ひとむれ
このコーナーでは、家庭学校の月毎の機関誌である『ひとむれ』から一部を抜粋して掲載しています(毎月上旬頃更新予定です)。
職員が、家庭学校を通じて感じたことや伝えたいことを表しています。是非、ご感想をお聞かせください。
※都合により『ひとむれ』本誌と内容が異なる場合がございます。ご了承下さい。
巻頭言
平成二八年度の事業計画等について
ふり返りアンケートを実施して
よろしくお願い致します
〈百年史編集委員会便り〉
校長 仁原正幹
四月五日は校祖留岡幸助の月命日だったので、生徒と職員皆で恒例の平和山登山をしました。望の岡分校の春休み期間中で子ども達が休日日課だったこともあり、登山開始はいつもの早朝六時でなく、朝食や朝作業なども済ませた九時半となり、少しのんびりしたスタートでした。
風もなく明るい陽射しが降り注ぐ登山日和となりましたが、林道や登山道にはまだ雪が残っていて、長靴歩きの一歩一歩が埋まったり滑ったりの連続で難儀しました。お陰で全員が山頂に揃うのに四十分ほどかかってしまいました。往復一時間余りの軽トレッキングでしたが、足許が悪かった上に徐々に気温も上がったことから、運動不足気味の私などは大汗をかいてしまいました。日頃から作業や運動で鍛えている子ども達がいつもどおりの涼しい顔で歩いているのを見て、羨ましいやら、頼もしいやら…。途中で弱音を吐く生徒も見られず、皆それぞれに背が伸びるとともに体力・気力も充実してきているなと、嬉しく思いました。
さて、ご存じの方も多いと思いますが、平和山山頂には二つの石碑が建っています。校祖留岡幸助と第四代校長留岡清男、両先生の記念碑です。いつもは向かって右側の幸助先生の遺詠(辞世の句)が刻まれた石碑の前に整列して、皆で校歌(賛美歌三八〇番のメロディーです)を歌ったり、子ども達に校祖の思いや家庭学校の歴史などを伝え聞かせながら、大人も子どもも皆で気持ちを新たにする、そのような平和山登山・礼拝を行っています。
昭和九年に幸助先生が逝去され、その年のうちに建立された記念碑ですが、そこに刻まれた辞世の句をここで改めてご紹介することにします。
眠るべきところはいづこ平和山
興突海を前に眺めて
興突海(オコツクカイ)とはオホーツク海のことで、家庭学校から北へ直線距離で二十キロほどしか離れていないので、木々の葉が落ちた冬の好天の日、空気が澄んだときなど好条件に恵まれればオホーツク海や流氷を望むことができるとのことです。残念ながら私はこの二年の間に肉眼で確認できたことはありません。校祖存命の頃より木々の丈が高く伸び、豊かに生い茂っていることが影響しているのでしょう。
今回の平和山登山では、いつもと少し趣を変えて、左側の清男先生の記念碑についての話をしました。石碑に刻まれた碑文の話です。浅学非才の第九代校長としては、実は前の晩に俄勉強して、話のネタを仕入れてあったのでした。文字通り一夜漬けです。碑面の文字は次のとおりとなっています。
経営漫費人間力
大業全依造化効 清渓
清渓は清男先生の雅号で、自筆の書を石碑に写したもののようです。昭和五十二年に七十八歳で逝去された後、翌五十三年九月二十四日の創立記念日に、当時の遠軽町長石井孝一氏が中心となった記念碑建立期成会によって建立されたもので、地元遠軽町の方々を初め全国各地の大勢の皆さんからご支援をいただいて作製されたもののようです。除幕式には道内外から百二十名もの人々が参列して、創立六十四周年記念も兼ねて盛大な祝賀の行事が挙行されたということが、昭和五十三年十月と十一月発行の『ひとむれ』第四三九号の「後記」と第四四〇号の「サナプチ日記」に記されています。
さて、この七文字二行の漢詩のような文言ですが、幸助・清男親子が生前共に愛誦していた句のようです。インターネットで調べてみたところ、江戸時代の蘭学者前野良沢が描いた自画像の賛として画面の余白に記された格言であることがわかりました。その自画像の写真を見て、意外なことに気づきました。碑文の最後の文字は「効」ですが、前野良沢自筆の賛では「功」の字が使われていたのです。
