ひとむれ
このコーナーでは、家庭学校の月毎の機関誌である『ひとむれ』から一部を抜粋して掲載しています(毎月上旬頃更新予定です)。
職員が、家庭学校を通じて感じたことや伝えたいことを表しています。是非、ご感想をお聞かせください。
※都合により『ひとむれ』本誌と内容が異なる場合がございます。ご了承下さい。
巻頭言
墓参と慰霊祭
職員となりました
がんぼうホームに勤務して
<校外通信>
〈児童の声〉
校長 清澤満
お盆は、日本に古くから伝わる風習の一つです。古里を離れて暮らす人は、お盆の帰省に合わせてお墓参りされることも多いでしょう。
家庭学校では毎年子ども達の夏帰省が始まる前に墓参と慰霊祭を行います。慰霊祭の祭壇には、校祖留岡幸助先生と第四代校長の留岡清男先生の写真を中央に配し、その周りを家庭学校で育った花や、穫れた野菜と果物でいっぱいにするのが習わしです。しかし、祭壇を彩る大輪の花を家庭学校で栽培するには今一つ私達の技術が不足しているので、今年もまた家庭学校旧職員の齋藤益晴先生から、ご自宅で立派に育てておられるダリアなどのお花をたくさん頂戴しました。齋藤先生にはいつも助けていただいており、本当に有難いことです。
八月一日。朝の墓参は好天に恵まれました。寮を代表した子ども達と職員でお墓の汚れを落とし、頂いたお花を供えました。子ども達も家族とお墓参りの経験があるのでしょう。墓前で校歌を斉唱した後、皆神妙な顔をして頭を垂れました。
午後の慰霊祭は礼拝堂が工事中のため体育館を会場としました。今年は物故者がお二人増え、頂いたダリアなどで飾られた祭壇の上には、理事五十一名、職員七十五名、生徒百二十七名の名前が掲げられました。本校の永い歩みが感じられます。仁原理事長から物故者を偲んでお話しいただいた後、酪農担当の蒦本(わくもと)広美先生によるピアノ伴奏の優しい音色を耳にしながら、一人ずつ献花を行いました。
先人の足跡(そくせき)にふれた一日が、静かに過ぎていきました。
ここ遠軽の夏も思わず「暑い!」と口にしてしまう日が何日か有りましたが、西日本や関東甲信地方を中心とした今年の暑さは「命の危険を感じる猛暑」と連日報道され、観測史上最高とか記録的な暑さといった表現が飛び交っています。私の感覚では少なくとも十年以上前から猛暑が話題となり、年を追うごとにその厳しさが増しているように感じます。「かつて経験したことのない猛烈な雨」しかり、これも地球温暖化が一因のようです。こうした異常気象も、今や日常と考えるしかないのでしょうか。
新型コロナウイルス感染症は、感染経路不明者の割合や家庭内での感染例が増加したことなどから、お盆の県跨ぎ帰省の是非をめぐって国や地方自治体の長から様々な発言がありました。夏帰省を控えた本校児童の帰省先は皆道内ですが、保護者の下で感染予防対策をしっかり取っていただくようお願いし、予定どおり一時帰省を実施しました。子どもの多くが本校での経験を活かして、家の手伝いなどを頑張ったようです。親御さんや児童相談所の先生からは子ども達の逞しくなった姿に成長や変化を感じたとの言葉をたくさん頂きました。
帰校時に軽い熱中症の症状を呈した子どもがいましたが数日で寛解し、帰省終了からほぼ二週間が経過した現在、体調不良を訴える子どもはおらず、ひとまず安心です。
私はお盆の十三日に先祖が眠る納骨堂と妻の実家の墓参りを済ませました。早い時間帯であったからかもしれませんが、納骨堂ではほかにお参りされていたのは二組だけ、墓地にはそれなりの人出がありましたが、いつもとは何かが違うと感じました。「そう言えばカラスが全然いなかったね」と妻。確かにお供え物やお花がカラスによって散らかされている様子はなく、飛び回るカラスの姿もありませんでした。帰省控えからお墓を訪れる人が少なく、寂しくしているお墓を見たカラス達が、いつものような悪さを諦めて飛び立っていく光景を思い浮かべてみました。
