ひとむれ
このコーナーでは、家庭学校の月毎の機関誌である『ひとむれ』から一部を抜粋して掲載しています(毎月上旬頃更新予定です)。
職員が、家庭学校を通じて感じたことや伝えたいことを表しています。是非、ご感想をお聞かせください。
※都合により『ひとむれ』本誌と内容が異なる場合がございます。ご了承下さい。
巻頭言
欠け多き者の些事
叱れない新米職員の、今思うこと
「分からない事だらけ」の日々との格闘〜望の岡分校に着任して~
校長 軽部晴文
家庭学校の先輩職員に加藤正志先生がおられました。私は一九七九(昭和五十四)年四月に初めて家庭学校を訪ねた時、加藤先生は教務部長と寮長を兼務されておられました。訪ねたその晩、私は加藤先生夫妻が担当されていた桂林寮に泊めて頂きました。
私がその日家庭学校を訪ねた理由は、私が福祉施設で働くことを望んでいることを知る、知り合いの方から「家庭学校という施設が職員を求めているが、働いてみないか」との誘いの話があったからでした。ただその時の話の中で、家庭学校が所謂非行少年を預かる施設であることを知り、「非行少年の世話をする仕事など、自分にはとても務まるはずがない」と、その場で断りを入れたのですが、「断るとしても、一度そこを見てから、直接断ったらいい」と言われ、それならばと遠軽に向かったのでした。
非行少年を相手に働いている職員は、体力的にも精神的にもタフな人達なのだろうし、仕事中も常に表情厳しく、眼光鋭く、少年達を前に隙一つも見せない様な人でなければ職員になれないと自分の中で勝手に思い込んでいました。
訪ねた翌日は一学期の始業式が予定されていたため、寮では就寝前の夜の集まりの時間、明日の始業式を控えて寮生が一人一人一学期の目標を述べた後、加藤先生が寮生に新学期に向けた心構えを話し始められました。ところが加藤先生の寮生へ語り掛ける口調がとても柔らかいのです。ゆっくりと一言一言話しかけていくのです。まさに父親が子供を諭している様に私には映りました。この施設に来る少年は非行を犯して来たのだから厳しく躾けられているのだろうという、私の勝手な思い込みは全く覆りました。加藤先生の姿からはその様なことは感じることができませんでした。もちろん先生は、何年も勤めてこられた方ですから、自然に滲み出る威厳はあるのですが、先生と寮生との間からは緊張感といった雰囲気は感じることはありませんでした。「こういう関わり方でいいのだ」、というのが、私の正直な感想でした。肩に力を入れる必要もなく、特別構えた接し方をしなくてもいいのだ。加藤先生の寮生への関わり方を見ていて、私自身の家庭学校への見方が変わるのを感じました。家庭学校の職員になってから寮を担当するまでの六年程、加藤先生の仕事の手伝いをしましたが、先生は実に誠実に仕事と向き合われていました。昭和五十年代半ばは戦後第三の非行のピークと言われており、谷昌恒校長先生は全国各地から講演の依頼を受けて学校を不在にする機会が多かったものですから、その分、教務部長としての加藤先生の負担は大きかったと思います。児童相談所などの関係機関との窓口業務、七つある寮の調整や職員からの相談事などそれは大変な仕事の量なのですが、一つ一つ丁寧にこなしておられました。あれだけの仕事と向き合われた先生ですが、実は先生の陰口を聞いた事がありませんでした。誰もが加藤先生の仕事振りに信頼を寄せ、先生の人柄に敬意を払っていました。
私は谷昌恒校長先生が小田島好信校長先生に校長を引き継がれた時、谷校長先生から「軽部が教務部長をやりなさい」と指名されましたが、教務部長と言われ加藤先生の姿を思い出し、自分には、加藤先生程の仕事を処理する能力がないばかりか、あの先生でも大変苦労された立場が、私などに務まるはずがない、そう思わずにいられない程の先生でした。
加藤先生は、六十歳で家庭学校を定年退職され遠軽町内に自宅を構えて移り住まわれました。二〇一四年に家庭学校の創立百周年の記念式を行った時、先生ご夫妻も招待されました。ところがお二人とも礼拝堂での記念礼拝には参列されましたが、体育館での記念式典は欠席されました。後日お会いした時その時のことをお尋ねしたところ、「自分は現役だった頃、生徒にだいぶ厳しく接していた。そんな自分には華やかな場に出席する資格がない。礼拝堂でもずっと当時の生徒に対して謝っていました」と述べておられました。
