このコーナーでは、家庭学校の月毎の機関誌である『ひとむれ』から一部を抜粋して掲載しています(毎月上旬頃更新予定です)。
 職員が、家庭学校を通じて感じたことや伝えたいことを表しています。是非、ご感想をお聞かせください。
※都合により『ひとむれ』本誌と内容が異なる場合がございます。ご了承下さい。


2016年07月号

「「朗読会」について」

校長 仁原正幹

 毎月『ひとむれ』とセットでお送りしている小冊子『朗読会』は、日曜礼拝の中で月に一度実施している「朗読会」の発表内容と講評をまとめたものです。

近年の「朗読会」では、三つある一般寮の各寮長が指名した三人の児童が発表者となっています。発表者は寮長の指導の下に苦心しながら作文を書き、当日礼拝堂の壇上に立ってそれを読み上げ、全校生徒と家庭学校職員が聴衆となる形で行われています。それぞれの発表毎に家庭学校職員が交替で感想を述べ、最後に校長が登壇して三人の発表に講評を加えるというスタイルをとっています。

発表者には入所後三カ月以上が経過し、比較的安定した生活を送っている児童が指名される習わしとなっており、子ども達は指名されたことを名誉に思い、皆の前で張り切って決意を述べます。

この「朗読会」がいつ頃始まったのか調べるために『ひとむれ』のバックナンバーを探ってみたところ、昭和四十二年四月一日発行の『ひとむれ』第二九一号の中に当時の楽山寮長だった森田芳雄先生の「朗読会」という記事を見つけ、起源が今から五十年も前の昭和四十一年度まで遡ることがわかりました。その森田先生の記事を一部引用する形でご紹介したいと思います。

「昭和四十一年度の初めの頃職員会の議題に生徒の言葉遣いの事が取り上げられました。問題となった事は、発音が悪い、口をしっかり開けてはっきりと発語しない、早口で言葉を略す傾向がある、正視して正しい姿勢を保たず礼儀正しくない、等でした。

これまで正しい言葉遣いについては、ひとむれ会においても何度か議題になって話し合われましたが、効果的な方法は見い出されないままに過ぎていました。

学習においても、一般に教科書の朗読は下手で、国語をはっきり朗読する発表会をしてはどうだろうということになりました。朗読は読書指導にもなり、発表力をつけ自信をもたせることにもなり、それを聴き取る側にも正しい言葉遣いを体得させることが出来るのではないかと考えられました。

会のもち方は月の第一日曜日、発表者は各寮より一名ずつ、毎回交代で全生徒が発表する。題材は生徒図書、生活作文、詩等何でも良いが、前もって寮長に内容を見てもらう。朗読発表時間は一人五分間、発表者に対しては先生方より簡単な講評をしてもらうという事にしました。

最初の一、二回は、生徒男女職員一同を前にして壇上に立つと、さすがに緊張して固くなりましたが、回を重ねるうちに、××君が発表したのだから僕だってもっとうまく出来そうだと、自信をもつ生徒が現れ、図書を借りて読む者が多くなりました。

こうして朗読会は、段々充実して来ました。発表者は現在までに五四名、発表を大まかに分類すると次のようになります。偉人の伝記二〇名、文学一二名、生活作文一二名、童話九名、その他一名。……(後略)」

興味深い内容だったので思わず引用が長くなってしまいましたが、五十年前に「朗読会」がスタートしたときは、現在のような児童本人の作文の発表は少なく、皆の前で本を読む、上手に朗読するということが主体だったようで、読書指導をしながら正しい言葉遣いを体得させることや発表力をつけることを目標にしていたことがわかりました。

爾来五十年間一貫して日曜礼拝のときに月に一度実施してきたようで、昭和四十四年に谷昌恒第五代校長が就任した辺りから、現在のような本人自作の作文を発表するスタイルが定着したものと思われます。往時は七寮に八十五人の児童が入所していた訳ですから、毎回七人の代表が朗読発表し、それに職員と校長が感想や講評を述べる形をとっていたとすれば、さぞかし長い時間がかかったことと思います。昭和五十年代からの家庭学校をよく知る軽部晴文副校長によると、当時は退所前の児童が直前の朗読会で発表する習わしもあったそうで、七寮の代表に加えてさらに多くの発表と講評が延々と続いたようです。

