ひとむれ
このコーナーでは、家庭学校の月毎の機関誌である『ひとむれ』から一部を抜粋して掲載しています(毎月上旬頃更新予定です)。
職員が、家庭学校を通じて感じたことや伝えたいことを表しています。是非、ご感想をお聞かせください。
※都合により『ひとむれ』本誌と内容が異なる場合がございます。ご了承下さい。
巻頭言
食事のマナーを考える(抜粋)
輪休対応
家庭学校に来て
校長 仁原正幹
私事で恐縮ですが、新年早々一週間ほど腰から脚にかけて激痛に悩まされました。旧知の整形外科医を受診したところ、腰椎の椎間板ヘルニアとのことでした。
常日頃子ども達に「姿勢を正しくする」よう求めていましたが、自らを顧みて反省する点が多々あり、些か反面教師的ではありますが、この際恥を忍んで子ども達に語りかけることにしました。以下、一月十五日の校長講話からの抜粋です。
○
今日は「姿勢を正しくする」というお話をします。
日曜礼拝や始業式、終業式などを始めるときに、先生から「姿勢を正しくしてください」と言われることがよくありますね。また、給食棟で「いただきます」、「ごちそうさま」をするときにも、週番の生徒から「姿勢を正しくしてください」の声がかかります。皆さんは「姿勢を正しくする」のは何のためなのかわかりますか。理由を考えたことありますか。
多分、礼儀やマナーや格好かなと、思いつく人もいると思います。だらしない格好をしていると周りの人に悪い印象を与えるかもしれないので、そうならないために「姿勢を正しくする」のではないかということは、大体考えられるよね。それから、「姿勢を正しくする」ことによって気持ちを引き締めることができて、号令をかけた人のほうに意識を集中できるということも考えられます。
そのほかに何か思いつく人はいませんか。「正しい姿勢」とか「良い姿勢」というのは、具体的にどんな姿勢なんだろうね。この絵を見てください。人が立っている姿勢の絵が並んでいます。横から見たときに、首の骨や背骨や腰の骨が、綺麗なS字カーブを描いているのが良い姿勢なんだね。猫背や、逆に反り返っていたり、S字が曲がりすぎてるのもいけないようです。どうして猫背などがいけないのか、みなさんわかりますか。もちろん、格好悪いということはあるよね。
実は私は子どもの頃から猫背の癖があって、若い頃は「別に格好なんて」と、あまり気にしてなかったのですが、大人になって周りの人から指摘されたりして、「格好悪いかな、貧相に見えるかな」と、少し気にするようになりました。
今ではかなり気にしていて、毎朝、自己流の体操をするときなどに鏡に映る姿を見ながら猫背を治す練習をしています。でも、子どもの頃から身についた長年の癖というのはなかなか治りません。
また私は、若い頃からデスクワークの仕事が多くて、深夜まで長時間椅子に座って机に向かっているような生活を、四十代くらいまでは続けてきました。椅子に座って同じ姿勢を続けていると、首や肩、背中、腰などが痛くなったりするので、書類に目を通すときや、パソコンの画面を見ながらキーボードを叩くときなどに、椅子に浅く腰掛けて、背中や腰を丸めて背もたれにもたれかかって座ることが癖になってしまいました。これも若い頃からの長年の癖、習慣なので、なかなか治りません。
さらにはこの三年間、札幌の自宅と遠軽の家庭学校を頻繁にクルマで往復しており、片道二六〇キロの距離を長時間同じ運転姿勢をとっていることで、去年の秋くらいからクルマから降りた後に時々腰の痛みを感じるようになりました。
さて、長年のこうした生活習慣や悪い姿勢の癖の結果どうなったか。猫背やだらしない椅子の座り方が、自分では身体を楽にするためにやっているつもりだったのですが、逆にそのことが首や腕や腰やお尻や脚にとんでもない痛みや痺れを発症させる結果を招いたのです。
この絵を見てください。ここが頸椎、首の骨のことで七個あります。それから胸椎、胸の骨のことで十二個あるようです。そして腰椎、腰の骨のことで、これは五個あることを、今回認識しました。
というのは、私は札幌にいたお正月の二日から、屈んだり、座ったり、立ち上がったりするときに、右腰と右臀部、お尻の横の方ですが、それと右脚の外側にものすごい痛みが出て、また、じっとしていても痺れや重だるい感じがして、それは大変な目に遭ったのです。
