ひとむれ
このコーナーでは、家庭学校の月毎の機関誌である『ひとむれ』から一部を抜粋して掲載しています(毎月上旬頃更新予定です)。
職員が、家庭学校を通じて感じたことや伝えたいことを表しています。是非、ご感想をお聞かせください。
※都合により『ひとむれ』本誌と内容が異なる場合がございます。ご了承下さい。
巻頭言
乳和食と減塩について
山登りのこと
家庭学校の素晴らしさ
望の岡分校に赴任して
校長 仁原正幹
夏季一時帰省で故郷(ふるさと)の空気を吸ってきた子ども達も八月十五日の夕刻までには全員無事帰校し、週明けの十九日から望の岡分校と中卒クラスの二学期が始動しています。二学期開始早々新入生が二人加わって総勢二十五名となり、年度半ばのこの時期としては賑やかな状況となっています。
秋の兆しが見え始めた月末の三十日には、今年もまた札幌交響楽団のコンサートマスター・大平まゆみさんが来校され、子ども達に激励の言葉をかけていただき、音響の良い礼拝堂でヴァイオリンの美しい音色を聴かせてくださいました。演奏会の最後に、大平さんが奏でるメロディーラインに導かれながら、家庭学校の生徒、役職員、望の岡分校の先生方など全員で校歌を斉唱し、皆で感動を分かち合いました。望の岡に聳(そび)える礼拝堂は今年築百年の記念の年を迎えています。礼拝堂百年を飾る素晴らしいイベントとなりました。大平先生には五年前の創立百周年チャリティーコンサートのときから格別なご理解とご支援をいただいており、感謝の気持ちでいっぱいです。
さて、標題の「児童相談所との連携について」です。児童相談所は近年は一般市民の方にもよく知られる存在となりました。私が北海道の児童相談所の職員となった四十年前とは隔世の感があります。ただ、認知されるようになった切っ掛けが児童虐待死事件などの報道によるものが多いようで、その点では残念に思うとともに心を痛めています。児童虐待への対応については、当該児童相談所の弁明などとともに、一般市民から識者まで多くの方々のコメントがメディアに溢れていますが、感情的だったり、観念的だったり、誤解に基づく批判だったりで、的を射ていないものも多く、児相OBの私としては歯痒い思いをしています。児童虐待問題については、これまでもこの巻頭言で時折触れてきましたが、いずれ改めて書かせていただくつもりです。
私が述べるまでもなく、児童相談所は児童福祉の中核をなす大事な機関です。児童相談所は単に子どもの問題に関する相談・クリニック機能だけでなく、児童福祉司等によるフィールドケースワーク機能、各種児童福祉施設への行政的措置機能、一時保護機能、家庭裁判所への申し立て機能なども併せ持っています。子どもの問題に多職種によるチーム診断をもって関わる体制や、相談から措置に至る一連の援助を実効的・有機的に遂行できる体制を有しており、これらの特質と性格故に、子どもの福祉問題にほぼ独占的に関与する総合的福祉専門機関として今日に至っています。私はとりわけ一時保護機能が重要だと考えています。
親子分離が必要な所謂(いわゆる)社会的養護のケースを支援・対応する際に、児童相談所と児童福祉施設とは車の両輪となって密接な連携・協力の下に業務を遂行することが求められます。ところが、最近の児童相談所は増加の一途を辿る児童虐待通告への対応に忙殺されているためなのか、児童自立支援施設との連携・協力が十分に行われていないのではないかと、私は危惧を抱いています。両者の連携・協力体制のさらなる拡充・強化を図るためにはどうあるべきか、私の考えの一端を述べさせていただこうと思います。
まず一点目は、「一時保護期間等における動機付けの徹底について」です。児童自立支援施設において入所児童が自己の課題を克服し、成長していくためには、入所に際して児童相談所の一時保護期間等における入念な動機付けとそれに基づく児童本人の確固たる自己決定が必須の要件となります。子どもの権利擁護の面でも重要です。ところが、最近一部の児童相談所からの入所ケースの中にはその点が十分でない事例が見られ、そのために入所後の指導・支援の効果が現れるまでに多大な時間と労力を要する場合があります。そのようなことから、措置児童相談所として一時保護期間等における動機付けをなお一層徹底していただきたいと、私は考えています。
