ひとむれ
このコーナーでは、家庭学校の月毎の機関誌である『ひとむれ』から一部を抜粋して掲載しています(毎月上旬頃更新予定です)。
職員が、家庭学校を通じて感じたことや伝えたいことを表しています。是非、ご感想をお聞かせください。
※都合により『ひとむれ』本誌と内容が異なる場合がございます。ご了承下さい。
巻頭言
退所生との関わり
愛のある温かい居場所作りを目指して
初めまして、よろしくお願いいたします
〈児童の声〉
校長 清澤満
八月三日から一六日までの夏季一時帰省が終了しました。全期間帰省できた子、児童相談所に一時保護をお願いし、その間に外出や面会などで親御さんや兄弟姉妹と交流できた子など様々です。新型コロナはデルタ株による感染の急拡大があり不安もありましたが、保護者の皆様には本校からの「一時帰省中における新型コロナウイルス感染予防対策のお願い」に沿って基本的な対策を励行していただいた結果、帰省後の抗原検査では全員が陰性を示し一安心しました。しかしながら、全国的には若年層への感染が拡大している状況ですので、本校としても引き続き対策の徹底を図っていきます。子ども達へのワクチン接種についても保護者から同意をいただき、遠軽町と連携しながら準備を進めているところです。
今回の帰省に関する保護者アンケートを見ると、子どもが逞しくなった、落ち着きが出てきたなど好印象を受けた方が多かったようです。家の手伝いは洗濯や掃除のほか、弟妹の面倒をみてくれて助かった、自分で何が必要か感じ取って助けてくれるようになり成長を感じた等の声が寄せられました。一方で食べず嫌いやはっきりした口調で喋らないことに今一つの成長を期待する声もありました。自由記述の欄には、短期間に大きく成長したと感じた我が子に、親の自分が追いついていないと感じたという方や、自立も大切だが、人への思いやりや恩(感謝)が一番大切と書かれた方もおられました。私達はこうした様々な想いや期待に励まされると同時に、気を引き締め直してしっかりと子ども達の育ちを応援していかなければならないとの思いを強くしました。
さて、一番大切なのは「思いやり」との言葉をヒントに、二二日の校長講話では礼拝堂に集う子ども達に「思いやりの心」について話すこととしました。
今日は皆さんにある言葉を紹介しながらお話しします。それは、論語にある言葉です。これまでも論語の言葉を幾つか紹介したことがありますが、今日は、『己の欲せざる所、人に施すこと勿(なか)れ。』という教えについてです。聞いたことがあるかもしれません。今日のお話の参考にした「声に出して読みたい論語」という本の著者である齋藤孝さんによるとこの言葉は小学生に一番人気だそうです。配布した紙に書いておきましたが「自分がされたくないことは、人にもしないように」という意味です。その気持ちは分かるよね。自分がされて嫌だと思うことは、誰だって同じように嫌だと思うんじゃないかな。小学生にも理解しやすいので、人気のある言葉なのだと思います。
この有名な言葉の前には、弟子の子(し)貢(こう)と孔子による次のような遣り取りがあります。『子貢問うて曰く、一言(いちげん)にして以(もっ)て終身これを行うべき者ありや。子曰わく、其(そ)れ恕(じょ)か。』。これは、「子貢がお尋ねした。ただ一つの言葉で一生かけて行う価値のあるものはありますか。先生はこう言われた。それは恕(じょ)だね。思いやりということだ」という意味です。「恕(じょ)」という漢字は普段殆ど使うことがないので私も知りませんでしたが「思いやり」という意味だそうです。そして続けて『己の欲せざる所、人に施すこと勿(なか)れ。』と、「恕(じょ)=思いやり」を具体的に説明しています。自分がされたくないことは人にもしないということは、相手の立場や気持ちになって考えてみて、相手を大切にすることだと分かってきますね。それが「思いやり」なのです。
もし、この「思いやりの心」がなければどうなると思いますか。人に迷惑をかけたり傷つけたり、その人だけではなく皆が嫌な思いをするのではないでしょうか。いじめや差別が起きるかもしれません。「思いやりの心」を皆が持てばいじめなどはなくなっていき、自分にとっても周りにとっても暮らしやすく気持ちの良い生活を送ることができるでしょう。
