ひとむれ

  このコーナーでは、家庭学校の月毎の機関誌である『ひとむれ』から一部を抜粋して掲載しています(毎月上旬頃更新予定です)。   職員が、家庭学校を通じて感じたことや伝えたいことを表しています。是非、ご感想をお聞かせください。

※都合により『ひとむれ』本誌と内容が異なる場合がございます。ご了承下さい。
2017年03月号

「能く考える」

校長 仁原正幹

 校祖留岡幸助の命日に当たる二月五日の早朝はマイナス二十度の冷え込みでした。月命日恒例の平和山全校登山ですが、何しろ二月五日は祥月命日です。寒くても雪が深くても安直に本館や各寮舎から遙拝で済ますというわけにいきません。日曜日で分校の授業もなかったので、いつもの朝六時よりはゆっくり目の十時スタートとなり、その頃までには気温もだいぶ上昇していました。突き抜けるようなオホーツクブルーの快晴の空の下、強い陽射しを浴びながら雪路を登っていくうちに身体も徐々に温まっていきました。この日の登攀路は二日前のスキー滑降競技でコース整備した林道を使ったので、若干大回りの雪路ではありましたが歩きやすい行程でした。風もなく、空気も澄み、頂上付近からは遙か遠くまで見渡せる絶好の登山日和となりました。山頂の記念碑に刻まれた辞世の句

 「眠るべきところはいづこ平和山    興突海を前に眺めて」

にあるように、二十キロ先のオホーツク海の流氷がかすかにとはいえ白く光って見え、子どもも大人も皆爽快感と満足感に包まれました。

 以下、平和山山頂での礼拝後の校長講話の抜粋を記載させていただきます。

    ○

 今日二月五日は、百三年前に北海道家庭学校を創設された留岡幸助先生の命日です。命日というのは亡くなった日のことです。幸助先生は一九三四年(昭和九年)、今から八十三年前の今日二月五日にご自宅のある東京で亡くなられました。満七十歳でした。百三年前、八十三年前と数字を挙げましたが、その間がちょうど二十年ということで、幸助先生は五十歳の時に北海道家庭学校を開かれ、二十年後の七十歳で亡くなったということなんですね。いつも月命日の五日の日にはみんなでこの平和山に登っていますが、今日二月五日は祥月命日といって、亡くなった当月当日に当たります。

 この記念碑は、幸助先生の威徳を偲んで、半年後の八月に建てられました。先生のお墓は東京にありますが、この記念碑の台座には先生の遺髪が納められています。これまでも何度かお話ししているので、覚えている人も多いと思いますが、この記念碑には幸助先生の辞世の句が刻まれています。

 先生は自ら創設されたこの北海道家庭学校をこよなく愛され、中でも敷地の中心で広く家庭学校全体が見渡せるこの平和山山頂を特に好まれたようで、自分が死んだらこの平和山で眠りたいという思いを辞世の句として残されました。

興突海とはオホーツク海のことで、幸助先生ご存命の頃には、この場所からオホーツク海がよく見えたようです。百年前の平和山はあまり高い木もなく、山頂が青草で覆われていて、丸みを帯びた穏やかな感じの山だったそうで、それで幸助先生は「平和山」という名前を付けられたのだということです。現在このように鬱蒼とした樹林に覆われているのは、この百年余りの間にみんなの先輩達、生徒や先生方など多くの先人が苦労を重ねながら一生懸命植樹して、その木がすくすく伸びたからです。だから、今ではオホーツク海があまりよく見えなくなってしまったんだね。

