ひとむれ
このコーナーでは、家庭学校の月毎の機関誌である『ひとむれ』から一部を抜粋して掲載しています(毎月上旬頃更新予定です)。
職員が、家庭学校を通じて感じたことや伝えたいことを表しています。是非、ご感想をお聞かせください。
※都合により『ひとむれ』本誌と内容が異なる場合がございます。ご了承下さい。
巻頭言
卒業生との会話
進路指導を担当して
<児童の声>
<理事長時々通信>⑤
校長 清澤満
一月中旬の大雪で例年どおりの冬景色に包まれた家庭学校。ブッシュが目立っていた神社山にもスキーには充分過ぎるほどの雪が積もり、十三日にはスキー学習に備えてのゲレンデ整備を全校作業で行いました。
まずはスキー靴を履いたまま、子ども達と分校の先生、施設の職員が膝上まである雪の斜面を横一列に並んで一斉に踏んでいき、コースの上まで登り切ったら場所を移して降りてきます。私も雪踏みに参加しましたが山の中腹にも届かず体力が尽きてしまいました。その雪踏みが終わると今度はスキーを履いてカニのように横歩きで斜面を登り、踏み固めていきます。少し湿り気のある重い雪でしたが半日掛けて皆でやりきりました。スキー経験者でもこのようなゲレンデ整備は体験したことがないと思います。大仕事ですが自前のスキー場を自分達で整備するのが本校の習わしです。手間隙掛けて行う神社山のゲレンデ整備は便利さに溢れた現代社会においては非効率に映るかもしれませんが、私は子ども達のこうした経験も大切にしたいと考えています。
利便性の高い社会に慣れた子どもにとっては、なんとも不便で面倒なことが多いと感じる家庭学校の生活なのでしょうが、自分でできることは自分でするのがまずは基本です。更に小中学生では経験することが滅多にない作業や当番をすることで責任感や自立心を育むとともに、社会の仕組みやルール知ったり、子どもが本来持っている力を引き出す作用があるといった経験則から、面倒だと感じることであっても子ども達一人ひとりに役割を求めるのです。掃除、洗濯、風呂焚きなど自分達のことを自分達の当番で賄っていく生活です。スーパーの野菜しか手にしたことがない子どもが、土作りから始める本格的な野菜作りを経験することで、農家の人たちの喜びや苦労を身を以て感じることができたと話します。経験を重ね、自分に合った作業を担当した時は、質・量ともに大人顔負けの力を発揮する子どももいます。子ども達はこうした生活を通して着実に成長し、変わっていきます。
文頭のスキー場整備で考えると、どのスキー場に行ってもゲレンデはいつも整備されており、利用する人達にとってそれが当たり前になっています。毎朝のオープンに間に合うように圧雪車をフル稼働し、安全に滑走できるよう整備してくれている人達の存在に考えが及ぶ人は少ないでしょう。子ども達にはここでの生活を通じてこうしたことに思いを巡らしたり、有難みを感じられる人に育ってほしいと願っています。
児童自立支援施設では、集団生活の安定性を確保して、子どもが抱える行動上の問題・課題の改善が図られるように、空間的にも時間的にも「枠のある生活」を基本として支援が行われています。子ども達が抱える問題行動や発達上の特性、生育歴など個々の状況は当然のことながら様々ですが、家庭学校に入所することとなった万引や暴行などの非行は、如何なる理由があろうとも許されるものではありません。不登校や親に対する反抗的で強情な態度、虚言癖なども改めてほしい生活上の課題です。まずは、これらの問題や課題に対して子ども自身がしっかり向き合うことが大切です。
一方で、子どもに生じた問題行動や課題は、子育てに対する充分な支援が行き届いていない状況下において、子どもの発達特性への対応の難しさから生じる過度な叱責や、学校生活での様々な不適応からくる子どもの自己不全感を要因としている場合も多いのです。こうしたことから、集団生活にあっても、子どもの発達特性や被害性等を踏まえた個別的支援が大変重要となります。
