ひとむれ
このコーナーでは、家庭学校の月毎の機関誌である『ひとむれ』から一部を抜粋して掲載しています(毎月上旬頃更新予定です)。
職員が、家庭学校を通じて感じたことや伝えたいことを表しています。是非、ご感想をお聞かせください。
※都合により『ひとむれ』本誌と内容が異なる場合がございます。ご了承下さい。
卒業式
三年後(一)
校長 加藤正男
雪解け水は勢いよく下り、本館に上がる道を削っていきます。
柳の芽は確実に白く膨らんでおり、時々来る春雪と見間違います。
グランドでは厚くつもった雪を生徒と職員と分校の先生とで所々大きく穴を掘り、一日でも早くグランドが使えるよう雪堀をしています。実際使えるのは5月の連休ぐらいからとなります。
3月8日に高校生寮で無断外出者2名があり、9日にはなんとか無事所在が確認されました。車を盗んでの大きな事故や、山にはいいっての凍死とかの大きな事故につながることはなかったのでほっと胸をなでおろしました。
2名にとって家庭学校の生活は納得のいくものではなかったのか、それとも軽い気持ちで無断外出となったのかなかなかわかりませんが、その間、遠軽高校定時生の先生方には大変な迷惑やご苦労して探して頂きました。探しに奔走した私たち職員は、思いが伝わっていかないもどかしさを感じながら、車で町を探し続けていました。
3月11日の午後は釧路少年鑑別所の三谷統括専門官や北見児相の課長さんや担当ケースワーカーさんをお招きし、今年度の性治療プログラム実施の総括的な研修会をしていました。その終り頃、東日本巨大地震がおきました。この地震は三陸沖、茨城沖、長野地方と広範囲であり、千年に一度の大災害です。
災害に遭われた方々に対して心からお見舞い申し上げますとともに現在も避難生活等されている方々が、一日も早い復興がなされることを心からお祈り申し上げます。
北海道において、太平洋沿岸は津波で船舶等漁業の被害は大きかったのですが、住民の方々には、本州のような厳しい被害はまぬがれています。遠軽は震度二と、ほとんど気づかない揺れでした。
耐震化構造の建物とかの議論以前に津波の恐ろしさに、自然の脅威にただ驚くばかりになってしまいます。そして、福島の原発での事故では、想定外の大津波で安全装置が破壊されてしまうと言う事実に、安全神話は簡単に崩されてしまいましたが、命がけで作業されている方々により、これ以上の大きな事故にならないようお祈りするしかすべはありません。
1923年の関東大震災では家庭学校の茅ケ崎分校が地震のため建物が崩壊してしまいました。前年に家庭学校分校として神奈川県茅ケ崎に年齢の低い生徒を中心に家族寮を建てました。
生徒たちは幸い避難して全員無事だったのですが、最後まで安全を確認していた神代すみ子先生は、建物の下敷きとなり、亡くなりました。生徒の作文では「わたしたちは食堂でおひるのごはんをたべていると、不意にがたがたみしみしとうちがこわれだしました。・・・みんなが外にでましたが、私たちを子のようにかわいがってくださった神代先生一人出ませんでした」
海岸沿いの地盤の弱い地で有り、簡単に建物の崩壊を招いたと思われます。二、三日後、幸助先生は巣鴨の家から茅ケ崎まで歩いて分校を訪ねています。
上代すみ子先生は明治37年から家庭学校に勤務されたベテランで、茅ケ崎分校では「家族寮主婦長」になっていました。その後茅ケ崎分校は再建され、小塩寮長、奥さんのウタさんにより、十年以上にわたり 年齢の低い生徒を中心に分校として大きな成果をあげました。
小塩先生は、茅ケ崎分校を「純感化教育の小コロニー」とよび
「家庭の観念が乏しいと共に、共同生活の訓練に欠け」る少年に「家庭生活」をあたえ「自己権利の擁護と共に他人の権利及び喜楽の尊重、互譲互助の精神」等を育てようと「教育と」「養育」に分校の主眼を置いた施設運営がなされました。(留岡幸助と家庭学校 二井仁美)
現在の私たちの校舎や寮舎は建物が古く地震に強い建物とは到底言えるものではないのです。寮の生活を見た生徒のお母さんからこんなに古くて汚い建物で生活するのは人権蹂躙だと強い抗議を受けました。
