ひとむれ
このコーナーでは、家庭学校の月毎の機関誌である『ひとむれ』から一部を抜粋して掲載しています(毎月上旬頃更新予定です)。
職員が、家庭学校を通じて感じたことや伝えたいことを表しています。是非、ご感想をお聞かせください。
※都合により『ひとむれ』本誌と内容が異なる場合がございます。ご了承下さい。
巻頭言
ガンダムと家庭学校
「無能」から始める寮運営
私を取り巻く言葉たち
自身のかつての活動と専門を生かす
校長 軽部晴文
四月の日曜礼拝で私は、私自身の失敗談を話しました。入職して三年目、土木部二班を受け持っていた私は、牛舎で使用する水を貯水するコンクリート製水槽を作成する事になりました。そのような作業は初めてのことで、私自身の気持ちに余裕を無くしていました。メンバーに作業に集中出来ずにいた小学生がおり、私にはその生徒の存在がだんだん気になり始めていました。その日も作業が始まると間もなく作業現場を離れ、気ままに過ごしている態度に腹を立て「作業班に来ても作業をしないなら、もう作業班に来なくていいぞ」と言ってしまいました。今の時代であれば、そのような事を言うことは懲戒処分にも相当する大変な事です。次の日です、その生徒の担当寮長である村上時夫先生に私は呼び止められて「生徒に、作業班に来なくてもいいと言ったそうですが、家庭学校の職員は生徒に向けて、来なくていいなどと言ってはいけません」とハッキリと言われました。「留岡幸助先生が何故家庭学校を作ったか分かっていますか。誰一人として世の中にいなくてもいい人は居ない、その思いから家庭学校を作ったのです、家庭学校の職員である以上、そういうことは言わないように」と諭されました。私は何も弁解できませんでした。谷昌恒校長はよく、目の前の非行に惑わされることなく、その子の奥にある背景をしっかり見るようにと教えていました。まさにその通りでした。施設に入所する前、非行を犯したとはいえ居場所を失っていた生徒達にとって唯一の居場所が家庭学校だという事を全く理解せず、私自身の都合だけで「居なくなれ」と言ったのです、子供は大人の指示通りに動くものと考えていたのでした。現在、児童相談所に一時保護され、家庭学校への措置が検討される児童は、施設入所の最終決断する前に、施設見学に来るようになりました。実際に自分の目で見てもらい、不安な気持ちを少しでも解消してもらう為に実施しているのです。見学に来た児童に「君は、家庭学校で、どんな所を頑張ろうと考えている」のか聞いてみます、児童にとっても想定範囲内の質問なのでしょう。「僕は、人に暴力を振るわないようになりたい」「人と仲良くなりたい」そのような事を言ってくれます。対人関係においてトラブルを起こしてきた、いつも人の嫌がる事をしてしまったから、自分が変わらなければならないと思う。そして「みんなと仲良くなり」周囲に受け入れて貰いたいと言ってくれます。ところが、私の目の前にいる生徒は、トラブルが起きると「アイツがいるからイライラする」「アイツがいなくなればいい」と、やっぱりかつてと同じく攻撃的な言葉を使います。トラブルの原因を聞き取ると、とにかく自分に非は無い、原因の全ては相手にあると主張します。ところが相手の主張を返されると、自分にも原因となる心当たりに気が付き、途端に固まってしまうのです。そもそも原因などあって無きに等しいのです。ただ嫌な相手は受け入れられない、イラつかせる相手の全てが嫌いと頑なになっているだけなのです。喧嘩をなくしたいと作文を読んだ生徒がいました。「どうして喧嘩はいけないの」と問いかけましたが答える事ができませんでした。どうして喧嘩がいけないのか、実は本当に分からないのかもしれないのです。喧嘩のたびに周囲に喧嘩はいけないと言われ続けて来たから「喧嘩はいけない事」と答えているだけではないのだろうか。「自分からトラブルのきっかけを作っている」との評価がありました。それは何故なのだろうと思うのです。多くの生徒が虐待を経験しています。かつて問題行動を起こしてきた生徒達です、強い叱責を受けたでしょう、精神的虐待や、時には身体的虐待だったかもしれません。長期に渡り虐待を受けてきた生徒にとって、気の合わない相手に強い態度で望むのは普通なのかもしれません、それは「だって大人が僕にそうしたから」と思っていないだろうか。「自分と気の合わない人も、イラつかせる相手もいる、それが集団では当たり前なんだよ、一緒に遊べる仲間と居ると気分がいいかもしれないけれど、そう言う仲間達とだけでは、君の成長が偏ったものになる。自分をイラつかせたり、気の合わない人たちのいる集団にいることが君を成長させる。」私は生徒にそのことを伝えたいのです。