児童自立支援施設は、「生活、学習、作業」の三本柱を中心に子どもの意欲を引き出すようにして「育て直し」を行っています。そうした場面においてよく見られるのは、非行と言われるような問題行動そのものではなく、集団に馴染めない、いつも大人の顔色を窺っている、勝手な行動が多い、落ち着きがない、集中が続かないなどです。こうした行動は被虐待経験から生じていることも少なくありません。
以前、トラウマインフォームドケアについて講演してくださった大阪大学の野坂祐子先生が、心的外傷体験(トラウマ)や逆境的小児期体験から人との関わり方を知らなかったり自他の気持ちが分からない状態の子どもに対して、「人の気持ちがわかること」を求めるのは、ハードルが高すぎて難しいことだと話されていたのを思い出します。
私達は、問題行動の背景や子どもの複雑な心情の理解に努めつつ、安心して生活できるよう子どもとの信頼関係を築き、自分を変えようとしている子どもの気持ちに寄り添って支援に当たらなければなりません。
校祖の唱えた「能(よ)く働き、能く食べ、能く眠る」という三能主義は、家庭学校が大切にしている生活の基本です。子ども達の様々な状態像を踏まえると、今まで以上に丁寧で細やかな対応が必要になります。
まず、なぜ能く働かなければならないのか(当番や作業をすることで何が得られるのか)、なぜ能く食べなければならないのか(成長期にバランス良く栄養を摂ることの意義)、なぜ能く眠らなければならないのか(充分な睡眠と健康の関係)を子ども達に分かり易く説明しなければなりません。その上で、例えば当番や作業については、その内容を具体的に説明したり、作業終了の目途を伝えるなどの配慮が必要です。これは、子ども達の生活全般について言えることです。
近年、ADHD(注意欠如・多動症)や自閉スペクトラム症と診断される子どもの入所が増加しています。そうした子に見られる症状や特性が完全になくなることはないと言われていますが、子どもの行動に介入し、行動の修正を手助けすることでその特性が目立たなくなったり、周辺環境を整えることや周囲が特性を理解することで生きづらさが軽減されたりするとも言われています。
家庭学校においても、自尊感情に乏しく自己肯定感の低い子どもには、日常生活の中で良い行動を褒めることで自己肯定感を高め、それが習慣として身に付くように支援します。褒められると頑張るのが人の常です。逆に悪い行動は、それがなぜ悪いのか、どんな行動をとれば良かったのかを振り返りながら「良いこと、悪いこと」の理解を深めていきます。
「療育」の分野においては、ADHDや自閉スペクトラム症による発達特性のある子どもに対して、人と仲良くするために自分の気持ちを伝える練習をして、それができた時に褒めて、良い行動を増やしていくという手法が用いられます。イライラした時の解消法を見つけて獲得していく、達成可能な目標を決めて集中力や継続性を高めるといったことも行います。こうした考え方は特別支援教育においても取り入れられています。
令和元年、家庭学校は児童精神科を標榜する「樹下庵診療所」を敷地内に開設しました。樹下庵診療所の医師で医療参事を務めている富田拓先生は、国立武蔵野学院、国立きぬ川学院の医務課長を務められた非行児童に関する臨床のエキスパートです。私達にとって診療所の存在は大きく、心理士の配置を含めて家庭学校はこうした治療的な関わりで良い行動を習慣付け、獲得していくという支援が展開できる環境に恵まれています。寮長寮母をはじめ支援を担当する職員はそうした対応に努めていますが、ケースカンファレンスなどを活用してさらに研鑽が必要だと考えているところです。
いずれにしても、障害(特性)の受容自体が難しい年齢にある子どもにとって、自分一人で考えて行動を修正するというのは大変難しいことで、一緒になって支援してくれる大人の存在が必要です。私達はそうした存在の一人でありたいと思います。
私は、この先の子ども達の人生においては、家庭学校で培った責任感や自立心を信じて、自信を持っていろんなことにチャレンジしてほしいと願っています。自分が勉強したいこと、やってみたい仕事を目指して、自分らしさを失わずに頑張ってほしいのです。
