ひとむれ
このコーナーでは、家庭学校の月毎の機関誌である『ひとむれ』から一部を抜粋して掲載しています(毎月上旬頃更新予定です)。
職員が、家庭学校を通じて感じたことや伝えたいことを表しています。是非、ご感想をお聞かせください。
※都合により『ひとむれ』本誌と内容が異なる場合がございます。ご了承下さい。
力田而食
北海道家庭学校と少年院の百年
性問題行動は生活支援が基本
森の学校とテーブルの花
校長 軽部晴文
あれほど暑い暑いと言っていた夏がようやく過ぎたと思ったら、カラ松の葉が黄金色に輝く秋の季節も過ぎて、広葉樹の葉はもうすっかり落ちてしまい、遠軽は冬の季節を迎えました。
自然の移り変わりと並行して、家庭学校で暮らす生徒たちも作業班学習発表会という大きな節目を終え冬の生活へと移行しました。
発表会最終日の夕食のメニューは恒例のすき焼きです、収穫感謝祭メニューとして長く続いてきました。鍋を囲みながら一年間の作業を思い返したのではないでしょうか。二日間の作業班学習発表会については改めて特集号にまとめて皆様にお伝えします。
先日のことですが、二十年ほど前の卒業生が便りをくれました。彼は中学一年の夏休みに入所して、中学卒業までの二年半ほど一緒に暮らしました。
便りには、今の季節どんな作業をやっているか、自身が経験した行事は今もやっているのか、などの問いかけが多いのですが、食べ物に関する思い出も書かれています。こちらの地方ではカボチャをよく作ります。そのかぼちゃで作るカボチャ団子や、かぼちゃの蒸しパンはよく覚えていて、カボチャがあんなに美味しいものだと家庭学校に行って初めて知った事、今でもメニューにあるのか、いつか家庭学校に行ける日があればまた食べたいですと結ばれています。
三十年程前に家裁経由で入校したSという生徒がおりました、入校当初は眉毛が無く周囲の動きに厳しい視線を送っているそんな生徒でした。留岡幸助先生の月命日である五日の夕飯にはお汁粉が提供されます。少し多めに作りおかわり自由としていました。実はSは甘いものが好き、お汁粉がお代わり出来る事を知った途端、顔をくしゃくしゃにして喜び、おかわりをする姿が今でも思い出されます。あんなに険しい表情を見せていたのが、好きな食べ物を前に本来の表情が出ました、Sはそれがきっかけなのか寮に馴染み、私たちとの距離も一気に縮みました。Sは在校中から将来はトラック運転手になりたい、家庭学校を卒業後父親と同じ職場で土木作業員として稼いでその金で運転免許を取ることを決めていました。そしてその通りのコースを辿り、車も購入し片道四時間をかけて度々来校しました。六月の運動会には毎年のように顔を見せました、運動会は日曜日に開催されます、日曜日の夕飯はカレーライスと決まっておりSは自らカレー作りを買って出ては後輩と一緒に嬉しそうに食べて帰るのが常でした。Sに関するエピソードをもう一つ紹介させてください。ある時「結婚相手を連れていきたい」と連絡がありました、てっきり結婚相手だけを連れて来るのだと思っていましたら、彼女とその彼女の父親とを一緒に連れてきたのです。交際相手や奥さんになった人を連れてくる卒業生はその後もいましたが、結婚相手の父親を連れてきたのは彼だけです。結婚相手の父親に自分がかつて暮らした施設を紹介できる、その事が私にとって嬉しいものでした。
卒業生の来校といえば、来校に際しての忘れてならない物があります、コーラとポテトチップスです、後輩の寮生の分を持参することを忘れません、それは自分が在校していた時に遊びに来た先輩がそうしていたからだと言います。
年間を通して催される行事には食事を伴う行事も多く、毎月開催する誕生会はもちろんですが、花見の会、運動会、白滝済美館清掃、園遊会、クリスマス晩餐会、スキー教室などの度に女性職員総出で行事食作りに取り掛かります。しかもそのほとんどが手作りに拘ります。手作りに拘るといえば寮舎での朝食と夕食も寮母中心とした手作りであることはこれまでにも紹介してきた通りです。最近は食育という言葉が取り上げられ、食事の重要性が改めて注目されていますが、私たちのような施設では以前から食事への重要性が認識されていました、家庭学校においても入校前様々な理由から十分な養育環境で育てられなかった子ども達に、先ずお腹いっぱいに食べさせることが心掛けられてきました。私が勤め始めた昭和五十年代半ばにはまだ貧困世帯が多く、食事になると自分の食事を誰かに取られまいと手で隠すようにして食べる新入生がいて、家庭での様子が垣間見られました。石上館の藤田寮長は、カレーライスをお皿に山盛りに盛り付けました、柏葉寮の平本寮長は、生徒間の力関係が食べる量に影響が出ないよう盛り切りにしました。その当時からすでに四十年が経過していますから、流石に当時のように自分の食事を誰かから隠すようにして食べる姿は見られなくなりました。現在はコンビニなどの進出で手軽に食べ物を手にする事ができます、日本のどこにいても同じ食べ物を手にする事も出来ます、四十年前に比べたら驚くほどの進歩と言えます。
