ひとむれ
このコーナーでは、家庭学校の月毎の機関誌である『ひとむれ』から一部を抜粋して掲載しています(毎月上旬頃更新予定です)。
職員が、家庭学校を通じて感じたことや伝えたいことを表しています。是非、ご感想をお聞かせください。
※都合により『ひとむれ』本誌と内容が異なる場合がございます。ご了承下さい。
巻頭言
四半世紀
給食を通じて思うこと
「3年生学級担任」
〈児童の声〉
校長 清澤満
私の社会人としてのスタートは、児童福祉法に定める肢体不自由児施設であり、医療法に基づく病院でもある旭川整肢学院での勤務でした。(現在は医療型障害児入所施設と定められ、旭川子ども総合療育センターと改称されています。)
旭川整肢学院は、ポリオの大流行を受け昭和三十七年に開設されましたが、私が採用された昭和五十三年にはポリオ後遺症の児童は殆どおらず、脳性麻痺のほか、筋ジストロフィーや二分脊椎の児童が中心だったと記憶しています。
私は庶務課配属で、児童の入院生活の支援などに直接関わる仕事ではありませんでしたが、医療事務を担当していたことから病棟回りをすることが多く、また、若手職員は指導課が企画する行事に参加を求められることも多かったので、百名前後在籍していた入院児童とふれあう機会が数多くありました。
脳性麻痺の児童の中には、緊張が強く不随意運動により言葉を上手く発することができない子がいます。また、知的障がいを伴っている場合も少なくありません。私はそれまで障がいのある人とふれあう機会が殆どなかったことから、行事で担当する児童との意思疎通の難しさに戸惑うこともありました。そんな時、機能訓練のベテラン職員から、「この子たちは、私たちの話すことをよく分かっています。でも、言葉が上手く出ないので残された機能を使って意思表示しているのです。」と説明されたことがありました。保育士や看護師、訓練の先生たちは、児童が見せる僅かな表情の変化や身体の動きなどから感情を読み取って意思疎通していることを知り、驚きました。
私にはそうした専門性は備わりませんでしたが、少し距離を置いて日々目にする様子から、「この子たちは自分でできることを見つけて、精一杯生きようとしているんだ」と感じる場面もたくさん見てきました。こうした六年間の経験が、障がいのある人に対する私の理解を助けてくれたように思います。道職員を退職した後、重度の知的障がい者や自閉症の人たちの地域生活支援に関わった際も、旭川での経験が活きたと感じています。
ノーマライゼーションの理念に基づき、障がいのある人たちの在宅福祉が進められて久しいのですが、そうした人たちに対する社会の理解は、果たして追いついているでしょうか。
世の中には、いろんな考え方や価値観を持った人々がいます。また、いろんな肌の色、目の色をした人々がいます。人は内面も外見上も多様な生き物であり、障がいの有無もその多様性の一つです。そうした多様な人が存在していることへの理解が不足すると、そこに差別や偏見が生まれるのです。
近年、児童自立支援施設には発達障がいのある子どもの入所が増えています。また、対人関係のつまずきや衝動的な言動など、発達障がい児と類似した特徴が見られる被虐待児の割合も増加しています。このような子どもに見られる特性が周りには理解されづらく、その結果、自己不全感を募らせて問題行動に至る場合が少なくないからです。
家庭学校に来ることとなったこうした子どもたち一人ひとりの特性(強い拘りがあったり、場の空気を読んだり相手の気持ちをくみ取ることが苦手。忘れ物が多かったり、落ち着きがない等々)や被虐待経験のある子どもの心のダメージをよく知るところから、私たちの支援は始まります。特性から生じてしまう言動を頭ごなしに指摘だけして、入所前と同じ感情を抱かせることがあってはならず、そうした言動の修正を促す手立てをもって、子どもと向き合わなければなりません。子どもたちが家庭学校にいる間に、少しでも生きづらさを減らす術(すべ)が身に付けられるよう、こうした支援とともに、本人の良い面や強みを伸ばすという視点も大切にしたいと思います。
障がいがあるという多様性が理解され、誰もが安心して生活できる社会が創られるように、福祉に携わる私たちは、生きづらさを抱えた子どもたちを正しく理解する一人でありたいと思います。
主幹(酪農担当) 蒦本賢治