さて、五十年間日曜礼拝のときに毎月実施してきた「朗読会」ですが、実は今回の六月実施分(『朗読会』七月号掲載)から、思い切って日曜礼拝から切り離し、平日の学校日課の中で行うことに変更しました。原則水曜日の七時限目の時間帯に、一般寮の生徒全員と、家庭学校の職員が礼拝堂に集い、そこに七年前から協働の形で指導に当たっていただいている望の岡分校の先生方にも加わっていただくことにしたのです。これまで公立学校の教員の皆さんに日曜日の宗教的色彩を帯びた行事に参加していただくことは難しく、また、家庭学校職員であっても寮母などは日曜の午前中は昼食準備のために参加できなかったこともありました。さらには、近年は家庭学校職員も隔週毎に交替で休みを取れるようになったので、日曜の午前中は職員が最も揃わない時間帯となり、部長や主幹、本館職員は元より、指名した寮長でさえも「朗読会」に臨めないことが間々ありました。

場所はこれまでどおり夏場は礼拝堂、冬場は音楽室で実施することにしています。「朗読会」の機会を通じてなるべく多くの大人が子ども達に深く関われるようにするとともに、「朗読会」の内容もさらに充実させ、より一層指導効果を高めていきたいと考えています。『朗読会』も引き続きご愛読いただき、ご意見ご感想などをお寄せいただければ幸いです。

2016年07月号

二年目を迎えて

楽山寮・寮長 千葉正義

 楽山寮担当になり今年の四月で二年目を迎えました。子どもたちと生活を共にするということに必死で、長いようであっという間の一年でした。

 担当になった当初は前任から引き継いだ子を含む三名からのスタート。細かな部分で子供たちに相違点を指摘され、こちらの意図を伝えるのに時間を要しました。入所は何件かありましたが、秋ころまでは少人数での生活が続きました。

 寮周辺の環境整備や野菜の栽培等私自身が初めてやることが多く、気持ちの余裕がなかったため草刈りはほとんど進まず、野菜は最低限のものしか作れませんでした。そんな中でも子どもたちはよくやってくれました。夏、薄暗くなるまで作業をしていたこともありましたが、自分たちで作ったトマトやとうきびを喜んで食べている姿が印象的でした。もちろん細かな部分での問題は色々ありましたが、当初私が目標としていた「よく働き、よく食べ、よく眠る」生活は送れたと思います。

 一年が経過した三月の末、中学三年生の子が高校進学を機に退所しました。春からの新生活に対しての不安なのか、退所間際は落ちつかなくなることが多くありました。個別に話を聞きながら、本人の不安を取り除こうとしてはみたものの、結局、退所のギリギリまで落ち着かない生活を送らせてしまいました。未だにどうすれば良かったのか考えてしまうことがあります。それでも、本人からも何度か電話で報告を受け、色々課題もありながらも高校生活を続けており、何より学校が楽しいと言っていたので胸をなでおろしているところです。

 二年目の楽山寮は昨年から残った子が多く、七名で新年度を迎えました。今年こそは色々なことに挑戦してみたいと思っています。家庭学校ではその施設の性質上、自由に外出したりすることが出来ません。それだけに、いかにして子どもたちを楽しませ、目的意識を持たせることが出来るかということになると思いますが、今年度は、寮の畑には毎年蔬菜班から配給される苗のほかに、以前から育ててみたかった山芋やゴボウ、また、北海道ではあまり馴染みがないのかもしれませんが、ハウスの中でサツマイモも育てています。また、子どもたちも自ら育ててみたい野菜の苗を蔬菜班や分校の先生から譲り受け、毎日丁寧に世話をし、収穫の時を今から楽しみにしています。その他、草刈りや環境整備等も不十分ではあるものの、「自分たちが暮らす寮をきれいにするのだ」という意識をもって取り組んでいます。

 当たり前のことではありますが、こういった何気ない取り組みが子どもたちの意識や考え方を変え、日々の生活の向上や自信につながっていくのではないかと思います。逆に言うと私にはそれくらいしかできませんが、子どもたちと共に当たり前のことを大切にし、子どもたちが当たり前に普通に生活していける力をつけてあげたいと思っています。そんな雰囲気の寮になればと願いながら、日々の生活を続けています。

2016年07月号

お世話になります!

