ひとむれ
このコーナーでは、家庭学校の月毎の機関誌である『ひとむれ』から一部を抜粋して掲載しています(毎月上旬頃更新予定です)。
職員が、家庭学校を通じて感じたことや伝えたいことを表しています。是非、ご感想をお聞かせください。
※都合により『ひとむれ』本誌と内容が異なる場合がございます。ご了承下さい。
巻頭言
理事長講話
生徒と共に成長する
切り絵と家庭学校の生徒たち
〈児童の声〉切り絵を教えてもらった感想
〈校外通信〉北海道家庭学校を訪ねて
校長 仁原正幹
七月中旬は暑い日が続きました。北辺のオホーツク地方でも連日三十五度の猛暑に見舞われ、十四日の「釣り遠足」も熱中症が出ないか心配しました。何しろ場所となる湧別川河畔は日陰がないのです。でも、子どもも大人も暑さなどものともせず、それこそ釣りに熱中しました。
昼は定番のジンギスカン。バーベキューの鉄板の上にはいつもの羊肉と自家製の野菜に加えて、今年はサツマイモのスライスがたくさん並びました。ちょうど前日に千葉県在住の大先輩、岸本義輔さんから大量に送っていただいたものの一部で、皆で美味しくいただきました。
暑い中、事前の河原の草刈りや当日の炭火熾しなどに奮闘され、また、絡まった釣り糸を解き、餌の付け方などを懇切に指導された先生方のお陰で、素晴らしい「釣り遠足」となりました。生徒たちの心に残るものとなったことでしょう。
毎年夏の時期は見学や実習などのために遠方から来られるお客様のラッシュとなります。海の日の祝日を含む三連休でしたが、私は来客対応で家庭学校に残ることになっていたので、中日の十六日の日曜礼拝に校長講話を組み込みました。今回は「偶然力」について、子ども達に語りかけました。以下、講話の概要です。
○
今日は「偶然力」という話をしたいと思います。「偶然の力」と書きます。あんまり聞いたことがない言葉だと思います。でも、時々私が「偶然力」という言葉を口にするので、それを聞いていて覚えている人がいるかもしれません。実は私は六年ほど前に、ある本、多分飛行機の中で読んだ機内誌だったように思うのですが、その本を読んでいて初めて出逢った言葉です。その本の中に「偶然力」という言葉を書いていた人は、脚本家の小山薫堂さんという人でした。
小山薫堂さんは、『おくりびと』という映画の脚本を書いた人で、この映画はアメリカのアカデミー賞の外国映画賞も受賞した有名な作品です。見たことある人いるかな。それから、みんな「くまモン」は知ってるよね。熊本県のキャラクターで、ゆるキャラの中でも一番有名だよね。小山薫堂さんは、「くまモン」の生みの親としても知られています。
さて、本題に戻りますが、その本には、このように書いてありました。
❂ 日々の偶然を力に変える「偶然力」は何も特別な力ではない。
❂ ほんの少し「想像力」と「好奇心」と「行動力」があればいい。
❂ 「偶然力」を信じることは、自分の「未来」を信じることなのだから。
私はこの「偶然力」という言葉とこの短い文章に大変感銘を受けました。
ちょっと抽象的で難しいかもしれません。それで、ここから私なりに解釈したこと、私の考えている「偶然力」について、具体的な話としてお話しします。
皆さんが家庭学校にやって来たのは、たまたま「偶然」だと、私は思います。
この中で、最初から家庭学校のことを知っていて、自分からここを目指して入って来た人は、まずいないと思います。自分から家庭学校を目指してやって来た人、いるかな。いたら手を挙げてください。(ね、いないよね)
それぞれにいろんな事情があって、長い経過があって、児童相談所の先生など周りの人から勧められて、そして最後は自分で腹を決めて、自己決定して、「家庭学校で頑張ってみよう」という気持ちでここにやって来たのだと思います。
だから、初めからここに来ることが決まっていたわけではないんですね。もしかしたら、誰かに勧められなかったら、また、自分で決められなかったら、今ここにはいません。全く別の所にいたかもしれません。
家庭学校で、今こうして生活しているのは、たまたま「偶然」なんですね。石上館、掬泉寮、楽山寮の寮生になったことも、そこで寮の先生や寮の仲間と一緒に暮らしているのも、「偶然」です。望の岡分校の先生やクラスの仲間と出逢って、一緒に勉強しているのも、これも「偶然」なんですね。