そうした歩みを進めるためには、ここを巣立った後も周囲の理解や少しの助けが必要な子どもがいます。ユニバーサルデザインが浸透した社会、最近では「インクルーシブな社会」の実現といった言葉をよく耳にするようになりました。全ての人に優しく、多様性を認め合い、一人ひとりが自分らしく生きられる社会に近づけば、誰もが持っている特性(個性)の濃淡に拘わらず生きづらさを感じることの少ない社会が訪れることになるでしょう。「インクルーシブな社会」については、私自身まだまだ勉強しなければならない考え方ですが、これを絵に描いた餅で終わらせてはならないと思います。
さて、数日間のスキー学習の後、一月二十一日には早速大回転競技大会を神社山で行いました。二月上旬には残りの滑降競技と回転競技が待っています。
家庭学校の子ども達は豊かな自然の恵みの中で暮らし、周りの大人や仲間の応援を糧に、様々な困難に立ち向かいながら、自分の成長と変化を信じて日々頑張っています。
主任(酪農担当) 蒦本広美
昨年秋に二組の卒業生が訪ねて来ました。十年ほど前と二十年ほど前の生徒で、それぞれ別の日に来たのですが、わざわざ牛舎まで立ち寄ってくれて懐かしい昔話をたくさんしました。彼らは当時のことをよく覚えていて、あの時はこうだった、寮長の○○先生はよくこう言っていたなどと、私も忘れていた話で盛り上がりました。
ここを訪ねてくる卒業生は当時の生活を、よくそんなに覚えているねと言いたくなるくらい次から次へと楽しそうに話してくれます。聞いていると楽しかった事はもちろん大変だった事も良い思い出になっていて、家庭学校で経験したことが彼らが成長する上で重要なパーツになっていることが伺えてうれしくなりました。卒業して長い時間が経ってからでもここを訪ねようと思うのは、きっと懐かしく思える思い出がたくさん作れたからだと思います。
私はここに勤めてからずっと、入ってくる生徒を迎え、卒業生を送り出し、辞めていく職員を見送り、新しくきた職員とともに日々を送ってきました。校内の建物もたくさん新築され、人も時代も変わり、行事も生活も少しずつ変わっています。そんな中、訪れた卒業生がする当時の話を聞くと、あれ?いつからやっていないんだっけ?とか、そういえば昔はなかった行事だなとか気付かされます。少しずつの変化やその時の状況に合わせた変化なので違和感なく受け入れてきたけれど、時間が経ってみると大きく違ってきていることもたくさんありました。例えば分校ができて学校の先生の存在があること。現在昼にやっている誕生会は夜に行われていて、二十時すぎまで各寮(五、六寮ありました)や職員有志の出し物で楽しんだこと。十月末には全校作業で朝からそ菜畑の越冬野菜の収穫をして各寮住宅にトラックで配ったとか、その時のキャベツや大根がものすごく大きくて重かったことなどなど。その頃はそうだったよねと私は今との違いに驚き、卒業生は「え、今はやっていないんですか?あれ大変だったよなあ。」となつかしんだり。それでも「建物は昔と違うけどやっぱりここは変わってない」と笑います。
すっかり社会人になっておじさんになった卒業生が、あの時はやんちゃしてたなあとか、ここでの経験は大人になってからありがたみがわかるとか、一緒に来ていた卒業生同士で話しているのを見ていると、今が毎日大変なのも悪くないと思えてきます。
いつだか読んだ本の一節にこんな言葉がありました。福祉の本ではなかったのに家庭学校の先輩職員が話していた想いをまとめて言葉にしたらこんな感じになるのではと思った内容でした。
『死別、生き別れの別なく、様々な理由で親を失った、その事実だけで既に傷を負っている子ども達に明日を、愛を、自己の価値を信じさせ、送り出す。それがどれだけ困難で、傲慢で、無謀で希望に満ちているか』『ここのことを忘れてしまってもいい。振り向く暇がないのなら、振り向けないことを重荷に思う時間がもったいない。それでもいつでも帰ってきなさい。どこかに帰りたくなった時、何より先にここが思い浮かんだのならいつでも帰ってきなさい』
教諭 河端信吾
