ひとむれ
このコーナーでは、家庭学校の月毎の機関誌である『ひとむれ』から一部を抜粋して掲載しています(毎月上旬頃更新予定です)。
職員が、家庭学校を通じて感じたことや伝えたいことを表しています。是非、ご感想をお聞かせください。
※都合により『ひとむれ』本誌と内容が異なる場合がございます。ご了承下さい。
巻頭言
農業について
歳を取りました
校長 軽部晴文
新しい年を迎えました、皆様はどのような新年を迎えておられますか。
家庭学校は今月九日迄が正月帰省期間中です、家族の元や児童相談所で新年を迎えた生徒がおる一方で、それぞれの事情から家庭学校で職員と一緒に新年を迎えた生徒も複数おります。その生徒たちを楽しませようと多くの行事が組まれています。
突然ですが、今も世界の各地では争いが続いています、二年前に始まったロシアによるウクライナへの侵攻。イスラエルとハマスとの争い。ミャンマーやスーダンの内乱等、軍事衝突の絶えない状況が続いています。ニュース映像が伝える現実に思わず目を背けたくなりますが、そうではいけないしっかり記憶しなければならないとも思うのです、遠いどこかで起きている出来事などと流してはいけないと思うのです。
私は、一九五六(昭和三一)年生まれです。私の父は大正十四年に母は昭和四年の生まれです。両親にとっての少年期は日本中が戦争を意識していた時代と被ります。山形の地方で育った両親にとって当時の戦争をどの様に受け止めていたか分かりません。ただ、母親は十六歳の時山形から遠く神奈川県の軍需工場に動員され、そこで空襲に遭い命からがら逃げ帰ってきたと話したことがあり、その体験があったからだと思うのですが終生争い事を嫌いました。このように私たちの親世代は日本が戦争を行っていた時代に育ち、散々な思いを体験した世代でした。その体験が二度と戦争をしてはいけない、あんな悲惨な思いを子供にさせてはいけないという意識を強くした世代だったのだと思います。おかげで私たちはこの年齢になるまで体験としての戦争を知らずに生きて来る事が出来ました。決して裕福ではなくても食べ物に困らない程度の生活を送ることもできました。好きなスポーツや趣味にも取り組むこともできました。その様な人生を送る事が出来ただけに、今度は私たち世代が自分たちの子供に何を残したのかが問われる年齢になっていることを意識する様になりました。私たちの世代だけがいい思いをした世代だった、などという事があってはいけないと強く思う様になりました。
ニュース番組を見ていると、戦いに巻き込まれ、泣き叫んでいる子供の映像が毎日のように繰り返し流されます。しかし、別の番組では芸能人が大食い競争に大爆笑している姿が映る事があります。その瞬間その落差に気持ちが付いていけないものを感じます。時には一つのニュース番組の中でさえ今まで深刻な表情でニュース原稿を読んでいたアナウンサーが、一転にこやかな表情で明るい話題を報じる事もあります、もう少し違う編成が出来ないものかと感じます。テレビで流れる一場面だけを切り取ると、争い事が起きている事自体が全く他所ごとです。他国では身の安全すら保障されない人がいても、日本は安全だ、食べ物も困らないからと言う事でいいのでしょうか。
では、日本で暮らす私たちはとても平和な世に身を置いているのでしょうか、いや待てよとも思うのです、家庭学校に来る子ども達の生活はどうだったのだろうか、平穏な生活を送れていたのだろうか、子供たちの家庭での生活状況を記した、児童相談所が作成した記録に目を通すと、思わずため息が漏れてしまう現実があります。よく頑張って生きてきたなと声をかけたくなるケースが多く見られます。
戦後八十年近くも、日本は戦禍に巻き込まれる事なく過ぎて来ました。今の子ども達はもちろんの事、将来の子ども達も安心に暮らすことのできる世の中であって欲しいと切に願います。しかし今の世の中の流れをそのまま引き継いで良いものか、甚だ疑問に思うことも少なくありません。地球の温暖化が止まりません、世界各地の紛争も政治的な思惑が交錯して収まる気配がありません。日本が抱える莫大な借金はどうするつもりなのでしょうか。大人達の思惑が子ども達にシワ寄せとして引き継がれようとしています、後々の子ども達にあの時代の大人は一体何をやっていたのだと言われないのだろうかと考えるのです。
