このコーナーでは、家庭学校の月毎の機関誌である『ひとむれ』から一部を抜粋して掲載しています(毎月上旬頃更新予定です)。
 職員が、家庭学校を通じて感じたことや伝えたいことを表しています。是非、ご感想をお聞かせください。
※都合により『ひとむれ』本誌と内容が異なる場合がございます。ご了承下さい。


2018年05月号

「『国沢林』皆伐」

校長 仁原正幹

 家庭学校の校門を入って本館まで続くメインストリートは八百メートルほどの長く緩やかな坂道です。その中程に鳥瞰図を描いた大きな案内板があり、そこを左折すると左前方に給食棟があります。給食棟を含むその一画は「国沢林」と呼ばれ、戦前の「財団法人家庭学校」の理事長だった国沢新兵衛を記念して造成された林です。

 国沢新兵衛という人は、校祖即ち初代校長・理事長だった留岡幸助と同年の元治元年(一八六四年)生まれの人で、帝国大学の工学科を卒業した後各地の鉄道会社で鉄道技師として勤務した工学博士のようです。大正八年(一九一九年)には満鉄総裁、翌大正九年(一九二〇年)には衆議院議員にもなった歴史上の人物で、盟友の留岡幸助とともに国鉄の石北本線の敷設にも多大な貢献があったと伝えられています。家庭学校の理事長に就任したのは、留岡幸助没後五年を経過した昭和十四年(一九三九年)のことです。第三代の今井新太郎校長の時代でした。

 「国沢林」について、本法人の評議員の佐藤京子・元博物館長に調べていただいたところ、昭和二年(一九二七年)にまずカラマツが植樹されており、昭和十九年(一九四四年)にはそのカラマツを伐採して新たにトドマツが植えられた経過があることがわかりました。このときのトドマツが成長して大木の林となったものが昨今我々が目にしてきた「国沢林」のようです。

 この「国沢林」のトドマツ林ですが、実は近年は強風で大木が倒れる被害が続出しており、頭を悩ませておりました。元来この一帯は重粘土質の土壌のために樹木が根を深くはわせることができないようなのです。それに加えて七十余年の歳月を経て枝振りの良い大木に成長したことから風をまともに受けるようになり、少し強風が吹くと根元からバッタリ倒れてしまう事態になったようなのです。倒れた木の根を見るとお煎餅のように薄っぺらく円盤状に広がっています。トドマツが強風で倒れるときに電線を切ったり、路を塞いでしまう被害が頻発していました。万一そこをクルマが走っていたり、子ども達が歩いていたりして下敷きにでもなったら一大事です。危険回避が喫緊の課題となっていました。

 そこで、この際思い切って整理して処分してしまおうと考えました。地元の造林会社の協力を得て、四月の十九、二十日の二日間で「国沢林」を皆伐し、その一画を大きな広場にしました。給食棟の横が広々として実に壮観です。

 さて、そうなると歴史と伝統の「国沢林」はなくなってしまったのか。ご安心ください、新しく生まれ変わる予定です。

 実は地元遠軽町内の支援者のご協力により、桜の苗木を二百五十本ほど寄贈していただくことになり、それを五月十二日に家庭学校の子ども達や職員とともに大勢のボランティアの皆さんで敷地内に一斉に植樹をしていただく手筈になっているのです。「国沢林」の広場にはその内の百五十本ほどをまとめて植えるつもりで、今度は桜並木の「国沢林」として生まれ変わり、将来の「花見の会」の会場にできたらと考えています。

 以前にも巻頭言でお伝えしましたが、現在老朽化した給食棟を全面改築する計画を進めており、いよいよ今年度から実行に移したいと考えています。毎日全校生徒と職員と教員が一堂に会して昼食を摂る場所であり、また、毎月の誕生会や大勢のお客様をお招きする創立記念日の昼食会、クリスマス晩餐会などの会場ともなる給食棟は家庭学校にとって大変大事な場所です。新しい建物にはテラスや大きな窓を備え、そこから「国沢林」の桜並木と神社山の放牧地にのんびりと草を食(は)む牛たちを眺めながらゆったりとした時間を過ごすことができるオアシスのような給食棟にしたいと考えています。