昨年度は、トイレの簡易水洗化を一部行ったり、畳やカーテンを更新したり、設備面でも気を使っているつもりでしたが、外部の人から見ると平成13年の向陽寮(現在高校生寮として使用)と較べると昭和48年の築37年の建物は外見や中はかなり見劣りするのです。中にいるとそれほど感じないのは私たちの感覚が鈍いのかもしれません。
新年度では鞠泉寮の耐震化構造、樹下庵を家族寮として、同様に耐震化構造で道や国や町の補助を受け設備の改善を図ろうとしています。
18日の理事会にて全員の理事の出席のもと、新年度の予算書を審議しました。そのなかで、経営的に厳しい中、建物の改善とともに、寮長・寮母にふさわしい人材を確保すべく各方面に働きかけ、留岡幸助先生・清男先生の理想とした家庭学校の充実を図っていきたいのです。
23日は望の岡分校の卒業式です、全体で行われるのは二回目です。それまでは、個々に地元の校長先生がこられた日に、卒業証書授与式を行いました。
入校してきた生徒の在籍は分校に移しますが、卒業前にはまた、地元の中学校に移し、地元の学校からの卒業証書授与です。
札幌、小樽、室蘭、釧路等の小・中学校の校長先生16名がその卒業証書授与式に参列して頂き本人に手渡しました。
小学生の卒業者2名、中学生の卒業生は14名。この式に参列されたご家族の方は8家族19名です。
小学生のⅠ君は、3年3ヶ月ここで生活し卒業後は、もと暮らしていた養護施設に戻ります。U君は、1年9ヶ月ここで生活し、家族のもとに帰る予定です。中学生で卒業した生徒で家族のもとに戻る生徒5名です。まだ入校後間もない生徒も多く、ここで中卒生として生活するもの6名、高校生寮にいって定時制若しくは高等養護に進学するもの5名です。
式では、一人ひとりが、これからの決意を述べるとともに、これからの目標を大きく書き、保護者の方や来賓の前で発表しました。厳粛な雰囲気の中、在校生も真剣に卒業生の思いを心にとめており、特にここから旅たっていく7名の生徒は、ここでの生活を思い出しながらの決意を語ってくれました。
昨年は高校受験者七名全員志望校に合格しましたが、今年は受験生9名のうち不合格者が3名出ましたが、その後3名とも定時制の二次募集にて入学のめどが付きました。これからの高校生活を新たな環境の中、一人ひとり、家庭学校で身に付けた事を意識して、高校生活に進んでいってほしいのです。
大地の詩―留岡幸助物語は、いよいよ5月から札幌JRタワーのシネマプレスや全国各地で映されます。
留岡幸助役の俳優村上弘明さんは岩手県陸前高田市の出身です。ご両親は、震災に遭われ高台にあった家は津波で一階の天井に届くぐらいまで水につかりました。幸いご両親は山に避難して助かり、4日後に『自宅は壊れたけど元気』と連絡が取れたとのことです。
映画の方は、北見や千歳、新札幌で事前上映が始まりました。
3月12日付北海道新聞の「読者の声」欄では、「とてもよい作品でした。彼の名は、社会福祉などを学ぶ学生なら知っていると思いますが、観客のほとんどが中高年者で、若い人が見当たらないのが不思議に思われました。・・・もっと多くの若者たちにも見てほしいもらいたい映画です。」と書かれてありました。
JR北海道の4月号の車内誌では「留岡幸助の理想郷、北海道家庭学校 心を開拓する少年たち」とのテーマで大きく紹介されます。
幸助先生がめざした心の開拓は、少年たちへの課題でもありますが、私たち家庭学校職員全体の課題でもあります。
皆様のご指導・ご支援のもと理想郷としてふさわしい家庭学校の生活・教育をさらに充実していくべく前に進んでいきたいのです。
捧 一
二〇一一年一月二五日から二七日の間、石上館卒業生の予後指導にいってまいりました。本来の予後指導は、退所後一年以内の卒業生を対象としておこなわれます。今回訪問した卒業生は退所後三年を超える生徒ばかりで、本来の予後指導対象者ではありません。ここ数年、職員の退職が続き、学校として予後指導をする余力がなかったため、家庭学校を退所したあと顔を合わせることのできなかった卒業生たちです。
