このコーナーでは、家庭学校の月毎の機関誌である『ひとむれ』から一部を抜粋して掲載しています(毎月上旬頃更新予定です)。
 職員が、家庭学校を通じて感じたことや伝えたいことを表しています。是非、ご感想をお聞かせください。
※都合により『ひとむれ』本誌と内容が異なる場合がございます。ご了承下さい。


2020年10月号

「感化事業に身を投じた校祖」

校長 清澤 満

 九月の連休が明けて遠軽は肌寒い日が続いています。週末の今日は更に冷え込み日中でも十三度前後の気温で、朝からの冷たい雨は明日の日曜も終日続くようです。来週三〇日からの研修旅行は秋の行楽日和となれば良いのですが・・・。

 九月二十四日の創立記念式では、校祖留岡幸助先生が感化事業に身を投じることとなった当時を振り返りながら子ども達に話しました。

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 今日は北海道家庭学校の創立記念日です。毎年この日は礼拝堂に集まって、創立記念式を行います。

 今日の記念式には、理事長の仁原先生をはじめとする理事、評議員の皆様、いつも家庭学校を応援してくださっている皆様、そして家庭学校元職員の甲田先生、荒木先生にも参列していただいています。お忙しい中、誠に有り難うございます。荒木先生には、後ほど、礼拝堂の改修完了を記念してピアノによる演奏会をお願いしております。

 さて、校祖の留岡幸助先生が北海道家庭学校を創立されたのは、一九一四年(大正三年)ですので、二〇二〇年の今年は創立百六年目を迎えたことになります。

 今日は、幸助先生が百年以上も前に何故少年たちのために家庭学校のような施設を創ろうと思われたのか、当時を振り返ってお話ししたいと思います。

 幸助先生は最初、東京の巣鴨というところに家庭学校を創りました。今から百二十一年前の一八九九年のことです。

 それより更に前の一八九一年に、牧師だった幸助先生は北海道集治監空知分監(今の三笠市にありました)で、教誨師の仕事を三年程されました。集治監というのは今の刑務所のことです。教誨師というのは刑務所に入っている受刑者に対して心を改めるように導く仕事をする人のことで、キリスト教や仏教などの宗教家の人がその仕事に就いていました。

 皆さんは十三日の運動会で「おやつの時間だよ」という競技をしましたね。その時、分校の佐藤修司先生が出した問題を覚えているかな。〇×クイズで「幸助先生がキリスト教の洗礼を受けたのは二十歳の時である」という問題でした。答は「×」でしたね。幸助先生は十八歳の時キリスト教の洗礼を受けて牧師となり、その後、教誨師をされたのです。

 では何故、幸助先生はキリスト教に関心を寄せることになったのでしょうか。幸助先生自身が書かれた物から、そのエピソードを紹介します。

 幸助先生が七、八歳の頃のことでした。町人の子として生まれた幸助少年は、今の小学校にあたる寺子屋というところに通って、本を読んだり算盤や習字を習っていたのですが、同じ寺子屋に通っていた士族の子(士(さむらい)の子)が、いつも町人の子ども達をバカにしたり罵ったりして威張っていました。そのことに反感を持っていた幸助少年は、ある日、その士族の子と激しいケンカをしてしまいました。

 ケンカの翌日になって、幸助少年の父は士族のお屋敷に呼び出され、士族の子の父に「町人の子の分際で士族の子を殴るとは何事だ」と怒鳴られました。さらに、家業の商売(お米屋さん)で士族の家に出入りしていた幸助少年の父に向かって「今後は出入り禁止だ」と言い渡しました。

 家に戻った幸助少年の父は、ケンカをした幸助少年を呼びつけて厳しく叱り折檻しました。叱られた幸助少年は、どうしても納得できません。ケンカしたことは悪いけれど、相手もケンカしたのだから悪いはずなのに、自分の父だけが相手の親に怒鳴られて、終いには出入りも禁止するとは、あまりに不公平なことだと、小さいながら感じたといいます。