この時季、例年であれば、自宅前の公園に櫓が組まれ、まだ明るいうちは「子供盆踊り唄」が、そして暗くなったら「北海盆唄」が(いずれも北海道の定番曲です)手拍子よろしく流れるのですが、今年は残念ながら盆踊りは行われませんでした。また、夏休みに合わせて始まる朝のラジオ体操も中止です。スタンプカードを首からぶら下げ、あちこちから集まってくる子ども達の姿は、目の前の公園にはありません。
新型コロナウイルスは、長い間に染みついた私達のこれまでの生活習慣や行動様式を変容させました。必要な間隔を取りながら会話を控えて取る食事はなんとも味気ないのですが、暫くはこうしたことが当たり前の日常となるのでしょう。
良い面もあります。車社会に付きものの交通事故や渋滞の減少。在宅勤務の推奨によりDV被害や児童虐待の増加報道ばかりが目に付く中、増えた家族団らんの時間を大切に過ごす人達。コロナ禍での工夫した生活を楽しんだり、新たな趣味を見つけた人も多いようです。
テレビでは、新型コロナウイルス感染症への対応をめぐって、感染対策優先か経済活動の再開かで侃々諤々(かんかんがくがく)の議論が繰り返されています。
どうも私達は欲望を満たすために効率性や利便性を追求し過ぎた結果、大切な何かを見失っていたような気がします。世界に拡散した新型コロナウイルスは、疲弊した地球に平然とあぐらをかく私達に対し警鐘を鳴らしているのではないかと思われてなりません。
科学の力を結集しウイルスとの共存が叶った後の私達は、生きる価値を何に見出し、どんな社会を創っていこうとするのか、コロナに試されているのかもしれません。
事務局長 安江陽一郎
八月一日(土)午前八時四十分、墓参を行う清澤校長、職員、三寮それぞれの子ども達の代表関係者が車に便乗して向陽寮の前に集まり、学田にあるお墓に向かいました。
この日は北海道の夏といえるような清々しいお天気で、しかも適度な温度と時折吹くそよ風もあり、札幌から駆けつけた仁原理事長は、一足早く歩いてお墓に向かいました。乗車のお話もしたのですが、校長職を退き理事長となり、脚力維持のため歩いて行くとのことです。
しかし、歩いて行くその姿を見て、仁原理事長は物故者の方々のご労苦や、墓参が何時から行われてきたのか分かりませんが、家庭学校の関係者が幾度となく通ったであろう道を一歩一歩踏みしめようとしていると私は感じました。
また、墓参にあたっては、子ども達が育てた花々を用意してお墓に飾るのが慣例となっているようですが、花の出来映えはその年により違いがあり、今年も元職員である齋藤益晴先生にお願いをして、丹精込めて育てられた色とりどりなアスチルべ、リアトリス、ノコギリソウ、キキョウ、ルドベキア、ダリアとともお供えさせていただきました。齋藤益晴先生には、この場をお借りしまして、改めてお礼を申し上げます。ありがとうございました。
清澤校長からは、それぞれの物故者のお名前、北海道家庭学校とのゆかりを簡潔明瞭に説明がありました。また、墓参に参加した者は、お墓ごとに校歌斉唱を行いました。
ここで、読者の皆様には、既にご承知とは存じますが、改めて物故者のご説明をいたしますので、在りし日の姿を偲んでいただければと思います。
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鈴木良吉先生(没八十一歳)・ケイ先生(没九十九歳)夫妻。大正三年から四十八年間在職。大正三年六月に三人の生徒を連れて着任し、最初にこの地に住んだ職員(先遣隊)。後に副校長。理事。裁判所調停委員等多数の公職を務める。厚生大臣表彰等多数受賞。ケイ先生(校祖留岡幸助先生の姉の子:姪)は良吉先生の一か月後に着任。教母。後に総務部で務める。
阿部喜平先生(没五十二歳)。大正七年から十一年間在職。獣医。畜産部主任。酪農部の基礎を築く。
寺崎好(このむ)先生(没八十九歳)・かつ先生(没七十七歳)夫妻。大正十年から四十八年間在職。植林、暗渠堀り、井戸掘り等の土木工事を担当後、養鶏部長、向陽寮寮長・寮母。引退後、博物館の整理と案内に携わる。かつ先生は、ひとむれの原稿作成作業を長く務める。
