ひとむれ

  このコーナーでは、家庭学校の月毎の機関誌である『ひとむれ』から一部を抜粋して掲載しています(毎月上旬頃更新予定です)。   職員が、家庭学校を通じて感じたことや伝えたいことを表しています。是非、ご感想をお聞かせください。

※都合により『ひとむれ』本誌と内容が異なる場合がございます。ご了承下さい。
2019年06月号

「暗渠の精神」

校長 仁原正幹

 五月に入って季節が一気に進みました。家庭学校の森に桜やコブシやエンレイソウが咲き、ウグイスの初音が聞こえ、エゾハルゼミもけたたましく鳴き始めました。陽射しも強くなり、いよいよ本格的な春到来で、暖房や冬服ともしばしのお別れかな……と思った途端、今日(五月二十六日)などは気温が午前中から三十度を超え、午後には三十八度にまで達しました。記録的な暑さのようです。

 毎年この時期は屋外での作業が本格化するとともに、六月中旬開催の運動会に向けて練習や環境整備などで忙しくなるので、子ども達が気温の急変、乱高下に順応できるよう十分な配慮が必要となります。北国オホーツクでは季節が逆戻りして低温注意報が出て、寒さに震える運動会になることも間々あるのです。

 今、日曜礼拝の中での校長講話を終え、礼拝堂から本館の校長室に戻ってきてこの原稿を書いています。五月の校長講話のテーマは「暗(あん)渠(きよ)の精神」としました。半世紀前に第四代校長の留岡清男先生が提唱された北海道家庭学校の精神的支柱となる言葉です。ここ数年校長講話の中での定番にしている話なので、去年聞いた子どもも五人ほどいたはずです。

 このところ校長杯の球技大会や花見の会、春季マラソン大会などの行事が続きましたが、その際に自らが想い描いていたとおりの活躍ができずに不満が溜まって、調子を崩したり、寮対抗戦の敗因を他の寮生のせいにして責めたり、暴言を吐いたり、物に当たったり、拗ねて引き籠もったりというお決まりの問題行動が散見されていました。物事が上(う)手(ま)くいけば自分の手柄で、上手くいかないと人のせいにするということはよくあることで、特に家庭学校の発展途上の子ども達にはよく見られる行動パターンです。でも、それでは社会に出て通用しません。目立ちたい、褒められたい、格好つけたいというのも世の常で、家庭学校の生徒ばかりでなく誰もが思い願うことでしょうが、人間として真の意味で大切なこと、尊いこと、本当の格好良さとはそんなものではないということを生徒全員にわかってもらいたくて、今年もまた清男先生のお力を拝借して家庭学校の佳き伝統を語って聞かせることにしたのです。

 両面コピーした一枚モノの資料を皆に配付して説明しました。裏面は『暗渠排水について』というタイトルで土壌改良工事の仕組みを図や写真で解説したものを載せました。表(おもて)面はかつて卒業生に贈るために作った『暗渠の精神』という写真入りのメッセージです。ここでは表(おもて)面の『暗渠の精神』から文章のみを引用して掲載させていただくことにします。

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『暗渠の精神』

  (平成27年度卒業生へのメッセージ)

 皆さんは「暗渠」という言葉を知っていますか。灌(かん)漑(がい)・排水などのために地下に設けた溝のことをいいます。「暗渠」は人目につくことなく、湿地の地下にあって、水を抜き、作物の成長を助ける働きをします。

 家庭学校一帯の土地は多量の粘土を含む、非常に粘性の強い重粘土質という土壌です。水はけが悪く、作物の生育には適さない土地でした。そこで、私たちの先輩の先生方と生徒達が力を合わせて、広い敷地内に無数の暗渠を作りました。重機もない時代だったので、来る日も来る日も先生と生徒で固い地盤をスコップやツルハシで掘り起こしたそうで、一日に数メートル進むのにも苦労したことがあったそうです。こうした苦労のお陰で、現在、家庭学校の広い敷地内には野菜や花や牧草が豊かに育ち、実るようになっています。