家庭学校を卒業して三年。子供たちの「今」を訪ねる仕事は、卒業生の置かれている状況を知り、自分の仕事を振り返る時間となりました。
一月二五日、二〇〇五年四月、一八歳で退所した○田○君を○○に訪ねました。
退所後、本人は地元である○○に帰りたいという希望を持っていましたが、保護者との折り合いが付かず、派遣労働者として静岡県で稼働を始めた生徒です。
「一八歳から二一歳まで派遣で仕事をしました。今は二四歳です。派遣切りにはあっていません。鬱になって体調を崩したので○○に戻ってきました。いまは鬱が悪化して、障がい者手帳を取得する予定です。それはいいんですけど、障がい者手帳が出ると生活保護費が減るのが問題で、三月からは一人暮らしをする予定でいます。お医者さんからは仕事をするなといわれていますが、健康に悪いので何かできるボランティアでもないかと考えているところです。子供が好きなので、保育士になりたいけど資格がないし、生活保護を受けているので専門学校にも行けません。
家庭学校の生活を振り返ると不本意で入れられたという気持ちが抜けなくて、不満がいっぱいありました。今から考えると親とうまくいっていなかったことを捧先生にぶつけていたような気がします。家庭学校で生活をしているうちに、だんだん捧先生のことが好きになったんですけど、卒業する頃にまた嫌いになりました。進路のことで自分の思い通りにならなかったからだと思います。二〇〇五年に卒業して、二〇〇八年まで派遣をしていました。今までの人生で一番よかったのは二〇歳から二一歳かな。向こうで定時制高校にもいって、バトミントンは定時制の神奈川県大会でベスト一六までいきました。時間はかかってもいいから、あの頃みたく元気になりたいと思います。
家庭学校のことで思い出すのは、メシがうまかったことですね。トマトとナスビがおいしくて、特にナスの素揚げがおいしかったです。たまに、奥さんのご飯が食べたいって思いますよ。いまの生徒にいいたいのは、卒業してみて、家庭学校で学ぶことが自分の人生にどれほど大事なことか卒業してみて初めてわかったということです。作業でも勉強でも、どんなことでもやり遂げて欲しい。自分のことを考えると、それをやり遂げたらもっとましな人生だったなと思います。卒業して、自活して初めて、あれだけ不満のあった家庭学校だけれど、自分が守られていたということが分かりました。そのことをいまの生徒たちに伝えて下さい」
この年齢で体調を崩して生活保護受給者になってしまえば、否応なく社会的に孤立してしまいます。あまり孤立感をもたせないよう、つながりを持ち続けたい。いつか、健康を取り戻し、社会的復帰を果たして欲しい。鬱になり、むくんだ顔で話す○田君の顔を見ながら、そう思っていました。
次に向かったのは、○○高等養護学校です。この3月卒業予定の○林○樹君に会うのも三年ぶりのこと。時々○林君から手紙をもらったり、担任の○田先生からからも手紙をもらったり、電話で話をしたりという機会はありましたが、顔を合わせるのは卒業後初めてです。ホームルームから戻って畳敷きの指導室に入ってきた○林君は、活き活きとした若者らしい表情をしていました。
担任の○田先生は、○林君を評してこういいます。
「○林君は、最初は怒ったような顔をしていました。でも、だんだん慣れてきてからは表情も柔らかくなりましたね。クラスの中でも、悪いものは悪いとはっきり言うので、一目置かれています。一年の二学期から生徒会長にしたらどうかという声が上がっていました。学校生活を通じて、変にダレたことはありません。馬車馬のような高校生活を送ったと思います。
家庭学校のことは何かあるたびに喋っていました。○林君が捧先生とこうして話しているのを見ていると、三年間という時間のブランクを感じないですね。一緒に暮らしたってこういうことなんだと思いました。残念なことに、お母さんとは連絡が取れないので、一度も一時帰省をしたことがありません。だから、三年になる春休み、室担の○野先生と一緒に旭山動物園に行って、そのあと回転寿司を食べたこともありました。
