ひとむれ
このコーナーでは、家庭学校の月毎の機関誌である『ひとむれ』から一部を抜粋して掲載しています(毎月上旬頃更新予定です)。
職員が、家庭学校を通じて感じたことや伝えたいことを表しています。是非、ご感想をお聞かせください。
※都合により『ひとむれ』本誌と内容が異なる場合がございます。ご了承下さい。
巻頭言
子どもの心、気持ちを守る
転勤にあたって
家庭学校での働きに感謝して
新たな一歩を踏みしめて
校長 仁原正幹
令和初年度は何とも心許ない幕切れとなりました。常日頃世間から距離を置いている北海道家庭学校でさえも新型コロナウィルス騒動の煽(あお)りを受けたのです。
例年春三月のこの時期は、小学校・中学校の卒業、学年の進級などの節目に当たるので、それに合わせて退所して、家に戻ったり、他の施設に移っていく児童が多くなります。今年も全体の三分の一に当たる十一人が巣立っていきました。
本来なら家庭学校と望の岡分校での集大成の大事な時期なのですが、今年の場合は不本意ながら中途半端な幕切れとなってしまいました。それでも画(が)竜(りよう)点(てん)睛(せい)を欠くことがないよう、皆で協力しながらできる限りの手は尽くしました。新たな一歩を踏み出す子ども達が、家庭学校と望の岡分校で培った力を十分に発揮して、皆それぞれに広い世界で大きく羽ばたいてくれることを願ってやみません。
さて、標題の「児童福祉の誇りと覚悟」です。児童福祉の仕事の役割や目的を端的に言うと「子どもの人権を護ること」即ち「児童の権利擁護」であると、私は考えています。児童虐待から子どもの生命と安全を護り、心身ともに健やかに成長できるように支援しながら人権を護ること、それに尽きると思っています。
その役割の中核を担うのは児童相談所です。児童相談所の仕事の核心は将に「児童の権利擁護」にあります。そして、児童自立支援施設・北海道家庭学校の立脚点もまた「児童の権利擁護」にあります。児童相談所と児童福祉施設の使命は、両者がクルマの両輪となって、緊密な連携の下に互いに協力し合いながら、子どもとその家族の幸せのために業務に邁進することであり、そのことは今更私などが申すまでもないことです。
令和元年度もまた児童虐待が大きな社会問題となりました。全国的にも全道的にも過去最大の通告件数を記録し、千葉県や東京都、そして本道の札幌市でも悲惨な児童虐待死事件が起きました。増加する虐待通告件数に対して人員が足りないとう単純な分析結果の基に、対応策として全国でも道でも札幌市でも児童福祉司の人員増が叫ばれ、新年度から順次増員される見通しとなりました。札幌市の場合はそれに加えて第二児相の設置、一時保護所の定員増、他の機関との連携強化等の改善策も提言されているようです。どれもこれも大事なことであり、これらの改善策は当然必要でしょう。
しかし、ほかにもっと重要なことがあると、私は思っています。それは児童福祉に対する誇りと覚悟を持つことです。私もかつて児童相談所長を務めた経験がありますが、児童相談所の所長や課長などの管理職が誇りと覚悟を持って組織を動かすことが何よりも大切だと思って業務を遂行していました。そうした中で経験の浅い児童福祉司等の職員の士気を鼓舞し、育成していくことが大事なのです。単に人数が多ければ児童虐待対応がうまくいくという単純なものではありません。人員が多くなっても組織として機能しなければ、むしろ細部が見えなくなり、必ず取りこぼしが出てきます。要は組織としてのガバナンスの問題なのです。
私が前々号で札幌市児相の組織としての対応と一時保護所における不適切な拘束の状況について問題提起したところ、多方面から驚きの声や心配の声が寄せられています。一方で札幌市児相からは、今日に至るまで何の反応も反論もなく、抗議の声さえも聞こえてきません。敢えて申し上げますが、児童福祉に対する誇りと覚悟を持っておられるのか、疑問を感じざるを得ません。児童福祉の一端を担う者の一人として、私は今後も引き続き札幌市に改善を求めていく覚悟です。
