このコーナーでは、家庭学校の月毎の機関誌である『ひとむれ』から一部を抜粋して掲載しています(毎月上旬頃更新予定です)。
 職員が、家庭学校を通じて感じたことや伝えたいことを表しています。是非、ご感想をお聞かせください。
※都合により『ひとむれ』本誌と内容が異なる場合がございます。ご了承下さい。


2018年10月号

「百四年目の創立記念日」

校長 仁原正幹

 秋晴れの九月二十四日、北海道家庭学校は全校生徒と役職員、さらにはお客様にも参加していただき、百四年目の創立記念日をお祝いしました。第一部は十一時から礼拝堂で、第二部は正午から給食棟で、皆で楽しく充実した時間を過ごすことができました。

 以下、礼拝堂での校長講話の概要を記させていただきます。

    ○

 北海道家庭学校百四年目の創立記念日のお話をします。皆さんの右側に掛かっている写真は、いつもお話ししている家庭学校を作った人、校祖ともいいますが、留岡幸助先生です。幸助先生がこの遠軽の地に、一九一四年(大正三年)に北海道家庭学校を創立されてから百四年目になります。北海道家庭学校には長い歴史と素晴らしい伝統があります。

 今日のこの創立記念のお祝いには、普段家庭学校で活動している生徒の皆さんと我々職員のほかに、いつも家庭学校のためにお力添えをいただいている多くの皆様にも参列していただいています。お忙しい中ご出席をいただきまして、誠に有り難うございます。

 今日は創立記念日なので少し歴史を振り返ってみたいと思います。校祖・留岡幸助先生が現在の北海道家庭学校を開設された当時のことを、ある資料を紹介しながらお話しするので、聞いてください。

 幸助先生は北海道家庭学校を開設してから十年後の一九二四年(大正十三年)に、『自然と児童の教養』という本を著されています。その本のことは、留岡清男先生、みんなの左側に写真が掲げられている方で、第四代の校長先生ですが、この留岡清男先生が家庭学校創立五十周年の節目の年に、この『教育農場五十年』という本を著され、その中に書かれています。清男先生の本の中から一部を抜粋して読んでみるので、聞いてください。

「『自然と児童の教養』は、家庭学校農場創立満十周年を記念して出版されたのであるが、彼が北海道の僻地遠軽村字社名淵に移住して、開墾の鍬を振った当時の模様が、如何に辛酸の多いものだったかということがうかがわれるのである。このような辛酸をなめてまで、なぜ教育農場を原始林の中に建設しなければならなかったかということについては、唯単に広大な土地を求めたというだけでなしに、教育の原理を、格別に、自然の中に求めてやまなかったからである。つまり、自然に対する郷愁の如きものが、生誕五十年を迎えた彼の脳裡に、愈々色濃くなったからである。」

(『教育農場五十年』から引用…以下同)

 幸助先生は五十歳のときに今の北海道家庭学校を開かれ、二十年後の七十歳でその生涯を終えられたのですが、君達のような児童・生徒の教育(感化教育)は、こうした豊かな自然環境の下で行われることが最も相応しいと考えられ、大自然を求めて、わざわざ東京から遠く離れた寒冷の地を北海道家庭学校の場所として選ばれたことが書かれています。

 それから、家庭学校の敷地内の地名や建物の名前は、そのほとんどが幸助先生が命名されたものです。「恵の谷」、「生命の泉」、「望の岡」、「平和山」といった具合に。そのことについて書かれた箇所があるので読んでみます。この部分は、清男先生の『教育農場五十年』の中に引用されている幸助先生の『自然と児童の教養』からの引用です。

「曽て人の住んだことのない森林地帯を開拓するのに非常に困るのは、山でも渓谷でも川でも何でも名称のないことだ。あの円い山とか、あの細い谷川とか、それあの川の近くだとか云っても、言葉の上では一向用事が弁ぜぬ。夫れ故に私が移住した地域内の山とか川とか丘とかには名を付けなくてはならぬ。原始林の開拓は其の着手に先立ち名を付けることが肝要だ。私が払下げを受けた社名淵第一農場の地域内には九つの大きな渓谷がある。」