 家庭学校の敷地は門の周りに塀も柵もなく、いつでも誰でも出入り自由にしてあります。礼拝堂や博物館などを見物に来られる方もおられますし、特に今の季節は山菜採りや野の花・高山植物の観察、バードウォッチングなどの目的で来られる方も少なくありません。北海道家庭学校の百四年の歴史は地域の開拓の歴史とも重なり、校祖留岡幸助をはじめとした多くの先達の地域貢献により、お陰様で家庭学校は地域の皆さんから愛され、誇りとされる存在となっています。

 平成二十八年には北海道家庭学校の広大で豊かな森が北海道から「北の里山」としての指定を受け、登録されています。

市街地から近く、アクセスも良好な北海道家庭学校の深く豊かな森をもっともっと多くの方に楽しんでいただきたい、気軽に触れていただきたい、身近な学びの場にしていただきたいと、私たちは念願しています。地元のボランティア団体などとの協働による地域に根ざした息の長い里山づくりを目指してきたところで、今回の桜の植樹はその一環であり、「北の里山」を具現化するものです。

 さて、昨年から始めたドローンの飛行実験ですが、空撮映像を北海道家庭学校の公式ウェブサイト「家庭学校にようこそ」にたくさんアップしていますので、是非一度スマホやパソコンで覗いてみてください。生徒と先生がアリか豆粒のように見える植林の全校作業風景や礼拝堂を真上から見下ろす迫力のある動画、東京ドーム九十個分にも相当する広大で豊かな森の四季折々の風景を、大きな広がりを持って観ることができます。

 再生の森・北海道家庭学校の里山に、皆さん、是非遊びにいらしてください。

2018年05月号

転機と感じて転職す

副校長 清澤満

 四月から軽部副校長の後任として働いております。皆さん、どうぞよろしくお願いします。私は、児童相談所での勤務を最後に北海道を退職後、札幌にある障がい者の地域生活支援事業所で専ら相談支援の仕事をしていました。勤めて一年後、所属法人が北海道から地域生活定着支援センター(略して「定着支援センター」と呼んでいます)の運営を受託し、私はその仕事も兼務することになりました。実は、この仕事に就いたことが転職を考えるきっかけとなったのです。

 少し長くなりますが、はじめに定着支援センターのことを説明しておきましょう。定着支援センターは各都道府県に一か所ずつ(北海道は札幌と釧路の二か所)設置されており、罪を犯した障がい者や高齢者が刑務所を出所後、再び罪を犯すことなく生活できるよう、住むところや福祉的就労の場の確保など、必要な福祉サービスに繋げていく、いわゆる司法と福祉の橋渡しをする機関です。この事業は平成二十一年度に始まったのですが、こうした仕組みを国(厚労省)が事業化することとなった大きな出来事が二つありました。

 一つは、JR下関駅放火事件です。平成十八年一月に発生したこの事件は、当時七十四歳で知的障がいのある前科十犯の男性によるもので、福岡刑務所を出所して僅か八日目で起こした事件でした。男性は身寄りも住む家も無かったため、万引きをして留置所に入ろうとしたり、福祉事務所で生活保護の相談もしましたがそれも叶わず、福祉事務所から渡された一枚の切符を頼りに下関に向かったのです。駅内で寒さをしのいでいたところ、営業終了により鉄道警察から退去するように言われ、その日の居場所も失いました。男性は放火の動機を「行く場所が無く刑務所に戻りたかったから」と述べたといいます。求刑は懲役十八年でしたが、裁判長は「被告人は軽度知的障がいでかつ高齢でありながら出所後格別の支援を受けることなく社会に適応できないまま犯行に至ったことについては酌むべき事情」と出所後の支援の有無に触れ、懲役十年の判決を言い渡しました。

 もう一つは、元衆議院議員の山本譲司氏が国会議員時代に起こした秘書給与詐取事件です。平成十三年、一年六月の実刑判決を受け黒羽刑務所に服役した山本氏は、刑務所の中には、懲役作業をすることが難しい障がい者や高齢者が数多くおり、しかもそうした人達は何度も服役を繰り返していると自身の「獄窓記」に記しました。「俺さ、これまでの人生の中で刑務所が一番暮らしやすかったと思ってんだ。こんな恵まれた生活は生まれて以来初めてだよ」。受刑者のこんな会話を紹介しながら、刑務所が福祉の網から漏れた人達の最後の受け皿となっている実態を明らかにしました。その後の山本氏による厚労省や法務省への働き掛けが国を動かすことになったのです。