四日の日に何とかクルマで家庭学校に戻ってきましたが、右腰から右脚にかけての激痛の度合いがだんだん酷くなり、ズボンや靴を履くのにも痛みに耐えながら大層時間がかかる状況で、これはとてもたまらんと思って、翌五日に札幌に戻り、六日に整形外科を受診したのです。
その結果、腰椎の椎間板ヘルニアという病気であることがわかりました。この絵のとおり腰の骨の間には椎間板というものがあるのですが、私の場合、四番目と五番目の骨の間の椎間板が飛び出しており、それが神経を圧迫していたのです。
私は腰の椎間板ヘルニアは今回初めてだったのですが、実は首のほう、頸椎の椎間板ヘルニアは、今から十五年ほど前に発症したことがあります。今は何ともないのですが、何年か毎に首や肩や腕が痛んだり、痺れたりすることがあります。
この絵のように神経は脳からつながっていて、頸椎のところからは腕に、腰椎のところからは脚に信号が送られます。だから、頸椎に異常があると腕や肩が痛んだり痺れたり、腰椎に異常があると脚や腰の部分が痛んだり痺れたりするのです。神経が強く圧迫されると痛かったり痺れたりするばかりか、脚や腕に信号がうまく伝わらずに、手足が自由に動かなくなることもあるようです。
私の今回の腰から脚の痛み(座骨神経痛)は、薬と温湿布のおかげで一週間くらいで痛みが和らぎ、まだ右腰・右脚の鈍痛や痺れは残っていますが、何とか日常生活ができるようになり、再診後の十二日にクルマで遠軽に戻ってきました。
そうした首や腰の椎間板ヘルニアがどうして発症したのか。その原因はいろいろとあるようですが、大きな要因としては、猫背やだらしない椅子の座り方など、若い頃からの姿勢の悪さが根底にあるということは間違いなくあるようです。
私が六十代の今になって「姿勢を正しくする」ことを気にしている理由は、実はこうした頸椎や腰椎の病気になって痛みや痺れなどの症状が出たら大変だと、身に染みてわかったからです。今さら後悔しても遅いのですが、子どもの頃から、十代や二十代の若い頃から、立つ姿勢や座る姿勢に十分気を付けていたら、こうした病気にはならずに、酷い痛みや痺れを味わわずに済んだと思うのです。
今日、若いみんなに長々と首や腰の病気の話をしたのは、「姿勢を正しくする」ことが単なる格好やマナー、周りの人への心配りのためだけでなく、実は自分自身のためでもあるということを知ってもらいたかったからです。一見楽そうに見える猫背や背もたれにもたれかかるだらしない座り方は、実は重たい頭や胴体、脚などを支える身体・筋肉にとっては、逆に負担が大きいのです。
若い君達にとっては、椎間板ヘルニアなんて老人病みたいなものは関係ないよと思うかもしれません。でも、実は若い頃からの毎日の積み重ねが大事なんです。良い習慣を身につけて、いつも「姿勢を正しくする」ことを留意していれば、大人になってこういう病気になりません。このことはよく覚えていてください。
さて、もう一つ、関連した話をしたいと思います。 給食棟での昼食の際に、栄養士の伊東先生が各寮のテーブルを回って、肘をつかないとか、背中を丸めないとか、日替わりでみんなのそばに座っていろいろと指導してくれたことがあったよね。覚えていますか。
その伊東先生が一昨年の作業班学習発表会のときに「食事のマナーを考える」というテーマで話をしてくれた内容が、今日の「姿勢を正しくする」という話に通ずるものがあるので、その一部を抜粋して読んでみます。聴いてください。
(略:概要は次頁に掲載されています。)
長い引用だったけど、とてもわかりやすい話だったでしょ。食事のときの正しい姿勢は、消化や健康、身体の成長にも大きく影響するんだね。
「姿勢を正しくする」ことは、身体の成長や病気の予防にもつながることで、自分自身のためにも非常に大事なんだということを、しっかりと覚えてください。
○
以上、校長講話の一端です。今この原稿を書いていて、対句を思いつきました。
情けは人の為ならず
姿勢も人の為ならず
次の講話のときにでも、披露してみます。
主任栄養士 伊東 睦子
