ひとむれ
このコーナーでは、家庭学校の月毎の機関誌である『ひとむれ』から一部を抜粋して掲載しています(毎月上旬頃更新予定です)。
職員が、家庭学校を通じて感じたことや伝えたいことを表しています。是非、ご感想をお聞かせください。
※都合により『ひとむれ』本誌と内容が異なる場合がございます。ご了承下さい。
巻頭言
四月を迎えて
〈理事長時々通信⑨〉
校長 軽部晴文
この春から清澤満校長に替わり、校長を務めることになりました。どうぞ宜しくお願いいたします。
北海道家庭学校は、留岡幸助先生が社名渕の地に開設して以来の百年を超える歴史を持ち、これまでに各方面からの評価も頂いております。その北海道家庭学校の校長を務めることになり、大変な緊張感を覚えています。
私はこれまで昭和五十四年から平成十九年まで、平成二十六年から三十年までを家庭学校の職員として勤め、その時々の校長先生が職責に真摯に向き合って来られた姿を見てまいりました。その姿から感じて来たことは「家庭学校の校長という立場は大変な立場だ」という一言です。ですから私が校長職を引き受けたとはいえ、これまでの校長先生方が成された様にはとても出来る訳がない、その事が自明の理である事は私自身が一番理解しておるところです。ですから、私は私なりに、つまりこれまで職員の立場で学んだやり方で、家庭学校の現状に向き合っていこうと思っております。
留岡幸助先生が、十五年間の東京での事業への手応えを経て、更に大規模な事業を展開しようと選んだ当時の社名渕の地は樹木や雑草の生い茂る、道一本もない原野だったようで、事業を展開する上で大変な苦労の連続であった事は先生の書かれた書物から窺えます。しかし留岡先生にはこの地を理想の地にするという大変な熱意がありました。さらにその熱意に賛同し共に事業を進めた職員と生徒との活動がありました。道一本ない原野を理想の地にしようとした日々の活動が、幸助先生の言う「天然の感化力」だったのかもしれません。
現在の家庭学校は開校当時とは想像もできない程様々な面で整いました。それでも平和山を中心とした広大な敷地には自然溢れる環境が残されており、それは開校以来の歴代の職員と生徒による不断の活動がもたらした結果でしょう。
北海道家庭学校は恵まれた自然環境の中に、寮舎が点在しています。寮舎には寮担当職員が住み込んでいます。朝と晩に提供される食事はほとんどが寮で手作りされています。一日の日課には、生徒自身が寮での生活を営む上で必要な作業が用意され、その作業を通して互いが存在を認め合う関係が出来る。長く続いてきた家庭学校のスタイルです。私はこのスタイルをこれからも継続させたいと考えます。このスタイルはシンプルなスタイルですが、シンプルなだけに、家庭学校で預かる生徒の育ちに最適な環境だと思っています。その最適な環境を継続するには、私一人がそう願うだけではなく、家庭学校の職員が一つの大きな集団となることが必要です。望の岡分校の先生方の協力も頂いて、共に児童たちにとっての最適な生活環境を維持できるよう努めたいと思っています。
「潜為人耕」、この言葉は、私がまだ二十代の職員になりたての頃に、当時家庭学校の生徒に書道を指導されていた川口正夫先生に、正月行事の書初め用にと教えていただいた言葉です。「潜カニ人ノ為二耕ス」。川口先生には、「仕事をする時、自分が自分がという考えで仕事をするのではない。仕事は誰かの為にと思ってする様に」と解説して頂きました。以来私自身大事にしてきた言葉です。いわゆる座右の銘としてきました。
家庭学校では職員も敷地内に住み込んでいますから、私にとって職場であると同時に生活の場でもあるわけです。
二十代で初めて職員になった頃は余裕がなかったからなのか、住宅の周りへの目配りもできませんでした。やがて住宅の周りに草が生い茂ってくると、鎌を持ち出して草刈りを始めるようになり、春先には、花の苗を数本分けてもらい植えてみるようになりました。この土地で暮らす期間が長くなり、少しずつですが、気になる範囲が広がるようになりました。この土地への愛着が湧くようになってきたのだと思います。
先輩の職員に、齋藤益晴先生がおられます。早朝に始まり、とにかくいつも体を動かしているのです。「齋藤先生は十人いる」そう言われる程でした。畑の手入れをしている姿を見かけたと思ったら、花畑の雑草取りをしている。どこに行っても先生の姿を見かける、そういう働き振りなのです。そして教えるのが好きな先生で、野菜の作り方から、道具の使い方、花々の育て方、私などは何度も教えていただきました。
私は多くの先輩職員に教えを受けましたが、先輩方に共通することの一つが、この土地を自身の生活の場としてしっかり地に足を下ろしている、私の目にはそのように映りました。
川口正夫先生は大正十一年生まれ、今年百一歳を迎えます。今も道東の清里町で元気に暮らしておられます。実は一年前に先生が百歳を迎える事を覚えていたものですから、手紙で四十年前の正月のエピソードをお伝えしたところ、しっかり覚えておられました。その時是非百歳になった先生にこの言葉を色紙に書いて頂きたいと申し出たところ、快く書いて頂きました。その時書いて頂いた色紙は、校長室の私の机の前方の壁に掲げており、机から顔を上げると「潜為人耕」の文字が目に入ります。