横山義顕先生(没七十四歳)・せつ先生(七十四歳)夫妻。大正十年から四十七年間在職。副校長。機関誌「一群」を創刊。掬泉寮寮長・寮母。果実部長として子ども達のために各寮の周囲に梨の木を植える。
大泉栄一郎先生(没八十一歳)・ヒサ先生(八十七歳)夫妻。昭和二年から五十年間在職。掬泉寮寮長・寮母。果樹栽培指導に尽力する。
岸本種次先生(没六十五歳)・斐(よし)先生(没八十五歳)夫妻。昭和四年から四十二年間在職。総務部長兼経理部長。社名淵産業組合の結成に参加。斐(よし)先生は、図書館の管理を務める。
甲田良作先生(没八十歳)(妻の節子先生はご健在)。昭和二十一年から三十二年間在職。鶏養部の後、川口先生から平和寮を引き継ぐ。
川口千代子先生(没八十五歳)(夫の正夫先生はご健在)。昭和三十一年から二十二年間在職。平和寮寮母。酪農部を務める。
加藤正志先生(没八十七歳)(妻の和子先生はご健在)。昭和三十一年から三十三年間在職。石上館寮長。桂林寮寮長。総務部長。山林部長を長く務める。展示林を始める。
平本秋子先生(没七十一歳)(夫の良之先生はご健在)。昭和三十四年から三十三年間在職。柏葉寮寮母。軍手部の指導を行う。
(順番、内容などに不都合あればお許しください。)
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子ども達は、馴染みのある向陽寮、楽山寮、掬泉寮等の寮の名前や現在の作業班の前身となっている山林部、酪農部という言葉に耳を傾けていました。北海道家庭学校の百年という歴史を、心の一ページとして刻んだことと思います。
続いて、午後二時からは、体育館において令和二年度慰霊祭を実施しました。慰霊祭は、望の丘分校の吉村憲彦教頭、関根春信理事にご参列いただき、物故者への黙祷、仁原理事長の講話、校歌(奏楽 蒦本(わくもと)広美先生)を一番から四番まで斉唱した後、子ども達が育てた花と齋藤益晴先生からいただいた花を一人づつ献花し、厳かな中執り行いました。
七月中旬から礼拝堂改修工事を行なうこととなった都合上、体育館での慰霊祭の実施は、百年余の歴史の中で初めてと聞きます。関係者の皆様には、ご理解をお願いします。
なお、礼拝堂改修工事の主な内容は、屋根と外壁の塗装、内壁の一部補修と塗装、床張り、老朽化が著しい土台等の一部補修となっています。
コロナ禍がなかなか収束しない中で、北海道指定有形文化財(平成二十七年指定)である礼拝堂の維持のため、最低限の改修工事を行っています。
改たな礼拝堂を、機会がありましたら是非一度ご覧ください。お待ちしています。
運営管理者 安江陽一郎
ご挨拶が遅れて申し訳ありません。本年四月一日から、自立援助ホーム「がんぼうホーム」の運営管理者となりました。よろしくお願いします。
今号は、社会福祉法人北海道家庭学校が運営する児童自立支援施設(北海道家庭学校)と、自立援助ホーム(がんぼうホーム)の違い等を改めてご紹介します。
先ず、児童自立支援施設は、不良行為をしたり、するおそれのある児童や、家庭環境等から生活指導を要する児童を入所させ、必要な指導を行って自立を支援する児童福祉施設です。現在、定員八十五名のところ二十四名が生活しています。
次に、平成二十九年に開設した自立援助ホームがんぼうホームは、留岡にある北海道家庭学校からは五キロメートルほど離れた市街地にあり、現在、定員六名のところ二名が生活しています。
施設設置の法的根拠は、児童福祉法第六条の三第一項および第三十三条の六にある児童自立生活援助事業であり自立援助ホームと称しています。
自立援助ホームは、何らかの理由で家庭にいることができなかったり、働かざるを得なくなったことにより、原則として義務教育終了後の十五歳から二十歳までの子ども達が生活する施設です。
六十年ほど前に始まったこの施設(制度)は、当初は他の施設を出されることとなった戦災孤児の居場所、いわゆる子どもシェルターとして、食事や床の確保、仕事を共に探すことを担っていました。
