ひとむれ

  このコーナーでは、家庭学校の月毎の機関誌である『ひとむれ』から一部を抜粋して掲載しています(毎月上旬頃更新予定です)。   職員が、家庭学校を通じて感じたことや伝えたいことを表しています。是非、ご感想をお聞かせください。

※都合により『ひとむれ』本誌と内容が異なる場合がございます。ご了承下さい。
2016年10月号

「百二年目の創立記念日」

校長 仁原正幹

 秋晴れの九月二十四日、北海道家庭学校は全校生徒と職員、そしてお客様にも参加していただき、百二年目の創立記念日をお祝いしました。第一部は十一時から禮拝堂で、第二部は正午から給食棟で、皆で楽しく充実した時間を過ごすことができました。因みに昼食メニューは創立記念日定番の赤飯、鮭の照焼、金平、漬物、果物でした。加えて自家製紫蘇ジュースも振る舞われました。以下、校長講話の概要を記させていただきます。

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北海道家庭学校百二年目の創立記念日のお話をします。皆さんの右側に掛かっている写真は、いつもお話ししているこの家庭学校をつくった人、校祖とも呼びますが、留岡幸助先生です。幸助先生が、この遠軽の地に北海道家庭学校を開かれて、百二年になります。

 今日の創立記念のお祝いには、いつも家庭学校で生活している生徒の皆さんと先生方のほかに、お客様にも参列していただいています。家庭学校の職員としての大先輩の齋藤益晴先生と田中勉先生、そして、北海道教育大学の二井仁美先生です。お忙しい中ご参列いただき、誠に有り難うございます。

 齋藤先生と田中先生は、運動会などの行事のときにもよく来ていただいて、生徒の皆さんや我々職員にも激励の言葉をかけてくださっているので、知っている人も多いと思います。また、二井先生は、今、『北海道家庭学校百年史』という本の編集、家庭学校の歴史をまとめる大変大きな事業なのですが、その中心となってご尽力いただいており、最近は週末などに頻繁に来校されているので、皆もお顔を知っていると思います。教育大学旭川校の学生さんの実習にも同行されて、各寮にも訪問されていますね。

 さて、今日は創立記念日なので、少し歴史を振り返ってお話ししたいと思います。とは言っても、私は家庭学校に来てまだ二年半しか経っていませんので、実体験としてはあまり多くはありません。

そこで、家庭学校で長らく寮長や部長を務められてきた副校長の軽部先生や、今日お見えになった三人のお客様などから教わったお話を中心にお話しします。

 昔の家庭学校の先生方は、いろいろと幅広く、しかも大変高度な知識や技術を持っておられました。ご自身で相当努力されて研鑽を積まれたものと思います。皆さんの先輩に当たる生徒たちに、作業指導や学習指導、生活指導の中で、たくさんのことを教え、またそうした暮らしの中で、グランド横にある体育倉庫や桂林寮前の金属加工所なども、齋藤先生と田中先生が、自力で建てられたそうです。大工さんや板金屋さんのプロの技術を持っていらしたんですね。

 齋藤先生は、園芸のことがとっても詳しくて、花壇のことなどでいつもご指導いただいています。今日この禮拝堂に飾られているドライフラワーもそうですが、学校中に飾られているドライフラワーは、全部齋藤先生お手製のものです。

 田中先生は、板金(金属加工)の技術を持っておられるので、あちこちのトタン屋根もそうですが、今もみんなが毎日重宝して使っている牛乳缶なども田中先生が作られたものです。

 それから、今日ここにおられない先生方についても、少しお話ししたいと思います。皆が毎日入っているお風呂の水ですが、また、畑の水もそうですが、家庭学校の敷地内の泉から地下に張り巡らされた水路を通って引かれています。その膨大な長さの水路は、平本先生という先生が生徒と共に作られたものです。

 また、この前の校長講話で「暗渠の精神」のことをお話ししましたが、家庭学校の敷地内の畑や牧草地が豊かな土地になるように、大がかりな土壌改良工事を(暗渠排水工事ですが)、昔の先生方や生徒が、長い年月をかけて、来る日も来る日も、重機もない時代だったので、スコップやツルハシを使って土を掘って、暗渠を作ってくださいました。そのおかげで、今、家庭学校の畑や牧草地に野菜や花や牧草が豊かに実り、育っています。

私はそのことを、昔酪農担当をされていた川口先生という先生から、四町畑(掬泉寮の裏に広がる牧草地ですが)、そこに暗渠を作られたときに生徒と共に苦労されたエピソードをお聞きしました。