 さっき幸助先生は七十歳で亡くなったと言いましたが、七十歳のことを難しい言葉で何ていうか知ってる人いますか。「古稀」と言います。現在、鬼頭先生が住んでおられる本館前の住宅の玄関に、古めかしい縦長の看板(表札)のようなものが付いているのを見たことがありますか。何て書いてあるか知ってる人いるかな。「留岡幸助君古稀記念文庫」という文字が刻まれています。鬼頭先生のお宅は玄関から入って左側の部分で、反対側の右側は図書館になっています。右側の部分は大変古めかしいけれど、歴史を感じさせる立派な建物ですね。幸助先生は七十歳・古稀の年の二月に亡くなられましたが、その年の九月にこの図書館が完成・オープンしたので、先生の古稀を記念して「留岡幸助君古稀記念文庫」という名前が付けられたんですね。今度前を通るときによく見てみてください。

 さて、ここまで登ってきて、みんな身体も温まって相当汗をかいたと思います。陽射しが強くてお天気は好いけれど、それでも今日はとっても寒いよね。あんまり長く話していると汗が冷えてしまって風邪を引いたら困るので、あともう一つだけお話しして終わることにします。

 幸助先生が唱えられた大事な教えの一つに「三能主義」というものがあります。「能く働き・能く食べ・能く眠る」という三つの「能く」をまとめた言葉で、これについても時々お話ししているので覚えている人もいると思います。幸助先生の「三能主義」の精神は、創立以来百三年間、北海道家庭学校の確たる伝統としてしっかりと受け継がれてきました。皆さんは家庭学校での日々の暮らしの中で、規則正しく健康的で勤勉な生活態度を身に付けてきています。そのような生活の中で心身ともに大きく成長しています。そして来月には分校の卒業式も控えており、高校進学などのために多くの人が家庭学校を巣立っていきます。

 今日私は皆さんに三つの「能く」に加えてもう一つの「能く」を提案したいと思います。それは「能く考える」です。自分の特性、性格や癖などをいつも意識して、どうしたら周りの人と仲良くでき、人の気持ちがわかるようになるか、そのことを毎日毎日「能く考えながら」生活してほしいと願っています。終わります。

2017年03月号

初めての冬

望の岡分校教諭 河端信吾

 早いのもので、望の岡分校にお世話になって一年が過ぎようとしています。二月も末になり、雪解けが進む毎日、そういえば、私が最初に分校に来た四月一日も、雪解けが進んでおり、ざくざくの道を歩きながら玄関までたどり着いたことを思い出しました。先日、家庭学校、軽部副校長先生から原稿の依頼をいただき、その題名が「初めての冬」。さて、どうしたものかと考えているうちに締め切り日が近づいてしまいました。このような長い文章を書くのは、恐らく大学の卒業論文以来でしょうか。文才など全く持ち得ていない私ですが、少しお付き合いください。

 私がこの望の岡分校で経験した「初めての冬」それは、小学生や中学生だった頃の忘れかけていた記憶を呼び起こしてくれるものでした。

 私は、高校と大学はバドミントン部に所属し、部活漬けの、体育館漬けの毎日でした。教員になってからもバドミントン部の顧問を長くやってきたこともあり、これまた体育館漬け。冬に外で活動するとしたら、除雪ぐらいなものだったような。振り返ってみると、冬は完全に体育館とお友達。実は、私が小学生の頃は、自宅の裏がスケートリンクだったため、帰宅して宿題を終えたら夜間照明が消えるまで友達と滑っていました。遠軽町立瀬戸瀬小学校なのですが、田舎だけど私たちのレベルは遠軽町内でも高い方で、管内大会の遠軽選抜にも瀬戸瀬小のメンバーがたくさん選ばれていた時代でした。もちろん、私も選ばれましたよ。えっ?成績?えーと、上には上がいることを、身を持って痛感したということで勘弁してください。中学校では、野球部とスキー部の掛け持ち、学校から一キロ以上ある坂本スロープという山に、スキーをかついで毎日歩いて練習に行きました。リフトなんて当然ありません。ポールを立てて、滑っては登りの繰り返し。顧問の先生は全く練習に顔を見せず、指示は全て先輩から。どんな指示に対しても返事は「はい」のみ。ポールをセットして頂上まで行くと、先生には内緒で持ってきたと思われるキャラメルをくれました。髪型が芸術的であり、顔が非常に恐ろしい先輩ばかりでしたが、それでいてキャラメルってところがミスマッチなために、思わず笑いたくなるのです。しかし、笑うとその後の部活人生に多大な影響が出る恐れがあるため、真剣な顔で「いただきます!」とお礼を言いました。そのキャラメルが本当においしくて、キャラメルのために頑張っていたようなものです。そういえば、ロックバレーでの回転大会でも、おやつとしてキャラメルが出ていましたね。長くなりました、つまり私の小中学校時代は、冬といえば毎日外で活動していたわけです。遠い記憶というか、思い出す場面がなかったというか。