 家庭学校第四代校長の留岡清男先生の『教育農場五十年』という本の中に「暗渠精神」という、北海道家庭学校の精神的支柱について書かれている文章があるので、卒業の記念に贈ります。家庭学校を巣立ってからも、時々この文章を読み返してください。世のため人のために役立つ働きを地道に続けながら、誇りを持って清々しい人生を歩んでください。 ****************

「暗渠精神」

  一面にひろがってみえる畑の底に、土管が四方八方に埋められている。(略) 暗渠は、地の底にかくれて埋められています。表面から、眼でみることはできません。しかし、地の底にかくれている暗渠があるために、地上に播かれた種子が、腐ることなく、芽を吹き出し、花を咲かせ、実をみのらせることができるのです。人の眼には、新芽の青さが見えます。花の美しさが見えます。豊かな実りが見えます。しかし、そういったものは、みんな、地の底に埋もれている暗渠のお陰だということを、見抜く人は極めて稀であります。

 私たちは、新芽も、花も、実も、惜しみなく人さまに差上げたらいいと思います。所詮私たちは、静かに、黙々として、地の底にかくれて、新芽を吹き出させ、花を咲かせ、実をみのらせることができさえすればよろしいのであって、それが暗渠というものの効用であり、誇りだと思うのであります。

 (留岡清男『教育農場五十年』より)

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 ここからの残り七行は月末の三十一日に記述しています。予想通りの展開で昨日から気温が下がり、今、ストーブのスイッチを入れようか迷っています。六月十六日の運動会がオホーツクブルーの快晴の空の下で、子ども達全員がのびのびと力を発揮できることを願っています。

2019年06月号

誇らしき緑の山

副校長 清澤満

 豊かな自然に恵まれた本校には、平和山を中心に四百二十五㌶に及ぶ広大な敷地があり、その南東の緩やかな斜面に寮舎や本館、給食棟や牛舎などが点在しています。その空間も含め敷地の殆どが樹木に覆われた山林であり眺めは壮観です。校門から続く三百間道路、望の岡にある礼拝堂から本館や各寮舎、牛舎周辺の辺りまでを風致林として、それ以外を自然林と人工林からなる経済林として管理してきました。礼拝堂や平和山周辺には、これまで家庭学校に多大な支援をしてくださった方々の名を刻んだ十数か所の記念林が鳥瞰図に印されています。

 「ひとむれ」などの記録を辿ってみると戦時下には良木の拠出などで山は荒れ果てていたようです。戦後の復興は営林局や森林組合の指導を頂きながら一九五〇年代になって本格化します。

 昭和二十九年(一九五四年)の本誌第一三九号には、当時山林部担当の平本良之先生が「今、家庭学校には約百町歩近い造林を必要とする山があります。私達は日夜禿山を無くすることに又近頃方々に起こる山火事より山林を守り、山火事の起こらぬようにし、緑の山を育てるために最大の努力と注意をはらっています」と書かれています。百町歩ということですから敷地の約四分の一が荒れた禿山になっていたものと思われます。

 また、同年十二月発行の本誌勤労感謝第一四七号には、九月の台風十五号(風台風として知られる「洞爺丸台風」です。)によって大事に育ててきた落葉松八百本をはじめ楢などに大規模な倒木被害を受け「言う迄もなく骨身をけずられる様に残念至極です」と書かれています。蔬菜であれ、園芸であれ、家庭学校の作業はどれも自然の猛威の前に無力ですが、殊、山林に関しては数十年の単位で計画的に造林していくので、台風により一瞬にしてなぎ倒された樹木を前に、職員も生徒達も呆然とする姿が目に浮かびます。

 私達が今この地から多くの恵みを得られているのは、再興のため立ち上がってくれた諸先輩と生徒達の日々の努力があったからです。私達も努力を惜しむことなく緑の山を守り、次の時代に引き継いでいきたいと思います。

 昨年四月、家庭学校に着任した時、そのスケールの大きさに驚きながら、緑の木々の中に立って鼻から沢山の空気を吸ってみたのを思い出します。そしてこの一年、巡り合わせなのか私の業務は木に関するものが多かったように思います。

