ひとむれ
このコーナーでは、家庭学校の月毎の機関誌である『ひとむれ』から一部を抜粋して掲載しています(毎月上旬頃更新予定です)。
職員が、家庭学校を通じて感じたことや伝えたいことを表しています。是非、ご感想をお聞かせください。
※都合により『ひとむれ』本誌と内容が異なる場合がございます。ご了承下さい。
巻頭言
伝統のバター
寮運営と子育ての両立
伝えたいこと
望の岡分校での一年を振り返って
校長 仁原正幹
暦の上では春三月となり、寒気も少し緩んできたことから、屋根からの大量落雪が大音響を轟かせることがあります。 家庭学校の冬の行事も一段落しました。敷地内の神社山でのスキー学習を皮切りに、平和山山頂からの滑降競技、街のロックバレースキー場での大回転競技と回転競技の各種大会が行われました。スキーの締め括りとしては地域の一大イベント「湧別原野オホーツククロスカントリースキー大会」に今年も全校生徒が参加し完走しました。雪像コンクールも三つの寮の前庭で開催され、今冬も力作が並びました。子どもも大人も北国の冬の生活の醍醐味を満喫したと思います。
さて、今号では児童自立支援施設の沿革を少し振り返ってみたいと思います。児童自立支援施設の歴史は、国全体としては一九〇〇年(明治三十三年)の感化法制定に始まります。明治初期の非行少年への処遇は成人監獄内にある「懲治場(ちようじば)」収容でしたが、成人から犯罪を習うなどの弊害もありました。明治中期になると農民としての生活が破綻して地方から都市に流入する貧民が急増するとともに浮浪児や孤児が激増した結果、不良少年や犯罪少年も増加したようで、そうしたことが感化法制定につながったようです。
この感化法の条文の第一条に「北海道及府県ニハ感化院ヲ設置スヘシ」とあり、都道府県義務設置が謳われています。ただし、第五条に「感化院ニ関スル経費ハ府県ノ負担トス」とあったので、財政事情などから「感化院」の設置が順調に進まない都道府県もあったようです。
このときの都道府県義務設置の考え方は、その後「少年教護院」(昭和九年)、「教護院」(昭和二十三年)、そして「児童自立支援施設」(平成十年)と制度が変遷する中でも引き継がれ、現在も各都道府県は自前の児童自立支援施設を必ず一カ所は持っています。さらに、北海道、東京都、大阪府はそれぞれ二カ所の施設を設置しており、現在では政令指定都市の設置も可能となっていることから、横浜市、名古屋市、大阪市、神戸市がそれぞれ一カ所ずつ設置しています。
全部で五十八ある施設の中で、都道府県立五十カ所、政令市立四カ所、国立二カ所の計五十六カ所と、そのほとんどが制度発足の経緯や趣旨から国公立の施設です。そのような中で、感化法制定に先んじて前年の一八九九年(明治三十二年)に留岡幸助が東京で開設した家庭学校を起源とする北海道家庭学校は、横浜家庭学園とともに全国で二カ所のみの民間立の児童自立支援施設という、非常に珍しい設置形態のまま今日に至っています。
主幹(酪農担当) 蒦本賢治
大正三年に留岡幸助がこの地に家庭学校を拓いて、翌年にはホルスタイン種乳牛二頭が導入されました。大正六年にバター製造を始めたとの記録があります。 平成十年十一月、私が酪農部の担当として家庭学校に着任し、翌月の十二月に当時の小田島好信校長から「家庭学校ではバター製造を行っているが、これまで醸造部として製造を担当していた山下先生は今度、寮担当となるため、この冬のバター製造はできない。そこで、君がバター製造をやってくれないか」というようなことを言われました。私は、着任間も無くまだ牛舎の仕事も慣れない頃でしたので「来年ならまだしも、今は無理です。」と一度は断りましたが、結局、渋々ですが受け入れることとなりました。
早速、山下先生に家庭学校でのバター作りを教わりました。かまどの薪に火を着け、牛乳を加温するところから始め、一日目はクリームセパレーターでクリーム分離し、翌日に一晩寝かせたクリームを木製のコンバインド・バターチャーンを用いてバター粒にします。バター粒を水で洗ってチャーンの変速ギヤを入れ替え、低速回転にして機械内部でしばらく練ると水分が抜けてひと塊りのバターになります。できたての柔らかいバターは、先輩職員である齋藤先生作の木製バタープリンターを用いて四角に固め、硫酸紙で決められた折り方で包みます。大正六年に始まったバター製造が途切れずに続いてきたというわけではないと思いますが、二十年ほど前、このようにして私に伝統のバター製造が引き継がれました。