人生の一番多感な時期に親元を離れての生活、それだけに強烈な思い出としてここの生活が記憶に残るのだと思います。二十年三十年経っても家庭学校にいた当時の味を覚えている、この時期になるとカボチャ団子を食べたことを思い出すのは、ふるさとの味、母親の味に近い感覚があるからなのかもしれません。手軽に食べることのできるコンビニでは味わえない家庭学校の味は、自ら汗を流し苦労した末に味わった味であった事。自分のために精一杯工夫して作ってくれた味である事を覚えているからこそ、時々記憶の中に蘇るのだと思えます。
医療参事 富田拓
最近矯正協会から出版された、「少年院百年のあゆみとこれから」を読みました。少年院創設の頃から現在までの関係者の論文集的な本ですが、その最初の一文が、国立武蔵野学院の創立に関わり、その後浪速少年院の初代院長となった小川恂蔵の「思ひ出の記」でした。一九四二年、つまり第二次大戦中に書かれたものです。冒頭に小川が執筆の三十年ほど前、巣鴨にあった家庭学校に留岡幸助を訪ねたことが記されています。そこで、「留岡幸助翁が、世にも至難の事業と称せらるる少年感化学校を創設した」と小川は書いていますが、これは小川のみならず、社会の受け止めもそうだったのでしょう。この訪問が少年矯正の道へと進む決定的な出来事となったこと、幸助の息子で後に北海道家庭学校の第四代校長となった清男が当時紅顔の少年であったこと、などが書かれています。
小川は、国立武蔵野学院の立ち上げに従事した後、少年法によって創設された難波少年院の初代院長に任じられるのですが、その最初期の少年たちの指導の難しさについて、次のように語っています。「歪曲せる少年の性情を陶冶して(略)忠良の臣民たらしめんとするは、実に至難中の至難事に属し、一朝一夕のよくなすべきところにあらず、実に日に夜を継いで、積んでは崩し、積んでは崩す賽の河原の苦しみもかくやと思わるる幾多の試練を経て、しかもなお、われながらわが無力に泣き、わが無能に浩嘆を禁じ得ない日が多い」百年前のことながら、読んでいて胸の詰まる思いがしました。そして、自分が三十年以上児童自立支援施設に勤めていながら、小川のような覚悟も、苦労もまるでしてこなかったことに気づかされました。小川のような先人たちの苦労の上に、自分がなんと呑気に年月を重ねてきたことか。目の覚める思いでした。
「北海道家庭学校百年史」も、奈良女子大学二井教授ら関係者のご努力の末に、ついに出版されます。そこでは筆者も、創立以来の子どもたちの児童票の分析と、三十年以上にわたる退所生の予後調査について、書かせていただきました。どちらも貴重な資料に基づいたものですが、特に予後調査に関しては、寮長が退所生を直接訪ねた記録に基づいたものであること、三十年余りにわたって行われていたことなどから、日本において他に類例のないものと言えるでしょう。しかも、予後調査は単に全体としての予後の割合等を見るだけでなく、一人一人の子が、どのような特性や背景を持って家庭学校に入校し、また、退所後にどのような転帰となったかを関連付けて見ることができたのです。そこでは、退所生がその後少年院に入ったかどうかを基準として、その子の様々な特性との関わりについて分析を行いました。もちろん、家庭学校退所後に少年院に入院した一点をもって、その子の予後が悪かったと断じることは本来できません。少年院での経験を活かして、その後の人生を全うした人 が多いはずですが、ここではひとまず、それを基準として分析を行いました。
その結果わかったことは、一つには寮長たちのその子の将来に関する予測の正確さです。退所時にひとりひとりを寮長がさまざまな観点から五段階評価しているのですが、その五段階評価が、見事なまでに将来を予測しているのです。つまり、五をつけた子の予後が最も良く、その次が四をつけた子、その次が三、、、という形できれいに並んでいるのです。見事なものです。