最今は、全国的な傾向として、ネグレクトや虐待による入所も多くなってきているといわれ、社会環境の変化に対応すべく制度の充実が図られています。子ども達に対しては、戦後における役割に加えて、第一に虐待の傷を癒やし大人との信頼関係の回復に重点を置き、その後に安定した人間関係を構築する。第二に収入の確保を図りながら自ら生活を維持・管理できるよう導いていくように援助することが求められています。
現在の北海道内における自立援助ホームの設置状況(北海道ホームページ調)は、十八施設となっています。内訳は、当別町一施設、北広島市一施設、新冠町一施設(休止中)、旭川市三施設、函館市二施設、釧路市三施設、遠軽町一施設、札幌市六施設となっており、都市や地方に関わらず設置されています。
自立援助ホームへの入居手続きは、児童福祉法第三十三条の六第二項では、児童自立生活援助の実施を希望する者が、申込書を都道府県に提出しなけばならないと定められています。また、自立援助ホームの運営者が、希望者に代わって申込書の提出を行えることも定めています。具体的な手続きとしては、本人の申し込みまたは当該ホームが代行して児童相談所に申請を行い、児童相談所が当該ホームに受け入れの可否を確認し、委託措置を決定することで入居になるとされています。
ご迷惑をおかけすることもあるかと思いますが、皆様の温かいご支援ご協力をお願いします。
児童生活指導員 伊東睦子
今年四月から自立援助ホーム「がんぼうホーム」の職員として採用になりました伊東睦子です
平成二十五年三月から同年五月までは家庭学校の給食調理員として採用していただき、同年六月から平成二十八年三月までは本館の栄養士としてお世話になりました。給食棟での業務が大半を占め、児童とゆっくり向き合うことがありませんでした。また、今までこの職種の経験や知識もなく不安が尽きませんが、ホーム長を始めスタッフの皆様から指導いただきながら、児童自立の手助けができればと思っております。どうぞ宜しくお願いします。
がんぼうホームは平成二十九年一月に開設されましたが、当時栄養士として働らいていた私には「一人で生活する為に働いて貯金をする。生活リズムを整え、自立の準備をする場所」程度の認識しかありませんでした。ですからホームに居る児童は、フルタイムで働き目標金額まで貯金し、就職先をみつけ、アパート契約をして退所していると思っておりました。ところが、過去三年間の様子は、ひとむれ令和二年六月号で清水ホーム長が記載したとおり、就労自立は難しい状況のようです。
本来、自立援助ホームは「家庭のない児童や家庭にいることができない児童が入所して自立を目指す家」「学校に行くより、就労する児童のための家」として設立されました。しかし現況は、実の両親がいない児童の入所は稀で、ネグレクトを含む虐待、児童自立支援施設を退所した児童、児童養護施設で問題をおこし退所させられた児童、軽度知的障害児、発達障害児、不登校や高校中退児童、最終学歴が中卒児童の入所が増えており、全国的にも同じ傾向が伺えます。
現在、当ホームに入所している二人の児童も最終学歴は中卒です。うち一人は高校中退ですが、高卒認定試験受験準備をしています。もう一人は、躓(つまず)きながらも遠軽高校定時制に通っています。できるならば二人には、最終学歴「高卒」と記せるよう頑張って欲しいです。なぜならば中卒では正社員としての就労が難しいからです。アルバイトですら言わずとも「高卒」が雇用条件に含まれています。事業者の少ない地方自治体での働き口を探すのは困難です。ですから、未来ある児童のため、「高卒」となれるようサポートしたいと思います。
五か月勤務して、私のできる支援は何だろうと考える時があります。生活指導は行なわないし拘束制もありません。目についた事、気になる事を指摘するのは簡単ですが、本人が気づき、気にかけ実行し継続する事が重要だと思うので、できるだけ見守る支援を心掛けようと思います。勉強不足で、皆様にご迷惑をおかけすることもあるかと思いますが、児童が前を向いて歩めるよう微力ながら力添えできるようになりたいと思います。