「姿勢を正してください」の後、お祈りがあり「いただきます」の挨拶はとても礼儀正しく行われているのに、いざ箸を取り食事を摂っている姿に違和感があるのです。背中を丸めて食べる、テーブルに肘をついて食べる、足を組む、椅子に足を絡める、食器を持たずに顔を近づけて食べる、片手が遊ぶ、よく噛まずに飲み込む、一品ずつ食べる等の光景が見て取れました。本人は気づくこともなく問題とも思っていないのでしょう。
食事時の姿勢は消化に大きく影響します。例えば、肘をついている姿勢はついている方だけ体が曲がったり、背中を丸めたり猫背の状態では、胃のあたりが丸くくぼんだり顎が前に出たりします。こうした姿勢は食べ物が胃までまっすぐ降りていくことができず、胃の上部で溜まりうまく消化できない状態で、胃炎の原因になります。
また、楽な姿勢を取ろうとしてお尻をずらして座ったり足を組む座り方は必要以上に体に負担がかかります。その結果、体の歪みにつながったり、消化不良の原因になります。食べても満腹感があまり感じられない要因の一つとして姿勢も関係しており、食べ過ぎから肥満へと移行することも踏まえ、姿勢から見直す必要があると言われています。
昼食は特に日課の合間で時間に余裕がないときもありますが、食事はよく噛んで食べることを意識してほしいと思います。脳から出される満腹感の信号はとても弱いものでリラックスした状態でないと得られないそうです。同様に、背中をまっすぐ伸ばし、肘をつかず、足をそろえて床につき、食器を手に持ち順番にバランスよく食べることで、消化・吸収力がアップし成長につながり、良いかみ合わせやボディバランスが保たれ、虫歯・歯周病予防やけがをしにくい体づくりができるのです。
給食棟のテーブルと椅子は一人一人の体格に合ったものではありませんので、多少の不具合は生じますが、食事のマナー(挨拶、姿勢、お箸の持ち方、使い方、食べる時の音、食事中の会話等)、振る舞いは、特に生徒達は家庭学校を卒業してからも日々の生活で繰り返すことなので、是非身に付けてほしい事柄の一つです。些細なことかもしれませんが、案外目につく行動で、人の評価にもつながります。日頃から意識付け、食事を共にする大人が手本となり助言していけたらと思います。
一緒に食事をする人同士がお互いに気持ち良く食事を囲むことが出来るように、そして、食事や食材を作ってくれた人に感謝の気持ちを込め、楽しい食事を摂っていただきたいものです。
(全文は「収穫感謝特集号」に掲載予定)
職業指導員 蒦本広美
昨年十月二日から四日と十一月十二日から十四日に、洗心寮で輪休対応の生徒を預かりました。私たち夫婦は普段は牛舎で作業しているため、生徒の日常の対応は初めての経験となりました。輪休対応とはいえ、夫は普段通りの牛舎作業もあって常に寮にいる事ができないため、他の職員にも助っ人に入ってもらいました。しかも、私たちは寮回りの経験もなく生徒の生活も断片的にしか知らないため、私たちがサポートするような形での輪休対応になりました。
十月は石上館から七名が、十一月は楽山寮から九名の生徒がやってきました。どちらの寮も人数が多く新入生もいて、私はまだ顔と名前が三分の一ほど一致しない状態で迎え入れることになってしまいました。
迎える朝は牛舎作業を終えてから生徒の朝食を作り、ドキドキの心持ちで生徒を待ちました。生徒は到着すると揃って挨拶をして、職員が引き継ぎをしている横で、もめながらも割り振られた部屋に入り荷物を置いて朝食となりました。最初は来る方も迎える方もぎこちなくしっくりきませんでしたが、やはり食事となるといつもこなしていることでもあり、役割分担通りに準備や片付けをしていました。家庭学校に来る前の生徒は生活が乱れていることが多いと聞きますが、テーブルを拭く、正しい位置に食器を配膳するなどがとても自然にできていて、ここでの生活で得られたことの一つであり、いいなあと思いました。
十月の石上館は受け入れ初日が日曜日だったため、僅かな自由時間のあと、礼拝に出かけました。私も生徒と一緒に行きたかったのですが、自分の食事や子どもの世話をしていたら間に合わなくなり、いつも通り車で礼拝堂へ向かうこととなりました。私は昨年から礼拝の奏楽を受け持っているのですが、生徒の受け入れ初日が日曜日の時は生徒の起床が遅いこともあって、牛舎と朝・昼の食事作りと奏楽の組み合わせは慌ただしくて正直きつかったです。それでも食事の下準備は前日に済ませておけるので、炊事や対応に慣れればこなせる事なのかなと思いました。