また、犯罪学において、これまで非行と密接に関わるとされていた、被虐待経験や、家庭の貧困、最初の非行がより幼い時に始まっていること、施設経験の有無などが、予後に影響を与えていないことがわかりました。これは非常に重要な知見であり、入所児童の多くが抱えているこれら様々な不利を、家庭学校の教育によって補償することができている、そう考えられるのです。その一方で、暴力を伴う非行を犯している子は、そうでない子に比べると残念ながら予後が悪いことがわかりました。もちろん、そのような子でも、その多くは再非行をしていません。しかし、暴力を伴わない非行の子よりも、やはり予後が悪いのです。これは、これからの家庭学校の教育のあり方を考える上で、非常に重要な知見となります。北海道家庭学校の百年は、日本の少年非行の変遷と重なっています。この調査の詳細については、ぜひ、「北海道家庭学校一一〇年」を読んでいただきたいと思います。
実は、留岡清男が校長であった際に出された「教育農場五十年」では、その当時の嘱託医師であった奥田三郎が、調査時に十九歳未満の卒業生や退所後三年未満の卒業生は未だ予後が固まっていないという理由で除外した上で、卒業生一人一人に手紙を出して状況を尋ねるという今ではやろうとしてもできない圧巻の調査を行っています。また、小川は先の文の中で、少年の教育の成果は少なくとも十年経たなければわからないとして、「人よ、みだりに保護教育の難易を語るなかれ」と述べています。今回の調査は、資料として極めて貴重なものであることは間違いないのですが、今回の分析はこれら先達から見れば、いかにも浅薄なものに映るのかもしれません。しかし、それでもなお、退所生がどのような生活をしているかを訪ねることで明らかになった成果は豊かなものでした。このような追跡調査は、家庭学校ではしばらくの間中断していましたが、現軽部校長の下、再開されようとしています。一人一人の退所生自身の予後の改善のためにも、また、我々が家庭学校で日々行っていることの意味を確かめ、また今後に生かすためにも、重要な事であると考えます。関係各位のご協力をお願い申し上げます。
心理士・参事 姜京任
子供たちの様々な問題行動の中で性と関連した問題が毎年顕著になってきたので心理士として家庭学校での取り組みを紹介したいと思います。
①新入生のインテーク
家庭学校に入った主な理由と関係なく全ての児童に行っています。様々な境遇や経験を持つ子どもの集団生活というのは、性的被害や加害が起こりうる場所であることから、基本的なものが崩れる可能性は高いです。主にプライベートゾーンの話からお風呂でのマナー、集団生活での注意すべき行動などを説明します。紙芝居を利用して五分から十分以内に終わらせています。また、入所したばかりの子どもたちに心理士との顔合わせの時間としても有効に使わせて頂いています。
②性加害の子どもたちのための支援
性加害であることが確実な場合は、入所が決まった時点からプログラムの実施を考えますが、児童相談所の意見と寮長判断、生活の様子を合わせて入所一ヶ月後初回面接の結果と施設内のケース会議で確定します。毎年、性問題行動をした子どもは増えつつあるのが現状ですが、昨今は小学生の性的問題行動が増えています。家族間の性的問題行動、知り合いに対する性的逸脱行為、他人に対する迷惑行為等が主な内容です。
プログラムの基本は「回復の道のり」というテキストを基本にして行っています。しかし、発達の弱さをもっている子どもたちが多いので、子どもの能力に合わせてSSTやアンガーマネジメントなどを理解できるように心理士が資料を準備して実施しています。実施目的を事前に十分子どもに話しており、素直に受け入れる子が多いですが、拒否を示す子どもいます。拒否を示す子どもには寮担当に協力を求めて十分理解できるまで待つ時もあります。
面接を重ねるうちに性的な問題行動以前に子どもが抱えている欠如の部分が見えてくるケースが多いです。例えば、ストレスを溜めやすい子どもがいるとストレス解消の方法を教える心理教育をします。また、怒りのコントロールができない子どもが居ればアンガーマネジメントを実施します。表としての問題行動は性問題であっても、おかれた環境から受けたものや知的な低さから起きてしまった行動が性に繋がっているのです。子どもは自分がやってしまった過ちの問題の重さをよく知らないケースが多いです。従って、問題行動があった当時の家庭や学校、友人関係などを詳しく聞きます。遠回りする表現は使わないことにしています。遠慮することもしません。あった事実を素直に言える雰囲気を作っています。小学生は特に家庭での不適切な性の露出から起きた問題が多いです。子どもには再びこのような過ちを起こさせたくありません。素直に言えるように心理士との信頼関係の構築と、寮担当の協力が必要になります。