 一番目が「誠の谷」、二番目が「感謝の谷」、三番目が「恵の谷」……というふうに順番に九つの谷があるんですね。さらに幸助先生の文を読んでみます。

「家庭学校農場は土地を開いて農産物を得るのが目的でない。寧ろ土地を開墾するのは或る事業を営むにつきての手段である。或る事業とは何であるか。教育である。その教育は処を得ない少青年を教育するのであるから、他の学校の遣り口とは大変相違してゐる。然し教育であるが故に校舎、家族舎、礼拝堂其他の屋舎を建築せねばならぬ。建築するには教育に適した土地を選ばねばならぬ。其れには三番目の谷が一番適はしかろうと思ふたので、之を名付けて恵の谷と呼んだのである。」

 今私達が生活しているこの場所が「恵の谷」と命名された場所なんですね。その「恵の谷」の中に、幸助先生は泉を発見しました。「掬泉寮」の前にある「生命の泉」のことです。その泉によって、この土地の開拓が進んだことが記されています。読んでみます。

「私がこの谷に移住した当時、一番苦心したのは飲料水であった。水がなくては屋舎を立てることが出来ない。……この清泉を発見するには並大抵の苦労ではなかった。」

 「掬泉寮」の名前の「掬泉」は「泉の水を掬う」という意味ですが、幸助先生はこの泉を発見して、この土地の開拓を一気に進めることができたので、その喜びを表すために「生命の泉」の真ん前に建てた寮の名前を「掬泉寮」と名付けたのだと思います。飲み水やお風呂の水などの生活用水や畑の水が使えることになったので、ここでの暮らしが成り立ったんですね。さらに読んでみます。

「この清泉から同じ谷を約五丁登ると、饅頭形の岡がある。まことに心地よき丘陵であるから、私は之を『望の岡』と名付けた。私がこの丘陵を斯く命名したのは外でもない。如何なる人でもこの丘上に立てば必ず望を持つことが出来るやうになると信じたからである。自然の感化は驚くべきものがある。かう云ふ考へから大正七年の夏、私はこの丘上に四、五百人を容れ得る礼拝堂を立てた。」

 礼拝堂が建つこの辺りの小さな丘が「望の岡」と名付けられ、その名前がとても良い名前なので、九年前に開設された分校の名前にも付けられたんですね。

 私達が毎月五日の校祖の月命日に登る山が「平和山」と名付けられた訳も、この資料の中に出てきます。読んでみます。

「礼拝堂の背後を約十丁も西にして奈良で云へば若草山や春日山に類似した女山がある。此の山は頂上は少しばかり林があって、あとは青草で蔽はれてゐる。如何にも柔順で平和らしい所から、私は之を平和山と命名した。……かやうな訳で私は有ると有らゆる場所に名を付けた。」

 それから、校祖がこの土地を開拓したときに驚いたことや、今に続く博物館を創ろうと思ったことも書かれています。

「……開闢以来此谷を私以外に着手したものはない、とかう断定的に極め込んだ。所が開墾の進むにつれて、谷間より土器・石器又は化石の類が夥しく出て来る。斯道の先輩の言ふ所によると是等の発掘物は三、四千年前のものならんと。私は天地創造以来この渓谷の開拓者は私が最初のもので、其月桂冠は私の頭上に落ちるものと考へたに、遠き昔原人が茲に住んで或る生活をなしたと云ふことを目撃して少なからず驚いた。……土器・石器や化石は我が教育部の主任品川義介君が蒐集に努めて居るが、数千点の珍物がある。これ等のことから土器や石器を土台として博物館を立てやうと私達は気張って居るのである。それ等を陳列する博物室丈は最早出来上った。今後幾年かを待たば恵の谷に理想とする博物館を建てることは敢て不可能ではあるまい。」

 現在の博物館は、四年前の創立百周年の時に、桂林寮を改装して創られていますが、その一番奥の部屋には、今読んだ所に出てくる石器などがたくさん展示されています。遠軽町白滝は黒曜石の世界的な産地なんですね。展示物の中には黒曜石でできた我が国最大級の鏃もありますから、創立記念日なので午後にでも各寮で見学してみたら良いと思います。

 今日は北海道家庭学校の長い歴史の中の最初の頃のこと、そのほんの一端に触れただけですが、大先輩の先生方や生徒たちの営々とした努力、頑張りによって、北海道家庭学校の歴史と伝統が作られ、いろいろなものが財産として伝わって、今日、私たちがここで勉強し、生活できていることを皆さんに知っていただきたいと思い、お話ししました。