 定着支援センターは、矯正施設を出所後、帰住先が無く、福祉サービスを利用することが適当と思われる障がい者や高齢者について保護観察所からの調整依頼を受け、出所までの期間、本人との面接を重ね、出所後の生活について話し合います。犯罪自体は決して許されることではありません。しかし、この人達の多くは、いつしか家族に見放され、社会からも取り残されてしまった人達です。相談に乗ってくれたり、助けてくれる人は周りにおらず、生きづらさを抱えたまま、やむを得ず反社会的な行動を取ってきたことは容易に想像できます。万引きや無銭飲食は、生きる術だったのだろうと思うのです。保護観察所から提供される生育歴をみると、明らかに必要と思われるのに福祉や教育の支援が届いていなかったり、児童相談所が関わり、施設などの利用があるのにその後の支援が途切れていたりと、本人達の今を思うと心が痛みます。

 子ども達が将来、定着支援センターの支援を受けることなど、決してあってはいけません。非行などで生活に躓いたり、生きづらさを抱えている子ども達をしっかりと支え、次のステップに確実に繋いでいく。それを私たちは担っていかなければなりません。

 管理職当番の夜、本州の方から電話を頂きました。三十年以上も前に家庭学校にお世話になったと話すその人は、当時の寮長など何人かの名前を出して懐かしんでおられました。少しお酒が入っていたようですが、何十年経っても家庭学校のことを思い出してくれる卒業生が全国にいることを嬉しく感じました。また或る日、妻が遠軽のお店で「この町は何が有名ですか」と訊ねると「瞰望岩と家庭学校ですね」との答えがすぐに返ってきたようです。町民から親しまれ、多くの卒業生を送り出している家庭学校の名に恥じないよう、皆で協力しながら、子ども達の生きる力を伸ばしていきましょう。妻は札幌に戻り、またしばらく単身生活が続きそうです。

2018年05月号

『非行問題』を読んで

(酪農担当)主幹 蒦本賢治

 全国児童自立支援施設協議会発行の冊子『非行問題第224号』の263頁に掲載された『徳島学院における食育支援について』(徳島県立徳島学院・給食委員会)を興味深く拝読しました。そこで、私の感想などを記させていただきます。

一 新たに理解したこと

徳島学院では食育を意図した様々な興味深い取り組みを行なっていることを知りました。また、食に関する取り 組みとして、北海道家庭学校では当たり前に行っていることが、他施設ではいろいろと困難なこともあるというこ とも改めて認識しました。

二 興味関心を持ったこと

 家庭学校にはない食に関する興味深 い取り組みとして、次の二点のことがありました。

 ① 粗食の日の取り組み

 月に一回、質素な食事をとることで食べ物に対する有り難みを実感する体験のようです。家庭学校でも校祖・留岡幸助の月命日に当たる毎月五日の平和山記念碑参拝登山をした日の夕食は、「お茶漬けとお汁粉」という現代においては若干質素なメニューとなっていますが、これとはまた意味が違うように思います。この「お茶漬けとお汁粉」については、校祖の好物だったからという説や、当時としては甘いものが贅沢品だったからという説など諸説あり、実際のところ真偽のほどは不明です。とにかく八十年余り続いている家庭学校の伝統で、意外と今の子ども達にも好評のようです。

 粗食の日の取り組みについては、特に家庭学校で取り入れる必要は感じませんが、面白い取り組みだと思いました。

 ② 保護者面会時の親子寮炊事の取り組み

 面会に訪れた保護者と児童が一緒に炊事をするという取り組みで、家庭復帰を想定しての保護者との関係改善を意図したもののようです。家庭学校では、保護者の面会については遠距離など物理的な制約もあって難しいのですが、参考になる取り組みだと感じました。

三 今後の業務に活かしたいこと

 レポートの冒頭で「教育は胃袋から」という文言が教護院の先人の言葉として紹介されていました。多分これは北海道家庭学校第四代校長の留岡清男先生の著作からの引用でしょう。