 これらのことは、北海道家庭学校の長い歴史の中のほんの一部ですが、こうした大先輩の先生方や生徒たちの営々とした努力、頑張りによって北海道家庭学校の歴史と伝統が作られ、物心両面にわたる財産として伝わって、今日私たちがここで勉強し、生活できていることを、皆さんに知っていただきたいと思ってお話ししました。そして、これからの家庭学校の歴史を作り、伝統を守っていくのは、今ここに居る私たち、生徒と先生方です。創立記念日に当たり、そのことをしっかりと心に期したいと思います。

 さて、今日の礼拝、式典に当たり、校歌や讃美歌などの伴奏とピアノ演奏をしてくださった先生は、荒木美香先生です。

今日一緒に参列されている荒木陽平先生と共にかつて家庭学校で先生をしておられました。お二人にも、心より感謝を申し上げます。

 さて、最後にもう一つだけ、今度は君達の大先輩のお話をしたいと思います。

今、荒木先生が弾いてくださった奥の方にある楽器、ロジャースオルガンといいます。とても良い音がしました。この荘厳な音色を奏でる素晴らしい楽器は、今から十八年前に、一人の卒業生から寄贈されたものです。電気で動くので、放送設備とセットで、当時の金額で五百万円もした高価なものと聞いています。この方は、もう既に亡くなっていますが(ご存命だったら九十代半ばの方です)、家庭学校に在籍していたときも、家庭学校を卒業してからも、おそらく大変勉強された方なのでしょう。後に法学博士になられたそうです。東京でたくさんの会社の経営を指導したり法律上の相談に乗ったりするコンサルタント会社をご自分で作られ、広く世のため人のために役立つ立派な仕事をされた方だそうです。家庭学校の生徒だったときには、一群会の理事としても大活躍されたそうです。

 みんなも、別に大金持ちにならなくても良いのですが、この先輩のように世の中のため人のために役に立つ仕事をする人になってほしいと願っています。

 この百二年の間に、家庭学校で何人の生徒が学んだと思いますか。皆さん方生徒には、一番最初に入った生徒から順番に通し番号が付いています。この中で一番新しい生徒は今月入所したリョウマ君で、番号は二五〇五番です。これまで二五〇〇人を超える生徒が家庭学校で一生懸命努力して、自分を磨いてきました。

 その中で、初めから家庭学校を目指して、ここに入りたくて来た人は、ほとんどいないはずです。児童相談所の先生などの勧めがあって、たまたまここに来ることになったのだと思います。最後は自分で覚悟を決めて、家庭学校で自分を変えようと決意して入ってきたのだと思います。そして、家庭学校で先生方と出会い、仲間と出会い、それぞれが切磋琢磨して頑張ってきた、そうした百二年の歴史と伝統があります。

この禮拝堂に掲げられた「難有」の額については、以前の講話でもお話しし、校祖留岡幸助先生の思いを伝えました。これまで君達はいろいろと困難なことにぶつかって苦労してきたと思います。そして今現在も苦労していると思いますが、人間は困難なことを乗り越えることによって一段と大きく成長していくものです。だから、困難なことに遭うことは大変だし、苦しいことだけれども、逆に有り難いチャンスでもあります。皆はせっかく家庭学校に来たのだから、今ここにいることが大きなチャンスだと思って、しっかりと自分を見つめて、過去の自分を変えるために努力してほしいと思います。家庭学校での一日一日の生活を大事に真剣に過ごしてほしい、そして大きく成長してほしいと願っています。

 今日は北海道家庭学校の百二年の歴史を振り返りながら、皆さん方一人ひとりが、もう一度自分を見つめ直して、ここで過ごす意味をしっかりと考える、そういう一日にしてほしいと思います。

 今日からまた一緒に頑張っていきましょう。お話終わります。

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 創立記念日に際して、多くの皆様から激励の言葉やご厚志をいただきましたことを、心より感謝申し上げます

2016年10月号

作業について

自立支援部 主幹 鬼頭庸介

 家庭学校に来て3回目の秋を迎えています。今回『ひとむれ』に「作業について」の原稿を依頼されました。2年目の昨年から作業班のまとめ役と蔬菜班の責任者を務めている関係から作業について書くことになったのだと思います。

 教育の中に取り入れられる作業については、近代教育学がルソーあたりから始まって、その後のヘルバルト、フレーベル、ペスタロッチ、最近ではシュタイナーに至るまで教育者と呼ばれる人で作業について述べていない人はいません。家庭学校をはじめ自立支援施設での作業指導や労作教育についても、留岡先生をはじめ、多くの先人が優れた考察や論文を著しており、そんな中で私のようなものが「作業について」論じることは身の丈に合わないので止めることにして、主に二十代から三十代にかけての頃に私が出会い、経験して来たことやそのときそのときの作業について感じたことを書くことにします。

