ひとむれ
このコーナーでは、家庭学校の月毎の機関誌である『ひとむれ』から一部を抜粋して掲載しています(毎月上旬頃更新予定です)。
職員が、家庭学校を通じて感じたことや伝えたいことを表しています。是非、ご感想をお聞かせください。
※都合により『ひとむれ』本誌と内容が異なる場合がございます。ご了承下さい。
巻頭言
慰霊の日
サポーター
〈児童の声〉理事長を任せてもらって
校長 仁原正幹
望の岡分校の夏休みの中で一時帰省して故郷の空気を吸ってきた子ども達も、家庭学校に残って外出行事などを楽しんだ子ども達も、十五日の晩には各寮に勢揃いしました。各人の表情や日記等の内容から、それぞれが有意義に安定した日々を過ごせたことが窺われ、安堵するとともに成長を感じ、嬉しく思いました。
十七日から二学期が始まっていますが、夏休み前半の蒸し暑さから一転、早くも秋本番の肌寒さで、朝晩はストーブの火が恋しいオホーツク暮らしです。十九日・日曜の校長講話では、早く生活リズムを元に戻して、体調管理に努めるよう注意を喚起しました。今回は北海道家庭学校の歴史と伝統について、その一端を披露しながら、五十四年前の東京オリンピックにまつわる「展示林」の話をしました。以下、講話の概要です。
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私達の北海道家庭学校には長い歴史とたくさんの伝統があります。今日はその一端をお話ししたいと思います。例えばこの礼拝堂は今から九十九年前の一九一九年(大正八年)に建てられました。ですから、礼拝堂は来年百歳になります。一九一九年という年は、歴史に詳しい人なら思い出すかもしれませんが、第一次世界大戦が終結して講和条約が結ばれた年です。「イクイク人はベルサイユ」と、語呂合わせで歴史年表を暗記している人、いませんか。
八月は終戦記念日や広島・長崎の原爆投下の日など、いろいろと戦争にまつわる記念日がありますが、その戦争は今から七十三年前に終戦となった第二次世界大戦のことで、第一次世界大戦はそれよりも一世代、三十年ほど前の戦争です。
因みに第一次世界大戦が始まったのは一九一四年(大正三年)ですが、この年に北海道家庭学校が誕生しています。みんなの右側に校祖・留岡幸助先生の写真が掲げられていますが、幸助先生は百四年前の一九一四年に遠軽の地に今の家庭学校を開かれました。それから五年の歳月をかけて、地域の人など多くの人々の協力も得ながら、この礼拝堂が建立されたのです。木材も石材も全てこの土地で採れたものだそうで、川に水車を設置して、その動力で木を挽いたようで、電気も重機もない時代ですから礼拝堂建立には大変な苦労があったことと思います。
さて、前置きが長くなりましたが、今日は家庭学校の広大な敷地の一画に長い間大切に護られてきた素晴らしい林があることをお話ししたいと思います。礼拝堂の参道入口の車止めの前にT字路がありますが、そこを左の方にしばらく行くと右手に「展示林」と書かれた看板があって、大木が並んでいます。
去年の九月十四日に遠軽町やオホーツク総合振興局などの森林の専門家の人達が大勢この「展示林」に来られて、君達に森のこと、木のことを教えてくださいました。そして生徒全員が参加して樹種(木の種)の採取をしました。高所作業車に乗せてもらって、高い木の上の方まで上がっていって、ちょっと怖い思いをしながらマツボックリのような木の種を採ったと思います。ただ、そのときに在籍していた生徒はもう四人しか残っていないんだよね…。S君、K君、S君、R君、覚えてますか。
さて、この「展示林」にはどういう謂われがあるか、わかる人いますか。みんなは二年後の二〇二〇年に東京でオリンピックが開催されることを知ってるよね。今度の東京オリンピックは、実は東京で開かれる二回目のオリンピックなんですね。一回目は、今から五十四年前の一九六四年(昭和三十九年)に開催されています。もう五十年以上も前のことで、ここにいる人は、生徒も先生方も殆どの人はまだ生まれてないので、実体験としての記憶はないと思います。今や歴史上の出来事になっているので、社会科の教科書とかテレビや新聞の報道では見たことある人がいるかもしれません。
一九四五年(昭和二十年)の終戦から十九年経った一九六四年(昭和三十九年)に、アジアで初めてのオリンピックが日本の首都・東京で開催されました。戦禍で荒れ果てた国土を、戦後国民が力を合わせて復興に努めました。そのお陰で日本の国は経済的にも大きく発展しましたが、そうした日本の繁栄の姿を見事に世界に示した象徴的な出来事が東京オリンピックだったのです。高速道路や新幹線はそのときに始まり、今に至っています。