先生は、定年退職後遠軽町内で公園などの管理を請け負う会社で働いておられましたが、間も無く病気に罹患されて、年々体の自由が利かなくなりました。先生が亡くなられた時、「世間に恩返しができなかったから、せめて」との思いから、生前旭川医大に献体を申請されていたと奥様に教えていただきました。
先月、私は川口正夫先生に「潜為人耕(せんいじんこう)」という言葉から「仕事は誰かの為にするものだ」と教えて頂いたことを書き、これからの日々を送りたいと書きました。今月、私は加藤正志先生の仕事への姿勢から「誰に対しても謙虚であること、丁寧に向き合うこと」を学んだことを書きました。多くの先輩に育てて頂きました。
四十四年前、加藤先生に出会ったことでこの仕事を知り、今の自分の原点となったことは間違いのないことです。感謝申し上げます。
聖書のマタイによる福音書、二三章十一から十二節を目にすると、加藤先生の姿が重なります。「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
この原稿は五月二十八日に書いています。今朝の新聞のお悔やみ欄に、加藤和子さんが二十六日享年九十歳で亡くなられたことが掲載されています。加藤先生の奥様です。奥様には、私達が子育て中に子どもの面倒を見て頂き、助けてもらいました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
副校長 清水真人
今年の四月に「がんぼうホーム」から家庭学校勤務となりました。よろしくお願いいたします。
五月になりました。住居の向陽寮から本館まで七〇〇m程の坂道を歩いて通勤しています。歩いていると、キツツキが木をつつくドラミングが聞こえ、小川のせせらぎが聞こえ、風が木の葉を揺らす葉音が聞こえてきます。暫らくするとこの静けき音たちは、春ゼミの大合唱にかき消されてしまうのでしょう。道沿いには、可憐な花々が咲いており、給食棟の食卓に飾られています。都会に建つ「がんぼうホーム」の六年間の生活(ここと比べると「がんぼうホーム」周辺は十分都会です)とは別世界であります。自然の中の北海道家庭学校、大好きです。
さて、毎週月曜日夜NHK教育(Eテレ)で放送の「100分で名著」という番組があります。そこで、「新約聖書 福音書」を学ぶ放送がありました。クリスチャンである私は是が非でも見逃せないと視聴しましたが、なんせ不真面目なクリスチャンですので、二回の放送を見逃しております。全四回放送の半分は見ておらず、じくじたる思いであり、大変反省をしているところであります。
その中で、講師はこう言います。イエスによってもたらせた福音は一言で「愛」であると。神の愛は、すべてのものを等しくする。愛が求めるのは、等しいということだと言うのです。世の中は、優れたものを評価し、重んじます。しかしイエスは、私たちはその存在の根底において等しいものであることを告げ知らせに来た。すべての人間は、神の子であり、この一点において万人は等しいと言うことです。現代は、他人より優れたものでありたい、少しでも楽をしたい、勝ち馬に乗ることをいつも気にして最優先にする、損得でしか判断できないことが当たり前になってしまっています。何より他者に認めてもらいたいという感情が渦巻いています。インターネットで「イイね」が何回ついた。視聴回数が何万回だったということばかりに気を取られてしまっているのです。北海道家庭学校に来る子ども達は、そんな世の中に晒されていた子ども達です。素晴らしい自然に囲まれ、世間から一定の距離を保ち、ゆったりと時間が流れている学校の中で生活していることは、とても価値のあることです。
キリスト者として、彼らに何ができるかを考えています。神様はみな平等に思っているよ、そして、神様はみな平等に愛を送ってくれているよ、平等なのだから他人と比べなくてもいいよ、一人ひとり神様が貴び重んじているよと伝えたいです。
どのように伝えようかと思います。条件で人の価値が上下する時代にあって、世の光となるのは、無条件に人の価値を肯定する神の愛をそれぞれの置かれた場で実践する以外にはないと言った人がいます。
