ひとむれ
このコーナーでは、家庭学校の月毎の機関誌である『ひとむれ』から一部を抜粋して掲載しています(毎月上旬頃更新予定です)。
職員が、家庭学校を通じて感じたことや伝えたいことを表しています。是非、ご感想をお聞かせください。
※都合により『ひとむれ』本誌と内容が異なる場合がございます。ご了承下さい。
巻頭言
一年目の寮運営を終えて
お盆を過ごして思ったこと
〈児童の声〉
〈理事長時々通信〉⑦
校長 清澤満
八月二十六日、遠軽町芸術文化交流プラザ(愛称「メトロプラザ」)の開館記念式典が盛大に行われました。挨拶に立った佐々木修一遠軽町長は、文化センター建設の構想から十二年の歳月を経てようやく完成した施設の開館にあたり、万感の思いを吐露されていました。
愛称である「メトロプラザ」の「メトロ」は、音楽のメトロノームと鉄道(遠軽町は駅を中心に発展してきた町)を意味しているそうです。建物は、「吹奏楽のまち・遠軽」に相応しい音響構造・設備を有した大ホールをはじめ、移動式ステージを備えた小ホールや交流ホールのほか、調理研修室や多目的室などで構成されており、利用者のニーズに幅広く対応できる交流の場として素晴らしい施設が完成しました。また、JR遠軽駅とメトロプラザが屋根付きの通路で繋がっており、町外などからJRを利用してメトロプラザを訪れる方々の利便性にも配慮された造りになっています。
式典では遠軽高校吹奏楽局の皆さんが迫力ある演奏を披露してくれました。同校は、札幌市で式典前日に開催された北海道吹奏楽コンクールの高等学校の部で見事金賞を受賞し、全国大会への切符を手に遠軽に戻ったその足で会場に駆けつけてくれたそうです。さらに、同コンクール中学校の部で南中学校の全国大会出場決定の知らせが式典中に届き、ダブル受賞の快挙に会場は大いに沸きました。正しく「吹奏楽のまち・遠軽」を象徴するメトロプラザ開館の日となりました。
メトロプラザの完成は家庭学校にとっても喜ばしいものでした。一つは大ホール観客席側の左右の壁に本校展示林で育った東京オリンピックゆかりの木が使用されていることです。町長が挨拶の中でそのことに触れ、ホワイエには展示林の説明パネルが据えられていました。
また、アニメ「機動戦士ガンダム」で著名な遠軽町出身の漫画家安彦良和さん作の巨大壁画には、遠軽町の発展に寄与した偉人の一人として校祖留岡幸助が瞰望岩(がんぼういわ)(遠軽町のシンボル)の中央に大きく描き出されていました。
さらに、遠軽町からの依頼で暫くの間お貸しすることとなった本校所蔵の「ステッセルのピアノ」(日露戦争の戦利品の一つと伝えられているピアノ)が、ホワイエの正面出入口近くに展示されました。今から二十八年前、町内外からたくさんのご寄付を頂き修復されたピアノですが、現在は現役を退き本校博物館に展示されていたものです。「ステッセルのピアノ」が、町の新たなシンボル「メトロプラザ」で多くの皆様にご覧いただけることを大変有り難く思います。
主幹(石上館寮長) 西村 健太郎
今年の四月で寮運営は二年目を迎えております。昨年の三月に休寮となる楽山寮から石上館への転寮として五名の児童を引き継ぐことになりまして、以降、年度中の入退所などの児童入れ替わりを経て、年度末の今年三月には十名の児童と共に生活するという経験ができました。
寮を運営するということは、本館職員として勤務していました時とは状況や場面も変わり、児童と共に過ごす時間が格段に増えます。また、ご存じのとおり夫婦小舎制とは異なる寮長・副寮長体制でありますことから、支援として児童における身の回りのお世話をするということでは、何をするのでもこれでいいのだろうかと自問自答が続いた一年間でもあり、特に時が過ぎ行くのが異常に長く感じた上半期でありました。七月の釣り遠足前に「まだ、三か月しか経ってません。いやー長いですね。」研修旅行前に「やっと、半年ですね。やっぱり長く感じますね。」と稲田副寮長が苦笑いしながら私にボソッと呟くのに対して、やはりそう感じていたのかと都度共感して安心できたのと同時に、一日一日が長いといった感覚は一体何であるかと考えていたことなどが思い出されます。しかし、十月以降の下半期は行事を含め、バタバタと時が過ぎるのが早く感じられ、下半期はあっという間に過ぎ去ったという不思議な感覚でありました。