私のこともお話しします。私は、三年前の四月一日に家庭学校に来たのですが、これもたまたま「偶然」です。その半年ほど前に、ある人に勧められたのが切っ掛けで、本当に迷いに迷って、最後は自分で腹を決めて、家庭学校にやって来ました。君達と同じように自己決定して来ました。もし、ある人に強く勧められなかったら、そして私自身が覚悟を持って行動に移さなかったら、私は今ここにいません。だから、私が今この礼拝堂の舞台に立って君達に語りかけているのも、「偶然力」によるものだと思っています。
ここにおられる多くの先生方も、きっとみんなそうだと思います。「偶然力」の力に導かれて、北海道家庭学校にやって来たのだと思います。
たまたま「偶然」に、生徒の皆さんと先生方が、この日本の国の北の端っこの方にある、遠軽町留岡の北海道家庭学校で出逢って、この広い森の中で生活を共にしながら、一緒に勉強し、作業しているわけです。
思えば人生は、「偶然」と「出逢い」と「別れ」の連続なんですね。私はこういうふうに考えています。たまたま「偶然」なんだけれども、きっとそこには何か「意味」があるのだろう…と。それこそ「想像力」を働かせています。だから、この「偶然」を活かして、ここで自分のできることを最善を尽くして、ベストを尽くしてやっていこう、少しでもみんなの力になれるよう頑張っていこうと思っています。そうすれば、きっと私自身も成長できるし、未来が拓けるし、良いことがある、そういうふうに前向きに考え、「偶然力」を信じることにしています。
皆さんも、せっかく「偶然」に家庭学校に来ることができたのだから、また、いろんな先生方や仲間たちとここで出逢ったのだから、この「偶然」と「出逢い」を大事にしてほしい、そして、この家庭学校で大きく成長してほしいと、私は願っています。
何でもないことが、大きな分岐点になることがあります。家庭学校での生活が、君達の人生の大きな転換点になるかもしれません。私は、是非そうなってほしいと、強く思っています。
君達はここに来るまでに、家庭学校に辿り着くまでに、家や学校や前の施設などで、きっと相当な苦労があったと思う。たくさんの困難に見舞われたと思います。そして現在、この家庭学校で生活する中でも、いろいろと辛いこと、苦しいことがあると思います。家庭学校に来てからも毎日のように困難なことに立ち向かっているのだと思います。
何度も何度も言っているけれど、ここに『難有』の額が掲げられています。覚えているよね。困難なことに出遭うことは、辛く苦しいことだけれども、逆にチャンスなんだね。人は困難なことに出遭って、それを乗り越える度に成長していくものなのです。困難があることは有り難いことなんだということを、覚えていてほしい。苦しいときには『難有』をいつも思い出してほしいと思います。
ここにいるみんなは、生徒も先生方も私もみんな、せっかく「偶然」に今、家庭学校にいるのだから、「偶然力」を信じて、この家庭学校で全力を尽くして、いっぱいいっぱいに頑張って、自分を磨いていきましょう。そして共に大きく成長していきましょう。
さっき、人生は「偶然」と「出逢い」と、そして「別れ」の連続だと言いました。君達は家庭学校にいる時間はそう長くはありません。一昨日A君が巣立っていきました。彼は二年間、家庭学校で一生懸命努力して、ときには失敗もあったけれども、彼にとっての課題を克服して、困難を乗り越えて、大きく成長して、故郷に帰って行きました。
みんなもここにいる時間はそう長くはありません。うっかりしてたら直ぐに時間が経ってしまいます。のんびりなどしていられないのです。誰かに決められたからここに居るのではない。誰か人のせいにして逃げていないで、自分で決めたのだから前向きにいきましょう。一日一日を大切にしてほしい。勉強も作業も寮生活も、どれも皆頑張ってほしい。
「偶然力」を信じて、自分の「未来」を信じて、毎日の生活を、みんなで力を合わせて前向きに頑張っていきましょう。今日のお話を終わります。
理事長 家村昭矩
北海道家庭学校は、長い歴史があります。いつのころからでしょうか、毎年この時期になると慰霊祭を行ってきました。今日は、「慰霊」のことを皆さんと考えたいと思います。