二点目は、「再判定、再動機付け等を目的とする一時保護の迅速な対応について」です。児童自立支援施設の入所児童の多くは被虐待経験や発達障害による精神的な問題を抱えており、入所後においても時折不安定になり、入所前の自己決定が揺らぐことが往往にしてあります。無断外出や自傷・他害行為などに発展し、本人はもとより周囲の児童も含め生命の安全の面で危惧する状況に陥ることも少なくありません。そのようなときには児童相談所の一時保護所においてタイムリーに再判定や再動機付けを行っていただくことが肝要であり、そうでなければ児童自立支援施設として安全かつ安定的に児童をお預かりし、指導・支援することは難しくなると、私は考えています。
北海道家庭学校は「小舎夫婦制」による指導・支援を基本とした運営を行っていることから、通常は深夜に勤務している職員はおらず、また、児童福祉施設として当然のことながら児童を拘禁するような形は一切とっていないので、著しく不安定な状況に陥り、集団行動を拒否している児童を長期間監護することは困難となります。児童相談所はそうした当校の特性を十分に理解した上で入所措置を検討されるととともに、入所後においても当校からの求めによる再判定、再動機付け等を目的とする一時保護については、迅速かつ的確に対応していただきたいと念願しています。『ひとむれ』読者諸兄の中には児童相談所等の関係者の方も多いと思います。是非ご諒解願います。
栄養士 和田希望
七月三十日に「乳和食」を学ぶ講習会があり、参加させて頂きました。
この「乳和食」とは、味噌や醤油など日本の伝統的な調味料に、「コク」や「旨味」のある牛乳を組み合わせることで、利用されている食材本来の風味や特徴を損なわずに食塩やだしを減らして、おいしく減塩が可能な調理法のことを言います。今回は私が学んだ乳和食のメリットや主な調理法を紹介します。
日本の伝統的な食事である和食は、主食に米飯を、主菜や副菜に魚介類や野菜を多く使用し、健康的な食事と考えられていますが、食塩の摂取量が増えてしまうことや、カルシウムも不足しがちになってしまうという弱点があります。その弱点を埋めてくれるのが、牛乳の持つ「カルシウム」「旨味」「コク」なのです。水の代わりに牛乳を使用して調理することで旨味とコクを得られるので、使用する調味料の量や種類を減らし、おいしく減塩することが出来ます。また牛乳は、栄養素の総合デパートとも呼ばれており、からだを作る良質なたんぱく質、骨を作るカルシウム、成長促進に重要な役割を果たすビタミンB2などがバランスよく含まれています。
「減塩」というと大人に向けているイメージですが、実は子どもも塩分を摂りすぎています。子どもの頃から減塩に取り組むことで、将来の生活習慣病予防に繋げることが大切だと思います。ですが、ただ塩分を減らしすぎると料理の味がぼやけてしまうので、和食に牛乳をプラスした「乳和食」だと美味しく減塩に取り組めるのではないかと感じました。
「乳和食」という言葉は聞いたことはありましたが、正直「牛乳と和食、絶対に合わないな…」とマイナスなイメージを持っていましたし、研修に行くまでに何度想像しても、和食と合う想像が出来ず不安でした。ですが今回の研修で、牛乳を分離させて取り出した乳清(ホエー)でお米を炊いたり、牛乳とめんつゆで南瓜の煮物を作ったりと、実際に乳和食を作り試食をしてみました。出来上がった乳和食は、色も白くならず牛乳の臭みもなく、想像していたものと違ってとても美味しく、驚きました。そして乳和食は、実際に食べてみないと良さが伝わらないと感じました。
大人になってから食習慣を変えるのは難しいですが、子供の頃から慣れておけば大人になっても続けることが出来ます。また、家庭学校では牛乳も生産しているので、その牛乳を使って家庭学校らしい給食づくりに取り組んでいきたいです。そして今回、「乳和食」というとても良いものを知ることが出来たので、私も乳和食の良さを伝えていきたいと思います。
主幹 鬼頭庸介
この夏は、畑作業やハウスや苗の管理の合間を縫って知床の羅臼岳に登って来ました。天気予報を度々チエックして、登山する日に選んだ8月6日は晴天、気温が知床でも下界で30度くらいありました。8月6日であったので、広島に原爆が投下された午前8時15分に腕時計のアラームを設定して登山開始。登山途中の8時15分に広島のある方角に向かって1分間の黙祷。登っている間は、北海道の最も北東に位置する知床半島の山とは思えないほどの暑さで、汗だくになりながら登って行きました。森林限界となる羅臼平からは羅臼岳の東に連なる硫黄岳の山頂も間近に見えます。そこからは急峻な岩場で槍、穂高、剣岳とまではいかないにしてもあなどれない難所でした。午前6時40分に登り始めて、午前11時15分に無事頂上に着きました。好天に恵まれた頂上からの景色は素晴らしく、西には斜里岳、ウトロ方向を眺めるとオホーツクの青い海がはっきりと見えました。残念ながら、羅臼側はやや霞んでいて国後島を見渡すことはできませんでしたが、夏山の頂上から海を見渡すことのできる山は気持ちがいいものです。
