ひとむれ
このコーナーでは、家庭学校の月毎の機関誌である『ひとむれ』から一部を抜粋して掲載しています(毎月上旬頃更新予定です)。
職員が、家庭学校を通じて感じたことや伝えたいことを表しています。是非、ご感想をお聞かせください。
※都合により『ひとむれ』本誌と内容が異なる場合がございます。ご了承下さい。
新しき年に
中卒生と私
校長 加藤正男
新年明けましておめでとうございます。皆様からのご支援とご指導のお陰さまをもちまして、昨年も、生徒と職員ともども家庭学校における生活が成り立つことができました。新しい年に新しい気持ちをもって新たに進んでいきたいのです。
昨年は大震災・原発事故等厳しい年でありました。災害に遭われました東北・東関東地域の方々に、新しき年に希望の光が当てられますよう心からお祈りいたします。
12月3日、4日と雪がかなり降り、森は白く覆われました。5日は、留岡幸助先生の月命日の平和山登山の日です。朝6時に生徒・職員は本館に集合しましたが、前日からかなりの降雪があり、暗い朝、早くから寮長は、除雪用の車両を動かして道を確保するなどの除雪をしていました。雪は降り続けていたため、平和山登山を中止して、遥拝を行いました。その後、暗い中、生徒たちと職員は、各寮の除雪や、車庫前等車両の入らないところの除雪に汗を流しました。
その後も積雪があり、木々に雪の花を咲かせ、重たい雪に耐えかねて大きな枝が折れてしまうのもありますが、トドマツやドイツトーヒの常緑樹の枝葉の上には雪の布団がかぶったようです。12月の早い時期から根雪となっていきました。
8日、9日には、音楽室にて北海道児童自立支援施設研究協議会が行われました。大沼学園、向陽学院の先生方が来られました。北海道の3施設は学校教育導入を3年前に同時にスタートしました。
学校教育導入を通して、児童自立支援施設に望むもの、とのテーマで東洋大学の小林先生からご講演を頂きました。先生は、養護施設・教護院勤務の経験を踏まえて、児童への義務教育保障という立場から一般学校と同じような学科指導や生徒指導の展開がかなわない現場であることをしっかり認識する必要があると話されました。
児童自立支援施設内で学校教育(公教育)を実施している全国42施設の学校教員からアンケート調査をされています。
討議の中で分校教員と児童自立支援施設寮長・寮母との連携について、個々の児童に対して、施設退所後も寮長・寮母のみならず、分校担任の先生が、支援の手を差し伸べている事例などが紹介されました。
きめ細かく、一人ひとりの特性を理解した支援が、児童の発達保障・自立への道を切り開いていくのです。学校教育から離れざるを得なくなってしまった生徒たちが、児童自立支援施設の枠組みの中で成長していくことを再確認しました。
分校の課題の一つに、教職員の配置が4月1日現在の生徒数を元とすることにより、その後の入所者に対する教員の確保の困難さがあります。生徒の退所は3月の末が多くなります。家庭学校の平成22年度の4月1日の義務教育課程の生徒は14名であったのがその年の終わりには34名と増えていくのです。普通の学校とは異なるのです。一つの寮で新入生を受け入れることのできる生徒はひと月1名ぐらいです。一度に2名や3名の新入生をかかえての生活は破綻してしまいます。
12月23日は、生徒と職員で礼拝堂周辺の除雪をし、多くのお客様をお迎えしてクリスマスの礼拝が行われました。夕方は食堂にての晩餐会でした。
留岡幸助先生は、1899年、家庭学校を東京巣鴨村でスタートしました。6年後の1905年に「人道」という月刊の広報誌を出しました。(不二出版 人道復刻版第一号から)
第一号の表紙を飾った文章と社論についての文章です。
『家庭学校
目的
本校は不幸なる少年者をその父兄に代わりて、教養するものにて、不幸なる少年とは、感化教育の範囲内に入るべきもの、または、貧困にしていかんともなし能わざるものを教育するものなり。
方法
(1)生徒の教養は、もっぱら宗教、教育、家族制度等の理想によりて、実行するものなり。