 その後、幸助少年は一五、六歳になると中国の古くからの教え(四書五経)を学んで、世の中の平和を願うようになりました。そんなある日、西洋人の軍談講釈師の話を聞きに行こうと友達に誘われ行ってみると、それは講釈師ではなくキリスト教の宣教師で町の人たちに説教をしているところでした。

 幸助少年が暫く聞いているとその宣教師は「この宇宙には神様がいて、神様の前では、士族の魂も平民の魂も同じ価値を持っている」と話しました。世の中の不平等に強い疑問を抱いていた幸助少年はその言葉に至極感銘し、こういう教えがあるのなら自分はキリスト教を信じたいと考えたのだそうです。

 話は戻りますが、こうしてキリスト教の洗礼を受けて牧師となり、その後教誨師として受刑者に聖書を読んで聞かせたりしていた幸助先生は、受刑者から聞く身の上話などから多くの受刑者が少年時代に大変不幸な生活を送っていたことを知り、少年のための教育的な施設を作る必要があると考えたのです。アメリカに渡って、そのための勉強もしました。

 そして、最初に話したとおり、まず、東京に家庭学校を創りました。入所してくる少年達が自分の作った施設でしっかり教育を身に付けて、立ち直っていくことを実感した幸助先生は、この教育方法をもっと大規模にやってみたいと考えるようになりました。

 幸助先生は北に土地を求め、東京の家庭学校を創ってから十五年後の一九一四年に北海道分校と家庭学校農場(今の北海道家庭学校)を創ったのです。

 幸助先生はその当時のことを自身が編集責任者として発行していた「人道」という月刊誌に次のように書いています。大正三年四月号に掲載されているものです。難しい言葉が混じっていますが、読んでみます。

『自分は今回北海道北(きた)見(み)國(のくに)紋別郡上湧別村サナプチ原野に、一千町歩の土地を得て、いよいよこの四月より、多年の宿望たる感化農場を創設することとなった。これは自分にとって、非常な喜びであり、また愉快なことである。けれども今後幾年の久しきにして、果たしてこの計画が完全に成就するであろうか。自分の一生のうちにその成功をみることが出来ぬかもしれぬ。命(めい)は天にあり、成否の程は計られぬ。唯だ自分は渾身の力を揮って、前途の荊(けい)棘(きょく)を拓き、茲(ここ)に感化農場を経営すると共に、百(ひゃく)尺(しゃく)竿(かん)頭(とう)更に一歩を進めて、理想的新農村を作りたいと思う』

 この文書からは、幸助先生が北海道に分校と農場を作ろうと考えた計画をいよいよ実行に移すときがきたことに対する大きな喜びと期待が窺えます。一方で壮大な計画の成否に不安も覗かせています。一千町歩の土地は原野、原始林であり開拓が順調に進むかどうか、東京の家庭学校と同じ様な、あるいはそれ以上の成果を上げて成功を得ることが果たして出来るであろうかとの気持ちを抱かれていたのだと思います。それでも自分は持てる力を全て出し切って茨の道を切り開き、これまでの努力の上に更に努力を重ねこの計画を実行し、理想的な感化農場を作るのだという強い意志を表明されています。

 そして、それを実現するための先発隊がいよいよ北海道に渡ります。このことについても「人道」の大正三年六月号に「感化農場先発隊」と題して書かれていました。

 そこには、北海道の福田福松先生という農場主任から「感化農場は土地の買収も既に終わって家屋の建築も一部出来上がったので開墾に従事する人を至急送り込んで欲しい」と東京の本校に連絡があり、東京本校の農場主任だった鈴木良吉先生が助手一名と生徒二名とともに大正三年六月五日に上野を発って北海道に行くことになったと書かれています。今年の墓参に参加した人は、鈴木良吉先生の名前を覚えていると思います。