学校では本当によくやっていましたよ。よく蘊蓄も喋っていて、その中に家庭学校の話が出るんです。これは私たちの反省なんですが、この学校は実習が主体で座学がほとんどありません。○林君のような子には、もっと普通の勉強をさせてあげたかったですね」
○田先生の話をニコニコ笑いながら聞いていた○林君は、その話を引き継ぐように話し出しました。
「家庭学校にきたときと同じで、ここも最初は戸惑いました。慣れるまでが大変だったけど、慣れてから気楽に生活しています。入学してから、陸上をやるようになって、全国大会にもいきました。八〇〇mと四〇〇mのタイムトライアルではビリ。ボロ負けです。
学校生活では、人間関係でもうやっていけないと思うときもあったですね。そんなとき、いろいろな先生たちから、苦手な先生の時は笑顔でということをアドバイスされました。クリーニングの実習では、メタメタにいわれて、帰れといわれたこともあります。普通の生徒は三回くらい実習をして終わりなんだけど、僕は実習を七回やりました。就職は実習がきっかけで、○○ショップに決まりました。
卒業したあとの目標は、会社をクビにならないこと、趣味のサッカーを続けること、将来結婚して三LDKに住むことです。仕事の方は、都会で人と接することをしたいと思っていたので、春から始める仕事は接客もあるのでいいですね。悔いが残っているのは、自分の時間をあまり作れなかったことかな。普通の勉強ができなかったことも心残りです。部屋はきれいになりましたよ。最初はどう整理していいか分からなかったけど、いまは大丈夫です。新しいところでもいまのパターンを続けられればOKといわれています」
後日談になりますが、同席した○田先生から、卒業式が三月○日であること、もし都合が付けば参加してもらいたいことを聞き、何とか参列できないか調整したところ、寮母が出席できました。明るく愛情にあふれた卒業式をみて、寮母が「先生たちもそうだけど、お家の人もみんな温かいの。うちの子たちの置かれている状況とは違うということを改めて感じたわ」といっていました。
○林君は、卒業後保護者の支援が期待できない子です。僅かな力であっても、その支えでありたい。そう思っています。
その後○○に向かい、○田○君に会いました。
我が儘で精神的に不安定になりやすく、在校時も指導に難渋した生徒です。家庭的にも複雑で、引き取りを渋る家庭と何度も話し合いをもって、やっと進路が決まった経緯がありました。
○田君と会ったのは、家のそばにあるファミリーレストラン。しばらくぶりにあった○田君は、身長が一八四㎝になっており、一七八㎝の私が見上げる偉丈夫になっていました。いま勤めている引っ越し業者もすぐそばにあるといいます。
「卒業してからの三年間を振り返ると濃かったって思います。家出や恐喝など、悪いこともしたけど、その中で学べたこともありました。家出の原因は携帯の使いすぎ(一〇万円くらい)で怒られたからです。その頃は、高校の周りが悪かったし、自分もその仲間に入りたいと思っていました。高校は、八月で辞めました。辞めたときに、朗読会の講評で○○先生に○は辞めると思うと言われていたことを思い出して悔しかったです。でも、あのときは、どうやっても続けられそうにありませんでした。
学校を辞めるとき、親と大して話はしていません。辞めたら仕事はちゃんとしなければならないといわれました。高校のときは、親との関係は悪かったけど、仕事をするようになってから親との関係がよくなりました。
最初にい働いた焼き鳥屋は、給料以外はよかったです。焼き鳥屋の給料は一日一二時間働いて三〇〇〇円でした。さすがにこれはやってられないので、半年で辞めました。その後とび職をしました。仕事は足場の解体です。給料はよかったけど、同じ作業しかしないのが嫌で三ヶ月で辞めました。その後には居酒屋で仕事をしましたが、これはもめて辞めました。その後、いまの引っ越し屋で働いています。契約社員ですが、月給は二〇万くらい。残業が多いので、遊びもせずに働いています。休みの日は、家にいてもヒマなので、会社の事務所で遊んでいます。家庭学校ではいろいろあったけど、今こうして普通に人とやりとりしていて、これ家庭学校で教わったな思い出すことがあります。(続く)