さて私は、平成二十六年四月から丸六年間、北海道家庭学の校長を務めさせていただきましたが、この三月末を以て退任することになりました。二年前から副校長として私と共に家庭学校の運営に力を注いでこられた清澤満さんという誇りと覚悟を持った校長適任者に巡り会えたことが最も大きな理由です。家庭学校と望の岡分校の多くの先生方のご協力により、家庭学校長として私自身が完全燃焼することができたことも理由の一つで、皆さんには感謝の気持ちで一杯です。
この『ひとむれ』誌の巻頭言については、第八九九号(二〇一四・五・一発行)から執筆を続けてきましたが、今回の第九七七号が私の巻頭言の最終回となりました。月刊号と特集号を合わせて七十九本書かせていただきました。この間多くの皆様からご感想やご意見、時には激励の言葉などもお寄せいただき、大変大きな力をいただきました。温かいご指導とご声援に、心より感謝申し上げます。
私はこの六年間、二百六十キロ離れた札幌の自宅から単身赴任しておりましたので、月に二~三度の往復や、全道各地への出張・講演旅行などで、私のハイブリッドカーの距離メーターはついに十三万キロに達しました。地球三周分を優に超える走行距離です。この間、旭川紋別道で鹿に衝突したり、道央道で猛吹雪のホワイトアウトも経験したりで、時には肝を冷やすこともありましたが、そんなことは全く苦にならないほど楽しく充実した日々を過ごさせていただきました。伝統ある北海道家庭学校の一員として仕事ができたことを誇りに思っています。
新年度からは家村昭矩理事長の後を継ぐ者として理事長を務めさせていただくことになりました。新世紀の北海道家庭学校の更なる発展のために、引き続き精進させていただく覚悟です。ご指導とご厚誼のほど宜しくお願い申し上げます。
教頭 神谷博之
令和二年三月。いよいよ分校での勤務も最後の一か月になりました。振り返れば五年の歳月です。管理職としては非常に長い勤務期間ですが、終わりを迎えた今、あっという間の五年間だと感じます。
とてもたのしい五年間でした。一つ一つのエピソードを語っていけば、聞き手にとっては「大変な学校だなあ」と感じるかもしれません。ですが、自分自身は大変だと感じたことはなかったような気がします。実際、様々な方から挨拶代わりに「大変でしょ」との言葉が投げかけられましたが、その度に「いや、たのしいですよ」と答えていた記憶しかありません。ですから、できることなら、関係する皆さんにとってご迷惑でなければ、まだまだ分校勤務を続けたい気持ちでいっぱいです。やり残したことがあるから…というわけではなく、たのしくて、たのしくて、やめられない…という感覚でしょうか。例えとして挙げるにはふさわしくないかもしれませんが「あらたのし 思いは晴るる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし」といった感じです。自分なりの思いは貫きましたし、「身は捨つる」わけではありませんが、「浮世の月に かかる雲なし」という晴れ晴れとした心境です。
この五年間、施設職員の皆様には大変お世話になりました。そして、子どもたちと施設の百五年の歴史に感謝します。私はこの地で大切なことを学び直しました。分校に赴任するまで、私はずっと小学校で勤務していました。管理職になる前は当然のことながら担任をしていました。そんな経験の中、何となく、ぼんやりと、学級の子どもたちの気持ちを大切にしてきたつもりでした。小学校で子どもが過ごす時間のほとんどは授業ですから、特に授業で気をつけていたつもりです。
分校での五年間で、そんな自分の思いは確信に変わりました。あくまでも自分自身の心のうちの確信ですから、他の人がどう考えるかは別ですが…。学校の、と言えばいいか、学校現場での、と言えばいいか、先生の、と言えばいいか、まあ何にせよ、一番大切な仕事は「子どもの心、子どもの気持ちを守る」ことです。自分にはそうとしか思えない。
