ひとむれ
このコーナーでは、家庭学校の月毎の機関誌である『ひとむれ』から一部を抜粋して掲載しています(毎月上旬頃更新予定です)。
職員が、家庭学校を通じて感じたことや伝えたいことを表しています。是非、ご感想をお聞かせください。
※都合により『ひとむれ』本誌と内容が異なる場合がございます。ご了承下さい。
受け継がれる精神
率先垂範
校長 加藤正男
今年の冬は、低い温度の日が続いています。本館の廊下の窓にさまざまな模様が浮かび上がります。あちらこちらに伸びていく氷の模様は温度が上がると消えていきます。
2月5日は留岡幸助先生本命日の平和山登山の日です。昭和9年2月5日、留岡幸助先生は70歳のお歳で東京の自宅で亡くなられました。5月には多摩墓地に埋葬され、8月には平和山山頂に記念碑を建立しました。
昨年まで58年間家庭学校で働かれた齋藤先生は先に登られ記念碑の前で待っています。
「眠るべきところはいづこ平和山 オホーツク海を前にのぞみて」の刻まれた文字に白い雪が詰められ浮かびあがっています。生徒たちはスキー靴とストックをもっての登山です。1973年から、この日は、平和山頂上からグランドまでの千1600メートル標高差150メートルの滑降レースが続けられています。
きゅきゅと雪道を鳴らしながら寮長を先頭に一列で登ります。幸助先生と清男先生の記念碑には花がささげられます。幸助先生50歳の時、分校と新しき農村の建設にこの地に入ったのです。60歳の時、俺が死んだらオホーツクの見えるこの山のところに埋めてほしいと先ほどの歌を詠んでいます。
昭和4年ころ、「わしが死んだら家庭学校はすぐにつぶれてしまうと言う人がいる。それはとんでもない思い違い」と当時の本館、牛舎を改造した本館建物2階での豚肉でのすき焼き会食会での発言です。
幸助先生は、「感化院に塀や鍵や鉄格子があってはならない、愛をもって子どもたちとつながりを作る」「その愛を図る尺度は忍耐」として「開放処遇」と「小舎夫婦制」を家庭学校の運営方針にされ、その精神は今も脈々と受け継がれていると「非行問題・2012 第218号」外部の声欄「大地の詩~聖地の誇り」に北海少年院畠山寛法氏は投稿されています。各寮長ご夫妻に、それぞれの視点から生徒たちやその親たちとの関係をじっくり聞きだされています。どの寮長も北海道家庭学校が児童自立支援施設の「聖地」であるという思いが強く、そのことに誇りをもって勤務されている姿に、自らの原点を見つめ直すことができたと記載されています。
その精神は引き継がれているのです。その精神はどこから産みだしてきたものなのでしょうか、幸助先生は、「暗き所に光を」と実用的キリスト教を同志社の神学科で学ぶのです。暗き所として監獄に着目しています。海外の監獄に関する書物を読み、ニューヨーク監獄協会の通信会員になり、当時の監獄改良の流れを研究していたのです。27歳の時、丹波第一基督教会の牧師の仕事を辞め、北海道の空知集治監の教誨師を引き受けました。当時の北海道の刑務所に期待されていたのは、受刑者の改善ではなく、ロシアからの侵略に備える道路建設や国力増強のため、イオウ採掘・石炭掘りなどの安価な労働力としての期待です。国のためには、冬の厳しい時の道路作り、石炭事故などで受刑者が死んでいこうと、それは、罪を犯したものなのだから国にとってかえって得なことなのだと言う理屈がとおっていた時代です。
幸助先生は教誨師として休みなく働いています。日曜日は、教誨堂で全体講話、月曜日は病舎にて、水曜日は拘置監、土曜日には幌内外役所で教誨を行っています。毎日午後5時からは個別面接のため、受刑者の監房に出かけ、一人ひとりの受刑者・300人に面接を行っています。
その記録は「留岡幸助日記」に残されています。
養育環境が極めて厳しいこと、ほとんどの人は小さい時から犯罪を繰り返しており、その時点での適切な処遇がなされていないため、犯罪の進行を止めることができず、果ては重罪人となったのであると結論づけています。
そして30歳の時、監獄改良の実際を海外にて自らの目で確かめるべく、マサチューセッツ州立壮年刑務所(16歳から25歳以下の初犯者を収容)に受刑者とともに職業訓練を受け、刑務所内での体験を半年続けています。その後は、精力的に北米のさまざまな施設を回っています。1カ月にわたり実情を視察したエルマイラ感化監獄に着目しています。そこでは職業訓練や夜間学校などまさに教育をもって受刑者の改善を図ると言う実践であり、効果を上げていることを実感しています。不定期刑により、点数制を活用して段階別に生活をする。ただあまりに機械的に行動を規制することは疑問を呈しています。さらに、感化院であるライマンスクールでは男子少年に対する女性職員の働きに着目しています。