山下先生に教わった製法では湧き水に塩素剤を添加して消毒したものをバター粒の洗浄水として使っていましたが、私の考えで、衛生面から水道水を使用するようにしました。すると、出来上がりのバターの硬さが安定せず、練りの工程でうまく水分の抜けないバターとなることがありました。原因は水の温度で、時期によって水道水の温度が高ければ、柔らか過ぎのバターとなり、低いと硬くなり過ぎるのです。原因が判ってからは、水の温度を測り適温に調整するようにしました。
しばらくして、長年使われてきたコンバインドチャーンが、ちょっとしたことで壊れてしまいました。木製で、乾燥しづらい構造のため、内部が腐食し脆くなっていたのです。急遽、買い換えることになりましたが、攪拌から練りの工程までを機械で行えるコンバインドチャーンの購入先を見つけることができず、攪拌のみを機械で行うバターチャーンを買うこととなりました。そのため、製造工程に「手練り」の手順が加わりました。この時購入したのはチーク材で作られたフランス製の木製チャーンで、現在も使用しています。
それから、塩の粒がバターの中に残る問題が出ました。塩を磨り潰してから投入するなどしてみましたが、最終的には塩を投入するタイミングを早めるということで解決しました。すると、今度は多少の塩分が水分に溶けて流れてしまうので、それを見越して塩の分量を加減しました。
二年ほど前に、牛乳を温めるかまどが古くなり、湯を張る釜底に穴が空いてしまい、それを使うことが困難になったために、薪を使っての加温をやめ、寮舎の改築で不要になったステンレスシンクを持ってきて、そこに灯油ボイラーで温めた湯を張って加温するように製造方法を改めています。
この頃から、一度に作る製造量を減らしています。それまでは、時間的にかなり無理をして作っていましたが、牛舎作業との両立や公教育導入による施設内の体制の変化、脱脂乳の有効利用、また、私事ですが共に酪農業務を担当している妻の出産、育児との兼ね合いなども考慮して、一日の中で余裕を持って作業を終えられる生産量にしました。その分製造期間を長くするようにしています。
伝統として引き継いだバター製造ですが、二十年の間に、このように製造方法や環境も時代や状況に応じて度々変化してきました。今年はまた大きな変化があります。
これまで、家庭学校のバターは自家用として製造していました。昨年より、度々お伝えしていますが、この度、家庭学校でバター及びチーズの本格的な製造・販売を行うこととなりました。この原稿の執筆時現在、バター・チーズ工房を作るために、既存の建物の改修工事が行われています。新しい工房は保健所と相談しながら販売許可を得られるように設計したもので、製造手順もそれに従い変えなければなりません。また、これまではバター製造は冬期間にしか行いませんでしたが、設備が整えば、通年で製造できるようになります。家庭学校では夏は放牧して青草を食べさせ、冬は乾草やラップサイレージを食べさせます。乳成分も大きく変わります。季節ごとに違う味のバターを楽しめるようになるのではないかと思います。
販売開始は二〇一九年度内を予定していますが、詳細は未定です。購入方法や製品ラインアップなどが決定すれば、また「ひとむれ」紙面やウェブサイトなどでお伝えしたいと考えています。
掬泉寮寮母 藤原美香
子育てをしやすい職場について書かせていただきます。私自身のことについて述べさせていただくと、一般寮の寮母として掬泉寮を任されてから丸三年が経ちました。現在は小学三年生から中学三年生までの七名の児童を預かり、共に生活し、支援をしています。その一方で、寮長と共に二歳半になる息子と今まさに生まれようとしている第二子を妊娠中で、寮母として、また自分たちの子どもの母親として、寮生と一緒に私たち家族が生活しています。