学校には時代とともに様々な要請があり、変化があります。キャリア教育であったり、道徳教育であったり、プログラミング教育であったり、CSであったり、働き方改革であったり、いろいろな指標や方策が提示されます。それらは公教育として当然クリアしていかなければなりません。ですが、それのみにとらわれては本末転倒です。根幹は、土台となるのは「子どもの心、子どもの気持ちを守る」ことです。
そんなことに改めて気づかせてくれたのは、施設に入所してくる子どもたちであり、長い歴史に裏付けられた施設の教育です。ありがとうございました。
新任地でも、分校で勤務した五年間と同じように、たのしい仕事をしようと思います。
※編集者から
神谷教頭先生は、常に「子ども」の存在を中心に据え、学校教育と児童福祉の融合を念頭にお仕事されている姿が印象的な方でした。この度、湧別町立芭露学園の校長先生としてご栄転なさいます。五年間、有難うございました。
教諭 永田健司
二度目の望の岡分校勤務の四年を終え感じることを・・。
この学校での時間は個人的にはとても楽しく充実したものでした。授業中やそのほかの様々な時間の生徒とのかかわりの中には、自分のことを深く考える機会、必要性が多くあるからです。それは以前こちらで勤めていた時よりも強く感じました。
この学校にいる必要があると判断された生徒の多くは、自分の性格や行動、特性なんかを自分で上手に把握することができるようになることなく成長してしまった感じがします。それが原因で周りとうまくいかずに、でも問題を解決しようとするけれどそのための行動が問題行動となる。根本的な原因は自己理解の浅さであると感じました。
鏡。鏡があれば自分の顔を簡単に客観的にみることができます。同じように自分の性格をどのように客観的に感じさせることができるか。鏡のかわりがつとまるものは周りにいる人。自分の行動や発言に対する周りにいる人の反応を見て自分の性格を感じ取る。性格判断のチェックシート的なものもありますが。
でもこの鏡の性能は人によってばらつきが大きい。子供の様子を映す鏡がゆがんでいれば、それを感じる子供が知る自分の性格は本来のそれとはどうしても変わってしまう。なんだかもっともっぽいです。それはそうなのですが、自分が鏡として生徒と向かい合っているときに感じたことは生徒の自己理解よりももっと深く自分が自分のことを理解しオープンにできないと生徒は自分のことを客観的に理解するための情報を得ることはできないってことが、私がより大事であると感じたことなのです。顕微鏡の能力を表す言葉に分解能っていうのがあります。普通の光学顕微鏡の分解能は光の波長です。それよりも短いものは見ることができません。電子顕微鏡の分解能は電子の大きさ。だから光学顕微鏡では見えない、でも電子より全然大きい原子一粒まで見えるみたいな。そんなイメージです。
例えば「生徒(あなた)のために」という言葉を使う自分。そこを考えていくとけっこう本当の自分は二転三転します。と言いつつほんとは自分のために言ってる言葉か、とかそこを含めて結局は生徒を考えて使った言葉だ、とか。結論は実は大事でなくて、そういうこと考えてる、悩んでることが大事で、生徒はまさにそこを見て感じて初めて自分自身のことを理解する機会を得るんじゃないかと。
こんなほんとに大事なことかどうかもわからないことを考えることができた四年間は、自分にとってはとっても充実したものでした。こんな教員を最後までサポートしてくださった寮長先生や施設の方に感謝します。ありがとうございました。
ホーム長 熱田 洋子
三月は新たな進路に踏み出す時、いま共に生活している自立援助ホーム「がんぼうホーム」においても、三者三様の進学となりました。子どもの一人は、家庭学校からホームに入居して三年間、アルバイトを続けながら高校定時制に通うことができ、無事卒業の日を迎え、出身地の専門学校に入学する道を備えられ退居してひとり暮らしを始めています。他の一人の子どもは、ホームに入居して半年、少しずつアルバイトをして生活を整えてきて、一年遅れで当地の高校定時制に入学、アルバイトも継続して高校卒業を目指します。最後に、私ですが、信仰の学びを志し諸事情が許されて、三月末で社会福祉法人北海道家庭学校を退職し、埼玉県にある神学校へ入学することになりました。
