ひとむれ
このコーナーでは、家庭学校の月毎の機関誌である『ひとむれ』から一部を抜粋して掲載しています(毎月上旬頃更新予定です)。
職員が、家庭学校を通じて感じたことや伝えたいことを表しています。是非、ご感想をお聞かせください。
※都合により『ひとむれ』本誌と内容が異なる場合がございます。ご了承下さい。
母親代理
民間であること
校長 加藤正男
きれんじゃくが高い木に止まり、体全体が太陽に輝いています。
二月十日、平和山に登る途中、木の上にエゾフクロウの姿をみました。JR北海道四月号の車内誌に家庭学校をとりあげていただく予定であり、その取材のため来訪されたライターの北室さんとカメラマンの田淵さんと平和山をめざして林道を登っていた時です。田淵さんはなぜか気配を感じて木々の合間を見ていたのか、フクロウがいますよと教えてくれました。
小さな顔にがっちりした体。二、三度首を回していました。
写真をとってと北室さんと私が叫ぼうとした時、大きな羽根を翻して山の中に消えていきました。この日は雪もあまり降っていなく、平和山の記念碑を見てもらうとともに、寮の生活や丁度始まった雪像つくりの風景や風呂焚きやまき割りの風景を見てもらいました。
寮長さんや寮母さん斎藤先生・荒木先生のインタビュー、そして、寮で食事を寮母さんと作っている風景を見てもらいました。味噌小屋の味噌だるも見てもらいたかったのですが、入口の木戸はこおって開けることはできませんでした。四月号に掲載予定とのことであります。
インフルエンザは本州の方では猛威をふるっているのでしょうが、今のところ生徒たちは、元気に生活しています。
N君は昨年一一月、入校した日は本館に来ましたが、其の後、寮内に引きこもりました。食事を拒否したり、とにかく家に帰りたいとの思いなのか、一か月以上閉じこもり状態となりました。昨年末に本館で行われたもちつきや正月二日の書き初め等みんなと一緒の活動に出れるようになりました。三学期からは本館の学習にも参加し、二月のスキーでは個別に丁寧に指導を受け距離大会・滑降大会・大回転大会と真剣に取り組んでいます。
一月二八日に「大地の詩 留岡幸助物語」を体育館で留岡自治会の方や生徒たちと見ました。
底冷えの体育館で音も割れスクリーンは白い布で条件は厳しかったのですが、生徒たちに感想を聞いてみました。
『一番印象に残っているシーンはどこですか』
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囚人が改心するシーン
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問題のある生徒が農業をする喜びを得るシーン
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幸助さんが父さんにおこられていたこと
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山道を歩いているところ
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奥さんのなつこさん死んでしまったのにすぐに結婚できないんだなあと思いました。
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こうすけせんせいのおくさんのなつこさんの死
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家庭学校の礼拝堂でじっさいにさつえいしているところ
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ねごとで家に帰りたいと言ってた所
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留岡こうすけの子どものころの話
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家庭学校を作るというシーンが印象に残っています。
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こうすけ先生が必死にがんばっていたところのシーンが一番よかったです。
『この映画について感想など』
☆ 留岡幸助物語としては分かりやすかったが、他の人物のことは詳しくされていなかったので少しわかりづらかった。
☆ 人間にはあいじょうがひつようだなあと思いました。
☆ 留岡こうすけ先生は、東京と北海道に家庭学校をつくったのがすごいと思いました。
☆ よく働き、よく食べ、よくねるという事は、よく先生方にもいえます。それと家庭が悪と言う事が感じられましたが、子どもが悪くないという事はないと思う。