書名を失念してしまったのですが、先日、オホーツク地方の百年ほど昔からの景色や町並みの写真を綴った本を閲覧する機会を得ました。北海道家庭学校の開校初期の写真なども見られますが、私は特に、この地方の産業の遷り変わりに心を奪われました。一世紀前と現在とでは景色が全く違うのは当然ですが、その間のほんの十数年の間にも、薄荷生産が盛衰し、鴻之舞では金採掘が始まり、そして終わり、その他にも自動車の発展をはじめとした生活スタイルの遷り変わりや戦争などの社会情勢の変化の中、様々な産業がこの地方で盛んになっては衰退しているのがよくわかりました。
私が家庭学校に就職して酪農の仕事を引き継いだのは平成十年のことでしたから、もうすぐで、在職して足掛け二十五年になります。オホーツク百年の歴史に思いを馳せた後、自分の辿ってきた年月を振り返ってみると、なんだかずっと変わらず同じことをしていたように感じました。飼養頭数、生産規模、牧草収穫作業はほぼ当時のままで、わずかながらに変わっていることもあるにはあるのですが、オホーツクの百年の時代の変化と比べると、また、他の酪農家が規模拡大していったのと比べると、あまりに変化がないように思えます。
北海道家庭学校が創立してから百八年ですから大雑把に言って、その四分の一近くの時間をここで過ごしてきました。随分と長居しているなと思うのですが、しかしながら、私が新入職員の頃は四十年、五十年と家庭学校で働いてこられた先輩職員も居ましたから、まだまだ青二才かもしれません。
私の書棚に『教育農場五十年』という本があります。北海道家庭学校創立五十周年の報告書です。二十五年を家庭学校で過ごす私は、その本の半分の時間を経験した計算になるはずですが、書籍の内容の濃さと比較して、とてもそうは感じられません。
私も含め多くの人は変化より安定を好むものです。今日も明日も五年後も十年後も同じように暮らしていければ良いと思ってしまいがちです。しかしながら、オホーツクの百年を振り返ると、そうはならず、時代の流れにのって、変化し続けなければなりません。ここ二、三十年程はデジタル機器の進化や大きな事件、事故、災害がありましたが、産業の変化は特に遠軽のような地方では人口の減少に伴うこと以外はあまり無かったように感じます。でも近年の社会情勢を見ていると、これからは大きな変化に備えなければならないような気がしています。
家庭学校では私が来て以降には公教育の導入や樹下庵診療所、バター・チーズ工房の開設などの新しい試みがありました。校長も四回も代わり、寮舎や給食棟の建て替えなどもありました。振り返ってみると意外と大きく変化していたことに気付きます。それでも、作業班や季節の行事、平和山登山、日曜礼拝など日々の日課は伝統を守り大きな変化はありません。時代も変わり、職員はすっかり入れ替わりましたので行事の中身、進め方、会議で話されることは随分変わっていると感じます。
先程挙げた『教育農場五十年』の中に「若き青年教師に送る書」という文があります。勤続三十余年のベテラン職員と口論になった若い職員をたしなめるために留岡清男先生が宛てた手紙をそのまま掲載した文章です。若い青年職員は家庭学校に不足していることを挙げて先輩職員を進歩改善の理想が足りないとか熱意がないと非難するのですが、清男先生は変えたくても性急に変えられるものではない、理想を掲げても経験不足の者の机上の空論でしかないと叱責しています。私も若い職員方の理想に燃える姿をみて心配になることがあります。年数だけはベテランの部類に入ってきたのでしょうか。それでも、新しいことに挑戦しようという試みは見守りたいという気持ちもあります。伝えきれないこともありますので、もしこの本を未読の若い職員の方がいらっしゃいましたら一読をお薦めします。
二十五年は長いような短いような。変わったような変わらないような。ありきたりですがそんな気持ちです。
栄養士 菅原希望
雪が解けて暖かくなってくると、給食棟にはたくさんの食材が来ます。山菜から始まって、夏が近付いてくると野菜が採れ始めます。山菜を採って来てもらって処理をしていると、「今年もやってきたな」と感じます。
私が働き始めた頃は、山菜の処理などしたこともなく、どうしたらいいのか分からないことが沢山ありましたが、毎年寮母さんや調理のパートさんに教えてもらいながら、下処理をして塩漬けにして保管しています。野菜も、蔬菜班の先生や寮の先生と連絡を取りながら、給食棟に持って来てもらっています。なので、夏は家庭学校で採れた野菜を出来るだけ使えるように、月に一度の献立会議によって献立を決定し、採れている野菜によっては献立を変更したりしています。
野菜の処理など大変だと感じることもありますが、私は子どもたちと直接関われる機会が多くあるわけではないので、子どもたちが大切に育ててきた野菜などの食材を通して、関わっていけると良いなと思っています。