また、被害をうけた人に対するお詫びの気持ちを強調して説明しています。被害者が主に女性であることもあり、性の違いを勉強する時間も設けています。場合によっては絵本を利用してより分かりやすく、具体的に教えています。”知りませんでした”という答えを聞いて“やはり”と思う気持ちもありますが、被害者に対する気持ちが変わり、本当に申し訳なかったと告白できることが大事です。
③矯正機関のサポートを受ける
性に対する基本的な勉強が必要と思って保健所や分校の養護教諭からの保健教育、あるいは、地域で働いている助産師さんの話など色々な人たちを招いて年一回全体的に話しを聞く機会を作っています。
性教育は正しい知識を伝えることが大事です。不安定な家庭環境から得られたものはまさに誤学習と言えます。修正をいれないと将来健全な家庭を作るのに支障が出る可能性があります。これからも子どもたちの問題行動の裏にある心の悩みにどのように付き合えばいいのか工夫していくつもりです。
酪農部門主幹 蒦本広美
家庭学校は森の学校とも呼ばれています。敷地面積は四三九ヘクタール。その中に礼拝堂や本館、体育館をはじめ寮舎や職員住宅、牛舎が点在しており、マラソン大会が行えるほどの面積があるので普段は十分に広いと感じています。けれど数年前に導入されたドローンが上空から撮った写真や動画を見ると一面の緑、緑、緑。生活の場として使われているのはほんの一部で、大半が山や森だということがわかります。
ここ三年ほど私は給食棟のテーブルに花を飾るようになりました。食育の一環で、食事をおいしく楽しく食べるための環境を整えるのが目的です。四月から十月末までの約七ヶ月の間、週に二回、敷地内で咲いている花を選び飾ります。普通は花屋で買うか育てた花を飾るのでしょうが、私は道端に咲いている山野草や畑の野菜の花を多く選んでいます。普段なら目にしても記憶に残らない花でも、食事中に視界に入れば、これはなんていう花かな?とか変わった形の花だな、などと興味を持ってもらえそうですし、外にいる時に見かけたら、この花給食棟にあったなと思い出してもらえるかもしれないと考えるからです。
私は以前から植物に興味があったのでそれなりに名前は知っていたのですが、毎週花を探すようになって校内の植生の豊かさを実感しています。家庭学校には遠軽という地域柄、亜寒帯や高山の植物も普通に生えています。林の周りの道路沿いでは日当たりの違いや湿り具合で生える植物が違っていて面白いし、冬はスキー場で夏は牛を放牧している神社山にはニリンソウやオオバナノエンレイソウがあるだけでなく、スズランや石竹などの園芸品種まで勝手に生え広がっていたりします。校内には車で移動していると気づかない花がたくさん見つかります。その中から選ぶのですが、花によっては数時間しか咲かないツユクサやアサガオ、はびこるわりにつむとすぐしおれてしまうコンフリーなど花瓶に活けるには向かない花があります。群生している時は綺麗でも花が小さかったり茎が短かったり、緑っぽい地味な花も飾るには不向きです。 そして野の花は日持ちがしない傾向にあります。そのため三日くらいで取り替えるのですが、園芸品種だと一週間以上保つものも多く、また色も鮮やかで色々改良されているんだなあと思いました。
記録をつけていないので正確にはわかりませんが、今年はおよそ七十種類くらいの花を飾りました。そして花のほかにドングリやクリの実、ホオズキも飾りました。生徒よりも大人が興味を示していたのは意外でしたが、食堂に入ってきて置いてあるものを見ている人たちの反応を見るのは楽しかったです。季節感というなら花にこだわる必要はないので、来年はもうちょっと広く素材を探すのも良いなと思っています。
この緑あふれる環境が私には居心地が良くて、家庭学校に来てもう二十年以上が過ぎました。このような程よく手入れされる環境は植物だけでなく虫や鳥などの生き物の多様性も保つことができ、それはそこに住む私たちにも過ごしやすい場所になっていると思っています。