日曜礼拝の時「WWJD」の話をしたことがあります。「What Would Jesus Do?」「イエスならどうする。そして、自分はどうする?」というものです。すべての人に等しく尊敬の気持ちを持ち接し、この世にあらわれ、「愛」という福音を私たちに与えてくださったイエスならどうするだろう。どういう判断をしただろう。今、話していることは正しいのだろうか。正しい行動をしているだろうか。大人も子どもも「WWJD」の思いをもって生活したいものです。
まずは大人から始めましょう。
本館職員 井坂鼓地
入職してからあっという間六ヶ月が経過しました。相も変わらずできないこと、抜けていることばかりで日々ままなりませんが、施設や分校の職員の皆様、子どもたちをはじめ、関わってくださっているすべての方に助けていただいて、何とか一日一日を過ごしています。施設や分校の先生方には、子どもたちへの気配りや接し方はもちろん、卵焼きの焼き方から、耕運機の使い方、事務作業や行事ごとの段取りに至るまで、本当に様々なことを日々教わっています。仕事柄なのでしょうか、どなたも何事も親切に分かりやすく教えてくださり、そのさりげない気配りや教える技術に、教わる身として毎回感動しています。こうして丁寧に教えていただけることを当たり前と思ってはいけないな、と、気の引き締まる思いです。この場をお借りして、日頃の感謝を申し上げます。いつも本当にありがとうございます。
これまでに教育や福祉の分野に携わった経験はなく、子どもたちとの関わりや児童自立支援施設という機関の存在意義、児童相談所や分校との連携などについては、聴き学ぶあらゆることが初めてで新鮮です。一方で、自分自身小学生の頃から寮生活を送り、家庭学校でいう「作業」にも似た土木工事や建設、畑仕事、調理、機械の修理等の体験学習を主にしていた学校に通っていたこともあり、どこか慣れ親しんだところのある寮での集団生活や朝夕の当番、作業班学習の様子などに心落ち着くものを感じています。こんどは生徒ではなく職員としてそのような生活の場に参加しているという緊張感と共に、大人として子どもたちとどのように接したら良いのだろう、自分は子どもたちから見てどんな大人になりたいんだろう、ということを考え続けていますが、なかなか言語化できる答えには辿り着けずにいます。
家庭学校に暮らす子どもたちは皆それぞれに愛すべき曲者であり、正直で、関わっていて楽しく愛おしく感じます。なんともナマケモノでひねくれていた自分自身の小中学生時代を思い起こしては、彼らの働き者っぷり、優しさやまっすぐさに感謝し、感嘆しています。同時に、職員として子どもたちと関わる中で、「それはよくない」「それはおかしい」「やめたほうがいい」等と彼らに声をかけなくてはならない場面もやってきます。しかし、先に述べた寮制の学校など少し変わった環境で、自分自身あまり大人に叱られることなく野放しに育ってきてしまった私は、「常識」や「普通」という言葉で子どもたちをたしなめるのは非常に苦手であるということに、ここへ来てから気づきました。加えて自分自身のずぼらさや未熟さを省みると、子どもとはいえ人に注意をすることなどできないという気持ちが先に立ってしまい、なかなか適切なタイミングで彼らに言動の良し悪しを伝えることができません。彼らの中の課題となる言動を私が一職員として受け入れ流してしまうことは、甘やかすこと、果ては放置することと紙一重であると感じ、困ったものだと思っています。
そのような話題になったときに先輩職員の方がおっしゃっていたことで、ひとつすとんと腑に落ちた言葉があります。それは、「子どもが家庭学校を退所した後に、周囲の人に可愛がられる人になってほしいんです。」という表現でした。苛立ちや不満を直ぐに言動に表してしまう、とか、どうも人間関係に不器用である、とか、ともすれば集団のなかで可愛がられにくい性質を持っていることもある家庭学校の子どもたちです(一緒に過ごしているとそんなところも可愛らしく愛おしいのですが)。彼らの退所後を想像し、何を基準に良し悪しを伝えるか、と考える際の第一歩として、「常識」ではなく「周りから可愛がられるように」という表現は私にとってイメージの湧きやすいものでした。常識というのは時や場所が変われば変化するものかもしれませんが、彼らが退所した先で過ごすことをできるだけ具体的に想像するとき、そこで通用する常識のある振る舞い、心持ち、というのは確かにあり、身につけてほしいものだなと思うことができました。