この度、家庭学校の校長となるにあたり、改めてこの言葉を意識し、これからの日々を送りたいと思っております。
望の岡分校教頭 河端信吾
四月一日の土曜日、私は朝から学校に来ていました。誰もいない教務室に入り、ふと七年前のことを思い出しました。
七年前の四月一日は出勤日で、家庭学校の正門に入り、本館を目指したのですが、当然のように迷ってしまいました。ちょうどその時に(寮で飼っている)犬の散歩をしていた小学生に声をかけて、道を教えてもらいました。歴史を感じる本館に入った時のことは、今でも鮮明に覚えています。その日から私の分校教員としての生活が始まりました。
私は、中学校教員として六年間、小学校教員として一年間、分校で教育活動に携わらせていただきました。家庭学校に入所してくる子どもたちのほとんどは、成育環境や学習環境の問題が潜在化していて、社会や大人への不安や不満をもち、学習意欲が低く、何より、劣等感が強く、自己肯定感が著しく低い子どもたちがほとんどでした。そのような子どもたちに対して自分は何ができるのだろうと悩んだものです。教師である以上、やはり授業を通して子どもたちと信頼関係を結んでいきたい、そのことを目標に、「わかる喜び」と「できる楽しさ」を少しでも味わってもらうための試行錯誤が始まりました。もちろん、失敗もありましたが、授業後に、「明日も社会科ある?」と生徒から笑顔で声をかけられた時は、新米教師の頃に味わった喜びを、恥ずかしながら、この歳で感じることができました。子どもたちとの触れ合いを通して、初心に帰ることができる、教育の原点に帰ることができる、望の岡分校とは、そのような学校だと思っています。
おかげさまで、昨年度は小学校も経験させていただきました。正直に言うと、中学生と小学生との様々な面での違いに戸惑いましたが、小学部の三人の先生方に支えていただきながら、子どもたちと楽しい時間を過ごすことができました。
そして、この四月からまた違った立場で分校に務めることになりました。まさか自分がこのような立場になるとは想像もしていませんでした。ある哲学の本に書かれていた「人生の七割は自分が思うようには進まない」という一文を思い出しました。まさに、今の自分だなと感じています。自分のような者が教頭になることで分校の先生方はもとより家庭学校の先生方に大きな迷惑をかけるのではなかろうか、子どもたちのためにこれまで作り上げてきた、家庭学校と分校との協力体制や連携を維持、発展させていくことができるのだろうか、基本的に楽観主義の私ですが、久しぶりに大きな不安にかられていました。
そして、ひと月が過ぎようとしています。家庭学校や分校の先生方はもちろんのこと、子どもたちから「教頭先生」と呼ばれることに未だに慣れません。何もかも初めて味わう仕事に戸惑い、あちらこちらに「すみません」を連発しています。ですが、一つ大事にしていることがあります。それは家庭学校や分校の先生方のために、教頭として何ができるか、子どもたちのために何ができるか、そのことを日々自問しながら、私なりに仕事と向き合っているつもりです。
私は始業式で、子どもたちに対して「今日は何ができるようになったのか、それは一つでいい、それを毎日積み重ねることが、自分にとって大きな自信となる。」と話しました。ある意味、自分に対しての言葉でもあります。
お世辞にも頼りがいのある教頭とは言えませんが、先生方や子どもたちのために日々努力を重ねていきたいと思いますので、ご指導のほどよろしくお願いいたします。
理事長 仁原正幹
北海道家庭学校は創立一〇九年目の春を迎えています。創立百年の年から第九代目の校長として参画させていただいた私は、校長六年・理事長三年の時を経て、十度目の春を迎えています。
児童自立支援施設の入所児童数の減少については、少子化が進み児童数総体が縮小していることが根底にありますが、所謂「非行少年」の減少が近年顕著なものとなっていることが大きく作用していると考えています。北海道家庭学校においても、ここ数年入所児童数が非常に少ない状況で推移しています。年度の後半の多いときでも二十名を若干超える程度となっており、一〇八年の歴史の中でも底を打った状態と言えるでしょう。
小舎夫婦制の寮を担う夫婦職員の確保が難しい上に、採用してもなかなか定着してもらえず、三療が常時フル稼働できないことも影響しており、対処の方策について議論を重ねているところです。
また一方で、ニーズの減少という事態も生じています。児童相談所から入所照会があった際に、受け入れ側の事情で入所時期を若干遅らせていただくことはあるにせよ、入所自体を特段断っているわけではなく、そもそも児童相談所からの入所照会が減少しているのです。この現象は北海道家庭学校に限ったことではなく、近年全道的に児童自立支援施設に対する児童相談所からの入所照会が減少しているようで、そのため、道内の他の二施設、道立大沼学園(北海道家庭学校と同じ男子児童対応施設)でも、道立向陽学院(道内唯一の女子児童対応施設)でも、入所児童数が極端に少ない状況となっています。(付録の付表2参照)