私は当時十歳の小学校四年生だったので、かなりよく覚えています。開会式の入場行進のテーマ曲が今でも蘇ってきますし、マラソンやバレーボールや柔道やウェートリフティングなどの日本選手の活躍の様子をわくわくしながら見ていました。当時は白黒テレビでした。
その東京オリンピックのときに、世界の四十四カ国の選手団が母国の木の種を持ち寄ってくれたそうです。戦争によって日本中至る所が焦土と化していたので、復興のために緑化運動が進められていたそうですが、その呼びかけに各国が応じてくれたもののようです。持ち寄られた外国樹種は、それぞれの生育に適した場所を選んで全国各地の林業試験場などに配られ、苗木に育てられました。戦争中は木材の供出が求められたので、北海道家庭学校の森の木も大量に伐採され、寂しい状態になっていたそうです。
北海道家庭学校にもこの地方の寒い気候に合った北方系の樹種の苗が持ち込まれて植樹されました。それから五十年間、山林班の生徒や先生を中心に下草刈りや枝払いをしながら大切に手入れされてきたので、今では百六十二本もの大木が育ち、立派な「展示林」となっています。
家庭学校にはそのときの記録が残っていました。機関誌『ひとむれ』に記されていたんですね。『ひとむれ』には毎月発行の月刊号と時々発行される特集号があって、八十八年前からずーっと続いており、一番新しい先月発行のものまでの号数は全部で九五四号を数えています。
「展示林」のことが書かれていたのは、今からちょうど五十年前の一九六八年(昭和四十三年)六月一日発行の『ひとむれ』第三〇五号で、その誌面に「展示林」の経緯が克明に記されていました。家庭学校では八十八年の間に発行された『ひとむれ』の九五四号のバックナンバーを全て保存してあったので、そのときのことがわかったのです。そのときの記事を読んでみるので聞いてください。
『展示林樹苗受く』
東京オリンピックの際、各国選手が国の代表的樹木の種子をはるばる持参、それを育苗中であることは世間一般にはあまり知られていない。四月二五日道庁の馬渕氏が来訪された時、北海道として、この記念樹をどこへ植えたら各国選手の好意を顕示出来るか苦慮しているとの話があった。博物館には樹木の見本、展示林には十種類が植樹され、造林への関心の高いことに感銘を受けたと感想を述べられた。あらゆる部門から参観者のあることが知られて、ここの土地に適するものを十種類いただき一部は展示林に一部は育畑に移植した。
記
ダグラスファー カナダ産
シトカトーヒ カナダ産
ヨーロッパトーヒ ブルガリヤ産
ヨーロッパ赤松 フィンランド産
同 スエーデン産
ロッチボールパイン アイルランド産
ルーベントーヒ 同
メタセコイヤ 同
コルシカ松 同
モンタナ松 同
『サナプチ日記(五月)』
一・曇 早朝秋葉・横山先生はトラックにて出発。野幌の農林省林木育種場光珠内の北海道林業試験場におもむき東京オリンピックの際外国選手の持ち来たった種子より育苗せる樹種一〇種類を受取る。
(『ひとむれ』第三〇五号〔昭和四十三年六月一日発行〕から引用)
一九六八年(昭和四十三年)の五月一日に当時の家庭学校の先生二人がトラックで今の美唄市光珠内にある林業試験場に出掛けていって、東京オリンピック由来の外国樹種が育った苗木を受け取ってきたようです。この記事からもわかるように、元々家庭学校の森には独自の「展示林」がありました。当時の山林班長だった加藤正志先生という方が、この先生は石上館と桂林寮の寮長や教務部長も務められた方ですが、その加藤先生が長年にわたって家庭学校の森造りに心血を注いでおられました。その一環として北海道原産の樹種を並べて家庭学校独自の「展示林」を造成されていたのです。そうした実績があったことから、国や道の森林関係機関のほうでも、北海道家庭学校の森がオリンピック由来の外国樹種を植える場所に相応しい場所だと考え、選ばれることになったのだと思います。
当時全国各地のたくさんの場所に東京オリンピック由来の外国樹種の苗木が植えられたはずなのですが、五十年もの歳月を経て、枯れてしまったり、倒れてしまったり、切られてしまったり、あるいは樹木自体は残っていても記録が残っていないのでわからなくなってしまったというのが大方の実態だと思います。
遠軽町の佐々木町長さんのお話では、オリンピックの「展示林」として現時点で確認されているのは全国で二カ所、東京の代々木公園と遠軽の北海道家庭学校だけだそうで、しかも家庭学校の「展示林」の方がずっと規模も大きく、立派だそうです。私達の先輩方、生徒と先生方が、長い間「展示林」を大事に育て、護ってきたおかげだと思います。