☆ えんぎが古くさかったような気がします。
☆ すごく苦労して家庭学校ができたんだと思った。
☆ 家庭学校の歴史があんなにもつづいているなんて思わなくて、この映画を見てこんな家庭学校だってしりました。
☆ むずかしかったが楽しかった。
留岡幸助先生の奥さん夏子さんが亡くなる二か月前、出産された五男健助さんの孫のお子さんが訪ねて来てくれました。北見の病院で副院長をされている若い方でした。
民間の施設の場合、創業者が形成された財産は創業者一族の方が継承されるのは当然かとも思うのですが、留岡家一族の方々は、現在の東京家庭学校・北海道家庭学校の両学校に直接かかわりのある方はおられません。もちろん一族の方々は留岡幸助先生の精神を大切に子孫の方々に語り継がれており、両方の家庭学校に精神的にも経済的にも応援して頂いています。
一八九九年、幸助先生は奥さんの夏子さんそして四人の子どもたちの六人家族の中に一人の生徒を預かり家庭学校はスタートしました。家庭学校という家族制度を元にした新たな感化院のスタートです。
留岡幸助の日記(一八八九年)には家の中の主人は妻なりと書いてあります。
アメリカに留学していた時、ライマン感化院では女性の仕事ぶりに感動しています。当時日本ではまだまだ女性の社会進出がおくれており、民間で感化教育を始めた池上雪枝さんのような方はまれでした。その後高瀬真卿氏の作られた東京感化院では家父長的な制度をとりいれており、女性職員の働きはありませんでした。
家庭学校創立当初は夫婦での職員採用は少なく、女子職員も多く採用して家母として期待しましたが、なかなか定着できず、其の後、家庭学校内に師範部を作って職員の養成にあたりました。
「子どもたちとともに生活する」人を求めるのに苦労をしています。
留岡幸助先生は友人への手紙の中で『トレーニング』ある教師の男女なきには閉口し、それゆえ、昼夜は実際に働いてもらい、夜は自ら週三回慈善事業を講義していると書き送っています。巣鴨の家庭学校を開設してから十年間で三六名の職員が退職しています。(留岡幸助と家庭学校・二井仁美著から)
留岡清男校長は「母親代理」というテーマで施設の現場で教護実践に取り組む女性教師のあるべき姿勢や役割について次のように論じています。(大泉溥編日本の子ども研究第7巻留岡清男の子ども研究と生活教育論から)
『母親代理』
「母親代理という言葉がある。分かりきった平凡な言葉だが、この言葉を教護の日常実践に移して実践することは、すこぶる困難である。母親代理は、母親であることより、もっと難しいからである。
母親代理は、第一に教護児の生い立ちをよく理解しなければならない。そのためには児童相談所から送られるカルテをよく読んで、教護児の性向を知らなければならないだろう。ただやたらに、教護児の不幸に同情を寄せて、抽象的な「愛の教育」を唱えても、そういった同情や愛の提唱はしばしば挫折する。
第二に、母親代理は、教護児の日常行動を、常によく観察しなければならない。そして、教護児が感じたり考えたりすることに先行して、いつも一歩か二歩先を行くように心がけなければならない。先行することができるようになれば、心に余裕ができて、冷静な客観的判断をくだすことができるだろう。言葉をかえていうならば、母親代理は、「間」をおくことを覚え、教護児のペースにまき込まれなくなるだろう。
第三に、母親代理は、教護児の心の中に浸透してゆく機会をとらえることを心がけなければならない。愛情というものは、いつでも注ぎ込むことができるというものではない。少なくとも効果的に浸透するためには、機会というものがある。たとえば、教護児が病気になったり怪我をしたりしたとき、教護児は一番愛情を欲しがるものである。だから、こういうときに、こころをつくし行きとどいて、付き添い看護をするならば、母親代理の愛情と親切は、教護児の心の中に、容易にかつ効果的に浸透するであろう。
また、共同炊事制をとらない教護院では、小舎ごとに、教護児交替に炊事当番になって、母親代理の調理を手伝うのが普通である。このとき、教護児と母親代理とは一対一の関係で、何でも話し合う事ができる。母親代理は、自然な形で話しかけることができるし、教護児は素直に腹蔵なく告白したり、訴えたりすることができる。教護においては、対話の機会と技術は必要であるが、それは、こういった場合に可能になるであろう。
賢い母親代理は、教護のかくれた柱である。教護院を退所したものは盆や正月によく訪ねてくるが、彼らは賢い母親代理に会い来るのを楽しみとするのである。その証拠に、彼らが来訪して一番先に訪ねるのは、賢い母親代理のことである。」