 先発隊の派遣により、いよいよ土地の本格的な開墾が進められ、そうした努力の結果、百六年後の現在ここにこうして北海道家庭学校が存在しているのです。

 北海道家庭学校のこれからの歴史を創り伝統を守っていくのは、生徒の皆さんと私達職員です。創立記念の日に当たり、私達はそのことをしっかりと心に刻みたいと思います。(創立記念式の講話より)

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 荒木美香先生が披露してくださった曲「Pretender」は今月開催した運動会の入場行進曲で大きく手を振り足並み揃えて歩く子ども達の姿が曲調に合わせて目に浮かぶ感動的なものでした。そしてジャズバージョンの「Happy birthday to you」「赤とんぼ」と続く先生のピアノが創立記念式に花を添えてくださり記憶に残る特別な創立記念の日となりました。

2020年10月号

家庭学校に帰ってきました

医療参事 富田 拓

様々な事情もあり、ご挨拶が大変遅れました。一昨年十月に家庭学校に帰ってきました精神科医師の富田と申します。どうぞよろしくお願い申し上げます。

私は、平成七年から十二年の五年間、家庭学校で勤務しておりました。谷昌恒先生、小田島好信先生が校長をしておられた時期です。

もともと私は大学院で犯罪精神医学を学んでおりました。妻が私と出会う前に福祉を学んでいて、家庭学校の掬泉寮で田中勉先生が寮長をなさっていた時期に実習をさせて頂いたことがあったのです。その実習の話を聞き、教護院(当時)という非行少年のための施設があることを知り、なんだか不思議な、信じられないような形態の施設があるものだと思っていました。ちょうどその頃、大学院の教室に国立武蔵野学院が精神科医を求めているという話が舞い込んできたものですから、手を挙げて、国立武蔵野学院で勤務することになりました。平成元年のことでした。

武蔵野学院で勤務しているとき、家庭学校で実習を受けさせていただけることになり、平本良之先生が寮長をなさっていた柏葉寮で一週間実習をさせて頂きました。平本先生は、子どもたちと共に家庭学校内の水道設備全体を作り上げられた方であり、また、「はくよう」という、親御さんや関係機関にあてた寮の子どもの様子を伝える寮独自の機関紙を、毎月欠かさずに発行、送付されるなど、とにかくなんでもできるすごい先生、という強烈な印象を受けました。また、谷先生と話をさせて頂く機会も得ましたが、その際、「こういう人の下で働いたら、おもしろいんだろうな」と思ったことを憶えています。ただ、当時は本当にそうなるとは全く思っていなかったのですが。

武蔵野学院での勤務のあと、大学院の教室の人事で、公衆衛生関係の施設に三年間勤務しました。実は三年後には武蔵野に戻してもらうことになっていたのですがそうはいかず、どうしようかと考えているとき、谷先生と話した時の印象が思い浮かび、連絡を取ったところ、勤務させていただけることになりました。平成七年四月のことでした。最初の職員会議の時に「あなたは医者として家庭学校に来たのか、それとも寮長になるつもりできたのか」と直球の質問を受け、「寮長になるつもりで来た」と答えたことを憶えています。

当時は、学校教育が導入されていなかったこともあり、寮長寮母以外の常勤の職員は校長と、事務所に三人、あとはフリーと呼んでいた職員が私も入れて三人いるだけでした。人が少ないこともあり、自分なりには一生懸命働いたつもりでしたが、なにしろ全く慣れない仕事ばかりで、さぞ「使えない奴」であったと思います。それでもみなさんから本当に暖かく接していただきました。印象的だったのは、寮長先生方がそれぞれ非常に個性的な方ばかりであったにもかかわらず、どの寮に行っても、他の寮の批判を聞くことが全くなかったことでした。こんな小さな村社会で、よくまあこれほど仲良く仕事ができるものだ、と感心していました。

