ひとむれ
このコーナーでは、家庭学校の月毎の機関誌である『ひとむれ』から一部を抜粋して掲載しています(毎月上旬頃更新予定です)。
職員が、家庭学校を通じて感じたことや伝えたいことを表しています。是非、ご感想をお聞かせください。
※都合により『ひとむれ』本誌と内容が異なる場合がございます。ご了承下さい。
巻頭言
感化教育を思う
望の岡の森に触れて
<児童の声>
校長 清澤滿
家庭学校を訪ねて来られる方は、ほとんど例外なく礼拝堂を見学されます。
望の岡に凜と構える礼拝堂は、今から百一年前に完成した建物で、校祖留岡幸助先生が大正十三年に出版された「自然と児童の教養」という本に次のように書かれています。
『この清泉から同じ谷を約五丁も登ると、饅頭形の岡がある。まことに心地よき丘陵であるから、私は之を望の岡と名付けた。私がこの丘陵を斯く命名したのは外でもない。如何なる人でもこの丘上に立てば必ず望みを持つことが出來るやうになると信じたからである。自然の感化は驚くべきものがある。かう云う考から大正七年の夏、私はこの丘上に四、五百人を容れ得る禮拝堂を立てた。而して毎日曜日は私の率いる學生、職員及びその家族や分家の人々を集めて神の道を説くのである。』。
そして、大正八年九月十五日発行の「人道第百七十一号」には、大正八年八月三十一日(日)に家庭学校農場創立五周年記念会と礼拝堂献堂式が執り行われ、その様子を『定刻一時、参集者次第に多く、階上階下立錐の地なく、・・』とその数『五百有餘名』のお客様を礼拝堂にお迎えしたことが記されています。
この二つの文書には礼拝堂が建った時期に一年のずれがあります。以前、日曜礼拝で幸助先生の書かれた文書を引用して子ども達に礼拝堂のことを話した時から疑問に感じていました。そこで、かつて家庭学校の博物館長を務められ、現在も家庭学校の古い資料の整理にご尽力いただいている佐藤京子先生(現当法人評議員)にそのことを確かめる方法はないだろうかと相談したところ、当時の日誌を調べてみるとよいとのアドバイスを頂き、他にも古い会計書類(領収書綴り)などを博物館の収蔵庫から提供してもらいました。
まず、大正六年~七年の「建築部支払領収証」という綴りを見ると、大正六年五月一日に礼拝堂建築の中心人物の一人であった大工の松原儀八氏(札幌在住。後に社名淵に来る四国今治の松原惣八氏の兄)に家庭学校農場への着場旅費が支払われているので、この年から本格的な工事が始まったものと思われます。同年九月から十一月にかけて礼拝堂に係る石工事や土台工事費用、セメントや砂利など資材の運搬費用の支払が集中しており、この年、礼拝堂の基礎工事が行われたのは間違いないと思われます。十二月の領収証には松原惣八氏の名前が登場するので兄儀八氏と同様大正六年に家庭学校農場に来られたようです。
翌大正七年には礼拝堂の足場費、柾葺代、煙突費用などの支払があるので、この年から躯体工事が進められ、また、飯場のようなものが設けられていたことが、礼拝堂大工小屋建築費の支払があることから分かります。
大正八年は家庭学校農場の日誌から日曜礼拝が行われた場所などを時系列で追ってみました。この年の最初の日曜日である一月五日には、『石上館ニ於テ日曜禮拝ヲ行フ』との記述があり、その後も冬期間は石上館や掬泉寮で日曜礼拝が行われています。冬を除けば、雨の日は同様に寮舎で、晴れの日は『日曜禮拝 望ノ岡』との記述が八月十七日(日)の礼拝までありました。八月三十一日のページには前述の「人道第百七十一号」の切り抜きが貼られ、以降しばらく日誌は途絶えますが、十一月二日(日)の日誌に『日曜禮拝 望ノ岡礼拝堂』と初めて『礼拝堂』の文字が登場しています。また、この年も礼拝堂建築資材の運搬や工事に関する協議が頻繁に行われています。
以上から考えると礼拝堂が完成したのは大正八年八月頃であり、今年が築百一年目であることは間違いなさそうです。
では、幸助先生が「大正七年の夏に礼拝堂を立てた」と書かれたのは一体なぜなのでしょうか。家庭学校農場創立五周年記念会という節目の年に礼拝堂献堂式が行われているので、この一大行事の日を幸助先生が記憶違いされたとは考えづらいのです。私は、こう想像してみました。領収証を見る限り大正七年の夏頃には建物の骨組みや柾葺きを終え棟上げの段階を迎えたと思われる(上棟式は確認できませんでしたが)ので、近い将来の完成を信じた先生は、そう記述されたのではないかと:。佐藤先生は私の疑問に「留岡幸助日記」などを詳細に調べ上げ、大正七年の七月十二日(金)から十四日(日)の日記に着目されました。当時、礼拝堂の建築が思うように進まない現状に心痛していた幸助先生のもとに、東京の理事から、礼拝堂の予算を増額して工事を継続せよとの電報が入り(十二日)、十三日には樹下庵で協議会を開き礼拝堂建築工事の継続を決定しています。また、翌十四日の礼拝における説教で、礼拝堂は九月中旬までに完成させると宣言したことが他の書物から確認できるとのことでした。そうしたことから、幸助先生には、東京からのゴーサインがあって建築続行を最終決定した大正七年の夏の印象が強く残り、それが確信に変わって「立てた」との表現になったのではないかとの推測です。この説の方がより説得力がありそうです。