『体は一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。足が、『わたしは手ではないから、体の一部ではない』と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が『わたしは目ではないから、体の一部ではない』と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分に成ってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。』
コリントの信徒への手紙一より
蒦本賢治
遠軽町出身で、漫画家、アニメーター、イラストレーターとしても活躍しておられる安彦良和氏が監督をされたアニメ映画「機動戦士ガンダム ククルス・ドアンの島」を鑑賞しました。劇場公開時に映画館に足を運ぶことはできなかったのですが、最近、ようやくネット配信で観ることができました。特にアニメや映画が好きということもなく、巨大ロボットの活躍に胸が躍るというわけでもないのですが、私が子供の頃に観た「あのガンダム」ということで懐かしい気持ちで観させていただきました。鑑賞して興味深かったことがありましたので、ここでお伝えしようと思います。
その前に、少し作品の制作背景について説明します。ガンダムシリーズは現在も続編が発表されている人気シリーズですが、安彦監督は四〇年ほど前の初代ガンダムのテレビ放送時に、そのキャラクターデザインや作画監督として作品に関わっていました。今作はそのテレビ放送の三〇分程度のエピソードの一つを翻案して劇場映画用に作り直したものです。ざっくりとストーリーを説明すると、主役であるガンダムとは敵対するジオン軍の兵士であったククルス・ドアンは戦争を続けることを疑問視し、軍を抜け、ある秘密の目的を持って、無人島であるはずの島に敵からも、元味方の兵からも隠れるように暮らしていました。ときには隠し持っていたモビルスーツで、近づく者に対し応戦することもありました。そこでは、ドアンは(おそらく)戦災で親をなくした子どもたちと、戦禍の中、今日、明日を生き延びるための自給自足の共同生活を送っているのでした。共同生活では、頼もしくも優しい父親役のドアンを中心に数名の少年少女たちが、畑で野菜を育てたり、ヤギの乳を搾ったり、時々ケンカをしては仲直りをして困難に立ち向かいながら日々を過ごしています。そのシーンは、さながら家庭学校の寮長を中心とした寮生活や日々の作業を思い起こさせました。もちろん、必要なものは一通り揃っている今の家庭学校とは違うのですが。このシーンを見て、もしかしたら、監督は家庭学校を参考にして今回の作品を描かれたのかもと感じました。というのも、監督は遠軽の東社名淵(今の若松)地区と家庭学校からほど近い場所で生まれ、少年時代を過ごされているので、多少なりとも家庭学校のことは知っているのではないかと思ったからです。もちろん、それは私の勝手な妄想に過ぎないかもしれません。印象深かったのは、家庭学校でもよくあることなのですが、劇中で、畑や生活に使うための水が蛇口から出なくなり、湧水の水源地まで水道修理に行くというシーンです。少年がはじめて一人で修理に行かなければならなくなるのですが、その過程で少年は自信や勇気を得て一回り逞しく成長するのでした。現実世界はアニメのように解りやすく簡単に事が進まないのは当然ですが、家庭学校もかく有りたいと感じました。この映画企画はガンダムファンや私のようなファーストガンダム世代の客層向けに作られているように感じますが、反戦的なメッセージや成長物語、本当の強さ優しさとは何かという問いかけは世相にかかわらず、普遍的なものとして、どなたでも楽しめると思います。もし機会がありましたら、ご鑑賞をおすすめします。
楽山寮寮長 平野伸吾
【無能を知る】