夫婦小舎制を続けている家庭学校は、朝・夕の食事を各寮で作り、そして、野菜や味噌も苦労して作り、牧草を職員・分校先生・生徒一体となって集め、それを食している牛から牛乳を飲み、冬場、酪農部の作ったバターを食しています。汗と膏のしみた働きこそ教育の基本と考えた留岡幸助・清男先生のこだわってきた精神そのものです。 手間のかかる、また、流汗悟道の精神を大切にして家庭学校の営みを続けています。
留岡清男先生の教育観・教育実践論については教育農場五十年(岩波書店)に詳しく書いてありますが、個別教育の必要性、感化事業の科学性等そして、勤労の徳を養い、生活の構造について実験的工夫の必要性を強調しています。
少年院においても様々な実験的処遇がなされました。その失敗事例に、戦後に施設そのものを受容的雰囲気にし、生徒の自主性を尊ぶとのスローガンにより施設運営が破たんして暴動状態に陥った事例、集団主義的な教育に力を入れて、成功していた時もあったのですが、少年たちの集団に完全にコントロールされ好き放題の集団になった事例等マイナスの事例をしっかりそのあとの時代に伝えていかなければならないのです。
留岡清男先生の実験事例としては戦後、中舎夫婦制の寮を作り、集団をコントロールして生徒の自立を図ろうとした試みがありました。一人の寮長の目が届く範囲は一〇名ぐらいです。
二〇名近くの集団となるとその中で生徒たちは序列をつけ、ボス的なリーダーが生まれ、まじめに生活をやろうとする生徒たちが生活できなくなりました。失敗です。生徒の定員が一二名を越さない小舎夫婦制寮に戻しました。
現在、各寮の定員は十二名ですが、十名以内にとどめていきたいのです。
現在家庭学校のホームページは非公式的に私が、1昨年11月に作成したもので、現在は毎月5日ころまでにひとむれ(校長作成分)を更新しています。
平成22年12月から公式のホームページを試行的に、さらに内容豊かな家庭学校紹介のホームページを開いています。
グーグル検索で「家庭学校へようこそ」で開くことができます。そこでは家庭学校職員による日記が毎日のように更新されています。生き生きとした家庭学校の歩みが伝えられるようにしたいと考えています。
2月19日、北見市にあるワーナーマイカルで「大地の詩 留岡幸助物語」が始まりました。音響もよく、映像も奇麗で、留岡幸助役の村上浩明さん夏子役の工藤夕貴さんを始め俳優さんがたいへん熱演されており、見ていてとても感動しました。
現代ぷろだくしょんの制作であり、大手の映画会社ではありませんので多くの映画館では上映していませんが、これから時間をかけて全国で自主上映されます。映画として、留岡幸助物語は地味なテーマではありますが、誠実な生き方を主演の村上さんは体から演じています。何回でも見たくなる映画となっています。夏子さんの写真は当学校の博物館にありますが、その短い人生を生ききった夏子さんにとって、この映画でよく私のことを演じてくれたと、天国でほめて笑っているのではないかと思います。
留岡幸助先生が感化事業に関わり実績を上げたことを多くの方に知ってもらえることは、私たち家庭学校に関わるものにとってもうれしいことです。
渡辺 伊佐雄
本年初頭の「福祉新聞」紙上に全国児童自立支援施設協議会長須藤三千雄先生の『児童の最善の利益』と題された新年挨拶の一文がございました。先に閣議決定された「児童自立支援施設における職員の身分規定を廃止する」について触れらており、公立施設の民営化が可能となったことにより、その運用の次第によっては児童自立支援施設としての本来の役割を果たせなくなるのではないかという懸念を述べられておりました。
児童自立支援施設の歴史を振り返ると、明治33年の感化法制定以前に民間の篤志家が立ち上げた8施設の営みがこの事業のはじまりであり、制定後の明治40年では公立4施設、私立12施設の計16施設となり、その後昭和13年には国立1施設、公立45施設、私立5施設、未認可7施設の計57施設となりました。そして、昭和24年5月18日の厚生省児童局長通知「私立教護院の許可について」【(前略)狭義の教護事業を国又は地方公共団体以外のものが経営することの可否についてはなお研究すべき点があるように考えられる。就いては今後は私立施設を教護院として認可することはこれを差し控えるようにされたい。但し、右は今後新たに認可する場合についてであって既に当局宛貴職より認可報告を済ませた私立教護院については、差し当たり従来通りとせられたい。】となり、施設の公設公営がおおむね原則化されたものでした。この時点で私立の教護院は2施設あり、その内の一つが北海道家庭学校でありました。そして現在は、国立2施設、都道府県立50施設、市立4施設、社会福祉法人立2施設の計58施設となっています。