クレジットカードは現金を持たなくても支払に便利ですが、親のカードを使い沖縄旅行をした児童がいました。テレビゲームに嵌り、朝起きられない児童が増え、ゲームの課金に親のカードを勝手に使うケースが後を断たない。生活が忙しいからと、食事代として毎日一万円渡されていた子どももいました。大人の考える便利な世の中や都合の良い世の中が、一方で子どもの成長に少なからず影響を与えています。私たち家庭学校にはそういった影響を受けた子どもがやってきます。多くは「問題を起こした子ども」としてやってきます。しかし、子どもたちが起こした目にみえる行為の内側にはもっと大きな「問題」はないのでしょうか。
子ども達は大人の前では無力と言ってもいいと思います、大人が作りだす現実社会の中で生きて行くしかないからです。そして大人が作り出している社会に不安や不満を感じた時に、抗議の意思表示の一つが反抗だったのではないでしょうか。しかしその反抗も正当な抗議としては受け止めてはもらえず、我儘だ、反抗的だとしか受け止めてもらえないとしたらどうなのでしょうか。
私たちの様な仕事に就く者は、子供達に寄り添う事が大事だと教わります、子供に寄り添う事とはどういう事なのか少し考えたいと思っています。
酪農部門職員 小長谷 健太郎
農業は人間の生存に欠かせない食料を生産し、国土や環境の保全など僕たちの生存基盤の維持にも重要な役割を果たしています。農場生産を発達させ、私達の食糧を自給することは国づくりに不可欠な課題です。他方で農業は自然や国土の制約を受け、工業など他産業と比べて不利な条件におかれ、市場競争にゆだねれば衰退する危険を抱えています。
世界の主な国で農業を産業・経済の中にしっかり置いて手厚い保護をとっているのはそのためです。ところが、農林水産物の輸入自由化を次々と広げ、価格保障・所得補償を大幅に削減・廃止するなど、農業つぶしかと思われるくらいの活動が情報誌やテレビなどで見え隠れしているような気がしています。その一部の結果と言いますか、食料自給率は38%と過去最低レベルとなり、先進諸国でももっとも低い水準にあるようです。法律で種苗法がありますが、その動きはこれを開運、草加の種苗の自家増殖を禁止し、多国籍企業による種の独占に道を開こうとしているのではないかと調べるほど僕の見解としてはそう見えます。
日本の農林漁業と農山漁村は歴史的な危機に直面しています。それを阻止しようとする活動家が食料を外国に依存し、国内農業を切り捨ててきた支配者の考えを大本から転換し、農業を国の基幹的な生産部門に位置付けようとしてくれているのがテレビなどで流れています。大小の多様な家族経営が安心して農業に励めるよう、輸入規制や価格保障など必要な保護政策をとるなど、農林漁業と農山漁村の再生に力を尽くすと宣言していました。
話は変わりますが農業に触れると農地改革も思い出させられます。第二次世界大戦後のポツダム宣言にもとづく日本の民主化措置の一つで、1947年~50年にかけて、地主制度の解体・農村の民主化を目的として実施された改革です。地主が所有している土地のうち保有限度都道府県の平均で約一ヘクタール、北海道は四ヘクタールを越える分自分で農業をしていない地主は所有地の全部を強制的に小作人に売り渡すことを基本として実行されました。小作人とは地主から農地を借りて耕作し、収穫の半分以上にもなる高い小作料を搾り取られていた農民の事です。農地改革によって、戦前の支配体制の重要部分をなしていた重たい上下関係を地主制度が基本的に解体し、国内の支配勢力の中心に大企業・財界がすわりました。権利を軽んずる支配関係がなくなった農村では、 自作農となった農民の家族経営が日本農業の主力となりました。そして貨幣・商品経済が浸透し農産物は商品として販売・購入され、農業機械、肥料、農薬、飼料の利用が拡大しました。その結果、農業分野はアメリカと日本の大企業の市場となり、両者の支配・強制的に奪うことを受けることになりました。農民の暮らしにも商品経済が広がり、消費の拡大のなかで、大企業の新しい市場となりました。農地改革によって農村にしばりつけられることのなくなった農民は、農業の自立的発展が妨げられるなかで都市に流出。農村は、高度成長が必要とした大量の低賃金労働者の供給源になりました。