望の岡分校教諭 河端信吾

忘れもしない、あれは四月一日の朝のことです。ナビゲーションシステムを見ながら、自宅から望の岡へ。遠軽で育ったはずなのに自信がなく、近代科学のお世話になりながら、家庭学校の門までたどり着きました。思ったよりも近くて、これなら、冬の通勤も大丈夫だなあ、と思いながら敷地内へ。さて、そこからが問題であり、近代科学は全く役に立たず、頼りになるのは、自分の勘だけ。当然、役に立たず。そうすると、坂の上の方から犬を連れて歩いてくる男の子が・・。車を降りて「おはようございます。望の岡分校は、どこにありますか?」と聞いてみると、男の子は、きりっとした顔立ちで、とても礼儀正しく、「おはようございます!この坂を上がってください。そこにあります!」、と教えてくれました。正直に言って、望の岡分校のことを、詳しく理解していないことに加えて、家庭学校のこともまた同様の自分にとって、今回の異動は、不安が全く無かったとはいえませんでした。しかし、この朝のできごとで、ものすごく温かな気持ちになることができたことを、今でも覚えています。かわいい犬は「ごぼう」ということを後から聞いて、面白くもあり、考えさせられる名前でした。「なぜ、ごぼうなのかな?」。

家庭学校、そして分校のあたたかな職員の皆様にお世話になりながら、そして明るく、元気な児童・生徒に囲まれながら、もう少しで三ヶ月が過ぎようとしています。とても美味しい「給食」、すてきなご馳走と、楽しい出し物の「誕生会」、少々?痛かった「花見の会」、ハイレベルで「これがレクなのか?」と思ってしまった「レクリエーション」、そして何より、ヘルメットをかぶって勤務することは、人生初でございます。もともと作業服を着て仕事をすることは好きな方なのですが、ヘルメットにノコギリは新しい自分の発見とスキルアップというところでしょうか。ありがとう「作業班学習」。

 私は、新任の時に、職場をともにしていただいた大先輩から、「経験に勝る教師はなし!」と教わりました。およそ百年前に「留岡幸助」先生が設立し、その精神が脈々と受け継がれている「家庭学校」そして、設立八年目を迎える「分校」での様々な経験を通して、さらに自分を成長させていきたいと思います。そして、これまでの私自身の経験から得たものを合わせながら、微力ではありますが、子どもたちのために、頑張っていきたいと思っておりますので、よろしくお願い致します。

2016年07月号

よろしくおねがいします

望の岡分校教諭 原田綾子

 四月一日、北見市立上常呂小学校より着任しました。はらだ・あやこです。

三カ月が過ぎました。新しい環境に少しずつですが慣れてきたところです。 

四月からの毎日は、二〇数年の教員生活では味わえなかった体験がいっぱいです。特に、午後の作業活動では、山林部の活動を一緒に行っています。家庭学校内の山の中に入り、チェーンソーで木を切り倒す作業の様子を初めて見た時は、映像ではない本物の活動に驚きました。そして、のこぎり一つ使えない自分も発見することができました。この年でも、新しい経験ができることに今はわくわくしています。

そして、お昼に食べる給食はとってもおいしいです。幸せな気持ちになります。子どもたちのモリモリ食べる姿も納得です。先日、誕生会にも参加させていただきましたが、本当に最高でした。でも、小盛にしました。食べきれません…。