家庭学校では9月の終わりから10月の初めに毎年研修旅行があって、このところ3年に1回の割合で知床方面に出かけています。そのときに必ず知床五湖のネイチャリングもあり、子ども達と歩く木道からは、好天であれば知床三山の雄姿が見られます。そのときに職員の中に「あの山の頂上に立ったことがある」という話をすることができる人間がゼロよりは何人かいた方がいいので、今回羅臼岳を登頂することで、ひとつ私の中にあった課題を片付けることができました。
私は、家庭学校に来るまでは、北海道の山に登ることは全く想像もしていませんでしたが、せっかく北海道で暮らし始めたので、しばらく封印していた登山を6年前に細々と再開しました。但し、もうテントも体力もなくなってしまったので日帰りか前夜泊日帰りに限定しています。初めの3年間は主に大雪山系の山に登り、4年目は寮を持っていたので、山に登る時間的余裕もなくて登らず、昨年は道東の斜里岳に登ることができました。毎年ひとつ登れれば満足で、私の中ではあとひとつ残っている山が利尻島にある利尻山になりました。来年は天気さえ良ければ利尻山に登ることを楽しみにしています。
私が本格的に山に登り始めたのは、学生時代からで、高校時代に倫理社会を教えてくださった先生が山好きな先生で、大学に入ってから哲学研究会に出入りしているうちに、その先生に登山に誘われて南アルプスの甲斐駒ヶ岳と仙丈岳でした。いきなり3000m級の山でした。その後秩父の養成所時代に奥秩父の山々に登り始め、武蔵野養成所時代と職員になってからは丹沢、八ヶ岳、南アルプス、北アルプス、立山連邦、尾瀬等の山々に主に単独行で登っていました。当時の私はまだ足腰に自信があって2泊の行程を1泊で、1泊の行程を日帰りでといった具合に1日の歩行時間は10時間以上になることも度々でした。1980年代(昭和60年頃)は、まだ新宿から信州松本行きの急行アルプス号が深夜12時前後に3本くらい出ており、よくそれを利用しました。当時の新宿駅の松本行きのプラットホームは、その時間帯でも大学や社会人の山岳部や山のサークル関係らしき老若男女でごった返しており、キャンプ用具や何日か分の食糧やテントを詰め込んだ横長のキスリングや縦長のアタックザックを背負っていました。私も武蔵野時代は、こうした人達に混ざって、八ヶ岳あたりであれば夜行日帰りか山小屋で1泊の縦走登山に出かけていたものです。夜行電車だと座席のリクライニングもなく、当然ろくに睡眠も取れないわけで、ほとんど熟睡できないまま明け方に登山口に着いて3000m級の山に登るわけで、今となってはもうあのようなことをするパワーは全く残っていませんが、懐かしい風景として残っています。60歳を迎えた今、体力と気力が充実していた若いうちに槍、穂高、剣といった日本を代表する名峰に登っておいて良かったとも感じています。
生まれ育った所が、武蔵野の面影が色濃く残る東京の西武池袋線沿線で、小学校時代の秋の遠足が奥武蔵や飯能近辺の山登りでした。その頃は、特に山が好きでもなかったのですが、後に山にのめりこむようになってから、小学校当時の経験が何らかの形で残っているのだろうなと思うようになりました。また、遠い親戚の伯父に、山岳雑誌「岳人」の巻頭に度々山の写真が掲載されるくらい有名な山岳写真家兼登山家がいました。安久一成という山岳写真家で、ヒマラヤの写真集や雪山技術、ロッククライミングに関する本も出していましたが、昭和47年4月に韓国のマナスル登山隊に参加している最中に6300m付近で雪崩に遭遇し、約800m流されて負傷、瀕死の重傷を負っている同僚隊員を看護しているときに2回目の雪崩に遭い、34歳の若さで亡くってしまいました。私が確か中学生になって間もない頃だったと思います。この伯父から直接影響は受けてはいませんが山を登っているときの心の片隅にはいつもこの伯父の存在があります。