いずれにしても、当時は礼拝堂だけではなく掬泉寮や石上館の家族舎のほか、樹下庵、牛舎等の建築工事が次々と重なるように行われ、大工の確保や資金繰りに困難が多かったようで、松原儀八氏、惣八氏のご兄弟や中心的役割を担った大工達に負担が集中していたようです。
ところで、礼拝堂完成前の日誌に『日曜禮拝 望ノ岡』との記述が何度も出てきますが、建物の無い望の岡でどのように礼拝を行っていたのでしょうか。その答えを幸助先生の「自然と児童の教養」にある礼拝堂の写真の説明書きに見つけました。そこには『林中右方に見へるのは四、五百人を容れ得る禮拝堂で、左方に長椅子を併らべたかの如く見ゆるのは林間禮拝堂であって、晴天なれば多くこの野外講壇で道を説くのである』と記されていたのです。
さて、礼拝堂は家庭学校に現存する建物の中で一番古く、長年の風雪に耐えてきた外壁や屋根などに所々不具合が生じてきています。屋根は昭和二十六年に柾葺きから鋼板葺きに改修し、その後昭和六十年に一度葺き替えて以降手を加えていません。外壁は平成六年の塗装が最後となっています。
本誌第九七二号でお伝えしておりましたが、七月に漸く礼拝堂の改修工事が始まりました。日当たりが悪く雪が溜まりやすい礼拝堂裏手の外壁は腐朽が進んでいるので土台や羽目板を部分的に交換し、屋根や外壁は塗装をしっかりと施します。この他、玄関ポーチのコンクリート床や内部の床材の改修などを実施し、八月末までには改修を終える予定です。礼拝堂は平成二十七年に北海道指定有形文化財の指定を受けており、改修によって文化財としての歴史的価値を損なわないよう専門家のご意見も伺いながら進めているところです。
幸助先生は、感化教育の適地として北に土地を求めた時からそこには礼拝堂を立てようと心に決めておられたのだと思います。払下げを受けた土地は未開拓の山林です。そこに道を付け、土地を切り開くのは並大抵のことではありません。そうした中、「生命の泉」の先にある饅頭形の岡を目にした時、此処だと気持ちを固められたのでしょう。
多くの苦難を乗り越え漸く完成を見た礼拝堂が、今もなお子ども達と私達を前にその歴史と伝統を伝え続けています。
事務局長 安江陽一郎
私は、朝八時の打合わせに合わせ七
時頃本校に向います。
道々から敷地内に入ると、早朝の静けさと本校百年余の歴史の重厚さも相まっています。ゆっくりと車を進めると、牛舎から搾った牛乳が入っているだろう缶を持って、小走りに寮へ向かう子どもが遠くに見えます。少し車を進めると、今度は掬泉寮の前の道路を竹箒で清掃している子ども二人が見えます。さらに車を進めると、図書館の前では石上館で飼っている犬の散歩をしている子どもがいます。私は車を止めてウインドウガラスを下げ「おはよう。」と声を掛けると、頭を少し下げ小さな声で「おはようございます。」と応答してくれます。さらに車を進めて駐車場に着くと、石上館の前では窪田寮長と子ども達数名が石上館の前の畑を整備している情景が見えます。
子ども達が、進んでやっているのか、嫌々やっているのかその心の中は図れませんが、親子共々、この様な日常生活を過ごすことができていたらどうだったのだろうと思います。ある意味、君達は今、人生の楽園を過ごしていると見えてしまいます。読者の方からは、そんなことはないとお叱りを受けるかもしれません。しかし、先生方から、仕事だとはいえ、こんなにも心配をされ、見守りされ、一諸に汗を流しすことは人生そうないと思います。そういう意味において、ある意味、人生の楽園を過ごしているんだよと言いたいのです。
共に能く働き、能く食べ、能く眠る。勤勉で規則正しく健康的な生活を送るという校祖留岡幸助先生の子ども達への熱い思いが、言葉では言い表せきれないものがあります。百年余にわたり大事な伝統として守られきた朝作業の光景。皆さんも、朝七時の家庭学校にいらしてください。これが、本校の神髄である感化教育を垣間見ることができます。