今の現代は、農業に関わる仕入れの価格の急激な高騰などにより、離農していく人達が多く、一昔の盛んな農業のかけらもないと
んでもない時代です。農業とは人の道には欠かすことのできない貴重な財産が溢れていると思います。命を育てることでその尊さを学び大事にしていくものだと思います。
家庭学校の子どもたちが大人になっても、とても身近にあり続けていくためにも農業危機をどうにか回復にもっていくためにほっとかない精神で居続けようと思います。
嘱託職員 清水律子
二〇一六年五月から家庭学校にお世話になっています。54歳になる少し前でした。約7か月間、向陽寮(高校生寮)寮母を経験し、六年三ヶ月の自立援助ホーム『がんぼうホーム』勤務を経て、昨年四月の異動で家庭学校に戻りました。現在、主に石上館の食事を担当しています。
四十七歳の時、友人宅の高機能体重計に体内年齢六十七歳と判定されてしまいました。順調に年を重ねているとしたら、今の私は、体内年齢八十二歳~八十八歳ということになります。
実年齢では、子どもの頃「物凄いお年寄り」だと感じていた六十代になりました。いざなってみるとなんてことは無く、いたって普通です。ただ、そう思っているのは自分だけで、周りには、特に子どもたちには、ちゃんと老人に見えていることでしょう。(ちゃんとした老人ではない。) そして、やはり不都合は泉の如く湧き出てくるわけで…。
人の名前が出てこなくなりました。ネットの検索に頼る事が多いのですが、たまに「あいうえお…」を思い浮かべて、頭文字を取っ掛かりに思い出そうとあがいてみたりします。が、「なにぬねの」や「まみむめも」を忘れ、結局五十音から思い出さなければならない羽目になります。レジで時間がかかります。特に某コンビニのセルフレジが苦手です。ペットボトルの蓋が開け辛くなりました。佃煮などの固く閉まった瓶は、子どもたちに開けて貰っています。
また、歩く速度が遅くなったと感じます。横断歩道を時間内に渡り切れないことが理解できるようになりました。以前、子どもたちが寮前でキャッチボールをしていた時、邪魔にならないよう急いで横切ると「走れるんだ⁉」と驚かれました。(本当は走れていない。どちらかの足は地面に着いていた。)
休日明けに「疲れは取れましたか?」と気にかけてくれた子がいます。そんなことが何回か繰り返されたので、そんなに疲れているように見えるのか尋ねたら、「見えますよ。…っていうか、疲れてるようにしか見えませんよ!」 実際、その時の私は疲れていたと思います。家庭学校での食事作りは6年ぶりで、四苦八苦していました。疲労を感じさせた事を申し訳なく思い乍らも、その気遣いにとても嬉しい気持ちになりました。
子どもたちは優しいです。食事に関して「あれは嫌い」「これは好き」と量の増減は激しく主張しますが、私の失敗には目をつぶってくれています。八か月程経った今、食事作りは未だ慣れませんが、四苦八苦状態には慣れました。大変さ以上に子どもたちの言動が面白く、また、石上館に係わる戸松恵子さん・西村由香さんに助けて頂きながら、今はとても楽しく仕事をしています。給食棟での働きも、有難いことに随分配慮して頂いています。
この先、私は経験値が上がる以上のスピードで、出来ない事が増えていくのでしょう。年々と言うよりも日に日に大きくなる欠けを、子どもたちや周りの人が埋めてくれていることに感謝と喜びを覚えます。また、中卒クラス講師の栄和子さんのことを思います。体内年齢はとっくに追い越しましたが、私の少し先を行かれる大先輩です。ほぼすべての行事に参加され、子どもたちの頑張りに声援を送り、泣いたり笑ったり。あの若々しさは真似できないけれど、年を重ねる事に関して大きな励ましを頂いています。このような環境で働ける事に感謝しつつ、与えられた時間を過ごしたいと願っています。