 私が作業という活動に初めて出会ったのは、1983年に国立秩父学園の養成所に入ったときでした。そこで農産科に配属となり、秩父学園では比較的軽度の知的障害のある園生と作業をしました。その中には全く目が見えない重複障害の子もいて、その子との作業を通じての交流やコミュニケーションは今でも強く記憶に残っています。体を動かしての作業という活動は、心身にハンデキャップを持った人にも有効な幅の広さを持つものであることがわかりました。秩父では落ちこぼれで、結局障害者の施設に就職する道は選ばずに、養成所間の交流も兼ねて見学に行き初めて知った教護院というものに強い関心を持ち、翌年国立武蔵野学院の養成所に入り直しました。

 武蔵野学院で最初に配属になった観察寮の寮長が佐久間健先生で、その後の私の作業人生に影響を与えて下さった尊敬すべき恩師と出会うことができました。また、当時四寮の寮長をなさっていた武田昭彦先生からも作業に取り組む姿勢などについて多くのことを教えていただきました。当時の武蔵野にはその他にもすばらしい先生方や若い職員がおり、そんな中で二十代から三十代にかかる頃を過ごせたことは本当に幸運なことでした。佐久間先生にしても武田先生にしても基本は「作業が好きだ」ということであり、実際に子どもたちと作業に取り組んでいる姿を見ると楽しそうに見えました。武蔵野で叩き込まれたことは「WITHの精神」でしたが、佐久間先生などは、例えば子どもと一緒に田んぼ作業をしているときなどは、子どもらの中に埋没してどこに先生がいるのかわからないような、完全に田んぼの景色と一体化しており、そんな中で子どもたちも安心して作業に取り組んでいるように見えたものです。教護院の作業については「草取りが一番いい」とおっしゃっていたこと記憶しています。以来、私も農作業の中では草取りが基本だなと思い、子どもたちとの作業の中でも大切にしています。また、別のベテランの先生は田んぼで泥まみれになって田植えや米作りの作業をしている子どもたちの姿を見て「あの子らには、これが一番いい」としみじみと語っていたことも記憶に残っています。武田先生も作業が好きな先生で、時間が自由に使える休日などは午前中に作業をして、午後3時からまた作業をしていることがしばしばありました。その作業の様子を見ると、子どもたちがやらされてやっている感じはなく、当たり前のように楽しんで取り組んでいるように見えました。武田先生の作業の特徴は1回限りで終わる作業もありましたが、プロジェクトを組んで比較的長期にわたる作業が多かったことです。その点では家庭学校の作業に近かったかもしれません。この二人の先生が私にとっての作業における理想で、その後私が作業に取り組むときにしばしばその姿を思い浮かべるのですが、今でも追いつくことができません。

 一九九〇年から九二年にかけて青年海外協力隊として過ごしたタイという国は熱帯に属し、雨期と乾期に分かれており、私の赴任地のチェンマイはサバンナ気候で十二月から翌年の六月頃にかけての降水量は少なく、特に九一年は、ひどい旱魃でした。そうした厳しい環境の中で野菜栽培をしていると日本にいるときには気がつかなかった適当に雨が降ってくれることの有り難さをしみじみと感じました。日中は気温がゆうに三〇度を超えるので、種をまき苗を植えつけたら、とにかく毎日朝夕水やりしなくては枯れてしまうし、私の元に集まった山岳少数民族の子どもたちの生活資金を得るためにはきちんと育てて売らなければならい、そういう任務でした。肝心の水も水道の蛇口をひねれば出て来る日本とは違い、雨期の間に池のような所に溜めておいた雨水を利用していました。そこに水を一〇個のじょうろに汲み上げてリヤカーに乗せて畑に移動して水まきをすること十往復、じょうろに百杯、畑を増やせばそれだけ水まきの回数も増える、しかし換金作物は作らなくてはならない。真っ黒に日に焼けて水をまく二年間でしたが、あのようなつらい作業を諦めることなくやり通すことができたのも、武蔵野時代に培った体力や気力があったからだと思います。充実した二年間でした。     養成所の研究生のときや武蔵野学院の職員になってからも武蔵野でよく言われた言葉の中に「教護は人なり」という言葉がありました。「教護」の部分を「教育」に置き換えても差し支えないと思いますが、私が協力隊に参加しようと決めたのは、発展途上国への支援もありましたが、厳しい環境の中に身を置き、そこで体を使って農作業に汗を流すことによって人としてひとまわり大きな人間になれるかもしれない、そうすることによって子どもたちになにかを伝えることができるかもしれないと考えていたからです。二年間のタイでの生活でどれほど大きな人間になれたかは分かりませんが、行かずに後悔するよりは行って良かったと思っていますし、子どもたちに伝えることができる体験ができたことは確かです。

 結局私も佐久間先生や武田先生と同じように「作業が好きだった」から今日まで三十年以上、子どもたちと一緒に作業をすることができたのだと思いますし、教育現場で子どもたちと行う作業が「楽しかった」からやって来られたのだと思います。私がまだ若い頃に出会い、そういうことを口ではなく身を以て教えて下さった二人の先生には深く感謝しています。