朝のこの光景、良く挨拶ができ、良く働く子どもは、そろそろ本校と別れが近いと聞きます。
○
そして、私が二十代半ばに遠軽町総務部庶務課広報町民相談係をしていた時に、遠軽信用金庫理事長をしていた村上富之助さんとお会いしたことを思います。村上さんには、当時、黄授褒章を授けられ、その取材でお会いしました。
村上さんは本校の監事も長く勤められましたが、本庫は、地域の中小企業のため地域の人々ための金融機関であり、そのための教育の一環として、本店では若い行員さん数名が、毎朝本店前の歩道を掃除しています。
この光景、家庭学校の門から本館に至る朝作業の光景と同じように、私の目には映ります。
望の岡分校教諭 冨山光太郎
「たくさんのヤドリギがあるなぁ。」
体育館越しに裏山を見上げると、樹齢の高い多くのカシワの木が生えているのが見えました。道すがら見慣れていた校門から本館までの初めての道のり。そこにも巨大なハルニレやカシワ、オオバボダイジュが堂々とそびえている。車の窓越しに聞こえる鳥たちのさえずり。わくわくと胸が躍る初出勤でした。
四月から望の岡分校への勤務を命ぜられ町内の中学校から異動してまいりました。分校には以前知人が務めていたこともあり「自然が豊かな学校」であるという認識はありました。しかし、いわゆる原始の自然ではなく、一八九九年から営まれてきた児童生徒、職員のみなさんの生活活動との調和の中で育まれてきた森は、私の想像以上に豊かで美しく、これからの活動に胸が高鳴りました。
学生の頃から野生動物の調査に関わってきており、生活の拠点も自然豊かな土地へと根を下ろし、家族で畑を耕して鶏を飼い、森の木で薪を作って冬を凌ぎ生活をしてきました。 子ども達が巣立ったころ、勤務先の中学校も遠方となり日々の仕事も忙しくなったことから、家の畑も雑草だらけとなり、一時百羽を超えていた鶏達も、度重なるクロテンの襲撃もあって数を減らし、暖をとるのも薪から灯油へと変ってきたこの
頃。「何かを変えなくては。」そんな思いを抱いていた時、家庭学校の門をくぐりました。
山林班に所属させていただき久々に火を入れたチェンソー。森での活動は私の心に再び火を灯してくれました。木漏れ日の中、 湿気を帯びた木の葉の匂いとひっそり耳に入ってくるキビタキのさえずり。刈り払い 機とチェンソーの唸りの中で懸命に作業に取り組む子ども達の吐息。それぞれが自らの目標を立てて挑んだ林道作業。昨年十一月から始まったこの作業も、七月十六日に全面開通することができました。子ども達 は皆目標を達成することができたでしょうか。そして、9か月余りに及んだこの作業の完成から、達成感を味わうことができたでしょうか。
人間は自然の恵みを受けながら生活し文化を築いてきました。しかし、二十一世紀を迎えた現代はその恵みを肌で感じることが少なくなり、人と人との関わりについても希薄となっています。理科という教科を担当している以上、本物の自然と触れること、そこから生まれる人と人とのコミュニケーションの重要さをひしひしと感じています。
私の尊敬する科学者のレイチェル・カーソンは、自著の『センス・オブ・ワンダー』の中で「地球の美しさと神秘を感じとれる人は、科学者であろうとなかろうと、人生に飽きて疲れたり孤独にさいなまれることはけっしてないでしょう。たとえ生活の中で苦しみや心配ごとにであったとしても、かならずや、内面的な満足感と、生きていることへの新たな喜びへ通ずる小道を見つけだすことができると信じます。地球の美しさについて深く思いをめぐらせる人は、生命の終わりの瞬間まで、生き生きとした精神力をたもちつづけることができるでしょう。」と述べています。家庭学校での自然と向き合う子ども達の活動は、彼らの心に新たな道を見つける機会を与えていると感じています。私もこの四か月間たくさんの発見の喜びを味合わせていただきました。
人の感性は異なります。当然、自然との触れ合いを苦手としている子ども達もいることでしょう。だからこそ人と人とのつながりが大切です。地球規模で広がったウイルスの感染に怯えた我々人類は、人としての理性をも問われているように感じています。また、カーソンは「『知る』ことは『感じる』ことの半分も重要ではない」と言っています。私たち教師は「知性や学力に囚われ、自然や他の人々の心を感じる感性を失ってはいないだろうか。」と、教科書の詰め込みだけでなく感性を磨く活動の重要性を深く感じているところです。子ども達と森の中で作業をしている時、私自身も子ども達と共に感覚を研ぎ澄まし感性を磨く素晴らしい体験をさせていただいています。