評議員 佐藤京子
コロナウイルスはなかなか収まりませんが、緑深い森に守られて、家庭学校の生徒たちは、感染に注意しつつも、学習と様々な活動に勤しんでいます。
しかし、ちょうど百年ほど前、社名淵分校と周辺の農村を襲ったインフルエンザ(流行性感冒)の脅威を忘れることは出来ません。
一九八〇年に北海道が発行した『新北海道史』では、一九一八年の年表に「この年 スペイン風邪、わが国に伝わり、翌年にかけて大流行(死者十五万人に及ぶ)。」と記されているのみ。関連資料も少なく、歴史的には余り注目されてこなかった大事件でした。
当時国民の保健衛生を担っていた内務省衛生局の記録によりますと、インフルエンザは一九一八年三月に発生し、非常な速度でヨーロッパ・アジア・アメリカ・オーストリアその他全世界に広がり、日本では同年八月から一九二一年七月まで、三回にわたって各地で大流行しました。その間の患者数は、約二千三百八十万人、死者約三十八万八千七百人とされています。(スペインでの大流行が広く知られて「スペイン風邪」と呼ばれました。スペインが発生源という意味ではありません。)
社名淵分校では、一九一八年とその翌年の第一・二回の流行の影響は受けませんでしたが、第三回目の一九二〇(大正九)年の流行に襲われました。
その年の農場事務所と石上館の『日誌』等によれば、恒例の新年の行事が終わり、仕事始めも順調に進む分校に、どこから入った情報であったのか、一九二〇年一月十五日の日記に「流行性感冒当地方ヘ侵入、大ニ警戒ヲ要ス」と記されています。
十七日には掬泉寮寮母が風邪で発熱、二十八日には寮長品川義介が風邪で街から医師を呼び、翌日流行性感冒と診断されたのが、始まりでした。二月にはいると分家(小作人)たちにも広がり、教師や生徒は、分校の冬の作業、日曜学校や青年たちを集めての夜学校・冬期学校等の経営に加えて、遠軽からの医師の送迎、一家で床についた家族の見舞いや世話、重体になれば馬そりを駆(か)って入院させるなど、忙しく活動することになります。社名淵に診察所が設けられて地域医療を担うようになるのは昭和四年のこと、それまでは遠軽市街の開業医を頼るほかなかったのです。
二月二十一日、恵の谷の分家当主が感冒で死去し、皆を驚かせました。入院中の一家中妻が亡くなった時は、遠軽から遺体を引き取り、翌日亡くなった他の分家の少女と共に、樹下庵で通夜、葬儀を行いました。
二月中の日記には「流行性感冒予防注射」が実施されたと記録されていますが、その後は掬泉・石上両寮の生徒を中心に流行が続きました。四月には、生徒は絶対患者の部屋に入れないよう注意することとし、青木医師と村上医師によって、高熱の六名にワクチンが打たれています。当時も予防注射やワクチンが存在していたことに少し驚かされます。 感染の予防には現在と同じく、密居を避けること、マスク使用などが勧められています。
分校では家庭学校東京本校に看護婦派遣を要請。四月末、看護婦四名が派遣されて、現地の負担も軽減し、事態も収束に向かいます。しかし、その直前の四月二十五日、石上館生徒A君が息を引き取ったことは、家庭学校にとって痛恨の極みでした。彼は穏やかで優しく皆に愛されていた二十才でした。樹下庵での葬儀には分家の人々数十人が出席しています。五月九日には留岡幸助校長を迎えて、礼拝堂で、農場開場以来の物故者のため追悼会が催されました。
四か月にわたる流感との戦いは、分校に大きな打撃を与えましたが、農場開場から六年目にして、本家と分家の人々が懸命に連帯して困難を乗り切った経験は、それまで疎遠であった両者の親睦の情を深めることに大いに役立ち、その後の分校と周辺農村の発展を支えたことと思われます。
石上館 中二S・掬泉寮 中三R・掬泉寮 中二 H・楽山寮 中三Y
きせいのかんそう
石上館 中二 S
ぼくが家にかえってした事やかぞくのみんなから言われた事やこれからのかだいをはっぴょうします。
