留岡幸助と家庭学校の理念

 このページでは、本校の創設者である留岡幸助、及び、家庭学校の理念と願いについて紹介します。

留岡幸助

 留岡幸助は、1864年(元治1)年現在の岡山県高梁市に生まれ、留岡金助の養子となり、やがて勘当されながらも17歳でキリスト教の洗礼を受けました。同志社英学校(現在の同志社大学)神学科で学んで牧師となり、1891(明治24)年北海道の空知集治監の教誨師(きょうかいし)となりました。そこで感化教育の必要性を強く感じ、監獄学研究のため渡米しました。その成果を具現化するべく、1899年(明治32)年東京巣鴨に家庭学校を創設し、その後1914(㍽3)年には、50歳にして北海道家庭学校を設立しました。

 この働きのかたわら、内務省の嘱託として、地方改良事業についても積極的な提言を行い、国内でも重要な役割を果たしました。 さらに、多くの著書とともに、1905(明治38)年から病に倒れる1932(昭和7)年まで、家庭学校の機関誌『人道』を発行し続け、社会事業の啓蒙にも多大な功績を残しました。

小舎夫婦制

 北海道家庭学校では、一つ一つの寮に夫婦の職員が住み込み、生徒たちは、職員夫婦と共に一つ屋根の下で生活をします。寮母さんと朝晩、語らいながら炊事をしたり、寮長先生と寮毎の畑や除雪の作業を協働したりすることで、生徒たちは責任を果たすことの大切さ・厳しさと、その喜びを学びます。夫婦制の小寮舎は、本校の教育の根幹というべきものです。昼夜をおかず少年たちに心を配る夫婦の職員の姿が、大きく少年を変えるのです。

このような「小舎夫婦制」を採用する児童自立支援施設は全国的には減少していますが、北海道家庭学校ではその良さを守っていきたいと考えています。

自然の感化力

 北海道家庭学校は自然を何よりも大切にして来ました。自然と人間が調和して、自然はいよいよ美しく、人間は優しく謙虚なのです。自然と人間が敵対すれば、自然はたちまち荒廃し、人間は退廃するのです。

三能主義

 本校は三能主義を訴えて来ました。「よく働き、よく食べ、よく眠る。」それは不健康な生活では不可能なことです。健康な生活をしよう、留岡先生は最も平明な形で、日常の生活の基本を定められました。

流汗悟道

「流汗悟道」人間は汗を流して、初めて何かが分かってくるのです。多くの人々の世話になっていること、助けを受けていること等々、自ら汗を流して体験しなければ、何も分からないのです。怠惰では人の心やその活動を理解できないのです。私たちは多年にわたって、さまざまな生産活動に努力してきました。年若い少年諸君と共に、熱心に勤労の生活を続けて来ました。少年の心を養いたいと願ってきました。

難有

 本校の礼拝堂の正面には「難有」という額がかけられてあります。  難儀があるということです。これは、ありがとうと読みます。難儀があることによって、それを私たち、職員と生徒が乗り越えようとします。私たち自身が強くなる。特に難儀を経験することに寄って、人の気持ちが分かるようになります。苦難も何も知らない人はだめだと言っているのです。苦しみの何もない楽な人生なんていうものは、いいことでもなんでもない。ありがとうということの本当の意味はなんでしょうか。ありがとうということは難儀が有るということを、留岡幸助先生はいつも私たちに言い、そして、私たちの努力と奮起を期待しました。

ペスタロッチは遺著とも言える「白鳥の歌」の中で、生活が陶冶するという信条を述べました。留岡幸助先生は強い共感を覚えられました。私たちは、この森の中にどっしりと生活の根を下ろし、少年たちを預かり、全ての生活を共有して、その教育をすすめたいと願ってきました。

(谷昌恒 『北海道家庭学校八十年記念誌』巻頭言から一部転載)