(2)多年の経験は、まず少年者を収容する前に、これが教育感化の任にあたるべく教員を養成すべき必要を感ず。是においてか、本校は慈善事業師範部なるものを設け、この方面に多少の力を致せり。すでに本部を卒業して実際慈善事業に従事するもの、十有数名あり。・・・
社論
● 慈善事業の二大「活」
・・いかなる方法・手段によれば、慈善事業に「活」を入れることができるかと言うに、・・精神と仕事との二つを備えなくてならぬ・・精神はいかにして備えうるか・・卑見によれば、宗教によるより他はないと思う、その宗教はキリスト教もあれば、仏教もあり、儒教もあれば、神道もある。一概にどれに限ると言う事は出来ない。どれでも自ら是となりと信ずる所のものを採用して差し支えはない。要は真面目にこれを信ずるものである。信じてこれを実行するのである。・・・』
11月30日、午後4時ごろ、家庭裁判所の調査官の方々を案内して、礼拝堂から参道を下って、柏葉寮の生活様子を見るべくご案内しました。柏葉寮の玄関を開けたところ「お帰りなさい」と寮母さんの大きな声が聞こえました。
「お客さんを生徒と間違えてしまった」と寮母さんは私たちを迎えてくれました。その後、寮ホールで生徒たちの帰りを少し待っていましたが、次々と「ただいま」「おかえりなさい」の声が聞こえてきました。
生徒たちは本館の学習と作業を終え家族寮に戻ってくるのです。朝は「いってきます」「いってらっしゃい」と大きな声であいさつを交わします。普通の家庭での生活では普通のことなのでしょうが、さまざまな事情により、普通でない状況からこの家庭学校にきたのです。
留岡幸助先生が不幸な生徒たちを家族制度の中で育てると言う視点はまさに革命的であったのです。家族制度のなかで生徒とともに育った寮長・寮母さんのお子さんが、時々こちらに訪ねてこられたり、お手紙を寄せて来られます。自分の子どもたちのことより、生徒たちのことばかり面倒を見て、小さいときは反発したこともあったのでしょうが、親の後ろ姿に深く尊敬の念を抱かれております。
当時の社会は家父長制度で女性の地位は低く考えられていた時代です。女性を「教師」として採用すると言うことは男子施設では画期的なこととされるとともに、家庭の道徳的な中心的な存在は主婦にありと主張したのです。留岡幸助日記の中にも家の中の主人は妻なりと書かれています。
その夫婦小舎制の維持が難しくなってきています。
さまざまな事情でやめざるを得ないご夫婦が多いのです。
家庭学校も夫婦寮の減少から社会的養護の必要な生徒たちの引き受けがままならない状況にあります。
家庭学校は今年から掬泉寮が新たに改築され寮として使われます。居室のスペースが広がり、明かりとりのため、廊下の天井が高く、浴室も二つあり、個別での入浴が可能となりました。薪による風呂焚きは同じです。
その他の寮とは、あまりにも格差が生じてしまいました。何とか平成24年度には、昭和38年度建築の楽山寮を改築して生徒たちの生活環境を整えていきたいのです。楽山寮の改築後にはもう一つの寮を改築し、生徒同士の生活にも大きな格差が出ないようにしていきたいのです。
現在の生徒数38名、冬の帰省で34名が帰省しています。事情で帰れない生徒は、残留行事として、さまざまな日課を工夫して年末年始を過ごします。
現在各方面にお願いして寮長・寮母の募集を行っていますが、その確保ができないと、二十数名の生徒数しか受け入れることができなくなります。これでは、民間の施設としては経営が困難となってしまいます。
社会的養護の必要な生徒のために、そして、家庭的な雰囲気をもったなかで育ち直す場所としての家庭学校が輝いていくよう努力していきます。
工藤 誠
冬を楽しみにしなくなってから何年経つのか分からない。少なくとも小学生か中学生までは間違いなく冬が来るのを楽しみにしていた。冬が来ることと言うよりも雪が降ることを楽しみにしていたのだ。スキーに雪合戦、雪だるま作りなど冬にはいい思い出が多い。高校、大学、社会人と進むにつれ、北海道の季節を楽しむことを忘れてきたのだと思う。しかし、今年は違った。家庭学校の校門を過ぎると広がる純白の世界は幼い日の心を蘇らせ、心を温めてくれた。