この経過を踏まえると、感化院・教護院の歴史はある意味公設公営化への移行の歴史であるとも言えます。公設公営化の理由としてはこの事業の持つ公共性や、国や自治体の公がその任を負うべきであるとの原則に成り立ってきたことも一因と言えますが、それ以上に現実問題として民間の感化院・教護院では財政・財源的にも経営を継続していくのが難しかったことが、結果的には公設公営化を推し進めた最大の原因であったのではないかと考えられます。留岡幸助先生のご子息であり四代校長であった留岡清男先生の著述の中に、このような一文がございました。「私立の学校は、教育の理想を掲げるにことかかない。また、教育の情熱を燃えたたせることに不自由しない。併し、私立の学校は、教育の理想を高く掲げ、情熱をいくら燃やしつくしても、経営維持するための経済力には行きつまる。亡父などは、その一生を寄付金あつめに終始したといっても過言ではない。(中略)敗戦後、北海道家庭学校の経済的基礎をかためるために、寄付金あつめが始められた。昭和二十五年三月から五月まで、まる三ヶ月の間、朝早くから夜おそくまで、東京の会社や銀行を訪ねて、寄付金の申入れをした。申入れが現金化するまで、一ヶ所平均五回ほど無駄足することが必要であった。」これは戦後間もない頃の話ではありますが、現在も十分な財政状況の下、施設が運営されているとは言えないのが現実です。
現在直面している運営上の課題は、第一には職員確保の問題があり、そして、第二には施設全般の維持・管理の問題が挙げられると思います。職員の確保については全国的な課題ともされていますが、特に夫婦制の施設にとっては問題が大きく、夫婦でこの仕事に就くことを望まなければならないこの制度では条件のハードルが高く、継続して優れた人材を確保するのは大変難しい事であります。平成15年に全国児童自立支援施設協議会から出された「児童自立支援施設の将来像」の中には【(前略)こうした場合に、対応できるように、夫婦として寮舎を担当したいという意志を持つ人材についての情報を全国レベルで集約しておき、欠員が生じた場合などに、全国から人材を集められる仕組みをつくることなどについても考えられてよいのではないか。】というような提言もありました。しかし、全国的に人事の交流を考える為には待遇面のおおよその近寄りが必要であり、施設運営の現状を考えると、他施設との待遇面の格差を縮めることは非常に難しいと言わざるを得ません。
二つ目に広大な敷地に数多くの施設を持つ本校にとって、老朽化した建物の改修や敷地の整備・管理には多額の費用が必要となっていることであります。実際には措置費の事務費中の管理費では賄いきれず、職員人件費分の一部もあてがわれ運営しているのが実情です。また、寄付金等の多くの浄財は学校運営の大いなる助けとなっております。しかし、昔のような形で寄付金を集めるのは難しく、これを経営の原資とすることは考えにくいと思います。この様に、経済的にも、民間で行なう事は容易ではなく、公設民営化を安易に考えるべきではないと思います。
しかし、昨今の社会状況を鑑みる時、経済に対する不安感もあってか施策全体が合理化・経費削減という方向をむく中で、児童自立支援施設の中には十分な充足率を果たせていない状況もあり、そのあり方に対する議論が起きたことは、一方では当然であるとも言えます。しかし、今一度、社会における子どもたちの現状をよく見なおした時、定員が充足されない原因は決して対象児童数が減少したわけではないことが見て取れるのです。高校中退者を含む年長児童や軽度発達障がいを持つ子どもたち、性的問題を抱えていたり、被虐待により心理的ケアを必要としているなど、支援を必要としている多くの子どもたちがいる現実があり、それに対してきちんとした受け皿を持っていない状況がそこにはあるのかもしれません。全国の施設の中には、中卒児童は原則入所対象としないという所もあります。しかし、年長児童の施設活用ニーズが少ないとは考えにくいのです。ここ3年間の北海道家庭学校における中卒院内生(高校寮の生徒を除く)の割合は、平成19年度では全体の33㌫であり、20年度では34㌫、21年度では25㌫となっています。高校生寮の生徒も含めると生徒総数の概ね半分が年長児童という状況であります。この入所の動向から見ても年長児のニーズは高く、その傾向は今後も続くと考えられます。そして、その現状の中で新たな問題点として、学校教育の導入があります。当然学齢児については手厚く学習が行われるようになりましたが、その反面、導入前は学年を取り外した習熟度別編成の学級で中卒児童も一緒に学習を行なっていたものが、それが出来なくなってしまったのです。中卒児の為のクラスを編成し施設職員で運営をしていますが、中卒児の中には過年度で高校受験を希望する者も多く、中卒児クラスで行なっている学習と実科の混合のカリキュラムで果たして良いものなか、また、根本的に中卒児に学習をさせる必要はないものなのか、考えさせられる事が多くあります。