 最初に担当したのは、五月のサクラ苗木の植樹でした。既にニトリ北海道応援基金の助成を受けて植樹することは決まっており、校門から礼拝堂に伸びる三百間道路の両脇に百七十本の苗木を植樹する予定でした。しかし、道路脇への植樹は冬期間の除雪で押し倒されてしまう懸念があったので、植樹の場所を再検討することになりました。その結果、強風などで倒木被害が頻発していた「国沢林」のトドマツを皆伐し、そこにサクラを植樹することにしました。子ども達と集まっていただいたボランティアの皆さんが一緒になって植樹し、毎年春にはエゾヤマザクラが咲き誇る「国沢林」に生まれ変わることになったのです。

 「展示林」に関してもいろんな動きがありました。二〇二〇年のオリンピック開催地が東京に決定したのは二〇一三年九月。それより二か月早い七月に発行された雑誌「スポーツゴジラ」に「家庭学校の展示林」と「東京代々木公園の樹木見本林」のことが紹介されました。記事は、一九六四年の東京オリンピックの際に各国選手団が自国の代表的な樹木の種子を持ち寄りこの二つの場所にはその種子から育った樹木がしっかり根を下ろして立派に育っているというもの。取材に応じたのは元家庭学校職員のご子息でスポーツ写真家として国際的に活躍されている岸本健氏でした。同氏は二〇一六年九月に発表した「えんがある箸」という記事の中でも家庭学校の「展示林」について書かれ、それを目にした遠軽町の関係者がオリンピック由来の「展示林」の存在を知ることとなり、遠軽町主宰の展示林活用検討会議が設置されたのです。

 検討会議では遠軽で育った貴重な森を「オリンピック緑の遺産(レガシー)」として後世に引き継いでいくため、様々な取組が展開されています。日本オリンピックミュージアムに展示林の材が活用されたり、そのミュージアムのウエルカムボードに飾る五輪オブジェの製作に、家庭学校の子ども達も参加できたりと嬉しいことが続きました。平成三十年度北海道社会貢献賞(森を守り緑に親しむ功労者)に家庭学校が選ばれたのも、展示林を初めとする森の緑を大切にしてきた取組が評価されたものと思います。

 オリンピックで注目が集まった「展示林」ですが、平本先生から山林部を引き継がれた加藤正志先生が、オリンピック樹種を頂く二年前から比較栽培などを目的に展示林を作っていたのです。

 昭和四十一年の本誌収穫感謝特集第二八七号に次のとおり記録されています。

「今年度着手した展示林は、シベリヤカラ松、オオシュウアカ松、パンクシャの三種類を植え、明春はもう十数種を植える予定で、場所も礼拝堂の裏でありますし、よい展示林を作るつもりでいます。」

 また、翌四十二年の本誌収穫感謝特集第二九九号には、次のように記されています。

「昨年から植えている展示林には、林業指導所の東辻先生の指導で、次の表の十種類の松を揃えることが出来ました。今後比較栽培を続け、広く関心のある方々に見ていただきたいと思っています。来年は更に数種類を増やし、この他に肥料施肥試験、モデル間伐林などを作るようにしたいと考えています。

展示林の樹種

    一区は一〇アール 三〇〇本

一区 シベリヤカラ松  シベリヤ

二  オーシュウアカ松 デンマーク

            フィンランド

三  バンクス     カナダ

            北アメリカ

四  ストロープ    フィンランド

五  アカエゾ松      日本

六  ドイツトーヒ   ドイツ

            ポーランド

七  トド松      日本

八  カラ松      日本

九  レジーザ     カナダ

            北アメリカ

十  リキダ      北東アメリカ            カナダ  」

 そして、一九六四年の東京オリンピックの際の展示林について、昭和四十三年六月の本誌第三〇五号本編に『展示林樹苗を受く』として、さらに、サナプチ日記には五月一日に樹種十種類を北海道林業試験場から頂いてきたことが記録されていたのです。

 二〇一七年九月に家庭学校の子ども達の手によって「展示林」から採取されたオリンピック由来の種子が昨年五月に遠軽町の佐々木産業(株)所有の圃場に播かれました。オリンピックが開催される来年にはその種子から育った幼木が再び家庭学校の展示林に植樹される予定です。