気がつけば冬が過ぎて雪解け間近、三月末の別れの時期に差し掛かり、当校で小学校を卒業し、四月から自宅復帰して中学一年生から復学する児童。養護施設への措置変更により、居住地学区内の中学校に通う児童。知的障害施設への措置変更に伴い、居住地学区内の小学校に通う児童。当校で中学校を卒業し、養護施設への措置変更により、居住地から高校に通う児童。当校で中学校を卒業し、家庭復帰して就職する児童。三月下旬から四月上旬までに、計六名の児童が退所しております。
児童が多く退所するこの一か月間は、児童数が半減することもあり、寮内の様相も目まぐるしく変わります。三月の卒業式、終業式を境に日を追うごとに一人抜け、二人抜けと別れの時がやってきますが、意外とサバサバとしていて別れに対して慣れているのは、私よりも年端も行かない児童のほうであり、幼くして家庭から離されてしまった児童や施設から施設へ身を置く児童が多くいるせいか、退所する一人ひとりの見送りを目の当たりにした時には、何気に引きずらない児童のたくましさ、或いは別れの時に誰もが抱く感情や意思の疎通を汲み取れない不憫さみたいなものがあると感じたこともありました。
また、そういった退所が迫る時期には、退所が決まり大手を振って喜ぶ児童ばかりであるとは限りません。春からの新生活に対しての不安から、退所間際には塞ぎ込み少し落ちつかなくなる児童もおりました。退所前には余暇時間を割いて色々な不安に対する話を聞き、私は、この子の性格はこうだから次の環境に移ったら、最初は我慢しておとなしくしていることはできるけれど、環境に慣れ始めた頃に対人関係で何らかのトラブルを起こすことは否めないと感じていたため、ここでの傾向と対策をおさらいすることをさせ、周囲に迷惑がかからないためにはどうすべきかなど、思い当たる何通りかのパターンを想像させては、その時はどう対処すべきかなど、備えるべく想定問答形式によるやりとりを繰り返し交わしたことがありました。今思えば、その不安を取り除こうとしたそのことが、かえって不安を増幅させてしまったのではないかと後悔しています。
実のところ春からの新生活に対して不安であったのは当該児童よりも、むしろ私のほうが強く感じていたということであり、結局は私自身の不安を限られた時間の中で何とか取り除こうとしていたのです。当該児童はここで他者目線を獲得することができたと言われておりましたので、課題はまだまだあるとして、深く理解してもらい今のうちに少しでも変化が必要という焦りだけを押し付けてしまったことになったわけですが、新しい環境でもそこは長い目で見た場合、問題なくクリアすることは今のところ難しいけれど、段階的に変化してくれるのだと信じ、節目となる退所の時期は追い込みをかけるのではなく、アドバイス程度に留めておくべきであったと反省しております。このことに限らず日々の児童との関わり合いでは、会話のすれ違いをはじめ、声かけの際の私の口調や切り出し方等々、今後において注意を払うことばかりが積み重なった一年間でありました。もちろん既定の日課が基本として成り立っているわけで、児童個々の生活レベルの差があることから、日々寝食を共にすれば大小諸々の問題が生じてくるのは当然のことです。