全道の九箇所の児童相談所が、増え続ける児童虐待通告への初期対応に追われていることは伝わってきています。児童相談所が取り扱うケースの中で、児童自立支援施設を対象とするケースは特に困難事例が多く、社会調査や行動観察、心理判定等のために、さらには、本人の自己決定を促すための動機付けや、保護者の同意を得るために、多大な時間と労力を要することから、昨今、児童相談所によっては十分に手が尽くせていないのではないかとの懸念を、私は少なからず抱いています。児童相談所別の在籍児童数の偏りを見ても、想像に難くありません。
北海道家庭学校の現況が、現時点で全道の児童福祉関係者に多大なご迷惑やご負担をおかけしているわけではありませんが、入所ニーズが増加に転じた際にはいつでも十分に対応できなければいけません。伝統の小舎夫婦制を担う寮職員と、輪休対応等でそれをサポートする本館職員の両方を早期に確保・養成して、組織体制の整備・拡充を図ることが喫緊の課題と考え、理事会等において法人としての意思統一を図っているところです。
このような流れの中で、入所児童数の減少が家庭学校の経営にもたらす影響をご心配の方もおられるかもしれません。施設の収入源となる国の措置費については、現在は暫定定員数(前年度の各月初日の在籍児童数の一カ月の平均数値)を算定基礎として積算される仕組みとなっており、北海道家庭学校の近年の暫定定員数は二十から三十程度で推移しています。定員数そのものを動かす必要はないので、北海道家庭学校の定員数は昭和の時代、七寮がフル稼働していた当時の八十五のままに据え置いています。嘗て全国的に声高に議論された「定員階差」問題については、最近は話題に上ることはありません。そもそも施設を維持するために入所児童数を増やすのではなく、社会的養護のニーズに合わせて施設側が対応するというのが本筋のはずです。
また、児童自立支援施設における児童対応の困難性の理解も進み、職員の配置基準についても時代とともに徐々に手厚いものに変わってきており、入所児童数の減少による経営危機が目前に迫っているというわけではありません。
しかしながら、他の多くの国公立施設とは異なり、民間経営の北海道家庭学校としては、少しでも副業収入を増やして本体の児童自立支援事業経費の不足分を補填する必要があることは、創立以来常に変わらぬ課題となっていることも事実です。古い時代から継続して行われてきた山林業務での木材の生産・販売、酪農業務での放牧牛飼養による牛乳の出荷に加え、二〇二〇(令和二)年度から新たに着手したバターとチーズの本格製造・販売を、今後もさらに拡充・発展させていくことが必要と考えています。
一九九七(平成九)年の児童福祉法改正で対象児童の範囲が広がり、不登校や引きこもり、自傷行為などが主訴の、非行傾向が顕著でない児童も入所対象になっています。一年以上不登校が続き、家に引きこもって体重が百キロ超になっていた児童が中学二年の秋に入所してから心身共に見違えるほど成長し、卒業前には一群会の理事長を務め、郡部の高校でしたが一番の成績で入学した事例もありました。児童自立支援施設に対する潜在ニーズは全道的にもっとたくさんあると考えており、北海道家庭学校のせっかくの恵まれた環境が十分に活用されていない現状については非常に残念に思っています。今後は児童相談所との連携を一層強化して、全道の本来的な児童福祉ニーズに十分応えていきたいと、理事長としては心に期しているところです。
そのようなこともあって、この春、大規模な組織機構改革に踏み切りました。組織全体の風通しを良くするために、長年続けてきた二部制(嘗ては総務部と教務部、近年は企画総務部と自立支援部)を廃し、新進気鋭の参事職を多数登用する形での集団指導体制に切り替えることにしたのです。(付録の付表1参照)
そしてそのまとめ役として、校長には軽部晴文理事、副校長には清水真人がんぼうホーム長という逸材を配し、この春から新体制がスタートしたところです。
軽部校長には、私のたっての願いを真摯に受け止めていただき、五年振り三度目の家庭学校復帰を決断していただきました。巻頭言にもあるように、軽部さんは若くして北海道家庭学校の職員となり、寮長、教務部長、企画総務部長、副校長、法人理事などの要職を歴任してきた方で、途中私事都合による二度の離脱はありましたが、在任中は常に児童自立支援業務の中核を担ってこられました。
北海道家庭学校としては、一〇九年目、第十一代目にして初めて生え抜きの職員が校長に就任するという、将に画期的な出来事となりました。「潜為人耕」の精神を全職員に浸透させ、往年の力強い北海道家庭学校を甦らせていただくことを大いに期待し、念願しています。理事長としても全力で支えていく覚悟です。