格言の句を読み下すと、「経営みだりについやす人間の力、大業はすべて造化の功による」ということになるようで、この句の意味については、谷昌恒第五代校長が『ひとむれ』第四三九号の巻頭言の中で「才覚縦横の、せかせかした経営はみだりに人間の力を空費させるのです。真に大事業の名に価するものは、深く神の力に帰依してはじめて可能でありましょう。」とその解釈を記しています。信仰厚い谷先生は「造化」という言葉を「神」と訳していますが、江戸時代に生きた前野良沢は「天地・自然・宇宙」というようなもっと広い概念でこの言葉を用いているように、私には思えます。
さて、今回の平和山登山では、生徒諸君に碑文の説明をする際に前野良沢の名前を提示しました。その時、おやっという顔をした生徒が何人かいました。そうです、前野良沢は社会科の教科書にも出てくる歴史上の有名人物で、杉田玄白と共に我が国初の西洋医学の解剖書の翻訳本『解体新書』を著した蘭学者なので、聞き覚えのある生徒もいたのでした。
後日談があります。実は私はその翌週の十四日に東北・北海道地区児童自立支援施設長会議で秋田を訪れました。千秋学園の皆さんには二日間大変お世話になりました。帰りの航空便の関係で時間があったので、独り秋田新幹線に乗って角館まで足を伸ばし、漫然と逍遙していたところ、そこで何と『解体新書』の石碑に遭遇し、前野良沢の名前が目に飛び込んできたのでした。『解体新書』の図版を描いた小田野直武が角館出身という縁で、石碑が建っていたのです。偶然力のなせる技かと深く感じ入った次第です。
副校長 軽部晴文
三月八日の法人理事会で平成二八年度の事業計画及び予算が成立しました。北海道家庭学校の本年度の事業の基本方針について、事業の基本はこれを引き続き継承いたします。
児童一人一人の課題に応じ、民間の児童自立支援施設としての特色を最大に生かした必要な支援を行います。特に被虐待児童、心理的ケアを必要とする児童など背景や要因を理解し、安心・安定した生活が送れるよう支援を行います。
職員においては、児童の人権尊重と権利擁護を図るために、外部及び校内での研修を積極的に進め、資質の向上を図ります。
児童への関わりの効果を上げるため、施設と分校という職員集団による息の合った関わりが大事と考え、昨年度職員室を拡張し、朝会には直接処遇に関わる全職員・教員が参加しています。今後とも児童に関する必要な情報交換や意見交換が忌憚なく行われ、風通しのよい関係が維持できることを念じています。
公教育の導入により、日中は教員による学習指導が行われていますが、週三日午後の時間を総合学習とし、作業班活動が行われています。これは家庭学校が長年取り組んできた作業活動を、学校側の配慮により引き継いでいただいているものです。家庭学校の職員と、分校の教員が協働の形で児童の指導に当たっており、家庭学校が守ってきたことを尊重していただいている事に感謝しています。今後も継続されるためには、家庭学校の職員に何故作業班活動を行うのか、活動を通して何を伝えたいのか、計画的に主体的に運営することを求めます。
平成七年度から取り組んできた高校生寮については、本年度に新たに活用を希望する生徒がおらず、現在三名の在籍だけとなりました。地元遠軽高校の定時制の存続問題の動向も含めて、高校生寮のありようについて、検討が必要な時期かと考えます。
家庭学校としては年度内に自立援助ホームを立ち上げる計画を持っており、高校生の処遇についても自立援助ホームが担えるか細部について詰めていく必要があると考えます。なお、この自立援助ホームの開設については、既に町内に用地を取得し、今後は関係機関による手続きを進める段階にあります。
私たちの仕事はここ家庭学校の敷地で児童と共に住み着き、同じ空気を吸うことにあります。しかし、そのことはとても窮屈なことと感じる方もおられるでしょう。でも、そのハードな仕事を超えるほどのやりがいがここにはあると信じています。私たちと共に働く意欲のある方を求めています。
北海道との間で交わされていた交流人事は、昨年度をもって終了としました。四年間にわたる北海道の支援に感謝申し上げます。それに伴い校内での人事異動を行いました。
自立支援部長には掬泉寮を担当してきた楠哲雄を昇格させました。長年の寮舎運営で培ってきた経験を生かし、若い職員の多い職員集団をリードしてくれるものと期待しています。暫くは関係機関とのやり取りなど、これまでの業務とは違うことで戸惑いもあろうかと思います。同じく掬泉寮の寮母であった楠美和を主幹に据えました。部長や鬼頭主幹と連携をしながら、学校全体に上手に目を配ってもらいたいと思っています。また、寮長・寮母の良き相談相手となることも願っています。