慰霊祭は、家庭学校で暮らした生徒諸君や職員、そのご家族、そして家庭学校を支えてくださった多くの関係者で、毎年亡くなられた方を慰霊簿に記し、皆さんの来し方を偲び、厳かな慰霊の儀式を執り行ってきました。
今朝、生徒代表の皆さんと町内に眠る方のお墓参りも済ませてきました。そしていま、家庭学校に沢山の思い出と深い想いを残されて逝かれた多くの先輩の前に立ち、私は身が引き締まるのを感じています。
先週、元職員の藤田先生ご夫妻のお宅を訪ねました。四日前の七月二十九日は、三年前に八十三歳で亡くなられた藤田俊二先生のご命日です。私は、亡くなられた先生に家庭学校の近況を報告しました。
藤田先生ご夫妻は三十年間、家庭学校で生活され、長く石上館寮長を務めていました。先生は、ご機嫌のよいとき「僕は、生まれ変わっても、石上館の寮長をやりたい」と口癖のように話しておられたことが、今も私の耳に残っています。
先生が体調を崩され息を引き取られた日は、奇しくも旧石上館の取り壊し作業が始まった日でした。昨年、私は改築された石上館の写真をご仏前に届けました。今、石上館には鬼頭先生、前谷先生がいらっしゃいますが、きっと藤田先生も見守ってくださっているのではないでしょうか。
皆さんに一冊の絵本を紹介します。タイトルは『わすれられない おくりもの』スーザン・バーレイ(英)です。作者が二十二歳の時、とても慕っていたおばあさんを亡くし、悲しみも癒えないときに描いた初めての絵本です。小学校の教科書にも取り上げられているので知っている人もいるでしょう。お話は、こうです。
森に賢くて何でも知っている年老いたアナグマがいました。アナグマは森の動物たちみんなから、とても慕われていました。
秋の終わり、年取ったアナグマはもうすぐ自分の死が近いことを悟ります。ある夜、暖炉の側の揺り椅子で寝込んでしまいました。そして、長いトンネルを走り抜ける夢を見ました。机には、森のみんな宛に「長いトンネルの向こうに行くよ、さようなら アナグマより」という手紙を残していました。
朝になって、いつものように「おはよう」と声をかけてくれないアナグマのことを心配したキツネが、アナグマの様子を見にいき、アナグマがみんなに手紙を残して死んでいることを知りました。森のみんなは、深い悲しみに包まれました。アナグマとの忘れられない沢山の思い出がありました。
モグラは、アナグマからハサミの使い方を習い、素敵な切り紙細工を教えてもらったこと。カエルは、スケートが上達するまで、つきっきりで教えてくれたこと。ネクタイが結べなかったキツネは、結べるまで何度でも丁寧に教えてもらったこと。森の動物たちは、物知りで優しいアナグマとの忘れられない思い出を語り合うのです。そして、アナグマからの「たくさんのおくりもの」で、今はみんなで助け合って暮らしていることに気が付く、というお話です。
家庭学校の暮らしは、森の中の暮らしです。百年という長い時間かけ、森を拓き、道をつけ、畑を耕し、水道を引き、建物を幾度も建て替え、たくさんの人たちの暮らしを経て、今の家庭学校の暮らしがあります。
絵本にあったモグラの紙切りの話で思い出すことがあります。元柏葉寮の寮長の平本良之先生が寮活動で取り入れた「切り絵」です。始めたのはもう四十年ほど前のことです。当時の作品が本館の廊下や私の理事長室にもあります。先生は、「僕が教えなくても、生徒たちが新入生に教えて、毎年上達していくんだよ」と語っていました。今また学校全体で取り組んでいますね。
同じ廊下に、先輩たちの木彫作品と昨年度の木彫コンクール発表が掲示してあります。木彫は、家庭学校を退職後も営繕や花壇を続けてくださった斎藤益晴先生が寮長時代に始められたもので、五十年以上も前のことです。
学校の暮らしでは、畑を耕すとき、畝を作るとき、そして秋の収穫の時、また、学校の営繕作業の時など、様々な道具の使い方や働き方を教えてもらいます。冬になれば除雪の仕方、絵本のカエルのお話しのように、スキーの乗り方を教えてもらったりしますね。そして、山から木を切り出し斧で薪を造り、風呂の沸かし方をおぼえます。あらゆることで皆さんには初めての経験ですね。そのとき、それを教えてくれるのは、先生ですか?先輩、仲間ですか?