35歳にて巣鴨村に家庭学校を創設しますが、39歳の時、アメリカに留学する家庭学校の生徒の引率でアメリカに行き、その後7ヶ月間にわたり、アメリカ・ヨーロッパのさまざまな監獄・感化院・養護施設・設立まもない少年裁判所・慈善事業関連施設を訪問しています。現在も地域ぐるみの福祉の町として有名なベーテルにある複合施設など世界の先進的な処遇施設を精力的にまわっています。
家族主義、小規模施設、自然豊かな場所、農業重視などをとりいれて、巣鴨村の家庭学校の実践に活かしています。そして巣鴨が都会化したこともあり、50歳の時、遠軽の地に分校を開設されたのです。北海道から1000町歩にわたる原生林の払い下げを受けました。新しき村を作り村の人々からも経済的に支えてもらったり、卒業生にも自立自営のための土地であったのです。150家族を目標とした新しき村づくりと感化院の共存です。80家族300人近くの人がこちらに来られました。この地で先駆的に酪農を始め、寒い地ながら米作りを成功させました。乳牛や鶏卵などの生産組合を作り、地域のため冬の学校・夏の学校と村の人々を大切に育成していきました。礼拝堂にては、日曜学校を地域の子どもたちと行い、図書館・博物館など施設を地域の人のために作りました。
戦後は精米工場を作り、地元の農家のために多大な貢献をしていました。その精米工場の担い手として戦後に留岡清男校長から招聘された齋藤先生がその任にあたりました。
齋藤先生は、精米工場の担当、木工部の担当、寮長・寮母を担当しながらの仕事です。60歳を過ぎてからは、齋藤園芸として生徒たちの面倒を見ながら、花壇づくりや野菜作りを続けられました。昨年6月、81歳になられ、58年働き続けた家庭学校から仕事をひかれました。その時、受け継がれていってほしいことをメモで残されました。
「(一)少年に対する言葉・言動を大切にする。人格を尊重する。
乱暴な言葉を使わない。馬鹿にしない。あだ名で呼ばない。からかい、おちょくったりは決してしない。信頼していく。
(二)まず自分が少年より信頼される行動をとる。できない約束をしない。少年たちに慕われる指導者を目指していきたい。
(三)あきらめムードの指導はよくない
何事もフロンティア精神で何事にも取り組む。少年に希望をもたせる指導。自信をもって何事にも取り組む努力が大事である。
(四)少年の衣類や持ち物などはもちろん作業用の道具など整理整頓を心がけきちんと把握する」
花や野菜は、24時間休みがないので、それを面倒みる側にはその苦労は計り知れないのです。しかし、生徒たちとともに働き、花を育てる作業経験は、心の教育に欠かせることはできないと言われるのです。情操面の教育効果が著しいのです。
自然の感化力を強調された幸助先生の精神そのものです。
感化院、少年院、養護施設、どこも最初は自然豊かな地でスタートしました。現在では、多くの場所が都会化してきていますが、野菜作りや花作りなど土との関わりは大切に引き継がれています。
自然との生活は厳しいものもありますが、平等に降り注ぎます。雪は降り積もり、除雪作業、屋根の雪落とし、夏は暑い中、除草作業、難儀な作業が続きます。
北海道家庭学校は、幸助先生がこの地にはいって98年目になります。受け継がれていく精神を大切に家庭学校の歩みを続いていきます。
西木 洋人
「だから大人は信用できないんですよ」「本当に先生は自分に都合のいいことしか言わないですね」・・・
口を開けば、こんな言葉ばかり飛び出してくる生徒がいた。はじめは単に「性格の曲がった扱いにくい生徒だな」くらいにしか思っていなかったが、よくよく考えてみると、確かに自分には彼にこう言われるだけの理由があることに気づいた。授業で使うプリントを職員室に置き忘れて慌てて取りに戻る。生徒に注意しておきながら自分もついついズボンのポケットに手を入れていたり、足を組んでイスに座っていたりしている。始業のチャイムの後に教室に入る。これらを生徒にチクリと指摘されると、「忙しかったから」「先生はいいの」などと、言う必要のない無意味な弁明をしてしまう。すると間髪入れずに「ホラ、また言い訳だ!いつも都合いいですね」と彼に皮肉たっぷりにやられてしまうのだ。