二〇二二年の十月、妻の平野みほろと夫婦制の寮運営を始めて九か月ほどが経とうとしています。国立武蔵野学院の養成所を卒業し、そのまま家庭学校へ入職。一年半の本館職員経験をしたのち寮運営をスタートしました。寮運営を始めて今までの感想は一言でいえば「大変」です。ありきたりともいえる感想かもしれませんが、寮を運営しているとやはりこの一言に集約されてしまいます。朝起きてから夜寝るまでを共に過ごし、睡眠不足気味、中学生年代の子どもたちと作業や運動を共に行い、空いた時間で事務作業や施設内外との調整、この膨大なマルチタスクの量に正直、質の向上や追いついていくことよりも、食らいついていくかのごとく処理していくので精一杯というところが本音であります。(どんな仕事・生活にももちろん大変なことは多いので一概に私が言っていることは小言のように思うかもしれませんが・・・)それでも始まって九か月が経ち、寮では子どもたちも穏やかに過ごしており、子どもたちも頑張ってくれているので、そういった点では助けられており、もしかすると他の寮を運営されている方々からすると運が良い出だしなのかもしれません。それでも寮の運営に関しては不安が募るばかりです。毎日のように「これでよいのか」と自問自答しながら一歩ずつ進んでいます。私は自分に自信がない方ですので、この職場においても自分が無能であると感じることが多々あります。海外で仕事をしてきた・大学時代から様々な経験をしてきたという点で特異な人生経験を持っていますが、家庭学校の寮運営において、その経験は役に立つことは少ないです。野菜や花を育てることができるわけでもない、チェーンソーをうまく使えるわけでもない、スポーツ万能でもない。家庭学校で輝く職員としているにはいささか弱いものが多いので、「興味すら持たれないのではないか?」というところがスタート地点であったと自分では思っています。では、無いのであれば頑張って学び・習得していけばいいのではないか?と考えます。ここはやったことのない分野であればコツコツと学び、力にしていけばよいと感じました。しかし、そのやり方が必ずしも今の自分に良い選択かどうかという所まで考えた時に、自分自身の仕事と能力、子どもたちへの関わりを考慮し、あえて「無能な自分」でいることにしようと思いっきり舵を切って寮運営を始めることにしました。なぜなら先述した通り、寮での仕事の中でできないことだけに力を入れるのは負荷がかかるため、私も「できない」と思えば、焦り・追い込み・無理をするということが目に見えており、健全な支援ができないと思っています。力を付けようと思っても、その場しのぎとなっても脆いだけなので、コツコツとできる範囲で学びを重ね、できない分野に注力をしないことを選択するようにしました。そこで現状、自分の中で最善策を考えた時に今の私にできることは「自分自身ができることからしていこう」というのがしっくりとくる解答になりました。【無能でもできること】寮長である私は「無能」であることを認識し、やれることを考えた時に自分自身の人生を振り返ることにしました。人生経験において競争に負け・逃げてきたことが多くあり、挫折を味わうことのあった人生。その中でも自分自身が成長し、這い上がっていくために行ってきたことを思い出すと、行きついた答えの一つが「特異なことをして存在価値を作り上げる」ということでした。ナンバーワンではなく、オンリーワンという言葉ではありませんが、一般的な競争や常識という概念がある中で、ある程度は学びつつも特異なことをすることで不思議がられたり、場合によっては貴重な存在として扱われることがあります。他者から「面白い」「興味がある」と思ってもらえるようになることが大切だと感じているのです。それは人に求められる・人を感動させることができる人材になるために、常に準備し、努力する必要性がでてきます。そこを今の寮運営でも自分のできることとして、全力で取り組んでみることにしています。子どもたちには作業などにおいてはベーシック(基礎的)なことはやりつつも魅力的な学びや経験を伝えることができないかと色々試しています。現在三ヶ寮ある家庭学校においておそらく新米で経験のない私は作業量や内容だけで見るとおそらく見劣りします。なのでそこはそこで割り切ったうえで、自分たちにとって価値のあるものや別の視点で物事をとらえることができるような取り組みで子どもたちを導いています。例えば、マラソン大会前にコースである寮前の坂に(田んぼアートのように)文字を浮き上がらせるように草刈りをしてみたり、花見の会でピロピロ笛を使った笑い我慢大会をしたりと今まであまりなかったような発想や角度で物事をとらえて、子どもたちと共に挑戦することをしてみました。