私は、二〇一二年一月に家庭学校に来て、学校内での五年の後、町場のがんぼうホームで四年目に入りました。ここに住んでみると、家庭学校百余年の営み、諸活動はもとより、職員と家族の日常の交わりなどを通して家庭学校の存在が地域に根付き、町の人々に受け入れられていることを一層実感させられています。がんぼうホームの子どもたちは就労を経験して自立を目指すのですが、就労意欲の弱い子どもが多くてアルバイトが長続きしないことから十か所以上の事業所にお世話になることになり、どちらも好意的に働く機会を与えていただいていることや、高校定時制にあっても年長のクラスメートの方々に支えられ、ご近所の皆さんも子どもたちを温かく見守っていてくださり、ホームの生活に何かとご配慮いただけることなど、留岡から離れても家庭学校の地域にある働きとして、様々な面で温かく接してもらうことができて感謝しています。
振り返ってみると、家庭学校の先輩の皆さんから受け継がれてきた創設の精神に支えられてきたことを感謝せずにおられません。私は、家庭学校からがんぼうホームへと子どもたちの生活により身近に関わるようになりました。この間、共に労してくださった女性職員の働きに接し、内に秘められた気高い志が家庭学校の歴史と共に引き継がれて、今に至るまで、仕事に携わる精神や向上心となってここでの働きを支えてきたことを深く思わされています。家庭学校の女性職員は、寮母として寮長と力を合わせて小舎夫婦制の寮運営を担う者、或いは、本館職員になって子どもたちと作業班に参加し、寮母の休みに代わって寮に入る者など、いずれも子どもたちの自立への成長を支えています。この分野の仕事は感情労働とも言われることがあります。そのような毎日の職務の中で、携わる者同士で意識を高めあっていこうとする姿勢を知ることができ、私も心を強められ支えられて来ました。そのことがよく伝わるものを紹介させていただきます。これは、昭和四十年頃に、当時の家庭学校婦人会が作成した「かくれた礎(いしずえ)」と題する冊子で、その中から抜粋します。「まえがき」には、女性職員の仕事に対する真摯な態度が現れています。
『・・・私達家庭学校婦人会一同は、母の日に当って、母としての心構え、特にこうした教護を要する児童の収容施設での母としての役割を反省し、自らを深く視つめて見ることが何よりも大切であると考えて集会を持ちました。
私達は社会の一員として、日常公私の生活において、単に自分の子を育て世間なみの幸福を追い求めるだけでよいだろうか。お互いにより以上昂揚された精神をもって仕事に邁進し、仕事そのものの中に生きる喜びを見出し、そして仕事が困難であればある程心を燃やし、そこに生甲斐を感じ、力強い生活を生きて行きたいものであります。そうした私達の願望は何によって学び得られるでしょうか。
私達はそうした願望から、家庭学校生みの母であり、育ての母である留岡幸助夫人の歩んだ道の一端なりとも学ばんと思いを馳せたのであります。丁度十年前の母の日に、「望の岡」の礼拝堂で「かくれた礎」と題して現校長(留岡清男先生)が亡き母留岡夫人について記念講演をされました。今、その原稿を拝借して、一同で再讀して新なる感銘を深くしたのであります。この感銘を益々深くして私達の心の支えともなし、自戒の言葉ともならば幸であると、これを謄写しささやかな冊子といたした所以であります。』
ここからは、「かくれた礎」と題する昭和三十年当時の留岡清男先生の記念講演より収録したものと、記されています。
『皆さん、この望の岡の礼拝堂は、大正八年に建てられました。今年でまる三十六年経ったことになります。この間、壁をぬり替えたり、屋根を葺き替えたりしたことはありますが、まづ、根本的な修理の手を加えたということは、なかったのであります。それというのも、この礼拝堂の下には、がっしりした石の礎が置かれているからであります。かつて、大町(おおまち)桂月(けいげつ)先生が来校されて、平和山の上から見下ろして、