 これからの家庭学校の歴史を作り、伝統を守っていくのは、今ここに居る私たち、生徒と先生方です。創立記念の日に当たり、そのことをしっかりと心に期したいと思います。

 今日は北海道家庭学校の歴史を振り返りながら、皆さん方一人ひとりが今一度自分を見つめ直してここで過ごす意味をしっかりと考える、そういう一日にしてほしいと思います。お話を終わります。

    ○

 さて、九月六日に発生した「平成三十年北海道胆振東部地震」につきましては、全国各地からお見舞いの電話やメールなどをいただき、恐縮するとともに大変有り難く心強く感じております。ほかにも心配されている方がおられるかもしれないので、ご報告させていただきます。

 同じ都道府県内とはいえ何しろ広い北海道です。家庭学校の所在するオホーツク管内遠軽町と震源地の胆振管内東部地域とは二八〇キロも離れており、当夜家庭学校では誰も地震に気付かなかったようです。ただ、北海道全域が大停電(ブラック・アウト)に見舞われたため、家庭学校も丸一昼夜停電となり、職員と子ども達が少し苦労したようです。

 と申しますのは、私自身は前日の夕方、北海道庁主催の「道立児童自立支援施設のあり方検討会議」に出席したため、その晩は札幌市北区の自宅に泊まり翌朝遠軽に戻るつもりでおりました。そのお陰で人生初の震度五強の揺れを体験し、些か肝を冷やしました。家中に物が散乱し、整理に酷い目に遭いましたが、建物の大きな損壊もなく、また、家人にケガもなく、不幸中の幸いでした。

 当日午後、高速道路の道央道の江別西インターから先が開通したので、遠軽に向かいクルマを走らせました。停電で札幌市内の一般道の信号機の多くが作動せず、大渋滞の中、大きな交差点を渡ったり右折したりするのに大変難儀をしましたが……。夕刻家庭学校に着いて直ぐに三つの寮を回ったところ、子ども達と職員がアイスキャンドル用の蝋燭を灯したり、懐中電灯の先にペットボトルを当てたりして、仄暗い中和やかに夕食を摂っていたので、安堵するとともに、「難有」で皆が一段と成長したことを実感しました。

 掬泉寮の藤原寮長などは、朝から街に出掛けて携行缶でガソリンを買ってきて、寮の外で発電機を作動させ、全校生徒分の洗濯機を回していました。

 家庭学校の場合、冷蔵庫の食材が痛んでも畑にはたくさんの野菜があり、牛乳は文字通り売るほどあるので(バルククーラーが作動せず、搾乳したミルクを出荷前に捨てざるを得ませんでしたが……)、停電がある程度続いても持ち堪えることができるようです。家庭学校は災害に強いことを再認識しました。皆さんどうかご安心ください。

2018年10月号

性的問題行動が見られる子どもへの支援

心理士 姜京任

 家庭学校の心理士として勤めてから今年で六年目になります。児童の問題行動の中で性と関連する問題が顕著になるにつれて様々な対応策が求められるようになりました。そこで施設心理士として取り組んでいる心理的アプローチについて基本的なことを報告したいと思います。

一 新入生のインテーク

 施設に来ることとなった理由を問わず出来るだけ早い段階で全児童に対してインテークを行っています。様々な境遇や体験を持つ子ども達の集団生活においては性的被害や加害の発生に常に留意する必要があり、ひとたびそれが起こると集団生活が一気に崩れていく虞があります。そのため、インテークワークでは、心理士はいつでも相談できる存在であることを伝えると共に、日常生活で使ってはいけない言葉等基本的なことに加え、プライベートゾーンを守ることの大切さやお風呂でのマナーなどについて説明します。紙芝居を利用して5分から10分以内に終わるので集中して聞いてくれます。子どもとの最初の出会いであり、良好な信頼関係を築く上で大切な時間となります。