午後からの自由時間にはうちの子ども達と生徒が一緒に遊ぶ場面も見られました。うちの子ども達は高二、中二、小三、六歳の双子で男ばかり五人おり、下の三人は生徒が来るのを楽しみにしていました。年齢差がある割にはどちらが遊んでやっているのか、遊ばれているのかわからないような馴染み具合で、微笑ましかったです。輪休が終わってから、「また来たいです」、「楽しかったです」というようなことを生徒に言われたので、「何が良かったの?」と尋ねると「先生のとこの子どもと遊べたから」と答えが返ってきました。短時間だったということもあり、生徒の方も小さい子と関われて意外にも楽しめたようです。
現在の寮のように殆どが中学生という中に小学生が混ざると年齢に幅ができ、能力や行動、好みの違いの差が大きくなるため相手を受け入れる訓練になるというところが長所となるとともに、集団生活を送る上では短所ともなる事が今回生徒の生活を見ていてよくわかりました。
夜は細々対応したものの、思っていたよりは毎回すんなり寝てくれて、「今日も怒涛の一日が終わったー!」といった感じでした。私は以前の無断外出が多かった時期も知っているので、生徒が無断外出したら気付けるか、喧嘩や何か悪さをしたらどう対処しようかという不安もあったのですが、今回幸いなことにそういった大きな問題が起きることなく生徒を各寮へ帰せてホッとしました。やはり緊張や身構えていたこともあって、その時々をこなすだけでいっぱいで、とても一人一人の観察や全体の把握など充分できませんでしたが、終わってしまえば随分あっけなかったなと感じたことを覚えています。普段の寮生活ではもっと波風が立つこともあって、こんなに平和な毎日ばかりではないのでしょうが。
二寮の受け入れが終わってみて気になったのは移動の慌ただしさです。来たときはまだ週末だったので良かったのですが、帰るときは朝食と荷物の片付けを済ませ一旦寮に戻ってから授業を受けるために本館に行かなくてはならず、いつもより早起きしたにもかかわらず時間は迫るし忘れ物は多発するしでかなりバタバタしました。
そのほかに、週末は生徒が寮にいる時間が長く、普段寮担当者がいかに生徒につきっきりの生活をしているかがよくわかり、その大変さの一部を垣間見る事ができた気がします。今の家庭学校の現状では人手不足すぎて、以前にいたような寮付きの職員を置く余裕はなさそうですが、夕作業時や夕食後に毎日ではなくとも大人が一人増えれば寮担当者の負担が軽くなるのではと思いました。以前いた古い職員が「家庭学校の職員の家庭は母子家庭だ」と言っていたことが強く印象に残っています。以前に比べて休みは随分増えたけれども、これからの若い職員の結婚や子育てが仕事と両立できるような工夫がまだ必要だと思いました。
二回の輪休対応以来しばらく次はなさそうですが、たまに違った角度と距離から生徒に関われると、初心に帰るというか牛舎にいるだけより家庭学校を身近に感じる事ができて、とてもいい経験ができたと思いました。私が来る前も来てからも少しずつ、時には大きく変化しながら歳を重ねていく家庭学校が生徒はもちろん職員にも、より生活しやすい場所になれるように今後も頑張っていきたいと思います。
望の岡分校教諭 松田房江
平成三年、遠軽教育委員の方から家庭学校の時間講師に来ませんかと電話がかかってきたのが始まりでした。谷校長先生がまずは学校を見に来て下さいと言われ訪れましたが、校門から入ってどこに学校があるのかわからずウロウロしていたのを思い出します。「いろいろの事情でここに来た子供たちです。彼らは大人たちの被害者です。」谷校長先生はそうおしゃっていました。元気な声で「こんにちは」と元気に挨拶する子供たちから好印象しか受けず、その日に「こんないい子たちのいるこの学校で働きたい。」
と決心しました。
「至福の時代」