では、「思いやりの心」を身に付けるにはどうすれば良いと思いますか。私は感謝を感じられる人には自然と「思いやりの心」が育つと考えています。正面の額「難有」の意味を思い出してください。幸助先生は、何事につけても感謝の気持ち「有難い」を持つことが大切であり、特に困難「難有り」を努力で乗りこえた時にわき上がる満足と喜びは、自然に「感謝の気持ち」を生み出すと説きました。 二学期が始まりました。「感謝の気持ち」を忘れずに相手への「思いやりの心」をもって毎日を大切に過ごしましょう。今日のお話を終わります。
噛み砕いて話したつもりですが、果たして心に留めてくれたでしょうか・・・。
後日の朗読会でのことです。発表したI君が、木元先生からのコメント(よく頑張っているとの評価)に対しての感想を求められた際、「感謝しています。みんなに感謝しています」と述べたのです。夕食時、寮担当職員がI君に尋ねたところ、事前に考えていた訳ではなく咄嗟に出てきた言葉だったと答えたとのこと。私は、私の話が頭の片隅に残っていたI君が、自分のできることが増えたことに対して先生や仲間への「感謝の気持ち」を素直に表してくれたに違いないとこの言葉を受け止めました。その気持ちが「思いやりの心」を育みます。
自立支援部長 楠哲雄
去年の夏、ピンチヒッターとはいえ5年振りに寮舎を担当し、昨年度末までの半年間の間に4人の子どもが退所した。そのため今年度は久し振りに元寮長として関わる子が出てきた。家庭学校では退所後の事後指導は寮長が家庭支援専門相談員と連携を取り定期的に行っている。遠方の子が多い為、電話で保護者から生活状況を聞き取ったり、電話越しに子どもを励ましたりするぐらいの事しかできていなかったが、一時帰省の送迎に合わせて退所生の地元に行く機会を作り3人の退所生と顔を合わせることができた。
そのうちの一人であるN君は養護施設からの措置変更で入所したが、退所のタイミングで保護者の受け入れ態勢が整ったため家庭復帰となった。私が約束の時間に訪問するとN君は2階の自室にいたようで弟に声をかけられて階段を下りてきた。N君とおよそ5ヶ月ぶりのご対面となった。施設にいた頃よりも表情が柔らかく落ち着いた雰囲気であった。N君は私の顔を見るなりどのような顔をしていいのか少々戸惑うような感じであったが、家庭や学校での様子を聞かせて貰っているうちに以前の様子に戻り、入所していた頃のように話しをするようになった。中学校では得意な教科である数学と理科を頑張っていること。学校の友達と仲良くしていること等を聞かせて貰った。中学校卒業後は高校へ進学したい気持ちや地元のラグビーチームに入って体を動かしたいという希望も持っていた。最後に家庭学校で採れた野菜を渡すと喜んでくれた。後日、母親から私へ相談の電話があった。N君が以前と同じ問題を起こしたためどのように対応したら良いかという内容であった。母親は本児が施設内で問題を起こした時の対応を参考にしたいということで、入所している時の対応等話をした。母親に児童相談所への連絡を勧めるが、母親としては子どもが施設に戻り一緒に住めなくなる等の考えから連絡することに躊躇していた。家だけで問題を抱え込まない事、学校等周りの理解と協力を得るためにも母親に児童相談所への連絡を勧めた。母親としても気持ちが整理できたようで、児童相談所に連絡することを決めて対応を終えた。私の方からも児童相談所の担当者に連絡を入れるが、早速母親から担当に連絡が入っていた。先日会った時に良い表情をしていただけに残念な知らせであったが、家族だけで問題を抱え込まずに児童相談所に繋がった点では良かったと思えた。今後も保護者と連絡を取り続け、いざという時に相談してもらえるよう関わっていきたいと思う。
退所して1年が経つ頃になると大半の子と連絡が取れなくなるため、その後は子どもからの連絡待ちになる。全く連絡して来ない子もいれば、思い出したように突然連絡してくる子もいる。5年前に退所したM君は連絡が途絶えていたが、2年ほど前から定期的に連絡をくれるようになった。M君は私が掬泉寮を担当した最後の年に退所させた子であった。M君は卒業後に進学せずに父親の意向に沿って父親と同じ職場で働き始めたが次第に関係が悪くなり家を飛び出した。その後の生活も不安定になり自立援助ホームに入ることになったが、そこでも落ち着くことが出来ず問題を起こしてしまった。