二 性加害の子どもたちのための支援

 子どもの問題行動が性加害であることが確実な場合は入所が決まった時点でプログラムの実施を予定しますが、児童相談所の意見のほか、生活の様子などを寮長から聞き取った上で、施設内のケース会議で実施の可否・プログラムの内容を最終決定します。年々、性的問題行動のあった子どもの入所は増えてきており、今は入所児童の約半数を占めています。家族閒の性的問題、知り合いに対する性的逸脱行為、他人に対する迷惑行為などが主な内容です。

 プログラムは「回復の道のり」(ティモシー・J・カーン著 藤岡敦子監訳)というテキストを基にして行っています。プログラムを実施する目的を分かりやすく丁寧に説明することで、拒否を示す子どもは少なく、素直に受け入れてくれます。面接を重ねるうちに性的な問題行動以外に子どもが抱えている課題が見えてくるケースが多いです。例えば、ストレスを溜めやすい子どもにはストレス解消の方法を教える心理教育をします。また、怒りのコントロールが苦手な子どもがいればアンガーマネジメントを実施します。性治療プログラムのワークを大枠に据えて心理教育などを加えて行うイメージです。

自分のとった行動を説明するのは難しいことなので、問題行動があった当時の家庭や学校、友人関係などを少しずつ振り返ります。問題提示と進め方は子どもにより差はありますが、基本的に遠回りな表現は使わないことにしています。あった事実を素直に言える雰囲気を作ります。面接では結果的にやってしまった行動について確認しますが、なぜ、そのような行動をとってしまったのか分からないという答えが最初は多くみられます。言いたくない様子をみせることもありますが、時間をかけて関係性を作ることで話せるようになります。そして、素直に言えたことを評価し、その効果を説明します。子どもは再びこのような過ちを起こしたくないのです。

 もう一つ、被害を受けた人に対するお詫びの気持ちを持たなければならないことを強調して説明しています。被害者は主に女性や弱者であり、性の違いや日本の法律などを勉強する時間も設けています。出来るだけ絵本を利用するなどしてより分かり易く、より具体的に教えることを常に意識しています。「知りませんでした」という答えを聞いて「やはり」という気持ちにもなりますが、被害者がどんな思いをしたのかを理解し、心からお詫びの告白ができるまで待ちます。ここは待つことが大事です。

三 矯正機関のサポート

 年一回、全児童を対象に網走刑務所の教育専門官による性教育を受けています。個別面接とは違った集団教育というアプローチでの専門機関からの教育は子ども達にとって刺激になります。また、職員にとっても専門的な知識を得られる良い機会となっています。

四 終わりに

 家庭学校と望の岡分校が協働して行う生活や学習、作業などの支援を受けながら、これまでとは違って安心できる居場所だと感じられて初めて、子ども達は自分の過去を振り返り課題と向き合うことが出来るのだと思います。

性の問題も特別に扱うものではなく、安心できる環境を保障する中で、心理面接を実施しながら日常生活の中での気付きを促していくのが良いと考えています。今後とも関係する職員と連携・協力して取り組んで行くつもりです。

2018年10月号

被災日記

掬泉寮寮長 藤原浩

 平成三十年九月六日明け方の三時半頃に、非常灯のまぶしさで目が覚めました。家庭学校に来てからこれまで強風や大雨で何度か停電を経験しましたので、またどこか漏電しているのではないかと思い、至福の二度寝を楽しもうとした時に、退所生から一通のラインメールが届きました。 

「先生地震大丈夫でしたか?」

 慌ててスマホのニュースをチェックすると、安平町で震度6強の地震があったとの記事があり、これにより全道域に揺れが及び、オホーツク・宗谷地域も震度3の揺れがあったようです。遠軽に来て五年目で、地震の揺れは一度も感じたことがなく、まさかの震度3もまったく感じませんでした。そこで、厚真町の発電所が地震の影響で稼働停止により停電になったことも初めて分かりました。七年前の東日本大震災の時に、大学院生の私は岩手の盛岡にいました。津波の被害はなかったですが、三日間の断水・停電による、大学の避難所生活がよみがえりました。大学には自家発電があり、みんなが持っている食材を持ち寄って教職員・学生が協力して三日間の避難生活を送っていました。今回はそこまでにはならないのではないかと思いながら、当時の被災経験を生かすことができたらと思いました。

