなく、自分を成長させてくれる、そう確信して教育農場を展開してきました。
留岡幸助物語の映画がいよいよ10月1日から北海道ロケがはじまりました。礼拝堂にて留岡幸助役の村上弘明さんが講演をしている場面などです。2日、3日は家庭学校でロケが行われ、のべ200人を超える方々がエキストラとして参加してくれました。また、地元から多くのボランティアの方々が食事つくりの応援をしていただきました。
来年3月には公開の予定です。
映画作りには大変な資金がかかると言われています。家庭学校は全面的に制作協力をしています。いい作品になることを心からお祈りしています。
望の岡分校 森田 穣
学校教育が導入されて一年余りが経過し、分校の教職員は家庭学校の主な教育活動を経験することができました。その中には、分校ができたことにより、それまでの日課や実施形態を変えざるを得なかったものもあります。
しかし、家庭学校の教育理念である「流汗悟道」の精神は、分校の教育課程にも積極的に取り入れさせていただいています。作業着や運動着姿の教職員が子どもたちや家庭学校の職員と一緒に汗を流すことは、分校の教育の重要な部分を占めると考えています。このような職場環境を受け容れてくれている懐の広い教職員に対して、教頭として頭の下がる思いです。と同時に、私を含めその分野の素人を温かく迎え入れ、育てていただいている家庭学校の皆さんと子どもたち、そして雄大な自然に感謝の気持ちでいっぱいです。
一昨年は、学校教育導入のアウトラインについて、昨年は導入直後の様子について書かせていただきました。今回は、大きな課題である学籍と進路指導の問題について書かせていただきます。
まず、学籍についてです。学校教育導入前までは、原則、全員の住民票を遠軽に異動し、学籍は前籍校に残していました。導入後は、学籍が望の岡分校に移ります。そこで分校の児童生徒について、原則、住民票を前籍地に残したままの「区域外就学」という扱いをとっています。つまり、学籍と住民票の扱いが導入前と導入後では丁度逆になったわけです。
住民票を保護者住所地に残しておくのは、学籍と住民票の両方を移すことによる福祉面での不利益を避けるためです。そもそも、教育は学校を含めた地域社会が担うものです。子どもたちは一時的に遠軽に来ているに過ぎないのです。「家庭学校卒業と同時に、我が校、我が地域に戻ってくる」前籍校や地域に、いつでもそういう意識を持っていただく必要があるのです。仮に中学卒業時まで家庭学校に在校した場合も、卒業認定は前籍校で行っていただくことになっています。最終学歴が中学校の生徒も多く、「望の岡分校卒業」と履歴書に書く状況を作らないためです。
ここで、ひとつ問題点があります。戻る学校が特定できないケースが稀にあるのです。
児童養護施設から入所してくる児童の中には、複雑な家庭の事情を抱えている場合があります。そのほかにも、保護者が住所を転々と移している場合や施設に入所している場合、家庭学校を卒業した後、どの学校に学籍を戻すのか判断できないことがあります。このような時は関係機関にご尽力いただくしかありません。そして、戻る学校が決定した後は、分校として相手校に説明すべきは説明し、お願いすべきはお願いしていきます。
次に、進路指導の問題です。これは、学籍以上に難しい問題です。様々な要素がありますが、大きく①進路決定の時期②前籍校との関係の二点に関して書きます。
進路指導では、まず、「受検するのかしないのか」を「いつ、誰が決めるのか」という問題があります。家庭学校に在籍する生徒は、自分の背負っている課題ときちんと向き合うことが求められ、これにはある程度の時間を要します。一方、受検は三月に家庭学校を卒業するということを意味します。
中学三年の生徒の中には、在校期間の短い生徒もいます。卒業は三月ですが、受検に係る手続きは十二月には始まりますので、決定はもっと早くしなければなりません。決定までに至る進路指導も必要です。
受検を前提とした進路指導を行ったが、「やっぱり今年はだめだった」ではあまりに残酷です。
分校としては、出来るだけ早く決定していただきたいところですが、困難なケースがあることも承知しています。担任を中心として、寮長先生と細かく連絡を取りながら、具体的な作業を進めていきたいと考えています。
次に、前籍校との関係です。
受検対象の生徒は、十二月一日付で家庭学校在校のまま学籍のみ前籍校に異動します。出願手続きを前籍校で行っていただくためです。生徒は実際には望の岡分校に在籍していますので、入学願書の作成は分校で行い、前籍校に送付します。その後、個人調査書の作成も分校で行い、前籍校に送付します。二回の書類送付とそれに関連した情報提供を求められる時期が、前籍校によりそれぞれ異なります。また、昨年度のように私立高校や道外の高校への受検があると、一層錯綜します。カレンダーを見ながら確認の毎日です。
さらに、個人調査書に関していわゆる「内申点」の算出の基となる各教科の評定について疑問が寄せられる場合があります。実際、特に芸能系の教科で前籍校の評定と望の岡分校の評定と数値がかなり異なるケースがありました。分校の少人数指導の中で意欲的に取り組み、成績が上がったのです。こちらとしては、現状をお伝えするしかありません。
前籍校には、卒業式においでいただき、直接卒業証書を渡していただくお願いもしています。このようなことから、前籍校との関係は非常に大切です。幸い、この春の受検、卒業に関しては、多くの前籍校から温かいご協力を得ることができました。大変ありがたいことです。
開校二年目を迎え、家庭学校と分校の間でお互いの様子が昨年より見えるようになり、肩の力が抜けてきたと感じています。毎日が闘いの連続で厳しい仕事であることに変わりはありませんが、教務室の中で、職員どうしの他愛のない会話が聞かれることも多くなりました。
「教育は人なり」という言葉があります。立場や考え方、経験や職能を超え、家庭学校職員と分校職員が連携し、それぞれ一人の人として子どもたちと向き合っていくことが何より大切であると考えているところです。