 作業班学習で「雪山」に入り、分校の先生方と「雪像」を作り、そして極めつけが「スキー」。噂には聞いておりましたが、本当に一週間、午前、午後とスキー学習。まさに強豪私立高校のスキー部といったところでしょうか。この一週間で何年分のスキーをやったことになるのかなーと思いながらテレキットに乗っている自分。さらに、回転、大回転、場所を変えての滑降大会と、ワールドカップを彷彿させるようなスケジュール!

 子どもたちの上達に感激し、自衛隊さんの優しくも、根気強い指導に感心し、昔の血が騒いだため、自ら分校の高橋先生に指導を仰ぎ、レッスンを受ける自分の向上心に満足したスキー週間。実はロックバレーを滑ったのは、高校二年生以来なのです。まして、ロックバレーで豚汁をいただいたのは、小学校六年生のスキー遠足以来。本当に美味しかった。ご馳走様でした。心残りなのは、大好物のカツカレーのおかわりができなかったこと。私としたことが一杯目でお腹が満たされてしまい・・・一生の不覚です。そうだ、来年度のおやつは、お城のカードが入っていないお菓子にしましょう。

 雪像コンクール審査の時にご馳走になった石上館のはちみつレモン、掬泉寮のココア、楽山寮のホットミルク、滑降大会の時にいただいた甘酒では、小学生のころのスケート大会やスキー大会を思い出しました。美味しさと同時に、懐かしさも。心身ともに温まることができました。ありがとうございました。

 すみません、本当は、スキー学習や雪像コンクールなどの魅力や子どもたちの姿を述べるべきだったのでしょうね。でも、「初めての冬」で一番、私自身が感じたことを素直に書かせていただきました。家庭学校の職員のみなさん、分校の先生方、そして子どもたちと一緒に過ごした「初めての冬」それは、無邪気に冬を楽しんでいた頃の自分と再会できた冬でした。

2017年03月号

「「タラントン」のたとえ」

支援員 清水律子

 今日の聖書のお話で、伝えたいことは次の2つです。

 1.みんな同じ。みんな貰っている…ということ

 2.みんな違う。だから、人と比べないこと

そのことをまず、心に留めて、聖書を読んでいきましょう。

 ある人が3人のしもべ(家来)に、それぞれの力に応じて財産を預けて旅に出ます。1番目の人には、5タラントン。2番目には、2タラントン。3番目には、1タラントン。「タラントン」とは、昔のギリシャのお金の単位です。1タラントンは、1日働いて稼ぐお金の6千日分=約20年分だそうです。ざっくり計算して3千6百万円くらいでしょうか。凄い金額ですね。

 5タラントンの家来は、すぐに商売を始めて、最初預けられた分の倍、10タラントンに増やしました。2番目の人も同じように働いて、倍にしました。ところが、3番目の家来は、穴を掘って、せっかく任されたお金を埋めて隠してしまいます。暫く経って主人が帰って来ました。さあ、どうなったでしょう…?