遠軽町では北海道庁や北海道森林管理局などと連携した形で二〇二〇年の東京オリンピックに向けての「展示林」のPR活動に力を入れています。それで今、私達北海道家庭学校の「展示林」は各方面からの注目を浴びているのです。「展示林」の木を使って記念の建築物の壁材にするとか、いろいろなグッズを作って外国からの選手団やお客さん、あるいは日本の多くの方々に配るとかして、五十四年前の一回目の東京オリンピックの「緑の遺産(レガシー)」として国際親善に役立てようということで、二年前から検討が進められてきています。
今日は、北海道家庭学校の歴史と伝統の中には世界に広がる東京オリンピックの「緑の遺産(レガシー)」としての「展示林」もあるということをお話ししました。そしてこのことは、家庭学校の森を立派に護り育ててきた先輩方の営々とした努力と頑張りのおかげであることと、そうした大事なことをきちんと『ひとむれ』誌に記録し、かつその記録を長年にわたってしっかりと保存してきたことがとってもよかったということを、今家庭学校で頑張っているみんなにも是非知ってもらいたくてお話ししました。
まだ「展示林」を見たことがない人は、今度山林班の千葉先生にお願いして連れていってもらってください。それから去年の九月に採取した第二世代の樹種も、今年の五月に佐々木産業(法人の佐々木雅昭評議員さんの会社)の苗畑に植えらたので、その苗が育ったらまた「展示林」に植えることになります。家庭学校の「展示林」も少しずつ様子を変えながら発展していくものと思います。これからもみんなで力を合わせて家庭学校の森を護っていきましょう。(八月の校長講話から)
理事長 家村昭矩
北海道家庭学校は、今年で百四年目を迎えます。百四年前というと、皆さんの曽お爺さん、曽お婆さんがまだ子どもの頃の時代になるでしょうか。北海道家庭学校をつくった留岡幸助先生は、この大自然の中で、自然と生きる事が皆さんのような若い人が成長するのに、必ず役に立つと考えてこの学校を建てられました。そしてこの地域全体を理想社会にしようという、とても大きな理想をいだいてこの地に来られたのです。
この百四年の間に、二千五百人を超える生徒諸君と、二百五十人を超える職員と加えてそのご家族の方々がこの地に暮らしてきました。長い間、その暮らしは大変厳しいものでありました。その最初の頃は、今の私たちには想像できないような厳しい開拓の日々であり、とても過酷なものであったことでしょう。
第二次世界大戦は一九四五年(七十三年前)にようやく終わりましたが、その当時は生徒諸君の食料も十分に賄えず必要な生活物資を得るのにも難渋し、また、北海道家庭学校の事業を継続するのも困難を極めたという記録が、家庭学校の膨大な資料の中に残されています。
元校長の谷昌恒先生が就任三年目(一九七一年、四十七年前)の慰霊祭で話されたことが『ひとむれ』に綴られています。そこには、「本校の歴史の担い手であられた多くの諸先生、諸先輩の霊前にぬかずいて、それらの方々の胸の中に、一貫して流れ伝えられてきた精神を、改めて私どもが継承することを誓うところに、その意味があるのだと考えます。」とありました。いま、後に続く私たちが先人への感謝を忘れず、私たち自らも、自分の道をしっかり見つめ生きていくことを誓うのがこの慰霊の日なのだと思います。
毎年この時期になると、私自身が「慰霊祭」という言葉で強く心に響く日があります。それは毎年二つの街で執り行われる「原爆慰霊祭」です。一九四五年八月六日ヒロシマ、八月九日ナガサキに落とされた人類史上初めての原子爆弾は、合わせて二十万人以上の人々を一瞬にして炎につつんだ恐ろしいものでした。
そして終戦の八月十五日は「戦没者慰霊の日」ですが、いずれも日本国中であの忌まわしい戦争を二度と繰り返さないことを、それぞれの立場で考え、誓う日である事を忘れてはならないと思うのです。
歴史的なお話をもうひとつします。今年は北海道が蝦夷地と呼ばれていた時代から北海道という名前が付けられて百五十年を迎えます。今年は道内各地で、その記念行事が繰り広げられています。その北海道の名付け親と言われたのが、蝦夷地を何年もかけ隅々まで探索した松浦武四郎です。松浦武四郎は、アイヌの人々と寝食を共にして調査行い、アイヌ民族を理解し、敬意をこめて先住民である「アイヌの人々が暮らす大地」をあらわす「カイ」を表した「北`加伊`道」と提案し名付けられたといわれています。しかし、その後の北海道の開拓政策は、アイヌの人々が長く暮らしてきた土地や生活・文化を奪い、虐げ続けたため、これに抗議して松浦武四郎は、政府からおくられた官位や役職を返上したそうです。北海道各地の開拓は、その地を拓いてきた多くの人々の苦難の歴史がありますが、その多くが記憶に残らず埋もれています。