私は六年間にわたる分校勤務のうち、四回ほど進路指導を担当しました。義務教育終了後、新たな出発を迎えるにあたり、どのような進路選択が望ましいのかと悩む生徒たちに、幅広く資料を提示し、寄り添いながらそれぞれの進路決定に向けて生徒を支えていく、そのようなお仕事の一部分を担当しています。進路指導は、担当のみで行っているわけではなく、三学年学級担任の先生を中心に、分校の先生方が様々な場面で生徒に関わってくれています。そして何より、寮長先生をはじめ、施設職員の皆様のご理解とご協力なしに分校の進路指導は成り立ちません。一学期に開催している「進路説明会」では、ご多忙にもかかわらず、多くの職員の皆様に参加をいただき、進路選択に関わる年間のスケジュールを確認していただいております。その後、生徒の希望を受けて、寮長先生が中心となり、分校と保護者や児童相談所とを間接的に繋いていただいております。繋ぐだけではなく、寮長先生には、生徒の特性や適性を分析された上で、生徒の進路決定に向けて貴重なご意見をいただくことが少なくありません。このように、生徒、保護者、児童相談所、施設、そして分校との関わりの中で生徒の進路が決定していくことが、一般の学校ではみられない大きな特徴だと思います。また、中学校卒業後に家庭復帰できない生徒も少なくありません。特に進学希望の場合は、卒業後に生活する施設が決定してから進学先を選択していくことになるため、生徒への資料提示や情報提示などについては、寮長先生に相談の上、細心の注意を払って対応しています。このことも、分校で進路指導を行う上での大きな特徴だと思います。ここ数年の生徒の進路状況としては、一般の学校と同様にほとんどの生徒は高等学校もしくは高等支援学校進学希望となっており、就職希望は極少数となっています。
分校に通学している生徒は、ほとんどが複雑な家庭環境の中で育ち、十分な愛情を注がれず、自分に自信を持てず、自分の良さを理解できず、人を信用できない、そういった特性をもった生徒が多く見られます。それだけに、二月から本格的に行っている面接練習では、進学希望、就職希望に関わらず、これまでの自分を振り返り、長所をさらに伸ばし、短所は改善していく意識づけや、今の自分が多くの人に支えられていることへの再認識、そして何より、将来の自分を前向きにイメージしていく貴重な機会として指導にあたっています。この面接練習の時間についても、施設の全面的なご協力をいただき、確保させていただいております。前段でも述べた通り、分校の進路指導は、施設職員の皆様の協力なしには成立しないのです。それでも、私たちの力不足もあり、進学に関していえば残念ながら新しい環境になじめず、途中でやめてしまう生徒もいます。しかし、人生はその先も続いていきます。最終的には自分の力で生きていかなければなりません。めまぐるしく変化していく社会の中で、視野を広げて社会を見る意識その上で、生き方はひとつではなく、今選んだ道が合わなかった時に、違う選択肢を持って前に進もうとする意識を育てることが、これからの分校における進路指導の大きな課題だと思います。
これからも、施設職員の皆様と手を取り合いながら、生徒の未来のために微力ながら尽力していこうと思います。
石上館 小六 I・掬泉寮 中二 S
「将来なってみたいものとやりたいこと」
僕は将来の夢は、絶対になるというようなのは、まだ、決まっていませんが自分の思う将来の僕をこの作文用紙に書きたいと思います。
一つ目は、なってみたい職業です。僕はバスケットのプロ選手になってみたいです。理由はカッコイイからです。細かい瞬発力と極められた判断力。これらを生かして、プレイをすることが僕はものすぐくカッコイイと思います。
二つ目はいろんな国を回って旅行することです。理由は僕の住んでいる国ではないところを見わたしてみたいからです。海外の文化や生活を見てみたいです。
三つ目は生身で空を飛んでみたいということです。山の上からでも、天空の上からでも、スカイダイビングでも、ただ落ちるだけでもいいのでやってみたいです。