この望の岡分校に赴任する以前から、教師としての身なりや行動、態度には人一倍注意を払っていたつもりだった。生徒の重箱の隅を楊枝でつつくような発言にも、素直に「ごめん、次から気をつけるよ」「注意してくれてありがとう」と言えば済む話なのに、「たかがこんなこと」で注意されてしまうと、「自分は普段はしっかりやっているんだ。今回はたまたまだ」などと心の中で反発し、自分の立場を利用して言い逃れようとしたり、無理に取り繕おうとしたりしていた。そしてこういう一連の行動が、彼に「大人は卑怯だ」と映ってしまっていたのだと思う。
後で冷静に振り返ってみると「自分もまだまだ」と自分の幼稚さ、至らなさを反省する一方、なぜ彼はここまで大人、教師を批判するのだろうと疑問に思った。「きっと彼の周りには私のような行動をとってしまう大人がいっぱいいたんだろうな」ということは容易に想像できた。
すると以前読んだ書籍の一節が頭に浮かんできた。
「『先生』とは読んで字の如く『先に生きている人』に過ぎない。『後から来る者』にその生き方を見せることこそが、生徒にとって一番の学びとなる」
「それならば自分が『良い大人』の見本となろう。そして彼のような大人不信の生徒に『こういう大人もいるんだ。見習おう』と見直してもらえるような教師を目指そう」と決意した。この時から自分の教師人生のテーマの一つに「率先垂範(そっせんすいはん=人の先頭に立って物事を行い、模範を示すこと)」が加わることとなった。「自分が出来ていないことは生徒に注意することはできない。自分が日常的に自然としていることが、生徒にとって人生の良い手本となるようにしたい」、そう考えるようになった。
そうして客観的に自分の朝から晩までの自分の生活、行動を振り返ってみると、今まで教師として意識していた「はず」のことがいかに甘かったかが分かった。「100%やり切る」ことが出来ていないのである。例えば「あいさつ・返事」であれば、「相手に聞こえるようにハキハキと元気にしなさい」などと生徒には指導している一方、自分は生徒が周りにいない時、同僚に、或いは家族に適当なあいさつや返事しかしていないときがある。「掃除、後片付け、整理整頓を心がけなさい」と言っている反面、自分の机の中は書類等で溢れていたり、自宅の周辺の雑草が伸びていたりしている。「姿勢を正しくして話を聞きなさい」と授業中繰り返しているのに、自分は会議中姿勢を崩して座っていたりしているのだ。
要は「生徒に指導している立場上、生徒の前ではしっかりやっているように振舞ってはいるが、いざ生徒の目が離れると、それらをすっかり忘れたかのように徹底しようとしていない」ということだったのだ。確かにこれでは彼に「ずるい」と言われても返す言葉がない。「本当はやったほうがいいんだろうけど、どうせ先生だって出来ていないんだし」と生徒が指導に乗ってこないのも当然だ。
そこで、これらを含めた「生徒に身につけてほしいこと、指導すべきこと」を自分自身が日常生活の中で徹底して行うよう意識した。これは他人とではなく「自分」と交わした約束なので、「誰も見ていないから」というごまかしが効かない。疲れて帰宅して、脱いだ靴をそのままにして上がろうとしても、「それでいいのか」と自問し手で靴を揃えてから上がるようにした。しかしそれでも自分に「今日ぐらいは」、「これくらいは」と甘い気持ちが出てくると、すかさず頭の中に「彼」が出てきて「また都合のいいことしようとしてますね」と注意してもらうようにした(イメージとはいえ、こんな役回りを彼にさせてしまうのは心苦しかったが)。
このようなことを繰り返していくと、これらの意識していたことが徐々に「習慣化」されて、無意識のうちに、当たり前のようにできるようになってきた。気づくと、机上や身の回りの整理整頓をしていたり、誰からであっても名前を呼ばれると、まず「はいっ」と弾みのある返事ができるようになっていたりした。
自分の行動が徐々に改善されていくと、今度は「物事にどう取り組んでいくか」という「心構え」についても、生徒の手本となりたいと思うようになってきた。
家庭学校にやってくる生徒たちは「こんなことできっこない」「俺なんてどうせ無理」と、何かに失敗したとき、或いは挑戦する前に、目の前のことを簡単に投げ出そうとする傾向が強い。自信や自己肯定感といったものが極端に低いのだ。更にはできない理由を他人や別の事象になすりつけてしまう。