 今回の執筆にあたり、山林について調べていると、二〇〇三年八月に当時の小田島好信校長が山林の歴史について加藤正志先生にインタビューした記録が残っていました。私は加藤先生にお目にかかったことはありませんが、今は亡き先生の優しさや、仕事に対する情熱や信念といったものを感じさせる内容でした。先生が語られたことの一部をここに紹介させていただきます。

「今でも家庭学校に来たらいいなと思うんですけど、この緑の中っていうのは空気が違うんですよ。柔らかく包んでくれるんです。そういうふうにね、気持ちが和らぐとお互いに友達同士も仲良く和気あいあいと生活ができるんですね。そういうことを留岡先生が今から百年近くも前に考えられたんですね」

「それからね、山の自然の中での教育ということからすると、自然には偽りがないんです。人間は嘘も言うしだましもしますが、木を植えて手入れをしてやれば確実に大きくなります。植えておけば必ず自分の後輩が、あるいは子孫がその木を使ってくれるんですよ。そういう仕事に対する喜びが生まれるんですよ」

 今の家庭学校には山を詳しく知る者がいません。緑の山を守っていくため、前副校長で理事の軽部晴文先生や山林顧問、森林組合の皆様の力をお借りして、境界線や記念林の現況について確認を進めたいと考えています。

 五月三十日、全校作業で千本のカラマツを植樹しました。令和最初の植樹です。

2019年06月号

石上館の寮母、家庭支援専門相談員として

主幹・石上館寮母 楠美和

家庭学校の寮舎運営は本来、小舎夫婦制です。現在、2ヶ寮は夫婦職員が担当していますが、石上館は夫婦職員がいないため、独身の寮長と私、寮長の休日などに楠部長が受け持っています。関わる職員が多くなると子どもの支援に支障があることも考え、特定の大人との間での愛着関係を形成するために3人で運営しています。指導の一貫性を欠くことなく、指導・援助の偏りを防ぐために情報の共有、支援方法の確認を日々行っています。

石上館はこの3年間に寮長が3度交代しました、子どもたちに不安や動揺があったことは否めませんが、窪田寮長、子ども達と私の生活がはじまりました。

先日、寮長とB君との些細な出来事がありました。B君は他児の手前、引くに引けず寮長がいくら諭しても言葉尻をとらえてヒートアップしています。私と二人きりになり話をすると気持ちが治まらず「誰もわかってくれない、児童相談所に行く」と半泣きの状態です。B君の思いを聞いてから寮長がどんな考えで注意したのか、日頃、B君のことをどんなふうに思っているかを話しました。その後、B君は落ち着いて寮長と話をすることができました。時間が経って落ち着いたということもありますが、寮長から信頼されている、自分のことを思ってくれているということをB君も理解してくれたようです。夫婦で寮運営をしていた時も寮長の思いを伝えるということは行っていたことですが、妻である私が夫である寮長のことを話すより、他人である私が寮長のことを子どもに話す方が有効な時もあると感じました。このように試行錯誤しながら、子どもたちが安心して生活し、成長できる場を提供していければと思っています。

年度末の3月には石上館からなんとか1名の卒業生を送り出しました。この子は家庭の状況から児童養護施設への措置変更となり、そこから高校に通うこととなりました。家庭学校全体でも児童養護施設等への措置変更の児童が5名、家庭復帰は1名のみでした。

家庭学校では、原則としてアフターケアは1ヶ月、3ヶ月、6ヶ月、1年を目処に連絡を入れ生活状況を確認し支援します。早速、寮舎担当者が本人に会いに行って励ましたり、措置変更した児童養護施設へ話を聞きに行ったりしています。寮担当者が密に連絡を取ってくれているので家庭支援専門相談員としての私の出番はほとんどありません。寮担当者が子どもたちと連絡をとりやすい関係を構築してくれているのがうれしいです。

石上館の卒業生にも連絡すると施設の生活にも慣れ、高校の勉強も問題なく部活動にも参加していると元気な声を聞かせてくれました。これからも定期的に連絡をとり、状況によっては本人に会って話を聞いて励ましたり、保護者の方の話を聞いて助言したりしていきます。