一つ目のなってみたい職業のバスケットプロ選手になるためには身長を伸ばす必要があると思います。そのためにはここで取れている牛乳をいっぱい飲んで身長を伸ばして、作業をいっぱいして体力もつけたいと思います。ただ作業をするのではなく、たとえば丸太を運ぶ作業の時には積極的に丸太を運んだりあきらめずに集中して運ぶ事が大事だと思います。
二つ目のやりたいことは、海外旅行をするためには、英語が話せなくてはなりません。そのためには、中学校に行ってから英語を重点的に頑張って勉強したほうが海外に行って楽しめると思います。そのためにはまず単語を覚えたいです。
三つ目のやりたいことですが、ダイビングするには度胸が必要になります。飛ぶか落ちるかの恐怖心がなくなる訓練はどうしたらできるかを考えたのですが、ふだん僕が生活しているなかではそのような環境はないので、テレビの動画や日々のイメージトレーニングで飛び立ちたいです。
一つ目はなってみたいもの。二つ目と三つ目はやりたいことを書きましたがどれもふつうに生活してはかないづらいことなので、それをかなえるためには努力して挑戦することが大事だと思います。他にも色々ありますが、どれも挑戦の積み重ねと努力によってかなうことだと僕は思うのでこれから頑張っていきたいと思います。
「スキー学習での成果」
僕は、今回のスキー学習で、できるようになったこと、がんばったことが、たくさんありました。まず、スキー学習で使うスキー場づくりから始まりました。最初は、雪ふみからやりました。僕には、なれてないスキーぐつをはいて、神社山をのぼりました。これが、ものすごくきつかったです。雪は、深かったし、家庭学校に来て二日目で、体力も全然無かったので、本当にきつかったです。
雪ふみが終わって、何日かたった時、スキー学習一日目がありました。この時は、人生で初めてスキーをやった日でした。そんな僕を教えてくれたのが、河端先生でした。最初スキーぐつも一人で、はけなかったので、河端先生に、てつだってもらいました。最初に教えてもらったのは、すべらないで歩くことでした。これは、普通にクリアしました。初日は、むずかしくて、あんまりすべることが、できませんでした。すべってもすぐ転んでしまいます。河端先生から、転んだ時のコツを教えてもらいました。それで、立ち上がる方法を教えてもらったけど、いまだにうまくコツがつかめなくて、立ち上がれません。来年のスキー学習では、立ち上がりたいです。
かなり進歩したのは、三日目でした。リフトに一人で乗れたし、かなり上から、すべれるようになりました。スピードをコントロールして、左右に曲がりすべりきった時は、すごく楽しかったです。ここまですべれるようになったのは、河端先生や、おうえんしてくれたみんなのおかげです。次、ロックバレースキー場に行く時や、来年のスキー学習の時は、きたいにこたえられるようがんばります。
理事長 仁原正幹
札幌に戻ってから一年十カ月が経過しました。コロナ禍の状況が続き、憂鬱な日々を過ごしています。そのような中で、私が懸命に取り組んできた二つのことがこのほど成就したので、ご報告します。
①『「ひとむれ」一〇〇〇号』の刊行
「ひとむれ」は、昭和五(一九三〇)年の創刊以来、九十二年の歴史があります。戦時中の休刊を経て、戦後の昭和二十三(一九四八)年に「再刊」という形で復活したのですが、その際に通巻号数がリセットされ、再刊第一号が現在の通巻号数の起点となっています。爾来七十四年間連綿と刊行され続け、このほど大きな節目となる一〇〇〇号に到達しました。
「ひとむれ」には定例の「月刊号」のほかにも「収穫感謝特集号」、「周年記念号」、「通巻号数記念号」等があり、それらの全てに通巻号数が付けられています。その中で「通巻号数記念号」としては、昭和五十八(一九八三)年刊行の「五〇〇号記念特集号」があるのみでした。