現在は産休中で寮対応を離れていますが、寮と住宅がつながっているので、ほぼ毎日寮生とは顔を合わせ、できるだけ「いってらっしゃい」や「おかえり」を言えるように心がけています。その背景には、前回の長男出産の時同様、今回も道外の実家には里帰りせず、遠軽で産み育てることで、寮生に少しでも自分が生まれるまでの母親の大変さや小さい頃に誰かしらの関りがあってこそ今の命があることを感じてもらいたいという思いがあります。その思いで寮長と二人三脚で寮と家庭を守ってきました。
しかし、今回の妊娠では自宅療養を医師から指示されることもあり、一人目の時とは違って、仕事だけでなく、自宅の家事を制限されることもありました。その都度、寮の食事作りや給食作りの当番を他の先生方に代わってもらい、臨機応変に対応していただいていました。また、寮生たちも食事を作っているそばで椅子を用意してくれたり、重い物を率先して運んでくれたりと私の動きをよく見ていて、すかさず手伝ってくれていました。何よりも、幼い長男と一緒になって、体の大きな寮生たちが遊んでいる姿が微笑ましく、励みになりました。
寮母の仕事としては、毎日の朝夕の食事作り(日曜は三食)や健康管理、服装や居室の環境整備、寮内の衛生管理など大まかには仕事がありますが、子どもたちの表情や行動から見えてくるこれからの支援のあり方を寮長や職場全体と共に考えていくことが根底にあります。また、寮長と同じ考えでいることの一つに、寮生一人一人が自分の子どもであったらどのように対応するかや、保護者としてどのようなことを知りたいかを自分たちの尺度ではありますが意識して、寮生とその保護者への対応に活かしていけるよう心がけています。前面に立って支援をしている寮長を支えられる立場として、また寮生の心の拠り所になれるように日々模索しながら生活しています。
世間では子連れ出勤の推進が話題となっていますが、私たちの職場(寮舎運営)は家庭そのものでもあり、毎日長男は寮内を自由に行き来し、寮生や沢山の職員と関わっています。保育園の送迎などもあり、時短勤務ということではありませんが、一日の勤務の中で朝の打ち合わせを保育園への送りのため免除させてもらい、食事作りは隙間時間で下準備をしながら、子育てと仕事の両立を図っています。また、保育園に預ける前までは、職員会議に子ども同伴で出席させてもらうこともありました。さらに、休日に行われる行事には長男も参加して寮生を応援し、寮生もまたそれに応えるかのように力を発揮してくれています。その他にも、毎日の食事には寮母の私と長男も一緒に食卓を囲み、寮全体が家族団らんを感じられるような雰囲気づくりも大切にしています。臨月に入ってからや前回の出産の時の産後休暇中は寮舎へ顔を出すことが難しいこともありましたが、それでもできるだけ顔を見せられるよう心掛けています。
このように子育てしやすく、また仕事と両立できるのは、子どもの急な体調不良時に寮対応や食事作りに入ってくださる職員、職場全体として夫婦職員とその家族を支えてくれる土台と沢山の協力があってこそのものだと考えています。また、長男の保育園行事に夫婦で参加できるように配慮してもらうことも多々あります。そのような私たちの姿が、夫婦のみでの子育てが一般的になり、その中でも単身家庭で育ってきた寮生が多い中で、夫婦が力を合わせて生活し、子どもの成長を見ていることを伝える良いきっかけにもなるのではないかと思っています。また、それらを実現できるように職場からも手厚くフォローをしていただいていることを身に染みて感じ、感謝しています。
夫婦で同じ志を持って支え合い、家庭的な雰囲気を持って寮を持つこと、さらにその中で寮生と一緒に子どもを育てられる環境があるのは家庭学校ならではのことであると感じています。しかし、家庭学校では、寮舎運営を担う夫婦職員が現在二組と少なく、稼働している一般寮三寮のうち一寮はベテランの寮母職員と今後を担う男性職員のペアで運営しています。
現在、全国の児童自立支援施設における職員不足、特に夫婦職員の確保は難しいと聞いています。しかし、家庭学校では職員としてのスキルを実地で学び、様々な研修を通して自身の支援を振り返り、職員としての成長も支えてくれます。入所してくる児童を家庭的な雰囲気で迎えられるよう、新しい職員や夫婦職員が増えてくれることを願っています。
児童自立支援専門員 木元勤