そのような生活を通して、寮運営に携わる身として常に思うことですが、やはり、児童との会話・雑談、訴えを聞く・聴く・訊くことは必要。また、児童個々の肯定感や共感を引き上げるために必要となるのは、まずは基礎体力の増進であると捉え、そのことを踏まえた体調管理・把握をはじめ、二年目となる今年度においても引き続き重点事項として進めて行きたいと思います。
児童生活指導員 小長谷 健太郎
お盆ということもあり、あの悲惨な戦争が思い出されます。
この世の中には身近なところに信仰というものがあります。信者となり活動している人や、所属しなくても自分一人が信じられさえすれば良い人もいます。
社会人になると他人を信じなくては先に進まない事も出てくると思う反面、他人に対して不信感を抱いたり、裏切りに遭うという現実もあります。上手く取り繕ってやり過ごせる人や自分で決めた正しい信仰をする人、中には、怒りにまかせて殺人まで犯してしまう人も残念ながらいます。
日本がこんなに治安が良いのも、どんな風にバランスが取れているか僕には全然解りませんが、信仰があるのは良いことだとは思います。最悪な出来事になっていくのを思いとどまらせる教えは、どの信仰でも行っていると知り、ありがたいことだなと思います。罪を犯す前に信仰することで思いとどまらせてくれたら、こんなに助かることも無いと思うし、すがりたい気持ちになるでしょう。
一方矛盾しているなと思う事もあります。それは、自分の信仰こそが正しいと思う余り、他を信じている人の事を間違っていると批判しているのを見聞きしたときです。また、世界に目を向ければ宗教対立で戦争まで起こっており、残念です。
どんな事だって良い事ばかりでは無いのは解っているつもりですが、何か引っかかるものがあります。自分が思っている事も信仰の代表者から見ればただの一つの意見でしかなく、仕方ないこととして簡単に済まされるかもしれません。
ない物ねだりせず、もっと今ある現実に焦点を向けていければ視野も広がり、他人でも皆で幸せになりたいと思える風になるんじゃないかと時々思います。
この世界の子ども達は大人がする正しいことも悪いこともどう感じているのだろうかとよく考えることがあります。ここの子ども達もいずれは社会に出て、本当にたくさんの出会いが待っている中で、馬の合う人と出会えたり、足を引っ張る人と出会ったりと様々だと思うのです。
逆境に立たされた時こそ学校の礼拝堂を思い出して、心の拠り所として彼らの中に生き続けていってほしいものです。
大人が信仰の争いや戦争を起こしている限り、劣悪な環境のままで大人になり、同じ事をするのではと気になってなりません。子ども達には人に左右されず、自分のその意思と自分を信じて決断していってもらいたいと思っています。僕自身も相手を尊重し切磋琢磨しながら、ただの大人のエゴイズムにならない様に気をつけて支援に努めていきたいと思っているので、これからもご指導頂きたいと思います。
石上館 中三 S・掬泉寮 中三 S
「夏季帰省について」
石上館 中三 S
今回の夏季帰省では後半の一週間で帰省しました。
まず児相に帰ったら時間があるときに二人の児相の先生と養護学校へ行くか高等学校へ行くかなどの話をしてくれました。最初は養護学校へ行くという考えでしたが、寮の先生と帰省する前に話をして将来高校を卒業したときに就職をしたり大学へ行ける幅がせまくなるし行きたい学科がほとんど無いということで高等学校へ行く事を決めて児相の先生にも話をしました。
そして次の日に両親が迎えに来ました。帰ってペットと遊んだり外食をしに行ったり釣りに行ったり楽しい事をしましたが時間を作って進路の話をしていました。高等学校へ行くのか、養護学校へ行くのかという話で僕は高等学校に行くと言いました。本当に大丈夫なのか?距離はどのくらいの学校になるのか?などの課題が出てきました。高等学校に入るなら覚悟しときなさいよと親から言われたりしました。だけど行くと決めたのでこれからどこの学校でどの学科にするか決めていきます。帰省は進路の話も出ましたが楽しかったです。