その後連絡が途絶えたが、2年前から時々家庭学校に連絡して来るようになった。一時は札幌で頑張っていたようだが、その次の連絡を受けた時には東京に移っていた。次第にM君から定期的に連絡をくれるようになった。仕事やボクシングを頑張っていること、彼女ができたこと等、時には自信あり気に、時には歯切れの悪い口調で、良くも悪くも連絡して来るようになった。そんなM君から出稼ぎで北海道に戻って来ていると連絡が入った。せっかくの機会なのでお互いの休みを合わせて本児の地元で会うことにした。約束の日、私は3時間半かけてM君に会いに行った。5年振りにあったM君は私と顔を合わせると照れるように笑顔を見せていた。卒業した頃は少々あどけなさが残る子であったが、久し振りに会うM君は精悍な顔つきの逞しい青年になっていた。卒業してからの話や入所中の話等、話があちこちに飛びながら色々な話をしたが、将来は人助けができることがしたいと夢を持って頑張っていること、そして来年の2月に生まれる子どものため父親としての役割を果たしたいと言っていた。おおよそ3時間程話をしたが、無事に半年間の出稼ぎが終わることを祈りM君と別れた。その後、私は遠軽に戻る為に車を走らせたが、M君との話の中で「中学校卒業する時に自分もみんなと同じように高校に行きたかった」と言った言葉が頭から離れなかった。M君の進路は入所前から半ば決まっており保護者が強引に決めた感じではあった。M君も表面的には父親の意向に合わせていたため自分の気持ちを表に出すこともなく就職に決まったが、本児の胸の内は違っていた。M君の意向を十分に汲み取れずに後悔させてしまった点は悔いが残る。あの時どのような関わり方をしたら本児の意向を汲みとれただろうか。ずっと同じことを考えながら車を走らせた。
児童生活指導員 平野みほろ
4月の下旬より北海道家庭学校に入職しました平野みほろと申します。入職する前は神奈川にある東海大学医学部付属病院の神経内科で7年間看護師をしていました。なぜ看護師をやめて北海道家庭学校に入職したかというと、夫の家庭学校に対する熱意に惹かれたというのが正直なところです。そのうち私も家庭学校で働き子ども達の成長を見守っていきたい、将来夫と夫婦で寮を持ち子ども達に心温まる居場所を提供したいと思う気持ちが大きくなっていきました。そこで、夫婦制で寮を持ち子ども達を支援するために入職することになりました。今後、心温まる居場所を提供するためにどのようなことをしていくかや思いについて書いていこうと思います。
まず初めに少し経歴について話したいと思います。私のいた病院は「愛の看護」という理念を掲げていました。私は東海大相模高校という東海大学の付属高校にいました。その時から、看護師になりたい、東海大学病院に入職し「愛の看護」を実践したいと強く思うようになりました。そして、東海大学病院に入職し神経内科に配属されました。私のいた神経内科はドラマにもよく出てくる難病の患者さん、ALS(筋萎縮性側索硬化症)、脊髄小脳変性症、脳梗塞、多系統委縮症の患者さんが多く入院していました。その中でもALSの患者さんとの関わりについて話したいと思います。ALSの患者さんの病気は体の筋肉が徐々に委縮し最終的には全て動かなくなってしまう病気です。そのような患者さんにも「愛の看護」は提供できるのか日々試行錯誤して関わっていました。まず、そもそも「愛の看護」とはなんなのか。私が思うに抽象的ではあるのですが、温かい気持ち、思いやりを持って寄り添い支えることだと思っていました。ALSの患者さんは徐々に体全体が委縮し最終的には全て動かなくなってしまいます。意思疎通をはかるコミュニケーションも初めは話すことで行うことができるがそのうち口、終いには目の動きでコミュニケーションをはかることが主になります。その中でも愛の看護は実践できるのか日々模索しました。目だけの動きでのコミュニケーションをはかるには忍耐と意思を読み取ろうという意欲、受け入れる気持ちが必須となってきます。患者さんも目しか動かせない中、必死にこちらに意思を示してきます。こちらも意思を受け取るために文字盤やパソコンを駆使して受け取ります。中には、時間がかかり多忙であるためにコニュニケーションを怠る看護師もいました。その時点で彼ら患者さんの意思の表出は途絶えてしまいます。患者さんの家族もそうです。