自分たちで育て収穫した食材が調理され、その食材を使って作った料理を食べた人から「おいしかった」と言われることで、喜びや達成感を感じてほしいと思っています。子どもたちが食材を育て、収穫し、人に食べてもらうということは、喜びや達成感を感じるだけではなく、食材に興味を持ったり、収穫まで育てることの大変さも学ぶことが出来ると思います。それはとても大切なことだと思いますし、家庭学校を退所しても子どもたちには忘れてほしくないと思います。
数年前に、伊予柑を家庭学校に頂いた時があり、その皮を使ってオレンジピールを作ったことがありました。それは、とても手がかかって、夕方から22時頃までかかったのを覚えています。その時は、「わたしは何をしているのだろう…」「何のために…」と、時間が進むにつれてマイナスな事ばかり考えていました。
翌日、私は休みだったのですが給食に出してもらい、後日「喜んでいた」「おいしかった」と言ってもらい、「そうだ、みんなに喜んでほしくて手間がかかるけど頑張ると決めたんだ。オレンジの皮も手間をかければ食べられるということを知ってもらいたかったんだ」と自分の気持ちに気づき、大変な思いをした分、とてもやりがいを感じる事が出来ました。
手間って大変だけど、みんなに喜んでもらえると、手間をかけた甲斐があったし、作り手もうれしい気持ちになります。これは、私たちだけではなく、子どもたちも同じではないかなと思っています。
子どもたちに育ててもらった野菜を給食で提供し、周りに「おいしい」と言ってもらえるということが、手間をかけて野菜を育てた子どもたちの喜びや達成感を得る助けにも繋がっているのではないかな、と考えています。なので、これからも食べてもらっている人たちに笑顔で「おいしい」と言ってもらえるような給食を作っていきたいです。
望の岡分校教諭 浅井純也
退所後・高校卒業後、この子たちには、どんな生活が待ち受けているのか?また、保護者は今どんな思いでいるのか?・・・などを考えながら担任として生徒たちと関わっています。
施設の生徒たちは進路に対する思いが非常に強く、自宅から学校に通う生徒に比べ進路の話によく耳を傾け、質問もしてくれます。不安や新たな希望で胸がいっぱいなんだと思います。しかし、学力に合った地元の高校に進学とはならず、保護者・児相の意向に沿った進路選択になることもあります。それぞれの家庭にも多くの事情があるため、生徒の希望だけを聞いて軽はずみな進路のアドバイスはできません。
担任として、退所後に子どもたちが如何なる環境におかれようと、行った先で適応できるよう教育・訓練をしていくことを大切にしています。相手から信頼されたり好感をもたれたり、そして感謝、安心感を得られるためには、どの様に振る舞うことが大切であるかを考えさせています。相手に過度な正義感や正論をぶつけすぎると人間関係が崩れてしまうことも伝えなくてはいけません。このことに関して生徒間のトラブルも時々あります。正しいことを相手に言う重要性を伝える立場にありながら社会の実情も教えていかなくてはいけません。正義感、正論をぶつける場合の多くは「これぐらい常識だろ」と生徒は考えてしまいがちです。「常識」は共通の当たり前ですが、「良識」は物事を深く見通した判断に基づくものなので、判断できる人とできない人がいることをまずは理解させ、良識という考え方で正義感や正論を押しつけない指導をしています。
我々大人も子どもも環境に適応していくための必要な要素は大きく変わらず、大切な事柄がいくつかあると思います。まずは与えられたことを正確にやる、挨拶・返事・意思表示ができる、お礼を言える、義理人情を大切にできる、人に正しく指摘をできる、指摘されたら素直に受け入れられる、誠実である、時間や期限を守る、スピーディーに行動ができる、穏やかに話すことができる、身の周りの整理整頓や清潔感を保つことができる、言い訳をしない、批判的にならない、しゃべりすぎない、他者ができないことをカバーできる寛容な心がある、感情の起伏が激しすぎない、感情を表情に出しすぎない、仲間との輪を大切にできる、相手によって接し方を変えない等々。高等養護学校に進学する生徒は、進学先で機械を使用する実習が多いので危険予知能力も必要だと思います。また、進学先の寮生活では上記以外に、洗濯・入浴・性コントロールなど重要なことが他にもあります。本校の生徒は、寮生活・作業班学習・朝夕作業で十分に力は培われると思います。