まだ先があるのでその間に課題を見直して解決したり二学期は理事長になったので他の生徒のお手本となれるように頑張りたいです。
「楽しかった残留生活」
掬泉寮 中三 S
僕は、前半残留で後半帰省でした。なので、残留と帰省、どっちも楽しむ事ができました。その中でも今回は、残留生活の事を発表したいと思います。
残留生活では、いつもとちがう寮で、他の寮の子と一緒にすごしました。残留では、毎日の様に行事があるので、とても楽しかったです。前半で、一番最初の行事は、映画を見に行った事です。そもそも家庭学校ですごしてて、この様な外出は、あんまり無いので、すごく新鮮な気持ちでした。
2つ目の行事は、旭山動物園に行った事です。旭山動物園は、昔よく行ってて、久しぶりに行くと少し変わっていて、楽しかったです。
次に3つ目の行事は、船づりでした。僕は、つりに興味があったので、楽しみにしていました。ですが、薬をのんだからだいじょうぶと思ってましたが、少し船よいしてしまってざんねんでした。でも、良いけいけんになったので、良かったです。
4つ目の行事は、外で焼き肉をした事です。色々な種類のお肉がでましたが、特においしいと思ったのは、牛タンです。他のお肉もおいしかったですが、牛タンとネギ塩ダレのくみあわせが一番おいしかったです。
次が、前半最後の行事で、アスレチックをしに行きました。ですが、雨が降ってしまったので、となりにある世界の昆虫館に行きました。すごく大きいカブトムシなどが展示してありました。ですが、すぐ見終わってしまいました。そして昼ご飯をはさみ、かむいの森に行きました。かむいの森は、中と外で遊ぶ所があり、特に中の遊具にきたいしてました。ですが、運悪く中の方が休みになってました。この日は、予定どおりに行かない事がありましたが、とても楽しかったです。
この様に残留では、色々な行事があって、とても楽しくすごせました。残留でおせわになった先生方ありがとうございました。
理事長 仁原正幹
「ひとむれ再刊一〇〇〇号記念特集号」(令和四年一月二十五日刊行)には、先達の皆さんからもたくさんご寄稿いただきました。北海道家庭学校の歴史と伝統を育み、継承してこられた大先輩の先生方のご協力により、多様性に富み、味わい深い「一〇〇〇号」となりました。
ご高齢の先生方の中には、スマホやパソコンの電子メールなどはお使いにならない方もおられるので、近年メールに頼ってばかりいる無精な編集担当としては、若干の苦労もありました。ご迷惑を顧みず夜分電話で照会させていただいたり、何度もお手紙で返信いただくことになったりで、ご面倒をおかけすることも多々あり、その都度恐縮しておりました。
ただ、手紙や電話等の手間暇のお陰で、昨年の秋から冬にかけて、私は先輩諸兄と一段と濃(こま)やかな交流をさせていただくことになりました。先生方のお人柄に触れ励まされたり、新たな発見や再認識の機会をいただいたりで、私自身貴重で幸せな時間を過ごさせていただきました。
さて、それからわずか半年が経過したばかりですが、この夏は、私にとっては大きな時の流れ、世の移ろいを感じさせられる夏となりました。「一〇〇〇号」で大変お世話になった大先輩のお二人が、急に旅立たれてしまったからです。
お一人は、八月二十日に亡くなられた森田芳雄先生(享年九十六歳)です。森田先生は奥様の多惠子先生とともに楽山寮の寮長を務められ、後年は総務部長として北海道家庭学校の経営の安定に力を尽くされ、大きな貢献をされた方です。