また、私たち家族が与えられた住宅はかつて第四代校長の留岡清男先生が住んでいらしたところでしたが、ちょうど二十五年前の今頃、まだ秋口のうちに、窓枠に寒さ除けのビニールを張っていると、「いくらなんでも早すぎる」と笑われました。私は長崎の佐世保の出身なので、北海道の冬が怖くて仕方がなかったのです。札幌から来たお客様が「こちらは寒いんですよね」と言われるのを聞いた時には正直ゾッとしました。半ば本気で「生き延びられるのだろうか」と思いました。ただ、スキーができないと寮長にはなれないと聞いて、その冬から必死でロックバレースキー場に通っているうちに、そもそも運動音痴で運動嫌いの私がスキーだけは好きになり、二年目からは冬が楽しみになったのは自分でも意外でした。学校の体育も、勝ち負けでなく、体を動かすこと自体が楽しいんだ、ということを教えてくれればよかったのに、と思ったものでした。

家庭学校に来て三年目に、掬泉寮長を拝命しました。平和寮で軽部晴文先生が担当されていた子たちを引き継ぐ形での開寮でした。このような形の場合、当初がどうしても難しくなりがちだと思うのですが、軽部先生が驚くほどうまくやってくださったおかげで、スムーズにスタートが切れました。自分が頑張って寮長になるのではなく、まわりの先生方や子どもたちが自分を寮長にしてくれるのだ、と感じることができたのは本当に幸いでした。

寮を持って最初の夜の集まりの時に子どもたちに話したのは、「居心地のいい寮にしよう」ということでした。一人一人が好き勝手をしていたのでは居心地のいい寮にはならないよね、と付け加えました。カリスマ性のようなものは持ち合わせておらず、また、スポーツで引っ張っていく、といったことはできず、かといって作業などでも他の寮長のようにできるわけでもありませんでした。そのためある意味では初めから諦めていて、「私自身が子どもたちにできることなど大してありはしないから、とにかく、家庭学校の仕組みや文化に彼らを乗せてあげることさえできれば、彼らは自分で成長してくれるだろう」と考えることにしました。そう思えるだけの構造と文化が、家庭学校にはありました。

2020年10月号

児童の声

H・S・K

運動会の赤組リーダーを終えて

       石上館 中三 H(赤組リーダー)

 ぼくは、この運動会で赤組リーダーを任されました。

 最初は上手に周りの人達に、やさしく教えたりできるかと心配していましたが、最初のスローガン決めや、その理由などを決めたりする時に、周りのチームの人達や、副リーダーの二人や、先生方には、困った時などに、アドバイスや、案を出してくれたりしてくれたおかげで、軽い気持ちで、リーダーを務めることができました。それと、本番までの、約二週間での期間の練習の中でも、種目一つ一つでの、チーム分け、作戦を立てたりする中でも、すぐには決まらず、本番までに、間に合うかなと心配していたのですが、ある程度の種目は、自分達チーム内で決められたのですが、一番やっかいだったのが、紅白リレーでした。あらかじめ、五十メートル走のタイムの紙を、チームの人達に渡すさいに、ちょっとだけ言い合いになりかけたのですが、周りの先生方に、これまた、頼ることになってしまいました。結局その先生が出した案に賛成するしかありませんでした。それから、その一つ一つの種目ごとで、いざ外でやってみると、思っていた以上に息やコンビネーションが合わなかったんですが、例として「足なみそろえて」の時には、この種目は普通の小人数でやるのとちがって、チーム全体でやる種目なので、周りの人達と、息や、コンビネーションが合わないと、まず出来ない種目です。なので、この種目はある程度は、自分達で決めることができましたが、やっぱり、その作戦は、うまくいくっちゃいくのですが、より速く、失敗した時への対応にあせらず、慎重にするという点では、やはり、先生方のアドバイスなどをもらわない限り、いつまでも、決定や、解決の道につながりませんでした。