掬泉寮の担当に、藤原夫妻を当てました。二人は着任三年目の若いカップルです。寮母となった藤原美香は六月に第一子の出産を控えています。児童たちと一つ屋根の下で生活を共にする中で出産を迎えることには負担もあるかと思いますが、良好な親子関係を体験してくることのできなかった児童が多くいます。二人が築く親子関係が最良の手本となる事を願っています。
行事は入所児童の生活に潤いを与えると共に、達成感・忍耐力・自信を持つきっかけにもなります、十分に活用したいと考えています。
百年史の編纂については、既にこの『ひとむれ』誌でも編集委員によるコラムが掲載されているところです。二九年九月の刊行を目指して準備中です。
家庭学校の礼拝堂が北海道の指定有形文化財に指定され、また、校内の森林が北海道の「北の里山」に指定されました。家庭学校が児童にとって安全に安心して生活できる場所であると共に、多くの地域住民にとっても心の休まる場所であってほしいと願っています。
最後に私事ですが、家庭学校に戻って早二年が経過しました。引き続き企画総務部長を兼務しながら、今年度からは副校長も務めさせていただくことになりました。歴史と伝統をつなぐ者として、仁原校長を補佐しながら北海道家庭学校新世紀の礎造りに邁進していく覚悟です。今後とも宜しくお願いいたします。
主任栄養士 伊東睦子
二年前の六月、職員として勤務して間もないある日、本館職員玄関で生徒一名が調子を崩し寮長に対して猛烈に抗議し、悪態をついている現場に遭遇した私は、只々驚愕して静かにその場を離れた記憶があります。
私は、寮に入って食事を作ったり一緒に作業をする等、直接生徒指導に関わることがなく、職員の報告や給食棟での食事風景、行事での姿を見る中で、生徒はどんな思いで生活し、何を感じ取っているのだろうと疑問に思い、知る方法を模索していた時、寮母さんから前の施設で行っていたアンケートを参考に…と見せて頂きました。その様式を基に食事全般(寮での食事、給食、行事食)を通してのふり返りアンケートを実施しました。
アンケートは、三月十四日~十八日に行い、二十六名の生徒が答えてくれました。アンケートの項目は、1「給食で嫌いなものはありましたか」、2「苦手なものは減りましたか」、3「家庭学校に来て良かったですか」、この三項目です。
「給食で嫌いなものはありましたか」という設問に対し、三十五%が「はい」と答え六十五%が「いいえ」と答えています。この回答は、食材そのもので答える人、献立名で答える人、味覚で答える人など様々でした。
十月に嗜好調査も実施しており、その時よりは記された品目は減っていたものの、魚介類・肉類・根菜類・葉菜類・果菜類・きのこ類・麺類・しょっぱい物・酢の物と多岐にわたる範囲で記載されていました。
これに付随した形で「苦手なものは減りましたか」との問いには、七十三%が「はい」と答え、二十七%が「いいえ」と答えています。
家庭学校の取り組みとして、出されたものは残さず、作って頂いた全ての方に感謝して食すという方針のもとに、一口でも食べてみようという職員からの励ましの言葉かけ・支援による成果だと思います。勿論、その指導を受けチャレンジした生徒自身の成果でもあり、今後の生活にプラスになる結果が得られたのではないかと感じています。
次にうれしい結果が得られたのが、「家庭学校に来て良かったですか」という設問に八十八%が「はい」と答えてくれたことです。その理由として一番多かったのが「ご飯がおいしいから」でした。他には「家とは違う料理を食べられたから」、「うどんが結構出るから」、「嫌いなものが減ったから」がありました。また、本校に来るまでの生活が垣間見える回答として「久しぶりに給食を食べられたから」という記述もありました。
食事とは別に、学校生活全般を通して
ふり返ってくれた生徒も多くいました。例えば「自分が変われた」、「自分を見直せた」、「人との関係がわかった」、「色々な人と関わる機会が増えた」と、自分自身の身の置き方、周囲との関わり方を習得できた喜びを書いている生徒がいます。