この度、「ひとむれ」に執筆する機会を得ましたので、最近目にして印象に残っている山陽放送主催のシンポジウム「慈愛と福祉の先駆者たち」の記事(山陽新聞)を読んで感じたことを記したいと思います。
新聞には、備中高梁に生まれた家庭学校校祖の留岡幸助先生が、理想的な社会福祉を実現しようと抱いた雄大な構想に関して、シンポジストである二人の研究者(室田保夫・京都ノートルダム女子大特任教授、二井仁美・北海道教育大教授)からのお話が書かれています。
記事は、「幼少期に武家の子どもと喧嘩になり、養父にせっかんされた留岡」が「士族の魂も町人の魂も神の前では平等というキリスト教の教えに感銘」し、教会で洗礼を受けたことが「生涯で一番大きなよりどころになった」と紹介し、その後、教誨師となった留岡が、「なぜ犯罪に手を染めたか聞き取り、分かったのは、彼らは家庭環境に問題があり、十分な教育を受けられなかったこと」にあり、「留岡が、児童期からの教育に目を向けたのは必然だった」(室田教授)との言葉が紹介されています。
また、「当時、問題行動のある少年を収容した感化院の多くは、監獄と同様、脱走を防ぐ壁や塀で囲まれ、扉を閉ざしていた」が、「米国を視察した留岡は全く違う考え」を持ち込み、「愛こそ最も堅固な壁であると説き、率先して施設の開放に取り組んだ」ことを二井教授の解説として載せています。さらに記事は、「理想を追求した留岡は、北海道遠軽町で約千ヘクタールもの原野の払い下げを受け、木を切り、草を刈って開拓した。…家庭学校の分校は、額に汗することを尊ぶ『流汗悟道』と、能く働き、能く食べ、能く眠るという『三能主義』を校是とし、今も児童自立支援施設として歩み続けている」ことを紹介し、「頑張って成長した子供たちが社会の冷たいまなざしの中でつまずくことがないよう地域全体でサポートする村をつくろうと考えていた」と校祖留岡幸助先生の構想を読み解く二井教授の解説を紹介しています。
いかに困難で壮大な事業を先人たちが紡いできたか。
私は、十一月から十二月にかけて木工教室の横に建っている「吹き抜け倉庫」(と呼んでいる倉庫)の片付けをしました。その際、大量の古材、古い窓枠(ガラスつき・木製)、障子、襖、アルミサッシ等々使えそうなものはどんなものでもとっておくというDNAが脈々と引き継がれている現実を再確認しました。齋藤先生(私の大先輩)の手伝いをしていましたので分かってはいたのですが…。ものが豊富ではない世の中、何をするにしても道具や材が必要で大切なもの。その取り扱いは、齋藤先生から厳しく教育されました。「段取り」が仕事の正否のほとんどを決める。特に、作業後、使った道具(スコップ・クワなど)の泥落としや水洗いは、次回の作業の段取りの一つであると徹底して指導されました。それは、そのまま一緒に作業する生徒に伝わっていきます。この教えは、私にとって、理屈では理解していたものを実践で身につける生きた学びであったと思っています。
私は中卒生クラスの担当です。九月以降在籍児童がいませんが、春にはクラス再開の見込みです。校祖をはじめとする先人達の思いを胸に『流汗悟道』と『三能主義』(現校長は最近「能く考える」を加えた『四能主義』を提唱しています。)を校是とする家庭学校の教えを、実践を通じて子ども達に伝えていこうと思います。
教諭 高山修一
今、望の岡分校で新しい春を迎えようとしています。滝上町から通勤している私にとって、冬の間の通勤は大きな難関だと感じていました。片道六十キロ弱の道程には二つの峠があり、その半分以上は電波の届かない地域です。もし、その峠道を避して紋別経由で海沿いを回ると電波は安心ですが三十キロ程遠回りになってしまいます。幸い、この冬は雪が少なく、暴風大雪で峠のゲートが閉ざされることもなく(一度だけ自主避難的に途中から引き返しました)比較的安全に通勤することができました。当然ながら慣れない冬の峠道の運転には特に神経を遣い疲労消耗しましたが、雪を被った山々を遠景に、樹々の枝先の霧氷に朝陽が当たる絶景を、峠を下りながら眺めるその時間は贅沢なひと時でした。
さて、冒頭にも記したとおり、新しい春を迎えようとする今、本校での一年間を振り返り自分なりに感じたことや考えたことを大きく二つ綴ってみたいと思います。