してきた事は、おとうとたちにおそわりながらしたブレボー。二つ目はかぞくみんなでかいもの。ぼくはあにきといっしょにぼくの好きそうなマンガをさがしていた。みつかったマンガは一は「ガンゲイルォンライン」、二は「いにしゃるD」でした。三つ目はくしろの海へかぞくみんなであそびにいきました。
次にかぞくみんなから言われた事をはっぴょうします。一つ目はかぞくみんなのためにもっとやさしくなりもっと人とのかかわりかたにきおつけて生活してね。
次にこれからのかだいをはっぴょうします。一つ目は朝はやくおきてねむくても作業をがんばる。二つ目はキライなことでもできるだけ自分なりにがんばる。三つ目はすぐイライラしないでいつまでもおだやかに生活する。
残留と帰省の思い出や出来事
掬泉寮 中三 R
僕の残留と帰省の思い出や出来事は、残留中は、遊園地に行ってゴーカートやジェットコースター等に乗りました。とて
も楽しかったです。他の日は、農家さんの所に行ったりもしました。その後にまた遊園地へ行きました。対象年齢が最大十二才だったので遊べませんでしたが、先生とドライブに行きました。とっても楽しかったです。海釣りにも行きました。四時起きでしたが間に合ってよかったです。カレイを釣りに行きました。川釣りを含め、二度目でしたが、二匹釣れました。ですがカレイではありませんでした。フグでした。先生はホタテを釣っていました。船の上で事故があり、少しドキドキしながら終わりました。別の日には、スポーツセンターにも行きました。ロッククライムがあり、ロッククライムの人がいないと出来ないのですが、人がいなかったので卓球を少しやったあと、終わりました。寮内では、色々な遊びをして遊びました。だれよりも調子に乗っていたのではないだろうか?というほど調子にのっていて、無責任な行動が多かったです。そこは反省してます。次は調子に乗らないように気を付けて行動する事で
す。
帰省中は、なぜかピシッとしていました。父と会うのが少し嫌でしたが、会ってみたらまだイメージの何百倍も良い感じでした。妹に会った時は、とても幸せで、その時だけ辛かった事を忘れ、嫌だった事、イライラした思い出さえ良い思い出に感じました。兄ともお話しをしました。姉が勉強に力を入れアメリカ留学目前でウォッ!となりました。アルバイトも始めると言い出し、イヤイヤ。過労死しちゃうからヤメて!と思いました。部活もガンバっていて、バスケ部だと言ってました。帰る時にはクタクタらしいです。五時半くらいにも起きる日があるらしいです。母も元気そうで何よりでした。
帰省・残留
掬泉寮 中二 H
一学期が終わっての帰省と残留。
残留の時僕はみんなと仲良くすごせるかどうか分からなかったけど多くの人とは仲良くできていてちゃんとコミュ二ケーションもとれていたと思います。その中で僕は残留での行事を色々楽しんできました。一番楽しかったのは遊園地でした。友達とジェットコースターに十一回のって、これでみんなに自慢できると思ったけどそれよりのっている人がいると言われてちょっとショックでした。二番目に楽しかったのは船釣りです。朝四時に起きて船釣り場所に行きました。僕は船にのるのが初めてでちょっとこわかったけど船がけっこうゆれていて楽しかったです。それから僕はフグを一ぴき釣りました。はりがしっぽのあたりでひっかかっていました。フグがふくらんでいてカワイかったです。これで残留の発表は終わりです。
次に帰省の時僕は帯広まで車で行きました。最初は車よいになるかと思ったけどならなかったです。車の中でだいたい四時間くらいすごすのはかなりひまでした。それからやっと帯広につきました。児相に行ったら母さんと妹がいました。むかいにきてくれてありがとうと言おうと思ったけどはずかしくて言えなかったです。それから家族とながさきやに行き僕の服を買ってくれました。それと僕の母さんの友達がこの日たんじょう日でケーキを買おうと思ったけど無かったのでやめました。帰りの最中にシカのどうぞうがたてられていて、その口にマスクがしてあって何だこれと思いました。それからバスで家に帰りました。ひっこししたばかりだったので家がとてもキレイでした。家に帰って一番したかったことは猫と遊ぶことです。猫がとてもカワイかったです。ざんりゅうの時釣ったフグの何倍もカワイイです。それから家のそうじをしたり洗い物をしたりゲームをしたりしていました。とくにもめるようなことはありませんでした。