また、色々な事を体験し、学べたことにより、作業では力がつき、できるようになったことが増え、責任を持って任せてもらえるようになった自信を蓄えた生徒もいました。中には、寮での食事作りで寮母と炊事当番をこなすことで、料理を覚えられた楽しみや、共同生活の楽しさを挙げている生徒もいます。「楽しい!!」「家での生活よりも楽しい!」と。
反対に「いいえ」と回答した十二%の理由としては、「ゲームができない」、「自由時間に外で自転車で遊べない」という子供らしい素直な感想を出してくれました。しかし、在校生の中にはゲーム依存や家出等の問題点があってルールを守ることを課題とした生徒同士が生活を共にしているので、制限された環境は変えられないと思いますし、生活リズムを立て直す上で必要だと思います。
それでも、ちょっとタイムスリップしたような家庭学校の大自然の中で、薪で風呂を沸かす生活スタイルなどの貴重な経験ができ、過酷な作業で力がついたことを実感できるほど生徒は成長を遂げていることを知りました。
下膳時に「御馳走様でした。美味しかったです」と挨拶してくれる生徒の入所により、同様の生徒が増えました。良い行いを吸収し、実行できる生徒が増えてほしいです。
様々な事情と問題を抱え入所してくる生徒に対し、私ができることは食事に関するほんの僅かな事ですが、今年度もふり返りアンケートを実施した時、「家庭学校に来て良かった」と答えてくれる生徒が大半を占める結果が得られるよう、気持ちを新たに仕事に励みたいと思います。私にとって興味深く、そして活力を頂いたアンケート結果でした。
望の岡分校校長 佐々木浩二
この度の異動で、遠軽町立東小学校に赴任した校長の佐々木浩二です。同時に東小学校望の岡分校長として務めることになりました。どうぞよろしくお願い致します。七年前に北海道家庭学校に公立義務教育学校として望の岡分校が設置されたということは知っておりましたが、正直申しまして、これまで実際にどのようなかたちで子供たちへの教育がなされているのかは勉強不足で何も知りませんでした。これからしっかりと学んでまいりたいと思います。
本校校長としての務めがあり常駐することはできませんが、可能な限り児童生徒の活動を見て、子供たちがよりよく成長、自立できるように、分校の教職員、家庭学校の先生方と手を携えて、進めてまいりたいと考えております。
私は、人がこの世に生を受け、誕生した時、発達の差はあるかもしれないけれど、皆同じであると信じています。ですから、ここに入所してくる子供たちは、生育過程で様々な環境や事情等によって、問題が起き、この施設で生活を送ることを余儀なくされてしまったと思っております。
環境が人の生育に及ぼす影響の大きさ・怖さを強く感じます。と同時に環境が変われば人は変わるということも信じています。人として身につけなければならない行動や心を躾けることができなかった子供たちですから、心の回復や行動の改善には時間がかかるでしょう。児童生徒と正面から向き合い、根気よく指導、支援していくことが何より重要と考えております。重要性を認識していると同時に、その指導や支援が決して生易しいものではないことも承知しているつもりです。裏切られ、成果が見えない日々の連続でしょう。それだけに子供たちによりよい変容が見られ、成長を感じられたときには、その喜びも一入だと思います。
校祖、留岡幸助氏の厳しい自然の中で、汗をかき働くことを通して心身ともに社会に出ていく力を学ぶという崇高な理念のもと、開かれた北海道家庭学校。その「流汗悟道」の精神を具現、実践してきた作業班学習は、児童生徒が社会で生きる力を養う「学び」であると考えております。
一方、児童生徒が自立していくためには、現代社会で必要とする義務教育が担う知識や技能も必要であることから、望の岡分校が家庭学校に設置されたと考えております。
これから、私は、関係各位の皆様方にご指導・ご支援をいただきながら、家庭学校の活動の理解を深めるとともに、望の岡分校で学ぶ児童生徒のよいより変容・成長を目指し、分校が担う役割をしっかり果たすべく、校長として微力ながら努力してまいる所存です。どうぞよろしくお願い致します。
編集委員・理事 佐藤京子
昭和戦前期、家庭学校社名淵分校が、その農場と周辺農村を巻き込んで主導した経済活動や教育活動は、広範にわたります。