できないからこそ、違った発想で勝負する。子どもたちも面白がりながら取り組んでくれています。【できなくてもいい。みつけよう。】私はこの取り組みについて、実は大きな意味を子どもたちに伝えているつもりです。何度も書いておりますが、自分は無能であり、おそらく他と比べると見劣りしてしまう部分があると感じています。でも実はそれって人間だれしもが持つコンプレックスというものであり、だれしもが比べたり、競争することで敗者がうまれ、上下の並びができ、心に劣等感を生み出します。もしかすると、ここに入所してくる子のほとんどは劣等感を多く持っている子どもも多いかもしれません。そんな中で、特異なことに挑戦することでオンリーワンを目指したり、生き抜く術を見つけることが解決策の一つにつながるかもしれません。競争しても勝てそうにないのであれば、あえて違う路線を走ってみる。そこに自分の生きる道が見つかるかもしれません。もちろん「特異なこと」には色々なことがあり、社会的に認められること、他人から魅力的と思ってもらうこと、価値があることなど必要な要素は多くあります。当たり前のようですが、この考え方は常に他者目線に立ち、魅力的であり続け、考えて行動することができるか、違うことをすることに勇気を持てるかなどの複合的な力が必要になってきます。それでも私は自身の人生経験や寮運営を通してこの思いを少しづつでも届けたいと思っています。自分は無能でいい、じゃあ生き残るすべを考えよう。勝てるところ・できることはやろう。苦手なことはどうするか?逃げてもいいし、アレンジしてもいい、乗り越えられる力があるなら試してみよう。知らないことに興味があるなら、面白そうと思うなら、そこに飛び込めばいい(責任とワクワクするような将来が見えるのであれば)正直、この考え方はかなり絵空事です。人生そんなにうまくいかないし、子どもたちにそこを伝えるのは難しいし、ましてや実践するのはもっと難しいかもしれません。でも、良いと思っています。今の時代は多様性の社会と言われていますし、今、目の前にいる子が幸せになる確率が少しでも上がるのであれば、自分の思っていることを伝えたいと感じています。負けてもいいから生き延びよう。できなくてもいいから、自分の何かをみつけよう。そんなことを思いながらまずは最初の一年の寮運営を始めています。
本館職員 小熊由美
私は四月一日より北海道家庭学校に勤めています。三月までの同僚の中には家庭学校の存在を知る方が何人かいて、私の次の職場が家庭学校と知ると「森の中の学校だよ」と教えてくれたり、「あそこいいよねー」と仰っていたりしました。そこへ足を踏み入れて三か月。森の香りや木漏れ日、花壇を彩る花、木々を抜けながら肌を滑っていく風。どれも心地良く、これらが日常的に感じられるのは家庭学校ならではと思います。もし、先述の同僚に会い「どう?」と尋ねられたら、まずは五感で得た感想を話すことでしょう。
五感と書きました。視覚・嗅覚・触覚以外の要素を満たすものも家庭学校にはあります。一つは鳥のさえずり。私が持っているバードコールの音色にそっくりな鳴き声の鳥がいるようなので気になっています。もう一つは家庭学校の野菜や乳製品です。今の時期は野菜を中心にいただく機会が多く、文字通り『恵み』を実感しています。一方、私は花や木や野菜のことに関して知識が乏しく、育て方や扱い方はおろか名前さえ知らないものも多くあります。また、花などを育てること以外にもこれまで経験のない業務にかかわることになり、そこでも新しく技能を得ている最中です。それらの業務に向き合う今、自分の中で柱にしている言葉が2つあります。一つは「覚悟」もう一つは「適応」です。例えて言うなら、これまで蓄えた経験や知識の引き出しに鍵をかけ、取りに行く気が失せるほどの遠くへ鍵を力いっぱい放る。そしてまた、まっさらな引き出しに経験を蓄えていく・・・
私にとっては“鍵を放り投げる”ことが「覚悟」にあたります。「適応」は、あるスポーツ選手がルール変更に伴う自身への影響について記者から問われた際、返答の中で使われた言葉です。それをテレビで耳にしたのが今年の春のこと。乾いた土に水がスーッと染み通るように、自分の中にその言葉が取り込まれました。まさに適応が必要な状況でしたので。今現在も「適応」の日々です。