2016年10月号

「平成二十年七月のヒヤリングから」

編集委員(北見市立東小学校長) 森田穣

 北海道家庭学校への学校教育導入については、平成二十年度に家庭学校、遠軽町、道教委、道保健福祉部の各関係機関により協議・準備が行われ、平成二十一年四月に望の岡分校開校に至りました。

平成二十年七月二十九日に札幌で行われた道教委によるヒヤリングは、学校の設置形態、学級編制及び教職員配置、学籍の扱いなど、分校の教育を行うために必要な考え方を道教委に理解していただくための欠かせない機会であり、その後の基本方針の内容にも少なからず影響を与えたと考えています。今回はその一部、学級編制・教職員配置と習熟度別学習に関わる要望と道教委回答を紹介します。

○ 参加者 

  道教委より義務教育課主幹二名、特別 支援教育課主幹、教育政策課主幹・主 査・主任の計六名、保健福祉部子ども 未来推進局より主幹・主査の二名、遠 軽地区より町教委松橋総務課長、家庭 学校山田自立支援部長、森田の三名

○ ヒヤリングの内容

   家庭学校への学校教育導入に係る要 望内容とその理由(道教委の回答は→ に記載)

○ 学級編制・教職員配置について

・小学校分校においては、標準法での学級編制とする。

・中学校分校においては、各学年一学級の学級編制を要望する。

・就学指導委員会で特別支援学級による支援が必要と認められた場合は、特別支援学級を設置する。

・教職員配置については、右記学級編制に伴う配置を要望する。

 (中学校で各学年一学級設置を要望する  理由)

  ① 過去の四月一日現在の在籍児童生   徒数は、標準法での複式学級の基準   適用となる。しかし、年度途中での   入所が多いという特別な事情があり、   夏以降は単式学級の基準値となる。

  ② 家庭学校に入所する児童生徒の中   には、不登校、発達障害、非行、被   虐待などにより、精神科的・心理的   に特別な対応が必要とされる児童生   徒がいる。また、学力的に特別なカ   リキュラムを必要とする児童生徒の   割合が高い。

 → 年度当初の在籍状況でしかお金が   下りてこないというベースがあり、   標準法以上の編制となれば道からの   持ち出しになる。

○ その他

・免許外教科の許可申請を認めていただきたい。

 (その理由)

  系統性が重視される国語、数学、英語 の三教科について、学年を超えた形での 習熟度別学習を進めたいと考えているた め。

 → 三教科について学年を超えた形での  習熟度別学習を行うということだが、  公教育では学年単位の学習活動が基本  であることから、常時くずすことは望  ましくないのできちんとやって欲しい。

学級編制・教職員配置の柔軟対応と習熟度別学習は、望の岡分校の教育活動を進める上で欠かせないと考えていたものでした。同時期に学校教育導入を進めていた七飯地区、北広島地区においても学級編制・教職員配置について、同様の危機意識を持っていました。このことから、三地区が連携し、各施設における過去に在籍した児童生徒の入所時期、在籍期間と学年、退所時期、入所理由が視覚的にわかる資料、児童生徒の知能と学力の状況がわかる資料、被虐待や発達障害が原因と考えられる不適応事例など、各種資料の提出と説明が続けられました。

平成二十一年三月に締結された「児童自立支援施設北海道家庭学校に設置される学校の管理運営及び就学に関する基本方針」には、教育課程編成、学級編制、教職員配置について、以下の通り定められています。

一 教育課程編成の基本的考え方

 これまで家庭学校が進めてきた教育活 動を踏まえ、入所している児童生徒の状 況に応じた教育課程を編成する。

二 学級編制の基本的考え方

 学級編制は、義務教育諸学校学級編制 基準規則(昭和四十一年北海道教育委員 会規則第一号)による。

三 教職員配置の基本的考え方

① 配置

  教職員定数については、小学校及び  中学校の県費負担教職員定数配置基準  (平成三年三月八日北海道教育委員会  決定)による。

  なお、児童生徒の状況などを勘案し、  国の児童生徒支援加配を検討する。

② 教員の配置(人事異動)

  教員の配置については、特別の配慮  を必要とする児童生徒が多い家庭学校  に学校を併設することから、遠軽町教  育委員会と北海道教育委員会が十分に  協議する。

③ 運用

  小学校分校を本務とする教員と中学  校分校を本務とする教員は、お互いに  連携、協力を図りながら施設内学校の  児童生徒の指導に当たるものとする。

  また、家庭学校職員は、施設内学校  で行われる指導について、学校教育の  円滑な実施のために必要な補助を行う  ものとする。

四 学籍等の扱い・・(以下については略)

ヒヤリング以降の関係者の努力と歩み寄りにより、分校の教育活動の土台が出来上がったのです。