 家庭学校では、子ども達と職員による畑作りや牛の世話、寮炊事などを当然のこととして作業に組み入れています。一方、他の施設では物理的、人的、文化的側面などの制約から、これらの作業に十分に関わることが難しいため に、状況に応じた意図的な食育活動を工夫をこらして展開しているように思いました。家庭学校では意識せずに食に関する教育的支援を行うことができていると感じました。

 しかし、家庭学校でも、時代や環境の変化に応じて体制の変容を迫られることが間々あります。給食棟での昼食 調理に際しては、常勤の栄養士の下ではありますが、現在はパートタイマーの調理員を主体に業務が行われています。以前はこのことに異議を唱える職員も多数いました。日々の食事の提供が「施設的」になることを避け「家庭的」であり続けるためには寮母が全ての調理を担うことが必要だと、かつては多くの職員が考えていたからです。しかし、労働法規上の問題や人的要因等から、やむなくパートの調理員の力を借りることになりました。

 ただし、伝統やポリシーを守るために、現在も寮母や女性の本館職員が交替で給食棟当番に入るということを続けています。ただ、このような取り組みも時代の流れとともに風化し、その意義が忘れられ、薄れていく心配もあ るので、心していかなければならないと思います。

 その他にも、公教育の導入や、現代人が汚染食品に対する抵抗力を失ってきていることなどによる食品衛生意識の高まりなど、様々な環境の変化によって、これまでやってきたことが困難になっている場面も見受けられます。 そうしたことはこれからも増えていくであろうと思われます。

 私たちは、家庭学校と他の施設の食に関する取り組みや考え方の違いなど を比較することによって、これまでの家庭学校における取り組みの重要性を再認識し、時代の変化に対応しながらも、今後これらが失われないように努めていくことが大事だと思います。それと同時に、他の施設の動向なども参考にしながら、取り入れられる取り組みは取り入れるようにすることも必要だと思います。

2018年05月号

私の「えんがある人生」

児童生活指導員 窪田満弘

 私は児童自立支援施設で生活している子どもが大好きです。

 まず初めに私の自己紹介をします。生まれは高知県香美市です。アンパンマンの作者「やなせたかし」さんと一緒の出身地です。その西隣の南国市に、「高知県立希望が丘学園」があります。

 私自身、幼少期に両親が離婚し、祖母と父と兄弟とで生活していました。父の精神的な不安定さを理由に、中学二年生の時から児童養護施設でお世話になっていました。この児童養護施設での生活が児童自立支援専門員を目指すきっかけとなりました。

私自身、中学生時代はまじめで優等生で手のかからない児童というわけではありませんでした。学校生活を送っている中で、生徒指導の先生、部活の顧問の先生、養護施設の先生に迷惑をかけることが何度かありました。しかし、その先生方は私を見捨てることなく、時には厳しく指導してくださり、正しいレールを敷いてくれました。その先生方との出会いが、人生のターニングポイントだと感じています。これが、まず一つ目の「えんがある人生」です。

 私は平成二十六年度の途中から、高知県立希望が丘学園で臨時職員として採用され、任期満了を何度か経験し、通算で二年七ケ月仕事をしました。大学にも専門学校にも行っていないため、児童自立支援専門員になるためには通算三年間の実務経験が必要でした。

 初めて希望が丘学園で働いた期間は、四ケ月間でした。その四ケ月間には、熱意と情熱、カリスマ性あふれる寮長先生や、常に児童と一緒に活動して、楽しく仕事をしている先輩職員との出会いがあり、また希望が丘学園で働きたいと思ったことが昨日のように思い出されます。この出会いが、二つ目の「えんがある人生」です。

 さて、ここからが本題です。なぜ高知出身の人間が北海道家庭学校で働いているのか。切っ掛けはつい先だっての三月初めの出来事です。私は四月から県外の児童自立支援施設で働いて、自分のスキルアップを図りたいと思い、全国の児童自立支援施設の求人をハローワークで探しました。そして、希望が丘学園の園長先生に相談をしました。すると園長先生は求人票をあまり見ず、「勉強するなら北海道家庭学校に行ったらどうや」との一言。しかし、県外は県外でも雪が降る環境は耐えられないと思っていたので、しばらく悩みました。家庭学校の本やホームページを見て、いろいろ調べているうちに、その悩みはすぐ無くなり、家庭学校に行くことを決意しました。