その多くの事柄は、長年学校で暮らした先生方がそれぞれに、あらゆる知恵と工夫を凝らして伝えてくれたものです。そして、みんなの先輩たちではないでしょうか。一年間家庭学校で暮らすと、その手順や心得をだいたい会得しますね。みなさんは森のアナグマのように、後輩にやさしく丁寧に教えているでしょうか。
藤田先生がお書きになった本に『もうひとつの少年期』1979(S54)があります。その本が出版されたとき、私は施設(教護院)で働くかどうか悩んでいた時でした。その本を読んで、強く背中を押されたことを思い出します。それは、アナグマがキツネにネクタイの結び方を教えるように、藤田先生は「僕はこんな風にして子どもたちと暮らしている。どうかな?!」と気合を入れて、伝えてくれているようなものでした。
家庭学校には、沢山のアナグマがいました (それは、長年家庭学校で暮らした多くの職員の皆さんです) 。そして、沢山のモグラやカエル、キツネたちが、教わったことを伝えてきているのです。今いるみなさんも、次に繋がるその一人です。
家庭学校は「森の学校」とも紹介されています。家庭学校の暮らしは、皆さんの人生の、ほんの一時でしかありません。しかし、この森の中で、どこの学校も真似のできないとても豊かな暮らしを体験しているのです。それはみなさんの人生にとって、かけがえのないものとなると思います。
私たちは、その時は気づかなくても、周囲の誰かから「忘れられない おくりもの」を知らず知らずのうちに受け取り、そして自分も「おくりもの」を誰かに渡して生きているのです。
私は、年老いたアナグマと同じ年代になりました。優しく丁寧に、ちゃんとした「おくりもの」を渡してきているだろうか、慰霊の日に、自分に問いたいと思います。
(八月一日実施の『慰霊祭』における 「理事長のお話」から抜粋したものです。)
掬泉寮寮長 藤原浩
掬泉寮の寮担当になって早々と一年四カ月になりました。寮担当になる前には、本館職員をしながら他の寮長先生が休みの時の輪休対応で、洗心寮で二泊子どもと一緒に過ごしました。その時から、寮長をイメージしながら子どもと過ごしていました。新任職員でなお、当時の生徒より年季も短く、当然のことで、集団をまとめることが出来ず、時には指導のつもりでトラブルの原因になることもありました。輪休後寮に帰ってのびのびと生活する姿をみて、自分の関わり方を反省することは毎回のことでした。
「年季が浅いから、子どもになめられる」、「本館職員だから生徒は言うことを聞かないのは当然だ」という結論にたどりついたことはいかに無茶であることを、寮長になった今になって気づきました。振り返ってみると、私は当時の寮長の姿や生徒の関わりを見て、無意味に真似しようとし、また、自分の思う「正しい」というものを生徒に押し付けようとするパタナリズムの考えで、無意識に生徒のことを支配しようとしていたかもしれません。その結果、生徒にとっての輪休寮は居心地が悪いことになってしまい、不安やストレスでトラブルにつながっていたかもしれません。
昨年の三月二十八日、前任寮長の楠先生から生徒五名を引き継ぎ、掬泉寮の寮担当になりました。それまでは楠夫妻の指導の下で安定していた寮を運営するのは、正直プレッシャーが大きかったです。そこで、楠先生をはじめ先輩職員から助言をいただきながら、なんとか寮の安定を保っていました。しかし、「トラブルが起きないように」と常に思いながら生徒と接し、ピリピリした毎日で、寮の雰囲気は暗かったように思います。子ども間の小競り合いは毎日のデザートのようなものでした。
寮担当になって一ヶ月後に寮母が産休に入り、そして六月に息子が生まれました。子育てをしながら「親」のあり方を考えました。ふと思えば、子どもがいることによって自分が親になったと同じように、生徒と一緒に生活することで初めて自分は寮長になりました。子どもは日々成長しますが、それは私が成長させるわけではなく、私がすることは、成長する環境を与えることだと気づきました。 このことは、寮運営においても共通しているのはないかと思いました。「能く働き、能く食べ、能く眠る」という家庭学校の基本となる三能主義は、まさに子どもが成長するための必要条件であります。
自立支援は強制でも矯正でもありません。家庭に恵まれず、居場所をなくしてきた子どもたちが家庭学校で、この擬似家庭の寮舎で、家庭的な体験を積んで、時に失敗をして成長していきます。子どもが安心して暮らし、のびのびと成長する環境を提供することが私の仕事ではないかと考えました。