もうひとつ自分の当面の指針となっているものに、以前読んだ「教育農場五十年」の中で出会った「褒主叱従」という言葉があります。家庭学校創設者の留岡先生の感化院運営に対する考えを引用した部分で、曰く、「(子どもたちに対して)先づ原則として叱ることを少なくして褒める分を多くし、又褒めるにもチット手加減をして木に竹を接いだ様な風でなく、成るべく自然に出る様にすることであらふと存じます。そして叱る時はウンと骨身にこたへる様にするのが却って宜しい。」
叱ることもできるようにならなくてはなりませんが、まずは彼らの良いところ、尊敬できるところを見つけ伝えることの上達を目指して、また周囲の職員の方々の子どもたちへの関わり方から日々学び精進していきたいと思います。これからもどうぞよろしくお願いいたします。
教諭 橋爪甲斐
私の教員人生がここ「遠軽中学校望の岡分校」でスタートしてから早くも二ヶ月がたとうとしています。桜とチューリップを同時期に見ることができたり、暦月の区切りでは夏に当たる五月にストーブがついていたりと、自分がこれまで十年間生活してきた奈良県との環境のギャップには驚きの連続です。そんな驚きの毎日ですが、学生時代からの願いであった「北海道での生活」・「教員として働くこと」の二つをこの学校でダブルで叶えることができてとてもうれしく感じております。また着任してきたばかりで分からないことだらけである私に、日々の仕事や施設に関して懇切丁寧に教えてくださる先輩教員・先輩職員の皆様にはどれだけ感謝しても感謝しきれません。ここに来るまで分校の意味すらよく分かっていない私でしたが、頼れる先輩方に様々なことを教えていただき、徐々にではありますがこの施設の特徴的で唯一無二の環境に適応しつつあります。この場を借りて改めてお礼を申し上げたいと思います。本当にありがとうございます。そしてこれからもよろしくお願いいたします。
さて、先ほど「分からないことだらけ」と述べさせていただきましたが、不思議なことに勤務したての四月初旬よりも現在のほうがその割合は増えているような感覚があります。広大な施設内環境の全貌、作業班学習等の一般の学校には無いカリキュラムなど疑問のネタが毎日次から次へと生まれて尽きることがありません。子ども達との関わりという面でも同様です。授業や行事ごと等で日々関わる数はこなしつつあるのに、なぜだろうとふと疑問に思います。この施設には様々なバックグラウンドをもつ子どもが入所しています。自分自身、寮日誌や朝の打ち合わせ等で日々変化する子どもたちの様子を知り、その情報を元に子どもによって話題選びや対応の仕方などを少しずつ変えながら接しているつもりですが、うまくいかないことが多いです。「あのときこのような話題を選ぶべきではなかったな」と後悔し、「たわいもない会話の中で子どもたちを傷つけてしまっているのでは無いか」と疑心暗鬼に陥ることもしばしばあります。そして考えれば考えるほど悩み、どうすればいいか分からなくなります。しかしどうすればいいかの明確な答えは無いのでしょう。大切なのは「分からないこと」から逃げずに真摯に向き合い、どうすればいいかを考え続けることであると考えます。この施設の校祖・留岡幸助の言葉に「一路到白頭」というものがあります。一つの目標に向かって長い間根気よく努力を続けていくと大きな成果につながるということを伝えている言葉ですが、この言葉を心に刻み日々考えつづけ、そこから得る成功や失敗という学びを自分の血肉としていきたいです。
たった二ヶ月、されど二ヶ月。これまでの人生を振り返ってみてもこれほど濃密な二ヶ月間は無かったと強く感じています。子ども達と同様に自分自身も新しい環境での生活はまだ始まったばかり。焦らずにコツコツと自分のするべき事を積み重ねていき、教員としても一人の人間としても成長していけるように頑張ります。また教師は子ども達の上に立つ立場であるという先入観を捨て、時には子ども達と同じ目線に立ちながら、ともに日々学び成長していきたいと強く思っております。