4月に児童養護施設からの措置変更で入所してきた児童がいました。児童票とともに前施設での様子を分かりやすくまとめた書類が施設から引き継がれました。その書類は今後、指導する中で参考になるものなのですぐに職員に周知し、支援計画にも反映させていただきました。家庭学校でも措置変更する児童が多いので、このような措置変更引継書の作成を検討したいと思います。

子ども達はそれぞれ家庭学校を退所、中学を卒業はしましたが、課題や不安を多く抱えています。施設の職員、学校の先生、関係機関の方々の支えを必要としています。お手数をおかけすることがあると思いますが、引き続きご支援していただければ有り難いです。

2019年06月号

森に帰ってきました

望の岡分校長(遠軽町立東小学校長) 里見貴史

 4年ぶりに家庭学校の森に帰ってきました。平成24年度途中から、平成26年度一杯までの2年4ケ月間、望の岡分校教頭として勤め、この度縁あって、東小学校望の岡分校長として、再度、家庭学校の子どもたちと関わらせて頂くことになりました。

 4月早々に着任の挨拶に伺った折、教務室を見渡すと、当然ですが、当時の子どもの名前はなく、家庭学校の職員も分校の教職員も、半数近くが入れ替わっていました。

また、人だけではなく、本館そのものの空気に違和感があり、どこかよそよそしいものを感じました。

その後も、始業式や朗読会、誕生会、校長杯の応援をさせて頂きましたが、その違和感は付きまとい、向かう度に、少しずつ家庭学校が、望の岡分校が、遠ざかって行くような不思議な感覚がありました。

そんな折、東小学校望の岡分校に、新入生のA君が入ってきました。

 A君が来てから一週間後の午後、そろそろ家庭学校での生活にも慣れてきた頃だろうと思い、家庭学校に行きました。

 すると丁度、これから作業班という時で、神谷教頭先生も、A君がいる園芸班のお手伝いをするということでした。そこで、私も一時間ですが、久しぶりに作業に加わることにしました。

「初めまして、東小学校望の岡分校の校長先生です。」

班ごとの点呼が終わり、A君と向き合い、そう自己紹介をしたのですが、彼はチラリと私を見上げただけで、藤久先生の所へ走り行ってしまいました。

 速足で進む園芸班の皆さんの後ろをついていくと、柏葉寮への曲がり口で、A君が一人しゃがみ込みました。駆け寄り、近くで様子を見ていると、爪を立て、地べたに埋まった小石をほじくり出そうとしているのです。

「そんなことをしたら、指が痛くなるよ。」そう、声を掛けたのですが、完全に無視です。しかも、ほじくり出した小石をポイと私の方に向け投げ捨てる始末。更に声を掛けようしたのですが、その空気を察したのか、A君はサッと立ち上がり、また先へ走り出しました。

 「これは、なかなか手ごわいかも…」そう思いながら、必死についていくと、次は掬泉寮前の花壇脇でしゃがみ込み、また小石をほじくっているではありませんか。

 今度は一度呼吸を整えて、ゆっくりと近づき、彼の横に私もしゃがみました。

すると彼は「これも違うなぁ。」と言い、手にした小石をポトリと落とし、それから、ずっと握りしめていた左手を開き、私に見せてくれました。

 それは、小さな小さな二個の黒曜石でした。

「ああ…、いい子だ」そう感じました。

 それから、ハウスの中で、花の苗をポットへ植え替える作業をしたのですが、彼の気まぐれや思い付きに翻弄されながら、他愛のない会話を楽しみながら、あっという間に一時間が過ぎました。

一人、ハウスから外に出て、少し歩きだした時、「さようなら。」と、A君の元気いっぱいの声が聞こえました。

 本館への道々では、新緑の森に、シジュウカラやゴジュウカラ、セキレイのさえずりが響き、エンレイソウやエンゴサク、小リンゴの花が咲いていました。

私の方が、遠ざかろうとしていたのかも知れません。

改めて、森に帰ってきました。どうぞよろしくお願いいたします。