日々の作業や生活は生徒からしたら大変かもしれませんが、退所後に、家庭学校に、掬泉寮に来てよかったと思えるように頑張っていきたいと思います。
非常勤講師 佐々木真哉
また家庭学校に戻ってきました。戻ってきたといっても望の岡分校の支援員としてですが。そしてこのほど家庭学校の非常勤講師としても、支援の一環として、また切り絵を教えることとなりました。生徒数が減った分、楽になるかと思っていましたが、生徒の質がまるで変わっていました。
切り絵は根気が必用であり、最後までやりきる粘りがないとだめです。紙とカッターナイフと題材があれば誰にでも安易にできる簡単さはありますが、粘る根性がないと作品は出来上がりません。
どうもその粘り強さに欠けるように思います。前回の子ども達には多少なりともそれが備わっていたようです。切り絵をやることで精神の安定、粘りが備わって、多少なりとも自分の向上性につなげていってほしいと思っています。
《切り絵指導について》
今年度より望の岡分校の支援員の先生として佐々木真哉先生が来られました。佐々木先生は分校開設前の数年間、家庭学校の非常勤講師として、美術の時間に子ども達に切り絵の指導などをしていただいていました。
家庭学校には平本良之先生の切り絵指導の輝かしい歴史もあり、また、現在の子ども達も木彫や雪像づくり等の創作活動を好む傾向があることから、佐々木先生にお願いして、家庭学校の切り絵指導を復活していただくことにしました。
六月に入ってから、毎週金曜日の七時限目に当たる放課後の時間に、本館美術室で子ども達全員と多くの職員に切り絵指導をしていただいています。切り絵に熱中することにより、寮生活においても子ども達の余暇活動が一層充実したものとなることを期待しています。
楽山寮中2 K・リク
毎週金曜日の7時間目に、佐々木先生に切り絵を教えてもらえる時間があります。自分ではやったことがあるのでいろいろなことがわかります。でも、佐々木先生の方がよく知っているのでいろいろ教えてもらいます。
そこで1枚目と2枚目ができたので3枚目を調子に乗ってものすごくむずかしいのを選びました。すこしあきらめかけました。そこで見たのが佐々木先生の作品です。その作品を見た時ものすごくきれいで、すごくいい作品だなと思いました。佐々木先生は苦労をしてまでがんばって、ていねいな切り絵をしている人だなと思いました。自分も佐々木先生のようにきれいで、ていねいな作品を作りたいです。ここを退所しても続けたいです。
東京学芸大学大学院 大石隆裕
子どもたちが力強い。最初に子どもたちと目を合わせたときに直感で感じたことです。そして同様に、家庭学校の方々、分校の先生をはじめ職員の方全員に力強さを感じました。それは、単に農作業をこなすからたくましいというものではありません。もちろん、それもあるのですが、内面的な、活力というような部分です。
家庭学校の子どもたちは、社会的には様々な課題を抱えた子どもとして認識され、時に同情されたり、また時には偏見の眼差しでみられたりすることもあるのかもしれません。しかし、彼らは一人ひとり、内にある力強い活力をもち生きています。熱心に作業を行い、収穫に目を輝かせ、学び、また外部から来た私に笑顔で接してくれました。
そういえば、と私は以前自身が教師として時間を共にしてきた夜間定時制高校の生徒たちのことを思い出しました。その生徒たちにあっても、自身の境遇に時に思い悩みながらも、時折彼らが見せる活力に私はいつも心を揺さぶられていました。しかし、どうしても学校という組織のみでは、生徒たちとすべて日常を共にすることはできず、彼らの生活を理解することは難しく、時に彼らが見ている世界と学校教育の方向との間に隔たりができていたのではないか、と思っています。
家庭学校では、生活の基盤としての「家」があり、学校があり、そしてそれらが別々でありながらも同じものであるというところが特徴的だと思いました。いつでも子どもたちの心の動きを感じることができ、その上で常に教育が行われています。そしてまた、遠軽ならではの自然、同様に活力をもった大人と友人たちに囲まれ、心を突き動かされるような、意図されざるしかけが星の数ほど散りばめられています。そのような環境にある教育とは、いったいどのようなものなのか、非常に興味深く思いました。
また、自身が再び教職を志すにあたって、ありのままの生徒たちに向き合い、教育をするということはどういうことか、またどのようにすれば良いのかを考えたいと思いました。
最後に、かけがえのない経験と、貴重な気づきをもたらしてくださった家庭学校の方々に感謝を申し上げます。ありがとうございました。