遠軽町内にお住まいだったので、退職後も運動会や創立記念日などの行事にもよく来てくださり、子ども達や職員に親しくお声かけいただきました。二年半ほど前、私の校長最後の頃に、新装成った給食棟に先生と齋藤益晴先生のお二人をお招きして、昼食をご一緒したことがありました。そのときに、一面真っ白な壁と、カラマツの集成材で支えられた吹き抜けの高い天井を見渡されて、「ホテルのようですね」と褒めていただきました。厳しい時代の家庭学校を長年筆頭部長として支えられた先生ですから、もしかして「華美に過ぎるのでは……」とのご批判をいただくのではないかと、実は内心ひやひやしていた私は、安堵するとともに喜んでいただいて嬉しかったことが、今となっては忘れられない思い出です。
折に触れて目を通す「ひとむれ」のバックナンバーから、森田先生の精緻で説得力のある文章を拝読してきた私は、先生がお若い頃に「校内放送」を考案され、送受信機やケーブルなどの設備をご自身で手造りされたことも知っています。広い敷地内にある本館、各寮、職員住宅など全てを結ぶ有線放送のシステムで、毎晩七時の放送会議や入所児童が無断外出した際の緊急連絡等に六十年以上活用され、家庭学校の伝統の一つとなりました。
「一〇〇〇号」の原稿についても編集担当として勝手なお願いを申し上げました。「朗読会」のことを皆さんにもっと知っていただけたらとの思いから、先生が嘗て昭和四十年代の「ひとむれ」に書かれた「朗読会」の起源や成立ちについての印象深い文章を引用する形でまとめていただくことをご提案したところ、快くお引き受けくださったのでした。一月二十五日の刊行日に「一〇〇〇号」をご自宅にお届けし、お礼申し上げたのが、直接お目にかかった最後となりました。
そして、もうお一人の先生です。家庭学校の慰霊祭(八月一日実施)の一週間前の七月二十五日に、旭川で亡くなられた平本良之先生(享年八十九歳)です。平本先生は、奥様の秋子先生とともに長らく柏葉寮の寮長を務められた方です。
平本先生は、非常に専門性の高い本格的な土木工事の作業を通して多くの子ども達を導かれました。家庭学校の敷地内には膨大な長さの地下水路が張り巡らされています。泉の水が全体に行き渡るように、平本先生が研究・設計されて、子ども達と一緒に土を掘って、コンクリを練って、何年もかけて造成されたものです。地下水路で引かれた水は、昔は全ての生活用水に使われ、つい最近までは寮のお風呂の水としても活用されてきました。今でも畑や牧草地の大事な農業用水として、大いに活用されています。
また、地下水路ばかりでなく、グランドから本館脇を通って通学路の横を走る排水溝も平本先生の残されたものです。家庭学校の敷地内は重粘土質という非常に粘性の強い土壌に覆われているため、昔はちょっと雨が降ると道が泥(ぬ)濘(かる)みになって、子ども達や先生の靴底に泥がついき、本館の玄関や生徒玄関が泥で汚れてしまったそうです。平本先生ご指導の下に立派な排水溝が築かれ、雨水の流れが良くなったお陰で、今日(こんにち)私たちが気持ちよく過ごせるようになっています。
平本先生は美術や音楽などの芸術面でも、大変大きな足跡を残されました。その内の一つに先生が独自に考案されたカラーの切り絵があります。先生はそれを授業で教えながら、ご自身でも芸術的な作品を数多く残されました。実は「一〇〇〇号」の口絵の装画については、前理事長の家村昭矩特別顧問にご相談して仲介の労を執っていただき、先生から作品をお借りして掲載に至ったものです。
昔は、ほんの十三年前までは、望の岡分校がなかったので、家庭学校の先生方が小中学生の授業も担当していました。日中は子ども達の生活指導や作業指導に明け暮れていたでしょうから、おそらく子ども達が寝静まった後で、翌日の授業の準備やテストの採点などをされていたのだと想像しています。当時の先生方の超人的な働きぶりには、驚くばかりです。
お二人の先生のご威徳を偲び、心よりご冥福をお祈り申し上げます。