今年の4月に家庭学校に赴任して、8ヶ月がたった。面接の時、「工藤先生には中卒クラスの授業を主に担当してもらいます。」と渡辺部長に言われ、「はい、わかりました。」と答えたものの、内心は「中卒って何だ?」「遠軽高校定時制に通っている子に授業するのか?」などで頭の中は一杯だった。詳しく話しを聞いてみると中卒クラスの多くの子は中学校を卒業したが進学も就職もしていない状態だという事だった。私は大半の子が受験したいのだと思い込み、受験指導をする気満々で初授業に臨んだのだった。
「この教室はドラマの現場か!?」というのが最初の印象だ。先生の話しは聞かない、落書きは所構わずにする、注意されても聞かないし、注意されると暴言を吐く。何度か注意すると無視。想像を遙かに超えた出会いだった。そして、私の初めての授業は始まった。私の初授業は理科だった。以前、塾の講師として理科を担当していたので授業にはある程度の自信を持っていたが、教壇に立ってみて愕然とした。「誰もこっちを見てくれない・・・。」まさに空気として扱われているようだった。
工藤「さぁ、今日は入試にもよく出る単元だからしっかり聞いてよ。」
生徒「・・・。」
工藤「ここ、ノートに書こう。」
生徒(友人とおしゃべり中)
ノート書く気ゼロ。
工藤「・・・。」
そんな中、他の先生にも反抗ばかりしていた生徒がノートを取り出した。私は、おっ!君がノートをとってくれるなんて!と思い、内心ほっとした。そんな私の心はその生徒の一言であっという間に打ち砕かれた。
生徒「俺、暇だから絵書くわ。」
工藤「・・・。お前らいい加減にしろ、言われた事やれ。ノートにいたずら書きすんな。」
その生徒からノートを取り上げようとすると一言。
生徒「お前、死ねや。」
工藤「!!!」
私は、何なんだここは!予想の10倍はきつい!!と思った。それからドラマのような毎日が始まった。教室に授業に行っても面と向かって「理科の先生代えてくれ。」「お前の授業なんて受ける気ねぇ。」「まじ、いなくなれや。」などなど胃が痛くなる毎日だった。
一人ではどうしようもなくなって他の職員にTTに入ってもらう事になった。他の先生がいる時は暴言や反抗は限りなく少なくなったが、私一人の時は動物園のようだった。これでは駄目だ。と思っていた時、渡辺部長とベテランの先生から助言を頂いた。「家庭学校の職員はなめられていけない訳ではない。子どもたちとの接点が無くなる事がいけない。」多分他にも色々教えて頂いたがこの言葉が衝撃的だった。この時から自分自身を少しずつ変えていこうと思った。まず、生徒の出来ない事を叱るより出来る事を褒めようと思った。また子どもも同じ場所に住む一人の人間としてお互いに認め合う事。実際に見方を変えると、中卒生との関係も次第に変わっていった。「こいつ嫌な所もあるけど、こんないい所もあるじゃん。」いい所を上げると、作業になると誰よりも頑張り、その作業がどんなに苦しくても弱音を吐かない生徒。説明は出来ない心の優しさを感じる生徒。掃除を誰よりも時間をかけて丁寧にする生徒。自習の課題を毎日欠かさずやって来る努力する事が出来る生徒など私自身に欠けているものを持っている子どもたちがたくさんいた。
次にバスケットボールを通して子どもたちと交流を図る事にした。最初は生徒から「お前も入るの?」というような視線で見られたが、毎朝、毎中休み一緒にバスケットをしていると、生徒から「一緒にやりましょう。」「体育館に行きましょう。」など次第に生徒とも打ち解けてきた。
これまで私は、塾講師、家庭教師、小学校の臨時採用など色々な子ども達と接してきたが、家庭学校の子どもたちは今まで関わってきた子どもたちより素直で成長できる可能性を秘めていると思う。遠軽の大地でよく働き・よく食べ・よく眠る事を実践し日々成長している子どもたちの隣で私自身もともに成長していきたい。