 プロ野球選手がメジャーに行くことやプロサッカー選手がヨーロッパに行くみたいに、ワクワクした気持ちと、楽しみの気持ちでいっぱいになりました。すぐに履歴書と作文を書いて、北海道へ飛びました。

三月二十二日に家庭学校に見学に行きました。まず、紋別空港に着いた時の気温が零度で高知との温度差は十五度以上あり、非常に驚きました。その日は紋別市内のホテルで一泊し、翌日、副校長先生の迎えで家庭学校へ行きました。午前中の面接の結果、正式に採用していただくことが決まりました。

二日間の滞在中に、朝礼の様子、ラジオ体操の様子、昼食時の様子、夕作業時の様子など見させていただき、ますます家庭学校で働きたい思いが強くなりました。これが、三つ目の「えんがある人生」です。非常にありがたく思っており、感謝の気持ちでいっぱいです。

 四月からの家庭学校での勤務が決まり、次は三月末で希望が丘学園を離れることです。残り一週間はすごく充実しており、一瞬で過ぎ去りました。思い出に浸ることもできず、三十日夕方に既に桜が散り始めている高知を出発しました。

 三月三十日は元同僚のいる神戸市立若葉学園、六甲寮長S先生の寮で一泊させていただきました。翌日、三十一日は朝六時に若葉学園を出発し、青森目指して車を走らせました。途中、富士山を見たり、スカイツリーを見たり、仙台で牛たんを食べたりと、休憩をはさみながら、安全第一でひとまず青森を目指しました。夜中の二時に青森県のフェリー乗り場に到着し、フェリーに乗船し、朝六時に函館に到着しました。函館から家庭学校までは約五五〇キロあり、途中、札幌でスタッドレスタイヤにはき替えて、その日は旭川市内まで行きました。旭川ではおいしいご飯を食べ、旅の疲れを取り、家庭学校初日に備えました。

 二日の朝六時に旭川を出て、ナビを頼りに家庭学校を目指しました。約二時間ほどで、家庭学校に到着しました。約二千百キロの超長旅が終り、ホッと一安心したのを覚えています。無事到着できたのも愛車に感謝しています。到着して感じたのは、雪がまだ残っており、気温はマイナスで、環境の変化に驚きつつ事務所のある本館を訪ねました。

 家庭学校で勤務して、約三週間が過ぎました。思うこと、感じること、考えることがたくさんあり、自分が成長するために素晴らしい職場だと思います。毎日子どもや上司、先輩職員と関わらせていただいて、たくさん学ぶ点があり、自分自身の技量のなさを痛感しました。

 私は園芸班の所属になりました。花のことなど全くわかりませんが、しっかりと勉強し、花を愛し、花に愛される人に成長したいと思っています。先日、花の種まきをしました。芽が出て、成長している姿を見ていると、子どもの成長に似ているような気がして、とてもうれしく感じました。子どもも花も立派に大きく成長できるよう、日々頑張る決意です。

 私は、児童自立支援施設で働く上で自己流のテーマがあります。それは「日々努力」、「日々成長」、「日々感謝」です。常に努力することを怠らず、子どもと本気で向き合うこと。子どもの成長、大人の成長を共に感じ、喜ぶこと。当たり前の生活や何気ない生活に感謝する意味が込められています。すべての子どものために最善を尽くし、このテーマと先輩方からのアドバイスを元に本気で子ども達を支援していきたいと思います。

 最後になりますが、私を教育してくれた中学校の先生方、養護施設の先生方、希望が丘学園の職員の方々、そして、採用してくださった家庭学校の皆さん、すべての方々に感謝の気持ちでいっぱいです。いろいろとご迷惑をおかけすることもあろうと思いますが、よろしくお願いします。

 そして、今年二度目の桜が楽しみです。

これが私の「えんがある人生」です。

※ 編集者からのコメント

 窪田さんの使っている「えんがある」という言葉は、家庭学校が所在する遠軽町の在住者や関係者の間でよく使われているキーワードです。「遠軽(えんがる)」という音の響きを掛けて「えんがある」というふうに使います。窪田さんに確かめたところ、そのような使われ方をしているとはつゆ知らず、彼独自の発想で「遠軽」と「えんがある」を掛けたようです。やはり「縁がある」人のようです。(仁)