次の日は朝五時半くらいに起きました。ねむかったです。その日は、午前中にメガドンに行き母さんの友達のケーキを買いました。三角の形になっているやつを十個買ってつなげました。色々な種類がありました。一日おくれたけどケーキを食べました。それからいつかわすれましたけどどっかの店に行きごはんを食べ帰ろっかと思ったけど急に姉がカラオケいきたいといい母さんの友達がいいよ
といってカラオケやさんに行きました。僕は色々歌いました。帰る時母さんの友だちはお酒を飲んでいたので何か知らない人が来てその車をうんてんして家までおくってくれました。それから僕は風呂に入りはみがきをしてふとんにはいりました。これもいつか忘れたけど母さんの妹やいとこ、ばあちゃんがきたりしていました。そのくる前にたくさんのかんビールを買っていました。持つのに大変でした。それからみんなでなんかワイワイ話していました。
次の日この日で家にいられるは最高でした。いとこたちとその日の午前近くの公園で遊んでいました。だけど何もおもしろくないので僕はだまって帰りました。その日の午後は僕はもう家にいられる時間が少ないとずーと言っていました。それから時間がきてみんなにじゃあねと言って家をでたけどじそうまでみんながみおくってくれました。やっぱり家族とはなれるのはちょっとさみしいです。
それから児相生活が始まりました。児相はひまでした。児相生活の最後の日昼に家族が来て外食をすることにしました。昼ごはんには時間があったのでえきに行きキーホルダーを買ったりして時間をつぶしていました。それから昼ごはんは、はまずしに行って食べました。おなかいっぱいで五皿しか食べられなかったです。それから五時間がそろそろだったので児相に行きちょっとだけ時間があったので家の人とすごしました。それからむかいの車がきてにもつを持ち外に出ました。家族の人とお別れの時泣いている人がいました。その時なぜ僕は泣かないのだろうと考えてみたら自分はいじをはっている事にきがつきました。それから車にのり家族からはなれていくのを見て悲しかったけど泣くのはがまんしました。早くたいしょして家族と一緒にくらしたいです。
帰省から帰ってきて
楽山寮 中三 Y
僕は、今回八月四日から八月十七日の間帰省しました。その中でどう考えたかを書きたいと思います。
僕は、ここにくる前は正直ろくでもない生活をしていたと思います。そのせいで親にもすごく迷惑をかけたし児相の先生にも迷惑をかけてしまっていたと思います。今回の帰省では少しは親を安心させられたと思います。
帰省中は、いろいろなことに親は喜んでいたと思います。例えば朝ちゃんとおきたり、ねる前に歯をみがいたり、そんな当たり前のことも家庭学校に来る前はできなかったので集団生活でつかれたりストレスがたまたったりすることも多いですがここに来てよかったなと思うところがけっこうあります。基本的な生活習慣はもちろん会話の受け答えやどこか出かける時などに少し早めに準びするようになりました。基本的なことですがこれから高校へ行ったり働いて生活していく上でとても重要なことを学ばされたと思います。
これからは高校進学など進路のことについて考えなければならないと思います。正直このまま高校に進学して人間関係うまくいくか、学力的に通用するか、まただらけてもとの生活にもどってしまわないかなど不安なことはけっこうあります。ですがこれまで家庭学校で暮らしていて注意されたこと、教えてもらったことがたくさんあります。
二学期には理事長にもなって自分の行動にも責任を負わなくてはならない立場にもなったのでこれまでよりも気を引きしめて残りの家庭学校生活まだまだ直すべき課題はあると思うので直すべきところはしっかり直して退所するころには尊敬されるような人になっていたいです。