以前、中卒で入校しカタカナも怪しかった生徒が、卒業する時には一番上のクラスに在籍し、二次方程式を解けるまでになっていたことに深く感心したことがありました。学齢児の学習を保障する裏側で、それ以外の子どもたちの学びの機会を取り上げてしまうことがないよう、この点についても議論は必ず必要であると感じられます。また、補助の対象として学齢児には学習加算や教材費が割り当てられ、高校生には特別育成費の支給があります。しかし、中卒の院内生には何の手当ても無いのが現状です。この件については関係機関においても検討をお願いしたいと考えております。
そして、発達障がいをもつ児童や性的問題をかかえる子どもたち、被虐待等で心理的ケアを必要とする子どもたちの入所で最大の問題は、受け入れる職員の許容量を超えてしまうことがあることです。小舎の中に同時に複数の発達障がいの児童が入った時、性加害傾向の子どもたちが多数在籍した時などは、寮担当者はトラブルへの対処と問題発生への警戒で、不断の緊張を余儀なくされる事があります。元々そのような仕事であるとの覚悟は必要ではありますが、この子ども達を紋切り型に定員の空きにはめ込む様なことでは寮舎は成り立たなくなってしまいます。単純にカウントできるものではなく、生徒それぞれの特性を考えた寮編成やその負担度を測ることが必要になってくるのです。しかし、民間である以上生徒の数を増やす事は大きな課題であり、無理を承知でという事にもなりやすいのです。また、生徒の在籍数によって算定される暫定定員についても、毎年度末、高校受験等で一気に生徒が減るところからはじまり、年度間の月初人数の平均が算定の基準となります。寮舎が何らかの理由で休寮し生徒を受けられなくなった際などの痛手は大きく、次年度以降の運営にそれは大きくのしかかってくる事となります。また、根本的には最大数を受け入れるための職員配置を考えなければなりませんし、何かあった際の代替の職員を想定しなくてはなりませんが、前年度の実績に左右される状況の中ではそのような準備を余裕を持って行なうことは難しいといえます。また、今日問題となっている、性的問題を持った児童への対応についても、明確なガイドラインの無いままに入所を求められれるケースがほとんどであり、そのケアについても、施設が独自に外部の臨床心理士に治療教育をお願いし、その経費も負担しているのが現状です。これを一民間施設が行なうには限界があり、大枠での心理対応という括りにするのではなく、性問題に特化した対策・対応・指針が一日も早く示される事を強く望んでおります。
児童自立支援施設はどんなに苦しくても、それを必要としている子どもがいる以上「最後の砦」として踏ん張らなくてはいけない責任があると思います。そのためにはまず施設力の強化が必要であり、きちんとした受け皿を用意する事が先決だと思います。目先だけを見て簡単民営化を議論するのではなく、その前に何が大切であり、何を求めるのかを明確にすることが必要なのではないのでしょうか。民間である本校を先例として、民営することがたやすい事と考えられるのは、先人たちの労苦を軽んぜられるようであり、とても心外であります。私たちは民間になってしまったのではありません。民間であり続けようと努力をしてきたのです。
5代校長の谷昌恒先生が非行問題No.164に寄せた「社会福祉における公私問題」の中で【(略)最近のある会合で、一施設から詳細な職員の勤務時間表、勤務分担表が示されたことがあった。労働時間も、スマートな交代勤務制をとって、法規どおりに押さえている。私どもはその周到な配置に一驚し、その創意と工夫に深い敬意を表した。しかし、さらに子細にその案を検討して、まことに意外であったことは、職員の勤務をそのように組むことが可能であったのは、少年の現在数がそこでは定員の半数にもみたないからであった。当該県で教護児がそのように少ないことは慶賀すべきことであろう。教護院がいつもいっぱいであれかしなどと言っているのではない。しかし定員をはるかに下廻っていて、教護院という現に存在している社会施設が、現時点で十分に社会の要請や期待にこたえているのかどうか。それには厳しい反省と調査が必要なはずである。その努力を欠き、定員の半ばにすぎないことを奇貨として、容易に交替勤務が組めることで足れりとしていることに、大きな問題がないであろうか。そうした姿勢を私どもは頽廃とよぶのである。(略)】この一文は、元々は「社会保障研究」に掲載されたものを非行問題編集者が懇請して転載されたものでありました。この副題は『その名目の美しさゆえに厳しい自己反省を求める』とありました。
私たちはその本質を見つめ直す必要があるのかもしれません。