 六時過ぎに五名の児童生徒を起こし、避難訓練型式で今回の地震の事実を子どもたちに伝え、どの子も寝ぼけた顔でしたが真剣に話を聞いていました。中にはテンションが上がって普段よりもさらに落ち着かない子もいました。地震経験が少ない子どもたちで、そういう形で不安の気持ちを表現しているのではないかとも考えられます。その不安を取り除くためには、できるだけ普段通りの日課生活を維持することが大事だと思いました。現状、停電しているために、電気が点かない、電化製品が使えないことに留まっています。ならば、最低限の電力があれば解決に至ります。そこで、以前向陽寮に置いてあった、行事の時にしか使用していないガソリン発電機を引き上げたことを思い出しました。朝作業の時に子どもと一緒に発電機を運び、設置し、少なくとも洗濯機を回すことができました。次は食事です。ガスが通っているためそれも問題にはなりません。普段にはなかなか味わえない土鍋で炊いた熱々のご飯をいただいて、いざ登校です。ラジオ体操はタブレットで音楽を流し、その後それぞれの生徒は教室へ移動。これも、長年望の岡分校の教職員のご協力とご理解をいただいて、教員が通勤できれば休校はしません。感謝の限りです。

 停電でパソコンが使えない教務室では、災害トークが盛り上がっていました。普段よりもテンションが高くなる先生もいて、これも災害に対する不安でしょう。通常時も通信環境の悪い家庭学校の敷地の中は、さらに携帯電話の電波が悪くなることもなく、さほど影響はないくらいでした。事務室には停電時にでも使用できる電話機が二台あり、これで児童の保護者への安否確認・無事の報告ができました。現状はどうなっているのか、いつ電気の復旧ができるのかといった情報は入らず、すべて推測と想像に任せることになっており、一部断水の噂話も広がりました。学校内に「生命の泉」という水源地があり、水の心配はそれほどありませんでした。そして、家庭学校の寮舎の風呂は薪焚きで、停電しても風呂には入れると思いきや、バルブを開けたらまさかの水が流れない事態発生。その原因は停電により水をくみ上げるポンプが作動しないため、お風呂は沸かせても風呂釜に水が入れられないことに気づきました。そこでまた知恵を働かせ、発電機を使って石油給湯器を点火させ、洗面所からお湯を汲んで生徒一同協力してバケツリレー方式でお風呂を張りました。昼の作業でかいた汗を風呂で流しながら、災害は日中三十度を超える夏場に発生していたことを幸いに思いました。その後に他寮の洗濯物を集めて、朝と同じように発電機を使って洗濯機を回しました。こういう時こその助け合いが大事であることを実感し、生徒に伝えられるといいと思いました。

 夕食は炊き立てで熱々の食事をいただき、燃料が入手困難な状況の中で、節約のために早々に発電機を止め、ろうそくの明かりで寮内を照らしていました。普段はそれぞれ居室で過ごす生徒たちも、この時は全員食堂に集まり会話が弾んでいました。また、テレビも見られない、漫画も読めない暗い中で、普段は気にもしない満天の星の夜空も全員で楽しむことができました。たまには悪くないなとも思いました。

 最後にここで、家庭学校は無事であることを全国の方々に報告するとともに、本稿を書く九月八日現在、地震による北海道の被災地はもとより、先日の大型台風による被害で、停電・断水が続いている地域が、一刻も早く復旧できるよう心よりお祈り致します。

2018年10月号

〈児童の声〉

石上館 中三H・掬泉寮 中三S・楽山寮 中二U・石上館 小六H

「合氣道との出会い」

石上館 中三 H
 

 僕は最初、合氣道のことは一切知りませんでした。家庭学校に合氣道というクラブがあり興味がありやり始めました。五月からクラブ活動で毎週土曜日やらせていただいています。練習の中で手を力だけで上げようとすると上がらず、へそをうでの方に向けると上がったのでびっくりしました。クラブでは六級に向けて練習を繰り返して少しずつ身についていっています。

 前に合氣道の道場に初めて行きました。みたことのない技やすごい上手な受け身があったりと自分にはできなそうなものが多くありました。けいこの中では前にやっていたなと思うようなものもあり復習することができました。それを終えて今は初心者ですがやっていくにつれ上達できたらいいなと思います。教えてもらった先生方は優しく教えていただき分かりやすかったです。ありがとうございました。 