礼拝の堂にとどかぬ夏(なつ)木立(こだち)
という一句をよまれましたが、原始林の梢の上に、なお高くそびえ立つ礼拝堂は、洵(まこと)に見事であります。併しその礼拝堂は、その下に、みえざる石の土台を積み重ねているのであります。眼には見えない、かくれた石の土台の上に、原始林の梢を高く抜いて、礼拝堂が聳(そび)え立っているということを、知らなければならないのであります。
昭和十年頃ではなかったかと記憶します。私は、神田一つ橋の救世軍本営の講堂で、山室軍平先生の説教を聞いたことがあります。山室軍平先生は、救世軍のウイリヤムブース大将の夫人でブース大将を助けて救世軍の礎をつくったといわれる、カザリンブースのことを話されました。カザリンブースは、一八九〇年に死にましたが、お墓の石碑の上には、無数の蝋燭(ろうそく)の焔(ほのお)が浮彫にされているその中に囲まれて、「この人は蝋燭の焔のように身を燃やし尽して、世の暗さを照らす光となった。」という意味のことが書き記されているといって、話を結んだのであります。
このサナプチの土地に、北海道家庭学校が創立されてから満四十一年、東京巣鴨の土地に、東京家庭学校が創立されてから満五十六年、家庭学校にもまた、家庭学校内から支えた二つの『かくれた礎』があったのであります。カザリンブースの墓碑銘にあやかっていうならば、身と心とを燃やしつくした二つの灯があったのであります。校祖留岡先生のよき伴侶であった、留岡夏子夫人と、留岡菊子夫人とがそれであります。
(中略)
菊子夫人は、情味あふれる、洵(まこと)にやさしい人柄でありました。私は昭和四年の夏、始めてサナプチに家庭学校の教頭として赴任致しました。馴(な)れない野良仕事は、かなり辛いものでしたが、仕事の途中、不図(ふと)樹下庵に立ち寄りますと、菊子夫人は、そっとコップに一杯、冷たい砂糖水を運んできてくれたり、一握りのお菓子を出してくれたりしたものでした。もう三十歳をとっくに過ぎた大人ではありましたが、妙に私は、その時のこと思い出して、人には甘えたがる性質があるということ、此の性質を満たしてやる母親の心が、どんなにか大切なものであるかということを想うのであります。
昭和八年頃だったと記憶します。校祖留岡幸助先生は、何度目かの脳溢血の発作で倒れました。家庭学校の理事達は、留岡幸助先生のために、鳥山に土地を卜(ぼく)して、一軒の家を建て、これを留岡幸助先生に贈呈することを申出ました。留岡幸助先生の病気は、既に重く、理事達のこの親切な申入れに対して、どういう形で感謝の意を表したらよろしいか、という判断力を喪(うしな)っていたのであります。「お前も知っている通りに、お父さんは、何一つものを私有しようとは考えないお方です。すべてを家庭学校に捧げて来ました。だから、理事達が下さるという鳥山の家は、御親切は有難いけれど、頂戴し放しにすることは、恐らくお父さんの御意志ではないでしょう。だから、一度は有難く頂戴して、その後すぐ追いかけて、家庭学校へ寄附する形式をとることにしましょう。お前も賛成してくれるに違いないと思います。」と。私は、勿論、大賛成しました。そして、菊子夫人の判断力に傾倒したのであります。』
夏子夫人のことは、清男先生が幼少のころに永眠され、先生は知るところがないということで、校祖留岡幸助先生の心友であり、夏子夫人が最も信頼し、敬愛した人であろうと思われる、大塚素(しろし)氏が書き綴られた『留岡夏子の行状』と題する小冊子の中から話しておられます。それから抜粋して家庭学校に関わる箇所のみ、次に紹介します。(原文のまま)
『・・・父上様(注・留岡幸助先生)を助け、巣鴨に得たる家庭学校の敷地を、懐妊の身を以(もっ)て、幼児を背負いつつ、一人の不良少年と、一人の出獄女囚とを指図して、草刈り、塵(ちり)拂(はら)いなどせられたり。其心の満足察するに餘(あま)りあるなり。