 5タラントンと2タラントンの人は主人から褒められます。『忠実な良い僕(しもべ)だ。よくやった。………(21節)』でも、1タラントンを埋めた人は『怠け者の悪い僕だ』と叱られて、最初に任された1タラントも取り上げられてしまいます。

 この例え話の主人は神さまで、僕とは私たちのことです。神さまは私たちにお金儲けを勧めているのではありません。一生懸命働いて、神さまから与えられたもの、託されているものを活かすようにと言われてるのです。

 沢山任された人は大きな働きをしましたが、神さまは5タラントン儲けた人にも、2タラントンの人にも、全く同じ言葉で褒めてくださっています。働きの大小ではなく、一生懸命取り組んだかどうか、与えられた仕事に対して誠実だったかどうかを見ておられるからです。

 もし、私たちがこの「僕」の立場だったら、どうでしょう。5タラントン貰ったら、得意になっちゃったり…。1タラントンだったら、面白くないと、やる気を無くす?2タラントンなら、まぁまぁ、自分を納得させる…かな?そんなふうに感じるとしたら、その理由は、他の人と比べるからではないでしょうか。○○さんより少ないのは納得出来ない…とか、他の人より多いから嬉しいとか…。

 2と5の人がいるから、1が少ないように思いますが、なにしろ1タラントンは3千6百万円なのですから、神さまがどんなに私たちのことを信頼して、多くのものを任せて下さっているかが判ります。1タラントンは決してやる気を削がれるような額ではないのです。

 主人は『それぞれの力に応じて』財産を渡しています。だから、この1タラントンの僕にも、増やす力はあったはずですが、失敗するのが嫌で、穴に隠して何もしませんでした。神さまの信頼・期待に応えようとする気持ちが無かったのです。逆に、5タラントンの僕は、すぐに働き始めています。そこには、任された事への感謝と喜びが感じられます。

 『タラントン』という言葉は、芸能人を表す「タレント」という日本語になっていますが、そのタレントのもとは、英語の「talent」。才能と言う意味です。才能とは、神さまから授かったもの、私たちに預けられたものなのでしょう。1の人もいれば、2の人、5の人もいます。でも、0の人はいません。みんなに与えられていて、神さまは私たちが力を発揮することを待っておられます。それは、大人でも子どもでも同じです。

 与えられた毎日の暮らしの中で、感謝と喜びをもって、神さまの信頼と期待に応えていきたいと思っています。私たちにはその力があると確信しています。

    ○

 12月25日の礼拝で、「どうか神さまが力を与え、お導き下さい」と祈りながら、欠けの多い者が聖書の話をさせて頂きました。家庭学校のクリスマス礼拝は23日に既に捧げられていることと、このような機会はもうないだろうと思い、クリスマスとは関係ありませんでしたが、私の好きな例え話の箇所を選びました。私にとって、このことは本当に大変な試練でしたが、いいこともありました。人間、本当に困ると信心深くなるものです。普段より、一生懸命祈ることが出来ました。

 また、今回ひとむれに掲載して頂くことになり、原稿を読み直し、加筆、訂正、推敲致しました。ああ、今ならもうちょっと上手にお話しできるかも…などと悔いつつ、すべてのことに感謝しています。

2017年03月号

家庭学校で過ごして

北海道教育大学旭川校OG 木村茉南

 自分が「ひとむれ」に文章を載せることになるとは思ってもみませんでした。私は、ここ半年ほど家庭学校で働かせて頂いています。とはいっても、職員でも教員でもありません。「家庭学校百年史」編纂の一部作業補助のため、期間限定で家庭学校で過ごさせて頂いているのです。家庭学校の業務はもちろん、日課にもほとんど関わらないので、生徒と触れ合う機会はあまりありません。でも、いつでも教務室にいるし、お昼も一緒に食べる。たまに行事に参加したりもする。そうやって職員の方々にお世話になりながら、職員のように住み、ちらちらと子どもたちの前に姿を現します。こうした私の微妙な立ち位置を表すならば、「『家庭学校』に所属はしていないけれど、そこで暮らす人間」。このように言えると思います。外部の人間ではありながら、とても近い距離で見ることが可能である訳です。そういう少し特殊な立場に、今の私はあるのです。