「目前のことから逃げるな」「うまくいかないことに対して、不平不満を言うな」、口にするのは簡単だが、果たして指導している本人は出来ていたのだろうか。「行動」の時と同様に、振り返ってみるとやはり出来ていないことが多い。
日常生活の中で「目の前のことから逃げない」「できないことを他人のせいにしない」「不平不満を言わない」といったことを意識するようにした。とは言え、「心構え」とは「思考の習慣」だ。自身が約30年間で作り上げてきた心の癖を別のものに置き換えるのは難しい。自分の力ではどうすることもできないことに出くわすと、逃げたくもなるし、愚痴も言いたくなる。しかし「そんなことでは生徒に指導する資格はない」と戒め、何とか乗り越えようと努力した。そうもがいていると、少しずつ自分の内面が磨かれ、新しい「心構え」が自分の中に作られていく気がしてきた。
また、普段の生徒の声がけにはできるだけ否定語を使わないように心がけた。生徒には「肯定語のシャワー」を浴びさせてやりたい。例えば、
「やらないとできないよ」
「やればできるようになるよ」
意味は同じでも、受け取る側、特に家庭学校の生徒にとってこの二文に対する受け取り方は大きく異なる。おそらくここに来る前は、彼らは「否定語のシャワー」を散々浴びさせられてきたのではないだろうか。
以上のような内容を徹底することは本当に難しい。この原稿を書いている間も、「果たして胸を張ってやり切っている、と言えるのか」と考えると自信がなくなってくる。しかしだからと言って、この率先垂範の道を断念したいかと言えば、全くそんなことはない。
当初は「生徒の模範に」と始めた率先垂範ではあったが、次第に自分自身の生活が充実してくると、人生のあらゆることが楽しく感じられるようになってきた。
職場では、生徒指導上の問題が起きたり、スタートを切ったばかりの分校の経営上の課題が表面化したりすることも多々あるのだが、それらは「今の自分にとって必要な困難なのだ」「自分を成長させてくれるためにこのタイミングで現れたのだ」と捉えることで、喜んで受け入れることが出来る。
担当教科の授業、行事、作業活動では、「自らが挑戦し、学ぶ」という姿勢が見せられるようになった。ここにいる私は生徒に「見本を示す」という使命感よりは、「自身の成長が楽しくて仕方がない」という立場の方が強いかもしれない。
また、「今、与えられている環境の中で精一杯楽しめることを見つけよう」と家庭学校の行事や自然豊かで広大な地を存分に堪能させていただいている。毎月の誕生会で披露するギターの腕はどんどん上達しているし、山中ランニングや山スキー、スノーハイキングでは四季の移り変わりの美しさを感じ、休日は息子と昆虫採集や落ち穂ひろいなど、都会では味わえない貴重な体験をしながら、感性を磨くことができることは本当に幸せである。
このような心構えが身につきはじめたとあるとき、ある生徒から「先生いつも楽しそうですね、先生みたいな大人、いいですよね」と言ってもらった。たった一人からの言葉ではあったが、率先垂範の道を志したことは間違ってはいないと確信した。「大人である教師が生き生きと生活し、そして働くことが子供、生徒にとっての一番の生き方の手本となる」ということなのだと思う。
こうしたいきさつがあり、最初に述べた「あの彼」との出会いは、私の教師人生の中で大きなものとなった。彼が在学中の私の変化は微々たるものだったかもしれない。だが、詳細は覚えていないのだが、何かの拍子に彼から「先生にしては良くやってますね」という「お褒めの言葉」をもらった。「少しは彼の手本となるような教師になれたのかな」とこの時は、目上の人に対する言葉遣いを注意するよりも、嬉しい気持ちが優先した。彼は昨年度卒業して、高校に進学した。「素晴らしい大人たち」に囲まれて、彼の大人に対する見方に少しでも変化が起きてきていることを願って止まない。
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分校に来て3年が経とうとしています。振り返ってみると、「教師は生徒に教える以上に、実は生徒から教わることのほうが多い」ことを、冒頭の「彼」を含めてここの生徒たちとの出会いの中で学んでいる気がします。生徒には感謝の気持ちで一杯ですし、様々な経験、成長の場を与えてくれる家庭学校、望の岡分校にも感謝しております。多くの出会いの中から学んだことを自身の教師としての力にして、生徒に返してあげたい。そして新年度を迎えるにあたり、また新たに様々なことを教えてくれる生徒たちと出会えることが楽しみです。