始業式を迎え仕事も軌道に乗るかという時に、全国で行われた臨時休校で出鼻を挫かれてしまいましたが、七月を迎えやっと流れに乗ることができたように感じています。理科室外の壁に『センス・オブ・ワンダー』と書いた簡易なホワイトボードを設置し、その日の動植物の情報を簡単に掲示させていただいています。森の中で「不思議だな?」と思ったことがありましたらどんどんお知らせください。共に『センス・オブ・ワンダー(神秘や不思議さに目を見張る感性)』を磨きましょう。しかしながら家庭学校や望の岡分校についてはまだまだわからないことばかりで職員の皆様にご迷惑をおかけすることも多々あるかと思います。微力ながら子ども達の成長の力添えになれるよう、日々感性を磨いていきたいと思っています。
どうぞよろしくお願いいたします。
楽山寮中三 Y・楽山寮小五 H
「ここで暮らしての変化」
楽山寮 中三 Y
ぼくはここに来てからいろいろ成長したところがあると思います。ですがいろいろ成長した中でも一番変化が大きい体力面の話をしようと思います。
ぼくはここに来たときすごく体力がありませんでした。来てすぐの夕作業ではほとんど動かないまきつみをやっているだけでもヘトへトになってつかれてしまっていました。ぼくが来てから四日後には平和山登山もありました。はじめて登山なんかやったし朝もめっちゃ早いしでやる気もでないし登るのもすぐにつかれてしまって本当に四分の一も登れませんでした。五月にはマラソン大会もありました。ここへ来る前からマラソン大会があるとは知っていましたが中学生は五キロメートル走ると知ってこのころには来てすぐよりは体力がついてきていたと思いますが流石に無理だと思い絶望しました。ですがやってみるとすごく時間もかかったし途中歩いてしまうこともあったけれどあきらめずに完走することができました。平和山登山も最近は少しもおくれることなく最初から最後までみんなといっしょにのぼることができるようになりました。最初のころは本館へ行くときも冬なのに汗だくになりみんなよりおくれて寮のみんなに迷惑をかけていたと思います。でも今はみんなからおくれずに行けるようになりました。寮や作業班学習での作業もみんなと同じような作業をできるようになり物を走って取りに行くこともできるようになりました。
これからはもとの体力が少ないからマラソン大会とか運動会などでビリなのは変らないと思います。ですがここでの生活で体力もついたし他に学んだことがたくさんあると思います。なのでたとえビリになったとしても自分のできることは一生懸命がんばることだと思うのでこれまでやってきたのよりもこれからは運動系の行事も寮生活でもこれまでよりもさらに頑張ろうと思います。
「つりえんそく」
楽山寮 小五 H
ぼくは、初めてつりえんそくへ行きました。午前は、じゅんびと出発式をして、ワクワクが止まりませんでした。
そして、ついてからじゅんびをして、ワクワクしながらつりをしていると、石にひっかかったりして、午前はつれませんでした。でも午後は、魚をつって。全力で先生の所にいって写真をとってもらって、もう一匹つるぞと思いましたが、今年は、一匹しかつれませんでした。そして。かたづけに入いること、バケツの中を見ても、魚はうごいてなくて、「まあ休息しているんだ。」と、思いましたが、寮に帰るとちゅう「おきないかなぁ。」「飼えるかなぁ。」と、思ってこれからどうするかを決めました。でも、っったことを思いだすとやっぱり飼いたくなってきて、先生に「飼えますかね。」とききましたが、「飼えないんじゃない。」といわれて悲しかったです。そして、寮についてバケツを寮の玄関に置いて、魚のようすをみていたらうごいてなくて、心ぞうあたりをさわってみると、うごいてなくて死んでしまった魚を見ているとだんだん涙がでてきてとうとう泣いてしまいました。そして、先生が来て相談にのってくれました。でもやっぱり死んだ魚をみると飼いたくなってしまいます。先生には「これからどうするかきめてね。」といわれ、たべることにしました。そして、夕食の時にたまき先生にやいてもらって、たべているとつい魚が泳いでいるのを思いだしてしまいました。そして、骨をあした、たまき先生とおはかにうめてあげることにしました。
そして、次の日の昼にたまき先生に手伝ってもらいました。そしてうめて花をそえてあげました。それを、次の日の昼も花をそえてあげました。そして、思ったことはぼくは生き物が好きで魚が死んだところをみると悲しかったです。でもたべてみるとおいしかったです。そして、動物、魚もいきているわけだから、そのことを忘れずに感しゃしてたべていきたいです。