中学校の美術科教員として二十数年やってきた私が、今年度一番たくさん授業を行った教科は数学です。中学二年生の数学基礎クラス。その担当です。これまでの教員人生で数学を担当した経験は教員になりたてのころに僅か一度。後はTTでの経験が数回…。不安な気持ちで一学期がスタートしていきました。当初担当する子どもは一人でした。マンツーマンの指導の中、砂が水を吸い込むように色々なことを覚えていく様子には素直に驚きました。意欲がないわけではなく、積み重ねることが苦手だとか、ある時期に学校から足が遠のいた事が現状の大きな要因だと分かりました。そこで、自分なりに工夫してその子に合うような教材を作り、指導法を工夫して授業を展開していきました。その後、一学期が終わり二学期になると、基礎クラスで授業を受ける子どもたちの人数も増えました。それぞれの進度も違う中、授業の展開についても益々の工夫の必要に迫られましたが、子ども達のやる気に触発され「もっと分かりやすく」「もっと興味を高めて」と、思いついたことを片っ端から実践しました。もちろん上手くいかなかったこともあります。しかし、失敗するたびにそこから学び、自分なりに授業をとおして子ども達に向かいあっています。そんな授業の中で、嬉しい瞬間があります。それは分からなかった課題を、もう一度分かるところまで遡って復習し、時間をかけて「分かること」、「解けたこと」で自信がついたなと分かった時です。その瞬間の子ども達の表情は本当にたくましく、素敵です。そして、ただただ素直に嬉しく思います。また、たった一時間の授業のとりくみをとおして、子ども達がこれまでの人生の途中でポカリと開いたままだった幾つもの小さな穴を丁寧に埋め直し、自分という「道」の基礎を頑丈に仕上げていっているようにも感じています。同時にシステムとしての基礎クラスでの学習に大きな意味を感じています。何故なら子どもたちに付けたい力の一つが「自信」。それは学習面でも同じだからです。様々な課題と不安定さ、個性、そして「よさ」を持つ子ども達相手に、まだまだ手探りの段階ですが、あの一瞬の子ども達の輝きを忘れることなくこれからも焦らず、慌てずに工夫・実践を続けていきたいところです。
次は授業以外に目を向けます。生活指導と自治的諸活動の実践は、多くの先輩教員に鍛えられ、出会った子ども達から実感として学んだ私の「失敗の宝箱」です。とりわけ「生徒会活動づくり」であったり、「話し合い活動づくり」や「質の高い文化活動づくり」さらに「主体性と積極性の相違について」であったりと、子ども達の「自立」につなげる主体性を伸ばし育てるための指導法の研究と実践は、私のライフワークだと自覚しています。もちろん、現在はこれまでの学校での実践と同じ様にとはいきませんが、分校の生徒会担当者として、家庭学校ひとむれ会の理事会に参加し、話し合い活動のあれこれをお話しさせてもらう機会を頂いています。短い時間ではありますが、理事の子ども達の「生」の話し合いに混ぜてもらうこの時間は私にとって大変貴重な時間であり、色々な意味でよい刺激をもらう場になっています。例えば「決め方」の決め方、目的と目標の違い、一見反対と思われる意見の中から共通のおもいを導き出しまとめるための観点、そしてその話し合いのすすめ方等々、理事の子ども達は自分が必要とするスキルをぐんぐん吸収していきます。まさにたくましさを感じる一瞬です。ただし、吸収したスキル(身に付けはじめた力=ここでは事物の捉え方か)はすぐ(万能)に発揮できるものではありません。それは子ども達の日常での経験と失敗、そして他者からの評価をとおして確実に段階的に定着するものであり、多方向へのベクトルとして深化・成長できる自立の「芽」の状態であると考えています。
最後になりますが、目の前の子ども達に「自立」するための力を育てていくこと(そのための指導と支援及び場の設定)は家庭学校、分校共に重要と位置付け、子どもたちに関わる全ての職員が意識し日々指導に当たっているものだと思っています。これからも、学校生活の様々な場面を捉え、少しでも子どもたちの自立に向けて支援できるよう、限られた機会と時間に力と情熱を注いでいきたいと思っています。
もちろん、焦らずに、慌てずに、少しずつです。