患者さんや家族は看護師の私たちにSOSを出している時もあります。そのようなことにいち早く察知し対応していかなければいけません。私は家族看護というものも大切にしていました。看護師というと患者さんだけ看れば良いと思われがちですが、実際は家族を含めて初めて看護というと思います。家庭学校の子ども達とご家族も同じだと思っています。家族が不安定(虐待等)だと子ども達も不安定なことが多いです。精神的にも揺れ動くことが多いと思います。子どもも家族もお互い影響し合う、相互作用が働いています。そのような状況の家族にはそれぞれ丁寧なアプローチが必要だと思います。家庭学校ではそのような関わりが丁寧に行われていると思います。先生方は、子どもに寄り添い、家族にも密に連絡を取り合い多くの関わりをもっています。そのような積み重ねがとても大事だと思います。
続いて家庭学校で「愛の看護」の代わりに「愛のある居場所」を築くためにどうすれば良いかということを書きたいと思います。愛のある居場所を築くのは簡単なことではないと思います。ここでの愛とは何かというのはとても難しいと思います。先ほど述べたように、ここに来る子ども達は不安定な家庭で育った子も多くいると思います。大人に対して不信感を持ったり人間自体に失望している子もいるかもしれません。そのような子達はまず、言葉がけはもちろん静かに寄り添うだけでも心のわがたまりを解くカギになると思います。そのほかに浮き沈みのない一定の愛情、穏やかな環境、全人的に受け入れる心構え、温かい笑顔。それらは必須になって来ると思います。私は児童自立支援についての知識がない為、知識も増やしていく必要があると思います。その為には先輩の先生方に資料を頂いたり、自身で調べたりしていく必要があると思います。まだ現時点では輪休寮での対応しか出来ていませんが、将来的には夫婦で寮を持ち、このような気持ちを持って愛のある居場所作りを実践していきたいと思います。
養護教諭 田牧夢実
初めて私が家庭学校の門をくぐったのは今年の春…ではなく、実は5年ほど前の冬のことでした。その後にもう一度、雪のない季節にも訪ねたことがあります。どちらも、前任の戸松先生からご招待をいただき、近隣市町村の養護教諭の方々と家庭学校を見学しました。
ご挨拶が遅れました。4月から養護教諭として望の岡分校に異動して参りました、田牧と申します。出身は本州で、北海道暮らしを始めて5年目です。北海道暮らしを始めた年に存在を知り、ご縁があって見学をした家庭学校でまさか自分が働くことになるとは…人生どんなことが起こるかわからないものだな、と思っています。
恥ずかしながら、数年前の二度の見学は8割ほど観光感覚でした。豊かな自然、厳かな礼拝堂、立派な博物館。「歴史も長くて、どうやらここはすごいところのようだ(詳しいことはわかってないけど…)」とただただ感心だけして帰りました。正直、児童自立援施設はどういうところなのか知りませんでしたし、その頃の私には知ろうとする考えもなかったのです。
そして、やってきた今年の4月。あの「どうやらすごいところ」で働く者として初めて門をくぐりました。そこからは初めて見聞きするものばかり。作業班?蔬菜ってなんだ?花見の会!?誕生会が毎月ある!?相撲大会も釣り遠足もある!?わっ、牛もいっぱいいる!でも子どもは男の子しかいない!…等々、挙げたらキリがありません。今もまだ、戸惑い、驚きながら勉強させていただいている毎日です。児童自立支援施設についても、日々の職務を通してほんの少しその意義や役割がわかってきたように思います。家庭学校で勉強させていただいていることは今後の教員人生に役に立つし、役立たせていかなくてはならないという気持ちにもなっています。
この原稿を執筆している夏休みの始めに思うことは、養護教諭の私には何ができるのだろう?ということです。養護教諭は世間的に言う「保健室の先生」です。私はその「保健室の先生」を志しこの職に就きました。さて、この特殊な環境で私には何ができるのだろうか…。本館から出ると、夏休み中の子どもたちが寮の敷地でキャッチボールをしているのが見えました。いつも元気で礼儀正しく、人生で一番「こんにちは」の挨拶と「ありがとうございます」のお礼を子どもたちから聞けた一学期でした。毎日誰よりも体を動かし、汗を流し、礼儀を身に着け成長していく子どもたちです。…私に何ができるかは、そんな子どもたちと一緒に過ごしながら考えていくことにします。