この度は二度目の大きな節目ということで、五〇〇号のときを参考にしながら家庭学校の新旧の役職員や全国の熱心な読者、そして十三年前から協働して業務を進めている望の岡分校の新旧の教職員など、大勢の方々に寄稿していただくことにし、三十九年振りに二度目の「通巻号数記念号」を刊行することにしました。北海道家庭学校の長い歴史と豊かな伝統、ユニークな活動内容等について、我々自身が再認識するとともに、広く全国の関係の皆様や、視察・見学・研修等に訪れる方々にも提供し、理解と関心を一層深めていただくための資料として作成することにしたものです。
昨夏の時点で通巻号数を予測し、新年一月号が九九九号となると見込んで、二月号との間に「一〇〇〇号記念特集号」を刊行しようと考え、いろいろと構想を練りながら、準備を進めました。秋からは全国各地の大勢の皆様に寄稿をお願いし、年末までの間、毎日のようにメールや手紙で届く原稿をチェックし、レイアウト調整をしながら、執筆者一人一人との間でメールや手紙、電話により修文等の打合せを一再ならずさせていただくということで、結構骨の折れる編集作業に邁進しておりました。総勢八十名の文章と装画による充実した面白い「一〇〇〇号記念特集号」になったと思います。
発案者としては、北海道家庭学校の歴史の一(ひと)齣(こま)を確かに刻むことができたという思いもあって、安堵するとともに、大変嬉しく思っております。皆様のご支援とご協力に心より感謝申し上げます。
② 札幌市児童相談所の一時保護所における「拘禁部屋」の解消
近年私が重大な懸案事項と認識し、早期解決に向けて孤軍奮闘してきた問題に、昨年末、遂に決着が付いたのでした。札幌市児童相談所の一時保護所における「拘禁部屋」がやっと解消されたのです。
この問題については、校長時代の令和元年七月に、当時の札幌市児童相談所長宛てに文書で改善要請したことが取組の始まりです。爾来、文書や面談により何度も折衝・協議を重ねてきており、本欄でもその都度経過をご報告してきました。直近では十二月一日号に書きました。
その後札幌市児童相談所から、文書と電話で改めてご相談をいただき、ほぼ合意に達したので、暮れも押し迫った十二月二十七日の午後、私が四回目の札幌市児童相談所訪問を行いました。初めに担当の藤﨑賢治家庭支援課長さんにご案内いただき、一時保護所の男子児童の階に六室の小さな「拘禁部屋」があり、その前の廊下が可動式のパーティションで閉ざされる仕組みになっていることを視認しました。その時は全て空室でした。
その後、山本健晴所長さんとも面談し、十二月二十七日付けの最終回答文書を受け取りました。以下、文書の抜粋です。
〔標題〕一時保護所の運用について
令和3年12月20日より、下記のとおり変更いたしました。貴法人より「拘禁部屋」と指摘されていた一時保護所の運用を撤廃する内容と認識しております。
1 変更内容
(1) 入所直後にオリエンテーション等と称して、数日個室で生活させる(集団に合流させない)運用を撤廃する。
(2) 他害行為等の問題行動を起こした児童に対して、終日個室での生活をさせる運用を撤廃する。
2 変更後の内容
(1) 一時保護開始後のオリエンテーションは、数時間以内に完結するものとする。
(2) 問題行動等がある児童に対しては、日課や余暇活動の一部のみを制限し、児童の特性等に合わせた課題に取り組ませる。
なお、行動制限を実施する場合には、所内会議において決定し、所長決裁を受け実施するとともに、その都度保護者並びに施設(施設入所中の一時保護 に限る)に連絡する。
また、行動制限の内容及び期間については、児童票の経過記録として残し、その写しを施設入所時に施設に提供する。(令和3年12月27日付け文書より)
二年五カ月もの歳月を要しましたが、この間私が一貫して主張し、説得し続けてきた「子どもの人権を護る」ことの大切さが理解され、その結果札幌市児童相談所の自浄作用が働き、「拘禁部屋」の解消に至ったと思い、安堵するとともに肩の荷が下りたような気がしています。
ただし、一時保護所の中にはこれまでの狭い個室が残ったままなので、それらがいつまた「拘禁部屋」として復活するかわかりません。道内の全ての児童福祉施設の皆さんにも、今後も注意深く見守っていただきたいと念願しています。