私の山行は、ひとりで登ることが多かったのですが、武蔵野の研究生時代の同期で、今は神戸の若葉学園の施設長をしている舟積常明氏とは、何回か一緒に山登りをしました。冬山登山を教えてくれたのも彼で、確か彼がきぬ川にいて私が武蔵野の職員になった1年目かの冬に一緒に八ヶ岳連邦の赤岳に登った記憶があります。手にはピッケルを持ち、靴にはアイゼンを装着すると一丁前の登山家になった気分になりました。あのときは、八ヶ岳の稜線に出てから風が強まり、山慣れしている舟積氏が持参していたザイルをふたりの体に結びつけて視界の見通せない場所を慎重に切り抜けることができたことをよく憶えています。懐かしい思い出です。こうしたごく親しい友人と登るとき以外は、山は基本的にはひとりです。ひとりの方が、登りながらいろいろなことが考えられるし、歩くペースや休憩とかに気を遣わなくても済むので、ひとりの方が気楽です。
入所して来る児童にいわゆる非行少年が多かった教護院の時代、その子たちに山登りを体験させ、3000m級の山を登らせたら「なにかが変わるのではないか」と、山を登りながらよく考えていました。その感覚は山に登ってみないとわからない感覚です。山登りという行為は、楽ではなく、山頂に辿り着くまでは苦しいことの連続で、私も登りながら「なんでこんなことをしているのだろう」と自問自答することがあります。ただ、その都度、人生と重ね合わせて、登山と人が生きて行くことは似ていると思い至ります。児童福祉施設で暮らす子どもたちの施設入所前はもちろんのこと、施設を出た後も数々の困難なことに遭遇します。そのことは施設の子どもでなくても、当てはまることですが、そうした困難を乗り越えていく力が、登山という行為を通して培うことができるのではないか、しんどくて自分にはできないだろうなと考えていたことができたとき、子どもは変わる、ひとまわり大きく成長するかもしれない、そう考えていました。実際に、私が家庭学校に赴任する前に勤めていたオルタナティブな公教育以外の学校(シュタイナー学校)では、中学生や高校生の年齢の子どもたちが冒険的な旅や自然体験することを積極的に薦めており、実際に私もそこで生徒を引率して北アルプス北部の白馬岳に登ったことがあります。また、今から20年くらい前になりますが、明石学園で寮を持っていたときに、確か阪神淡路大震災が起こった後、児童相談所も100%は機能しておらず、その影響で児童の入所が少なかった時期がありました。その年だったか翌年だったか、5月の連休にそのときに一緒に生活していた3名の寮生を連れて兵庫県で最も標高の高い山、氷ノ山に連れて行ったこともあります。予想外にまだ雪が残っており、私は一応山靴を履いていましたが、彼らは運動靴。それでも文句も言わずに(帰ってから寮母には、私の悪口を言っていたが)ハードな登山道を登って下りてきました。教護院から児童自立支援施設に名称が切り替わる、教護院の終焉を迎える頃だったと記憶しています。今ではおそらく上からストップがかかるようなことも、あの頃はまだ寮長の裁量でできた時代でもありました。
家庭学校でも、かつては学校の行事として大雪山の黒岳にみんなで登っていた時期があると聞いています。最近でも若い職員が夏の残留行事のときに摩周岳に連れて行ったことがあります。残念ながら私にはもう、低山ならまだしも大雪山系の山々に家庭学校の児童を引率して登山をしに行くだけの体力的な余裕や引っ張って行くだけの気力は残っていません。こうして児童自立支援施設で暮らす子どもと本格的な登山をするという夢は叶わないまま終わりそうです。
教諭 浅井純也
小さなことを見逃さずタイムリーに褒め、指導すべき場面では毅然と指導するなど、生徒への素晴らしい対応を見た驚きから私の家庭学校での勤務がスタートしました。その後も生徒への徹底した指導や対応を見ることができました。
生徒の言葉遣いは常に敬語であり、挨拶もでき、気を付けの姿勢は指先まで伸ばすなど心の姿勢が姿・形に現れています。服装は、ジャージ着用時、白のワンポイントTシャツに白の靴下、夏の制服は、白のポロシャツをスラックスの中にきっちり入れています。そして、「三能主義」に基づき、毎日充実した食事で、しっかり睡眠時間が確保され、作業や運動を通して体力が備わっています。そのため、授業中に眠たそうにしたり、体調不良を訴える生徒も少なく、バランスの取れた体格に成長していることが目に見えて分かります。中身が充実して飾り気がなく、心身ともにたくましい「質実剛健」という言葉が当てはまる教育が見事に展開されていると思います。