 そういった中で、このように皆さんに目に触れる機会を頂きました。ありがたいことです。さて、さぞ立派な文章を書いてみよう…と意気込むものの、たかが半年ほど滞在しただけの人間にどれだけのことが語れましょうか。子どもたちやご家族、先生方の苦労や喜びその他諸々も、私が知ることができたのはほんの一握りでしかありません。この「ひとむれ」を読んでいる方々のほうが、よっぽどわかっているだろうと心から思います。しかし、私なりに書けることを書こうという気持ちで筆をとる、もといキーボードを叩いています。…などと、長い前置きでごめんなさい。

 家庭学校において私が興味深いと思うのは、そのコミュニティの在り方です。家庭学校には、まず家庭と学校といった二つのコミュニティに始まり、様々な集団の形があります。子どもの属するコミュニティとしては寮、作業班、学年等があり、子どもを囲むコミュニティとしては職員、また小学校教員や中学校教員などがあると思います。一つの組織の中に複数のコミュニティが重なり、深く繋がって機能しているのは、家庭学校の特徴だと感じます。

生徒は一見して1つのコミュニティ(家庭学校)に属し、実際には、複数のコミュニティに関わりつながることを求められます。そこでは求められる能力や役割が違うかもしれませんし、人間関係が異なるかもしれません。時には噛み合わなかったりするかもしれない。様々な揺さぶりがある中でそれぞれ自分の居場所を確保する過程には、いろんな葛藤がついてまわるのではないかと思います。

そして職員や教員、ことさら子どもに近い寮長寮母は、見守る立場ではありますがその影響を受ける面もあるのではないでしょうか。監督者と言う立場は変わらないのですが、同時に子どもと共に生活をつくる協力者とも言えるように思います。自分自身の常識と子どもの実態に差があれば、価値観をすり合わせたり指導を模索したりするかもしれません。そのような歩み寄りの行為は、何が正解ともわかりませんから、うまくいくことばかりではないのだろうと、先生方のお話しを伺っていて感じたことがあります。

一般の学校教育でもインクルーシブ教育がうたわれ、一人ひとりの教育的ニーズに応えることがだんだん重要視されていると言われています。こうした動きの中で、指導者による子どもの能力の見極めが大事にされているように思います。これは、家庭学校でもよく感じることでもあります。どこまでできて何ができないのかを把握するのは、子ども自身が自分の成長を知ったり指導者が教育効果を実感したりするのに役立ちますが、家庭学校で特に意識されているのは、「できない」ことにどこまで向かわせるかということのように思いました。取り組むことは大事ですが、できないことを延々とやらされるのは誰でも苦痛だと思います。一方で、できないと思い込んでいたり単にやる気がなかったり、あるいは両方だったりなど色々な場合も考えられます。その日の調子によって変わることもあるでしょう。そうしたことを見極める感覚は個人によるところも大きいかもしれません。ただここでは、この子はこうだああだと情報交換しその感覚を共有することが日常的に行われていて、これも家庭学校の特徴の一つだなと感嘆します。

 月並みなことを書き連ねました。ですが、家庭学校で過ごした中で私なりに実感したことです。ここでの子どもたちの生活体験は、傍から見ても濃密だと思います。大変なときもありますが、割と「普通」に暮らしています。でも、この「普通」を維持するのはいつだって努力と協力が必要なのだと、ここに来てよくよく感じるようになりました。本当に貴重な体験でした。もうじき、家庭学校を卒業し新たに生活を始める生徒たちもいます。心から門出を祝い、幸あらんことを願っています。そして、最後に子どもたちと先生方がこれから先も健やかであることを祈りつつ、筆をとめます。