2018年05月号

よろしくお願いします。

望の岡分校長 竹内克憲

この度の異動で、大空町立東藻琴中学校から遠軽町立遠軽中学校に赴任した校長の竹内克憲です。同時に遠軽中学校望の岡分校長として務めることになりました。これからどうぞよろしくお願い致します。

私は、十四年ぶりに出身の遠軽町に戻ってきました。地域の知り合いの方からは、「お帰りなさい」との言葉をかけて頂き大変うれしく思います。遠軽町は、幼稚園・小学校・中学校・高校と十八年間遠軽で過ごし、その後教員として二十年前から六年間、遠軽中学校で勤務していました。また、過去に(五年ほど前)勤務していた高栄中学校・網走第一中学校の生徒も家庭学校にお世話になっていて何か繋がりを感じていました。

 また、私が小学生のころは、家庭学校のシンボルである礼拝堂まで遠足で行ったこと(記念撮影したことも)や遠中教員のときにはパイプオルガンの演奏のあるクリスマス会にプレゼントを持って数回出席をしたことが思い出されます。

 このように外見から見ていたことはありますが、九年前に義務教育学校が設置されてからのことはあまり分かっていません。

 しかしながら、家庭学校とは少し違うかもしれませんが、以前、生田原中学校で勤務していたときに児童養護施設「北光学園」との連携を密にとりながら学校運営をしていたことがあり、入所中は、学校生活も精神的にも安定している子どもたちが、退所して、元の生活に戻ると不安定になることが大変多くなることを聞いていました。その時に、基本的生活習慣である日常の衣食住がしっかりと整っていることが、いかに大切か身に染みて感じていました。

子どもたち一人一人が家庭学校での「ちょっとしたことがうまくできるようになった」という小さな自信の積み重ねが一回りも二回りも成長させ、それが社会での自立の一歩に繋がり、精神的にも安定してくるのではないかと思っています。

そして、家庭学校の精神である「よく働き、よく食べ、よく眠る。」という、ごく当たり前の生活が根底にあれば、これからの社会でたくましく生きることができると信じています。

私も「流汗悟道」の教育理念のもと、分校の先生方と手と手を取り合いながら、生徒の心の中に響く教育活動の一助となれるよう努力したいと思っています。よろしくお願いします。

2018年05月号

子ども達の表情もまた学力である

望の岡分校教頭 神谷博之

暖かい日差しに雪も木陰に申し訳なさそうに残るのみとなり、分校も春を迎えました。広大な施設の敷地内にはフクジュソウやエゾエンゴサク、ミズバショウが「見て、見て」とばかりにきれいに咲き誇り、私たちの目を楽しませてくれます。この自然豊かな光景が、子どもたちの心にもよい影響を与えてくれているものと感じます。

 望の岡分校は四月六日に始業式を迎え、小学生一名、中学生九名の計十名で新年度の教育活動をスタートしました。その後、中学生二名の転入生を迎え、現在は計十二名の在籍となっています。この後も児相の措置や家裁の審判による施設への入所や退所に伴い、年間を通じて在籍数が変動します。基本的には年度末に向けてどんどん施設への入所が増えて在籍数が増加し、進学や進級を機に退所して在籍数が一気に減る…というのが分校の特徴です。

 さて、冒頭の「子どもたちの表情もまた学力である」…これは、四月初旬に開催された、ある会議の資料の中の一文です。この一文に、私の目はくぎ付けになりました。とっても素敵な言葉だと思いました。そして、私の考える分校の教育活動の根底にぴったり当てはまる言葉だと感じました。

 一般的に学力と言えばテストの点数で判断することですが、分校の子どもたちにとって、それは非常に厳しいことです。学年相応の学力が未定着である場合が多く、そんな子どもたちに、やれチャレンジテストの結果はどうだ、やれ学力調査を全国レベルに上げろだの言われても、違和感ばかりが募ります。学力向上が大切であることは私にもわかっています。ですが、分校にはそれ以前にやるべき事がある。そんな考えで分校の教育活動を進めている身にとって、冒頭の一文との出会いは、正に「我が意を得たり」なのです。