今回の異動に伴って引っ越しをしました。以前住んでいた部屋の片づけをしていると、数年前に礼拝堂の前で撮った記念写真とその際にいただいた家庭学校の写真の葉書が出てきました。数年前の「どうやらすごいところ」という曖昧な表現ではなく「家庭学校ってこんなところなんだよ」とたくさんある素敵なところが言えるように、これからの日々も大切に過ごしていきたいと思っています。改めて、皆様、よろしくお願いいたします。
石上館 中二 S・掬泉寮 中二 R
夏残留について
自分にとっては初めての夏残留で少しだけ緊張してしまったけれど、とても思い出に残る忘れられない夏残留でした。
一学期が終わり、他の生徒のほとんどが実家に帰りましたが、自分はここに入ったばかりということもあって、残留寮で過ごすことになりました。
残留寮での生活が始まると、他の寮の生徒とも一緒になり最初はあまり話をすることができませんでした。ですが慣れてくると自然に話せるようになっていました。
在留寮では毎日行事があって、楽しいことがすごく多かったです。楽しかったことは色々ありましたが、残留寮の先生と一緒にいる生徒と車に乗って遊びに行ったり、寮の周りで遊んだりしました。毎回先生が遊びの内容を考えてくれて、それが嬉しかったし、次は何があるのかも楽しみでした。港に行き船に乗って釣りをしたり、遠くのアスレチック公園に行って体を動かして温泉に入ったり、体育館に行ってバドミントンや先生が考えてくれたミニゲームをしたりしました。他にも映画館に行ったり、真夏なので外で流しそうめんやスイカわりなどもして楽しみました。自分は今まで学校に行けていなかった時がすごく長かったので、みんなと話をしながら遊ぶことはすごく楽しいと感じました。そして、みんなも楽しそうにしていました。本当に楽しかったけれど、自分の体力を使わなければならないゲームとかは疲れてしまう部分もありました。辛かったことと言えば、船に乗って釣りに行き海の上で船酔いしてしまったことです。
残留寮は他の寮の生徒もいるので、喧嘩などがあってあまり楽しくないこともあると思っていましたが、思ったよりそんなことはなくて、みんなが明るく過ごしていて、ほとんどが楽しいと思えることばかりでした。
残留寮生活は中盤や終盤になると、自分は体力が弱いので疲れが出てしんどくなることが多くなってしまったけれど、毎日が楽しいと思えることで元気になれました。
いつもとは違う経験のできる残留寮の生活はあっという間で、もう少し長ければよかったなあと思うくらいでした。
楽しかった夏帰省
ぼくは、八月一〇日から八月一三日まで児童相談所で過ごし、八月一三日から八月一六日まで計七日間帰省をしました。児童相談所では裏にある公園でマラソンをしたり、パークゴルフをしたりしました。マラソンは得意だったので楽しかったです。パークゴルフでは、あまり上手にできませんでしたが、とても楽しかったです。そして、児童相談所にお母さんが迎えに来てくれて、家に帰りました。その日の夕食は焼き肉を食べました。とてもおいしかったです。次の日は、朝に家を出て家族で旭川のラウンドワンに行きました。ぼくはまず、バッティングセンターで、バッティングをしました。最初は、八〇キロのソフトボールを打って、その次に九〇キロの軟式ボールを打って、どんどん球速を上げて打って、最後は一三〇キロのボールを打って終わりました。ホームランの的には当たりませんでしたが、とても楽しかったです。その後はストラックアウトやテニス、キャッチボール、サッカーなどをしました。とても楽しかったです。カラオケをしたりプリクラをとったりもしました。その後はゲームセンターでUFOキャッチャーで遊んだり、メダルゲームをしたりしてとても楽しかったです。そして、ホテルに行って荷物を置いたら、外のお店に行ってしゃぶしゃぶを食べました。とてもおいしかったです。次の日は、美瑛町に行って青い池をみました。本当に青色ですごかったです。そして。家に帰る時にケンタッキーを買ってもらって、家で食べました。とてもおいしかったです。今回の夏帰省で家族とケンカもせず、仲良くできたし、お父さんやお母さんから、色々とほめてくれてとてもうれしかったです。本当にとても楽しかったです。また冬帰省したいなあと思いました。