 ですが、ぼくはこの約二週間という期間の中で身につけたことは、自分の気持ちをゆうせんせず、周りの意見などを聞いたりと、他人の意見を聞いたり受けいれてあげるのも、一つのべんきょうなので、そういうことを、この赤組リーダーを務めて、感じたことや、今後に生かしていき、またこういう機会がもしあれば、役に立つかもしれないので、この役目は、けっこう貴重な体験になりました。この機会を通して、人前に出て話せるのも、たいせつということも学びました。


  二点差で負けてしまった運動会

       楽山寮 中二 S(白組リーダー)

 

 今年の運動会は晴れに恵まれ、僕が家庭学校に来て初めて外で行われました。 そんな晴れに恵まれた今年の運動会で、僕は白組になり、初めてチームのリーダーになりました。

 リーダーとなり、まず最初の仕事が白組の係決めや、スローガン決めなどの進行でした。その時僕は慣れない役で、とても緊張してどのように話を進めるとよいかなどと考えるうちに、言葉が出なくなってしまいました。でも、その時サブリーダーの子が色々とアドバイスをくれたりして、ちょっとずつ話が進みました。そして、応援旗作りの人が多数いて、どのように決めればよいか迷っている時も、いろんな先生が色々アドバイスしてくれたりして、投票で決めることになりうまくニ名を決めたりしました。スローガンを決める時は、意見のある人に発表してもらい、出て来た中から一番良いと思うものに手を挙げてもらったりして、その候補にあった「切磋琢磨」に一番多くの手が挙がり、白組のスローガンは「切磋琢磨」に決まりました。

 そしてついに、競技の練習が始まりました。「足なみそろえて」の練習は、最初の方は足にバンドをつけたりする準備にけっこう時間がかかったりして、練習の時間が少し短くなる時などありました。そして、だんだんと皆慣れてくるうちに速くなってきて、練習する時間が増えるにつれ、少しずつペースを上げて走ったりしました。本番前日の練習の時も、走ってみたけれどもバンドが外れたりして、なかなか進みませんでしたが、本番の時はバンドが外れることもなく、今までで一番スムーズに進めたりして、嬉しかったです。「玉入れ」では、練習の時に色々な作戦を立て色々なことをためしてみました。例えば、一人の人が声をかえて「せ~の」で皆一緒に入れたり、他にも皆自分なりのペースで入れていくなどさまざまな試行錯誤を重ねた結果、本番ではニ人が声かけとなり玉入れしました。そして白組は、今までの練習にはなかった、七十個超えの結果となり勝ちました。

 他にも、沢山の競技の練習をして、とうとう本番の日が来ました。本番では、白組リーダーとして、選手宣誓を言ったりするためとても緊張していました。ですが、大きな間違いがなかったのでよかったです。本番当日は、大勢のお客さんの前で、練習してきたことを発揮できたりして、とても思い出の残る運動会となりました。白組は、赤組にニ点の差で負けてしまいました。赤組がニ一一点。白組はニ〇九点という結果で負けてしまいましたが、練習の時より確実に良い競技が出来て楽しかったです。


マラソン大会を経て感じたこと

         掬泉寮 中卒 K

 僕は、春のマラソン大会で、中三以上の部で四位という結果で、もっと頑張ればランキング入りもできたと思い少し自分にたいしてくやしい思いをして、それで、リベンジとして今回いどんだマラソン大会で、三位をとれました。

 走り終わった時は、嬉しさよりも先に、つかれたと思う気持ちになりました。でも、時間がたつにつれて、うまくわからないけど、入賞したんだなと改めて実感しました。

 それで、今回入賞できたのは、最後まで全力をだしきること。つまり頑張ったからこそついてきた結果なのではないかと自分は思っています。今まで何をやっても、どこかで手をぬいて、全力でものごとにとりくんできていなかった自分が、このマラソン大会のようにこれからも色々なことに全力でとりくめるようになったのではないかと思い、そのことも入賞したことと同じく嬉しく思います。