 幸いなことに、先生方のお陰で新年度はなかなかよいスタートを切ることができたと思っています。どの教室の授業を見に行っても、子どもたちの表情がいいのです。ニコニコしていたり、真剣であったり、授業を楽しんでいる表情、学びたいという意欲を感じさせてくれる表情が教室に溢れています。とはいっても、ちょっとしたことをきっかけに、ガラッと雰囲気が変わってしまう事があるのも分校の特徴です。一年間よい雰囲気を保つことは至難の業ではありますが、子どもたちが素敵な表情を見せてくれる場面・時間が少しでも多く・長くなることを願い、平成三十年度の教育活動を推進します。

重点目標

未来に生きるため ~心のつながりを大

切にする児童生徒の育成~

 分校の子どもたちにとって必要なのは、心の成長であり、他者とのつながりです。これまでの義務教育のレールからはみ出さざるを得なかった子どもたちですから、勉強が嫌いで、大人を信用したくても信用できないという状態で分校にやってきます。そんな子どもたちと心でつながることはとても難しいことです。ましてや、子どもたちは平均して二年弱で退所していきます。限られた時間の中で心を通い合わせるためには、教室が子どもたちにとってどんな場所であるかということが鍵となります。子どもたちにとって、教室が安らぎの場所、楽しい場所であることが必要です。そこで、分校では以下の二点をポイントとして教育活動を進めます。

基本方針1

達成感や充実感を積み重ねる教育の推進

 分校は義務教育の学校ですから、子どもたちが分校で過ごす時間のほとんどは、当然のことながら授業です。この授業の時間が勝負です。子どもたちが「わかったぞ」「できるようになったぞ」という達成感や充実感を感じることができるようにしなければなりません。しかし、その段階に到達するまでに、乗り越えなければならないハードルがあります。分校の授業は「一時間、教室に居られるか」「一時間、イスに座っていられるか」「他の生徒の授業の妨げになる様なことはしないか」というようなことを見極める段階からスタートします。状況によっては、「床に寝そべっていようが、机に突っ伏していようが、他の生徒に危害を加えていないのでよしとする」という判断をすることもあります。最終的に楽しく授業に参加することができるように、日々、先生方は悪戦苦闘することになります。その過程で子どもたちにはじわじわと「この先生は自分のことをちゃんと見てくれている」「自分の話をちゃんと聞いてくれる」という安心感が芽生えてきます。安心感が出てくれば、先生方は授業という土俵の上で子どもたちと真っ向勝負ができます。そうなればこっちのもので、達成感や充実感を味わう学習体験をたっぷりと積み重ねることができます。そして、その頃には子どもと先生の心のつながりも、ワイヤーほど頑丈ではないにせよ、荷造り紐程度には丈夫なつなが

りになっているはずです。

基本方針2

自己肯定感を磨き、自他を尊重する教育

の推進

 分校の子どもたちは自己肯定感が低いことが特徴です。今まで上手くいかなかったこと、周りともめたこと、怒られたことが多いはずですから、それも当然のことです。分校で「わかった」「できた」という学習体験を積み重ね、先生とも良好な関係が保てるようになることで、子どもたちは自分への自信を深めます。その自信が自己肯定感です。自己肯定感が育ってくれば、自分の心に余裕ができます。心に余裕ができることで、周りを気遣うことができるようになります。

 出発点は個人の達成感や充実感であり、個人的な楽しさ・心地よさですが、互いに周囲を気遣う事ができるようになれば、集団としての楽しさ、心地よさとなり、集団として教室全体の達成感や充実感を得ることができるようになります。

 分校の子どもたちに足りない「他者と良好にかかわる術」を、何とかここにいる間に少しでも掴ませたい。周囲とうまくかかわれなければ、もとの社会に戻ってもうまく生きていけるわけがない。テストで評価できる学力は、その後の問題です。

 そんな訳で、分校の教育は「子どもたちの表情」にこだわりたいのです。まずは個々の表情に、そして集団の表情に…。それができた時、自信を持って分校から見送ることができます。

 長々と一方的な想いを書き綴りました。あくまでも理想です。ですが、教育とは理想を語るものだと思います。理想を掲げつつ、無理のない程度によい加減のところで妥協しながら、ゆるりゆるりと進みたいと思います。皆様のお力添えをよろしくお願いいたします。(望の岡分校だより『のぞみの』No.26 平成30年5月1日号から転載)