拠り所は他にもあります。渡辺和子さんの著書『置かれた場所で咲きなさい』です。著書で渡辺さんは詩や短歌、あるいは広辞苑から自分に響いた言葉をいくつか紹介されています。彼女は八九年の人生で決して穏やかとは言えない時間を多く過ごしてきました。そんな中で彼女もまた、人々が紡いできた文や言葉を拠り所にしていたのではないか・・・と、読み進めるうちに私はどんどん心を寄せていくようになりました。さらに著書では、彼女自身の人生訓としても様々な言葉が書かれています。その一部を紹介します。まずは「時間の使い方は、そのままいのちの使い方。」というもので、目に入った瞬間に焦りました。その時点でどれだけ“いのち”を無駄にしてきたか!と。次に「人生にポッカリ開いた穴から、これまで見えなかったものが見えてくる。」です。これについては、穴が開くのも悪くはないかなぁ、と前向きに捉えています。自分にとって良い何かが見えると思い込んでいるので。最後に「子どもは親や教師の「いう通り」にはならないが、「する通り」にはなる。」という一説です。四月に家庭学校へ来て、何もかもが変わったと思っていた所に一呼吸置かせてくれる言葉でした。これだけは今までもこれからも変わらないし、必要で大切だと改めて認識できました。こうして私は要所要所で言葉たちに支えられながら、少しずつ根を下ろしていくことになると思います。
教諭 井川大介
私が北海道家庭学校の存在を知ったのは、大学の学部二年の時です。私の所属していたボランティア団体「BBS会」での自己研鑽活動として研修会に参加した際に釧路保護観察所所員が説明していたことにさかのぼります。BBS会のルーツは、ニューヨークで始まっています。日本では、第二次世界大戦後まもない混乱期、町にあふれる孤児に、若者の力で何かできないかと考えた青年たちがいました。その中の一人、京都の学生の投書が契機となって一九四七年『京都少年保護学生連盟』が生まれました。これが日本のBBS運動のスタートといわれております。以後、BBS運動は七〇年以上の活動が今でも続いています。BBS会は、様々な問題を抱える少年と,「兄」や「姉」のような身近な存在として接しながら,一緒に悩み、一緒に学び、一緒に楽しむことを通じて、少年が自分自身で問題を解決したり,健全に成長していくのを支援したりするとともに,犯罪や非行のない地域社会の実現を目指す青年ボランティア団体で,全国に約四五〇の地区会があり、約四五〇〇人の会員が活動しています。そこでの活動において、参加した研修会で北海道家庭学校の存在と役割を聞いたものの児童相談所と保護観察所との所管における役割の違いが、教育実習に行く前年度であったこともあり、学校教育の仕組みを知るのでいっぱいいっぱいでして、児童相談所に関する知見までよく理解しきれてはおりませんでした。
二〇二三年度より着任が決まり、分校業務や、家庭学校の諸先生方と連携をとりながらの教育活動を新鮮な気持ちで取り組ませていただいています。ある日、勤務して家庭学校沿革を改めてみた時のことである。留岡清男氏(北大教育学部生活教育講座初代教授)が提唱した「労働教育の職業教育や技術教育の基礎となる準備教育となる労働教育に徹しなければならない。(一九六二)」という一説と、”学校の内外での体験を媒介として「労働」概念を実践的に獲得する現実の生活のうちから現実の構造を変事するための「労働教育」”どこかで見た文だと頭をかすめた。この時点で私は、ことの重大さに気づいてはいなかったのである。そして、何日かが過ぎ、通勤している時に、これらが一本の直線で結ばれた。それは、私が中学校教員として就職し、働きながら通った大学院生時代にほんの一瞬眺めた留岡清男氏の「労働教育」 のくだりにある”生活による陶冶であると同時に,生活の陶冶であり,生活の工夫”でもあると提起したあの「生活教育論争」の現場で、現在勤務をしていることになるのではないかと。改めて実感したのである。施設内の遠軽町立の分校職員として働き、しかも技術科教育を専攻した私にとっては、身も引き締まる思いだ。おそらく技術科教育を専攻した教諭(遠軽町内には私しかいません)が分校に着任するというのは、私も「初代」であるのだという何か”飛躍した親近感”まで抱くようになった。同時に非常に光栄でもあることと同時にその使命は大きいと感じている。微力ではございますが、自らの教養を活かして教育活動をすすめたいと思っております。どうぞよろしくお願いします。