「親切なる母なき為に、悪少年となり居(お)る子供の事を思い、家庭の悪(あ)しきために、悪少年となりたる人の母となりたく、常に神様の御力と、御助けを祈り、私に母となる力のなきことを知り玉(たま)うとも、神よ、あなたの御力によりて、母となし給(たま)えと願い居(お)りしに、神様は、(注・明治)三十二年十一月二十三日に、家庭学校に一人の子供を與(あた)えられたり。実に其人が愛らしく、其子供の為に神に祈り、常に望みを以(もっ)て世話致(いた)し居(お)る。」と、此当時の感想を自ら記されたり。
かくの如(ごと)き心にて、家庭学校の生活に対し給(たま)いしゆえ、後に来(きた)りし子供何(いず)れも、母上様を己(おの)が母の如(ごと)く敬い、慕い、如何(いか)に他の教師方が訓(おし)え戒(いまし)められても従順ならざる子供にても、夏子様に説きさとさるれば、皆不思議にも、これに服したりという。』
当時、校長であった留岡清男先生はこの講演の中で、日々の生活と教育とに労している女性職員の心労を支えようとの趣旨と思われるのですが、「いしずえ」と冠した支援策の考えにふれておられ、そこからも女性職員の働きを家庭学校のいしずえとなるものと思っておられたのではないでしょうか。
ホームでの生活の中で、この冊子を繰り返し読む度に、どんな子どもにも、その子の良いところがあるもの、それを見ていこう、子どもの言動によっては、なぜそのようになるのかわからない時には、できるだけ見守り続けて、何を求めているのか、今、この子の成長のために何ができるのか気づきを与えられたい、と願っておりました。それは、この仕事に就いている私自身を絶えず見つめなおす時にもなりました。
子どもたちの成長のために、人間的な
思いを超えたところにある愛の精神をもち、時に、毅然とした態度をとることができる、家庭学校のいしずえともなる女性職員の気概のある精神は今に至るまで引き継がれていて、その中で支えられてきたことに感謝しております。
(「かくれた礎」の冊子から私が書き写し、原文のまま載せた部分に、誤字、読み間違いのところはお許しください。)
石上館 中三 S
春、この季節がやってくると「卒業」「入学」が繰り返される。自分もその一人だ。
自分は祝われる立場であるが、はっきり言ってそこまで嬉しくない。自分では、新たな集団に入っていける力がない。自分の殻に閉じこもっている臆病な「傍観者」だ。でも、今年は殻を壊し、今までの自分を捨て、この春を迎えたいと思う。
三月十九日、ここで自分は何を得てきたのだろう。「人を思う気持ち」でも「自分らしさ」でもない。「挑戦していく力」だと思う。
別に最初からあった訳ではない。それに、身に付けようなんて思いもしなかった。ここに来た当初は、正直言うと舐め腐っていたと思う。そこから何ヶ月も経ち、その分、苦労もしてきたと思う。多分、一般の中学生よりは。
ここでの生活は予想以上にキツかった。完全な休日は一日もなかった。けれど動かないより動いた方が身体には良いと初めて実感した。それに作業が沢山ある為、筋肉が増えて良かった。
高校生活では、部活動はやらないつもりなので「青春」と「勉強」に力を入れるつもりです。勉強面では苦手の数学で「赤点」を取りそうです。継続は力なりという言葉の通り数学は退所してからも継続していきます。
ほんの少しだけ「生徒会」という組織に興味があります。局長決めの時に児相に入ったので、高校では機会があれば、立候補してみたいと思います。
最後になりますが、窪田先生、美和先生、十五ヶ月と二十二日大変お世話になりました。こんな僕の面倒を見てくれて有難うございました。校長先生とはそこまでお話はしていませんが、毎月の講話や朗読会の全体講評の時は有難うございます。お体に気を付けて下さい。分校の先生方、親身に勉強を教えてくれ有難うございます。僕も頑張るので先生達も頑張って下さい。
新たな一歩を踏みしめて、進んでゆきます。