本校に入所した生徒は様々な成育歴や特徴を抱えています。学校現場では本人の成長と周囲の成長によって年齢が上がるにつれ人との関係性が良好になっていく傾向があります。しかし、仕事に就くと周囲を教育することは大変難しく、一見問題なさそうに見える生徒こそ周囲から誤解を招き離職するケースもあります。男女問題、人への圧力、偏見、いじめ等に正しく目を向ける社会になってきましたが、まだ完全ではなく、生徒たちが将来苦労することも予想されます。
彼らが苦労しながらも良好な人間関係を築き、生き生きと働き自立した生活ができる様になってもらいたいです。そして刺激を求めず、平凡な毎日こそ幸せであることを忘れず長い人生を歩んでもらいたいと期待しています。そして、私自身、家庭学校施設職員の優しさと厳しさによって、どこの学校よりも児童生徒が大きな成長を遂げるこの環境で、今後も頑張りたいと思います。
石上館 小六 K・石上館 卒一 R・掬泉寮 小五 K
見学学習でのたいけん
ぼくたち小学生と先生方でしらたき文化財センターと丸瀬布のこん虫館へいきました。この2つのことについてしょうかいします。
1つめはしらたきの文化財センターにいって十勝石(黒曜石)についてべんきょうしました。石器についてべんきょうしたりしました。そしてまがたまづくりもしました。ぼくとS君と弟のKは、くろのまがたまのいろにしました。たのしかったです。
つぎはこん虫館についてしょうかいします。こん虫館ではいろいろなこん虫にであいました。ヘラクレスオオカブトにさわらせてもらい、ニジイロクワガタにもさわらせてもらいました。そしていろいろなこん虫のせつめいをしてもらったりしました。ときにはザリガニもいれば魚もいました。ちょうちょのへやにもいったりさなぎからでていろをつけているカブトもみせてもらいました。ちょうちょのさなぎもみて、ひょうほんもみて、くももみて、みなかったゴキブリコーナーもありました。なにもかもが大好きだったのでむちゅうになりもっといろいろなことがしりたかったです。
本当にたのしくてまだいたいくらいでした。ぜひ、みなさんもいってみてください。
中卒生になって
僕は今回、中卒生になってからのできごとと、これからのことや、毎週金曜日にやっている酪農実習について書きたいと思います。
はじめは、中卒生になってからのできごとです。中卒生は、小学生や中学生とはちがい勉強もありますが、作業があったりワープロの授業もあったりします。作業は、草刈りをしたり、道路の凸凹を補修したり、木材を使って看板を作ったりしています。あまり好きな作業ではなかったのですが、今では意外と楽しく感じることができるようになりました。
次に、酪農実習についての事です。朝5時に起きて牛舎に行き搾乳や放牧など色々なことをしています。初日は、牛を恐れ搾乳機を付けることができなかったのですが、実習を重ねていくごとに牛に慣れはじめて、今では、搾乳機を付けたり牛と牛の間に入ることができたりするようになりました。今は、毎週金曜日に行く酪農実習がとても楽しみになりました。危険なことも多くあるけど、安全に心がけ頑張っていこうと思います。
最後に、これからのことについて書きたいと思います。僕は、この学校に2度入所しています。失敗が多かったり最年長としての自覚が足りなかったりして、できる時とできない時の差があるので、周囲を見て行動できるよう常に意識を持って信頼されるような人になりたいと思います。そのためには、言われたことに素直に耳を傾け、その時の気分で態度を変えないで、やり抜く力を身につけ、先生に指摘されたことや、アドバイスを忘れず将来のことを考えたいと思います。それと、困ったり、悩んだりした場合は、先生に相談して、わからなくてもそのままにしないようにしたいと思います。
つりえんそく
ぼくは、つりえんそくの日、ごぜんのじかんはぜんぶつりをして、ごごのじかんはちょっとだけつりをしたあとに水あそびをしました。
あと、ごごのつりと水あそびのまえにおひるごはんをたべました。おひるごはんは、ぶたじるとこんぶのおにぎりとわかめのおにぎりとてんかすのおにぎりでした。ぼくがおひるごはんをたべておもったことは、おいしかったことと、またたべたいとおもいました。
次に水あそびのことをかきます。水あそびでは、ドジョウをみつけて遊びました。それでぼくがおもったことは、たのしかったことと、あみがおもたかったことです。
それと、ぼくはあかちゃんゆびからおやゆびまでの大きさのニジマスをつりました。つれてうれしかったです。
かんそうはたのしかったことと、いけてよかったことと、いけてうれしかったことと、ニジマスをつれてうれしかったことです。あと、かきわすれたことをかきます。ごぜんちゅうにつれました。