ちょうど長年務めていた職員の方々が、来年再来年と退職なさる狭間の時期でした。寮母さん栄養士さん以外女性は私一人でした。その頃は五つの寮に五十名以上の児童生徒がいて、運動会や研修旅行や晩餐会の出し物などとても活気がありました。中卒生も中学生と同じ教室で勉強し、国語、数学、英語に習熟度があり、英語は国語のクラス編成を使っていました。寮長先生が授業に入っていたので先生に反抗する生徒はいませんでした。私が授業を進める上で、先生方が気を使ってくださり、「何か問題のある子がいたらすぐ知らせてください。教室から締めだしますから。」と廊下から授業を見守ってくれたこともありました。いわゆる番長のような生徒がいて、各寮を仕切り新入生を世話していました。「勉強は嫌いだが作業は任せてください。」と作業が出来ることに誇りを持っていました。
一日二時間の英語を教える仕事でした。美術と音楽に同級生を紹介して一緒に働き、まるで高校の延長でした。誰も自分の授業に意見する人もいなく、分校が入るまで平穏な十九年間を過ごさせてもらいました。それでも、後半は授業中トラブルを起こす生徒が、徐々に増えてはいました。その時は、寮長先生を呼びに行って助けてもらいました。今思うと、自分の成長はないまま能天気で過ごしていたのだと思います。
「試練の時代」
平成二一年、分校が導入され家庭学校を去りましたが、翌年の一月、縁がありまして今度は望が岡分校の時間講師、四月から期限付き教諭として働き始めました。学校という組織を全く知らない五十歳過ぎた私は、教鞭だけでなく分掌、作業、行事、仲間との連携など普通の学校なら当然やらなければいけない事に戸惑いました。
初めてTTとして授業に入った時のことが忘れられません。机にうつ伏せに顔をつけて授業を受けている生徒にどうして先生方は注意しないのだろうとその時は思いました。思わず「今授業中だよ。」とその生徒に声をかけました。「何だと。うるせんだよ。」とその子は私を睨みつけました。今までは寮長の後ろ盾があって、生徒と問題なく仕事ができていたことを実感しました。授業をしても急に怒ってくる生徒になぜなのか分からず、私の今までの実績なんて遠くに吹っ飛んでいきました。気持ちは追われる毎日で休まることがなく、家に帰ってからため息をついていました。「辞めたいなら、辞めていいんだぞ。」という旦那の声が耳に残っています。子供たちが以前とは変わってきて対応が難しくなってきていると言われていますが、私は自分の発達障害に対する勉強不足をつくづく痛感しました。
「バカの壁」
ここを卒業しても困らないようにしてあげたい。それが私の希望、指導の目的でした。でも、出来ない問題を繰り返せばできるようになると信じて疑わなかった私。注意は「~してはだめ。」と言っていた私。子どもの調子も考えず、授業をどんどん進めていった私。ここに来るまで勉強に嫌気をさして来ているのだから、苦手意識を少しでも取り除いてあげることが大事なのに。トラブルが起きた時は指導のチャンス。その時は、そんな事を思う余裕もありませんでした。
分校に入って五年目、失敗を繰り返しながら少しずつ発達障害で生きにくい子供たちとの関わりがわかってきました。一月号の『ひとむれ』の仁原校長先生の原稿を読んだ時、自分も「バカの壁」を自分なりに打ち破ったのだと思いました。
「残りの時間」
後ここで働ける日々も少なくなってきています。二四年と長い年月を家庭学校と関われたことを心から感謝します。たくさんの先生、子供たちとの出会いと別れがありました。最近特に感じることは、今まで先輩たちが築いてくれた家庭学校との連携を大事にする精神を次の先生たちに伝えていかなければいけないなということです。普通の学校から転勤して来た先生が、「どうしてこんなことしなければいけないの。」と思う事が多々あるのは当たり前です。
家庭学校の職員は子供たちにとっては父母です。ですから子どもたちが家庭学校と分校の協力で安心して生活できる所にしなければいけないと思うのです。普通の学校からはじき出された子供たちです。大人を信じられない子供たちです。この学校に来たくて来た子供はいません。
「いつも私はあなたの事を分ろうとしているよ。側にいるよ。」その気持ちを忘れず、後残りの時間を大切に過ごしていきたいと思います。