「北海道」と名付けられた日は、いまから百五十年前(一八六九年)の八月十五日だそうです。奇しくも一九四五年の八月十五日と同じ日なのです。ですから、特に今年は、北海道で暮らす私たちは、北海道の開拓と発展に尽くした先人・物故者への敬意と、決して忘れてはならない戦争の記憶をしっかりと心に刻み、そして、北海道家庭学校の歴史にも思いを馳せ、私たちの未来への決意を新たにする機会にしたいものだと思います。
(七月三十一日の「慰霊祭」における理事長のお話を掲載しました。)
望の岡分校教諭 槇正美
望の岡分校に赴任して、二年目となりました。分校での生活にもすっかりなれ、昨年よりも、時の流れが少し速くなったような気がします。これは、ここでの環境に慣れてきたということなのでしょうか。
人は、時の流れを速く感じたり、遅く感じたりするようですが、楽しいことや夢中になって何かをしている時は、時間が過ぎるのが速く、つらいことや嫌なことをしている時は、逆に感じます。
私は、趣味が多く、自分の好きなことをやっている時間が多くあるので、時間がいくらあっても足りません。お金のかかる趣味も多いので、お金もいくらあっても足りませんが、お金の話はさておいて、趣味の一つに、魚釣りがあります。今はもっぱら、船釣り専門です。朝、五時に釣り船で出港して、午後、二時ぐらいに帰港しますが、釣りをしている時間は、とても短く感じます。今年は、六月に常呂沖で、ホッケ、ソイ、鱈釣りをしたのですが、私の釣り仲間が、私の隣で、八十五センチもある鱈を釣りあげました。船上では、知っている人、知らない人に関わらず、お互いに、大物を釣ったら助け合って魚を上げます。私が、その鱈を船に上げたのですが、私の釣り人生の中で、最大級の魚だったので、船に上げた時は興奮しました。
九月の中旬にはウトロ沖で秋味釣りを予定してますが、一回の船賃は一万円で、釣りのライセンス料金が更に千円追加されます。他に、餌代、仕掛け代、飲食費、交通費まで入れると結構な費用になります。あれ?また、お金の話になってしまいましたね。
そうそう、釣りの話をしたのには、理由があります。七月二十日に、家庭学校の行事の一つである釣り遠足が、町外れの湧別川で行われました。少し、川の水が濁っていましたが、何人か魚を釣り上げました。私は、ひたすら、釣り人のために、最初から最後までサポート役に徹していましたが、子どもたちが、魚を釣り上げて歓声を上げる姿を見ると、自分が釣ったことのように嬉しい気持ちになりました。子どもたち全員が釣れたわけではなかったので、来年は、全員釣れるように、しっかりサポートできればいいなと思っています。
また、夏休み中には、残留している子どもたちと一緒に、湧別沖で、釣り船に乗ってカレイ釣りをしました(家庭学校主催)。今回は、サポートをしながら、自分も釣りを楽しもうとしましたが、釣れたのは、極小サイズのカジカ一匹とカレイ一匹でした。また、釣り人十二名中約半分の人が、船酔いでダウンし、波も出てきたため、二時間ぐらいで釣りは終了となりました。
釣り船を出していただいた中川さんと岩本さんには、大変お世話になりました。ありがとうございました。
今回、釣れなかった人、船酔いした人は、これに懲りずに、また、チャレンジしてほしいですね。来年は、たくさん釣れる仕掛けをしっかり用意して、釣りのおもしろさや楽しさを味わってもらえるように、頑張ってサポートできればと思っています。
掬泉寮中三 S
自分は今年度の二学期にひとむれ会理事長を任せてもらいました。家庭学校に入所して理事を任せてもらったのは四回目ですが、どれも失敗ばかりをおかしています。今回こそ自分の立場をよく考えて生活し、周りの手本になれるようにしたいです。
他にも前の反省を活かしたいところがいくつかあります。一つ目は月目標を決める理事会のことです。自分が初めて理事会に参加したとき、他の理事はみんな年上の先輩でした。そのときから自分は自主性に欠けて、先輩に頼りっぱなしでした。そして先輩がいなくなった今でも、それが残ってしまっている気がします。これからは周りと協力して月目標などを考えていきたいと思います。
二つ目はあいさつのことです。自分は前から理事として人前に出てあいさつをしたり、お礼を言う機会はもらっていました。でも人前に出て頭の中が真っ白になったり、下手に良い事を言おうと飾って失敗したりしていました。もう「まだ慣れていない」を言い訳にはできません。そしてお世話になった人にみんなの前でお礼を言える機会をふいにしたくもありません。これからは自分の考えた言葉を頭の中で整理して、相手に伝えるようにしたいです。
二学期は長く行事もたくさんあります。それでも悔いを残さないようにしっかりと任された理事活動をやっていきたいと思います。