週3回の作業班学習は、生徒、家庭学校職員、分校職員が「酪農」「山林」「園芸」「蔬菜」「校内管理」の5班で行われ、40半ば過ぎの私にとっては、天候や作業内容によっては辛い時もあります。しかし、生徒、寮長先生は、作業班学習の他に土日も含め毎日寮作業(朝・夕)もこなしています。小学生・中学生・寮長先生は、肉体的負担が大きいこの活動を毎日日課として行っていることに驚きます。寮長先生に聞いたところ「慣れです」とおっしゃっておりましたが、作業を通しての学びだけではなく、精神的・肉体的にも鍛練される場であると感じます。
授業は特定の教科で習熟度別に展開され、クラブ活動や特徴的な行事が非常に多く、生徒にとって素晴らしい環境が整っている様に思います。
地域との関わりでは、散髪の奉仕活動、クラブ活動や園遊会への支援、大花壇の草取りなど本当にお世話になっています。また、花見の会や運動会は多くの方々に見に来て頂いたり、飲み物など多くの差し入れが届けられるなど地域の方々の応援や支えがあって家庭学校の歴史が刻まれていると感激しました。
どの生徒も多かれ少なかれ様々な課題・悩み・困り感を抱えて家庭学校に来ています。一筋縄ではいかない生徒も多くいます。スタート時は手がかかる生徒も、ものすごいスピードで成長し表情も豊かになっています。生徒と寝食を共にし、24時間指導に当たられている寮長先生や寮母さんは、優しさの中にも厳しさがあり、生徒の心の浮き沈みを受け止め、家族同然の接し方をされています。家庭学校には専門的な職員が配置されており、分校の先生方も生徒と良い関係を築きながら生徒にとって安心できる場となっている様に思います。
今後も、生徒と共に一日一日を大切に頑張っていきたいと思います。
教諭 大野幸花
この度、「ひとむれ」の原稿をお願いできないかというお話をいただきました。まだ赴任して五か月ではありますが、その中で子どもたちと経験し感じたことについて書かせていただきたいと思います。
まず、授業中のできごとです。
小学校の図工で『大好きな物語の一場面を絵で表そう』という題材に取り組みました。画用紙に下絵が完成するまでに三時間、着彩に五時間、合計八時間かけて完成しました。完成した際にMさんが「こんなに時間をかけて、何かを作ったことなんて初めて。今までで一番上手にできた!」というようなことを笑顔で話してくれました。パパッと作るよりも時間をかけて丁寧に取り組むことでより良いものが作れるということを実際に体験して感じることができたようです。
また、算数の授業では、ノートを一冊使い終わったAさんが「初めてノートがなくなった。こんなに勉強したんだ!」というようなことを話してくれました。そして、新しいノートをもらったAさんは笑顔でした。授業や宿題に継続して取り組んだ結果が、形になって見え、次への意欲につながっていく経験ができたのではないでしょうか。
『子ども達が実際に経験をして、自ら大切だと感じてほしい』と思っていた私にとってもこれらのことは、とても貴重な経験となりました。そして、このようなときの子ども達は、笑顔でとても良い顔をしています。もちろん、常に良い状態で授業に臨めるわけではありませんが、経験から実感し、活かすことができるように、一緒に学んでいきたいと思っています。
次に、作業や行事についてです。
家庭学校では、様々な作業や行事があります。私は、私生活で二人の子どもを育てる中で、たくさんの経験をさせることの難しさを感じています。それは、子どもに何かを経験させるためには、親や家族が待ったり、我慢したりと大変な思いをすることが多いからです。日常生活においても、着替えや歯磨きを子どもができるまで待つこと、時計を見て動くように見守ることなど、気持ちに余裕がもてない状態では負担が大きく、「できるようになってほしいからやらせてみよう」という気持ちとの葛藤が常にあるように思います。
また、育てたり、作るという作業やお花見、釣り遠足といった様々な行事は普段の生活の中では、なかなか経験させられないことだと思います。もちろん、大変なことばかりではなく、できるようになった姿を見て嬉しく思ったり、一緒に経験することを楽しめることもあるのですが、こちら側に余裕のない状態ではなかなか感じられないことも多いように思います。そのような私自身の経験からも、生活する上で必要な日常生活上の経験を積ませてくれたり、作業や行事を通して新しいことに挑戦する機会を与えてくれる家庭学校はありがたい存在なのだと感じます。
子ども達には、日常生活はもちろん、作業や行事で学んだことを自信につなげていってほしいと願っています。
最後に、子ども達が多くのことを経験し、学べるような学校生活を送れるよう努めると共に、これからも子ども達のそばで一緒に学んでいきたいと思っています。