「研修旅行」

掬泉寮 中三 S

 三日間の研修旅行から帰ってきました。本当に楽しく過ごせました。一日目は植松電機で体験、見学をしました。所長の植松さんの話はすごく良い話で自分に良い意味で自信を持てる話でした。ロケットを打ち上げたときもうれしかったです。その後リンゴを好き放題食べられて幸せでした。二日目は科学館に行きました。いろいろな体験道具があって楽しかったけど、遠心力を体験する道具で酔いました。その後の超低温実験では、実験自体もそうでしたが、学者みたいな人の河端先生みたいなノリもおもしろかったです。ホテルのプールでも窪田先生たちもハッスルしていて楽しかったです。三日目に見た青い池は目がくぎづけになるくらいきれいでした。最後に行った鍾乳洞は子ども心をくすぐられて、ノリが変でした。

 三日間の中でいろんな体験をさせてもらいました。そして自分の反省点もいくつか見つけられました。そういうのもふくめてこれからの生活に役立てたいと思います。中学最後の研修旅行で良い思い出を作れました。

 

「研修旅行での成長」

楽山寮 中二 U

 僕は今回研修旅行に行って学んだ事が主に三つあります。まず一つ目は一日目に行った植松電機に行ったときに植松努さんが話していた事です。僕達は植松電機の方では、小さいロケットを飛ばしたりしました。その中で努さんが話していた事は僕の人生と重なる所がありました。努さんは小さい頃、先生や親などから「お前には無理だ」とか「あきらめろ」とか言われてきました。ですが、努さんは自分の選んだ道に突き進みまわりとの違いも気にせず頑張っていました。そしてそれは僕の課題である「まわりに流される」という事から逃げずに考えるきっかけとなりました。だから僕は努さんのようにまわりを気にせず、前向きに生きていきたいです。

 二つ目はこの研修旅行にさまざまな場面で気づいた事です。それは勉強の仕方についてです。まず一日目にりんご狩りをした時の話です。僕はりんご狩りをした後先生と話をしていてそこの農家さんは促成栽培をしている事が分かりました。もう一つ例を出すとすると、三日目の青い池に行った時の話でした。青い池はとてもきれいだったのですが僕は生き物があまり住んでいないことから、何か生き物の住めない成分が入っているのではないかと予想しました。この二つの例から言える事は「生活をしている中で勉強している事があり、それは忘れない」ということです。僕は今まで、机で問題を解く事だけが勉強だと思っていました。ですからそうではなく生活の中でも大事な事を覚えられるし、それは机に向かってやる勉強よりもはるかに忘れずらいのです。だから僕はこれから生活の中でもまた新しい発見を見つけていきたいです。

 三つ目は三日目の話です。朝食の時にみんなが僕の誕生日を祝ってくれました。僕はすごくうれしかったです。だからこの感謝の気持ちを忘れずにこれから生活したいです。

「研修旅行に行って」

石上館 小六 H
 

 

 ぼくは九月二十六日から二十八日まで二泊三日の研修に行きました。まず一日目は、出発式をしてからバスに乗って植松電機赤平工場にむかいました。そして、ついたら植松電機さんの社長さんのお話しがありました。その中でいいなぁと思った言葉をしょうかいします。「思いは招く」です。意味は、メモをし忘れたのでわかりません。ですけど自分の考えだと、思いはいつかみんなにとどくという意味だと僕は思います。そして、モデルロケットを打ち上げるのにモデルロケットを作りました。作り方はとてもかんたんです。ただたんに組み立てれば完成です。そのあと、火薬を入れてABCDEFGの中のAの火薬を使いました。Aはこの中でとても飛ぶ力が小さいやつです。そして十五時十五分に深川に果物狩りに行きました。リンゴ一つ食べて、みやげにリンゴ三つをもってかえりました。そして、ネイパル深川につきました。そのあと夕食を食べて、スポーツクライミングをしました。二回位のぼりました。一回目はこわかったけど、二回目はとてもたのしかったです。そして就寝。

 二日目、最初に旭川科学館サイパルでふでばこをかいました。で、旭川ラーメン村で昼食を食べて、いろいろして就寝。 三日目、最初に旭山動物園にいってシャーペンをかってかえってこの二泊三日がおわりました。 

 僕は、いろいろと勉強になったことがあります。それは、「思いは招く」です。