その教育活動に限ってみても、宗教活動の一環としての日曜学校を初めとして、青年会(団)、母の会、処女会等の育成、青年男女のための冬期学校の開設等はよく知られています。しかし、これら事業の内容は、さほど明らかにされてはおりません。その経緯を伝える文書や書簡等資料をたどって、調査を進めています。
中でも農繁期の季節託児所「木陰の家」は名のみ知られて、実態がみえない施設でした。
まずは、「木陰の家」調査の中間報告をお届けします。
昭和三年二月発行の家庭学校機関誌『人道』に掲載された「財団法人家庭学校要覧」には、「こかげの家」が次のように紹介されています。
農繁期に於て、小作者及付近農家の為め、託児所を開設し、一は以て農家の能力を助け、他は以て子女の教養に資しつゝあり
また、昭和二年六月に北海道庁に提出された「最近ノ事業成績書」では、「木陰之家(託児事業) 毎年七月ヨリ九月迄三ケ月間、一週二日幼児昼間託児事業ヲ開始ス」と報告されています。
さらに、同年七月発行『人道』の「農場通信 こかげの家をひらく」には、四月から十一月までの七ヶ月間で一年の衣食分を収穫する北海道では、特に忙しい夏季に、児童を家庭から離して保育する必要があると開設の趣旨を述べ、その概要を簡略に箇条書きにしています。
○開設は昭和二年七月から○対象は歩行できる頃から入学前の児童○遊具はブランコ、砂場、蓄音機等○弁当とおやつを支給○費用は一人七~十銭
主任者は秋田鶴代、外に助手が二名配置されました。場所は樹下庵(校長住宅兼客舎)に接する草原に張ったテントでした。
この記事と「最近ノ事業成績書」を合わせ見ると、託児所のやや具体的なイメージが描けます。開設期間は七月~九月、一週二日間の開設であったようですが、児童数は不明です。
なお、昭和二年度の予算書には、託児所経費は見えず、決算書では、経常費中の雑費の一部を組み替えて、託児所費が支出されています(弁当・おやつ代は学校持ち)。
さらに、同年七月の『支払票』綴を見ると、六月末から七月中旬にかけて、託児所用食卓三台、同ブランコ・シーソー各二台制作費が大工職に支払われ、同じく託児所分小皿・茶碗・湯飲み二十個宛、同ヨードチンキ外薬品雑貨が購入されています。(児童の定員は最大二〇人が予定されていたようです。)
これらの資料から見える状況は、託児所開設が昭和二年度に入ってから、急いで準備されたことをうかがわせます。
農繁期の季節託児所は、本州方面では明治中期に始まったといわれておりますが、本道では遅れて、昭和三年に北海道庁がパンフレットで必要性を宣伝したのを契機として、愛国婦人会が栗沢・長沼両村に試験的に設けたのが始まりとされています。翌四年以降、北海道の季節託児所は、急速に各地に広がっていきました。
全国の社会事業情報に通じ、当時の長引く不況の中で苦しむ農村の実情を、誰よりも熟知していた留岡校長は、率先して季節託児所を開設すべく決断したのではないでしょうか。
校長と秋田主任の往復書簡等によりますと、託児所を翌三年度に継続させるため、専門の保姆派遣等を提案する校長に、秋田主任は初年度の経験を踏まえ、「開くなら毎日にするなど、も少し真剣に。いい加減なことをするのならば、一時中止したほうが良い」と主張し、結局昭和三年度の予算計上は見送られました。
ちなみに、秋田鶴代は、女性の能力を高く評価する留岡校長が、特に期待した職員でした。彼女は校長と同じく岡山県の出身で、同志社女学校で家政科を修め、社会事業に志して家庭学校職員となったのです。自ら望んで社名淵分校に赴任したのは大正九年七月、二六歳の時でした。児童の教育ばかりでなく、来客の応接や日曜学校その他の場で積極的に活躍しました。
校長は、先進的な家庭生活や婦人の活動を学ばせるため、大正一二年から三年間、彼女をアメリカに留学させ、帰国後再び北海道へ赴任させました。そこでは女子冬期学校を主導し、地域の母の会(婦人会)等を指導して、家政や育児法の改善、栄養や衛生意識の啓発に献身的に努力しました。ライスカレーなどの西洋料理・菓子づくりの実習も行いました。
校長は託児所開設に熱心で、昭和四年には二〇〇円の予算を計上しましたが、頼みとする秋田鶴代は同年四月に退職し、バークレー在住の牧師と結婚してアメリカに去りました。結局、その後「木陰の家」が開かれることはなかったのです。