 まだまだ力不足で皆さんにご迷惑をかけることも多くあると思いますが、子どもたちと一緒に、望の岡でたくさんのことを学び、毎日を幸せに過ごしたいと思います。よろしくお願いいたします。

2016年07月号

四度目のよろしくおねがいします

望の岡分校教諭 永田健司

 四月一日より北海道家庭学校内にあります遠軽中学校の望の岡分校に着任し、三か月が過ぎようとしています。

 家庭学校とは八年前からいろいろな形で関わりを持たせていただいてきました。最初の一年間は家庭学校で時間講師として生徒に勉強を教え、翌年からの三年間は新設された望の岡分校の期限付き教諭として、その後の四年間は家庭学校に籍を置く生徒も通う遠軽高校の定時制で。最初のかかわりから切れることなく家庭学校との縁が続いています。

 四年ぶりに、職場としての家庭学校に足を踏み入れた時に、懐かしさとともに、不安も少し感じました。四年前に勤めていた時と生徒も入れ替っているだろうし、いる生徒の雰囲気も、きっと変わっていると思っていたからです。

 でも、その不安は門を通り抜け、百メートルほど先で払拭されました。楽山寮の生徒たちが、通りがかる私に大きな声であいさつしてくれたからです。その中には私の知っている生徒はいなかったけれども、みな、まぎれもなく「家庭学校の子供たち」だったからです。

 また再び、家庭学校の職員さんたちとともに子供の成長を願って仕事ができることに幸せを感じながら、今日も一日楽しく過ごしてしまいました。これからも、生徒たちの成長を家庭学校、分校関係なく喜びあっていきたいなと思っています。

2016年07月号

「大自然の感化と人間力」

編集委員 大泉溥

 戦後『一群』第一号は昭和二十三年十二月十九日の発行で、この数ヶ月前にその編集母体、生徒たちの自治組織「一群会」が再建されています。昭和五年創刊の『一群』(戦前版)も、こうした性格のものであり、現在のような北海道家庭学校の機関誌となったのは、井上肇先生が編集顧問になられた第八四号(昭和二十五年一〇月)以降のことです。この性格変化を生徒の質的変化(低下)に帰する向きもあるようですが、それは本誌前号掲載の家村昭矩「寮新聞・通信」が一九七〇年前後からの刊行なのと矛盾するので、検討が必要です。

一、『一群』再刊に見る生徒たちの気概

 再刊初期の『一群』の末尾には必ず「来週の寄稿者」(職員一名と生徒四名:各寮一名ずつか、月刊でないことに注意)が指名されています。一群会編集部から指名されることはとても名誉なことだったようです。そんな当時の生徒たちの自己認識を端的に示すのが、第一号掲載の「梢の南瓜」です。

 「一面白銀におほわれた十二月の中ばになって洗心寮横の野菜部の南瓜畑の松林のはずれの細木の梢に人々から忘れられながらつるさがっている一個の南瓜がある」というのが、その書き出しです。彼は、この南瓜の蔓が親の暮らし、この木の梢までやってきて、花を咲かせた。その南瓜の実が現在の私たちだというのです(当時の職員の子である筆者などはさしづめ土手南瓜なのかも?)。土地の養分、つまり社会の恩恵を受けて私たちが育ったのは確かだが、場所が場所だけに気づかれず、収穫されないままだった。それが良いものなら早晩、誰かが気づき、愛されることだろう。もし良くなければ、「いたずらに子供たちの石投げの的となる、つまり馬鹿にされるだけである」。立派な南瓜なら、たとえ木の梢のものでも大事につかわれ、後々までも「あの南瓜はうまかった」と思い出される。それゆえ、「不幸な時でも社会の師走の風波にうちかって、立派な人間になるように心がけようではないか」と呼びかけています。

 なお、この文を書いた生徒は、第二号から全八回にわたって「私の一生」を連載しています。「私は猫である。猫は猫でも三毛猫で、夏目先生の猫とはちと違う」で始まる、生後間もなく野原に捨てられた子猫の物語。すなわち、さまざまな遍歴を経てようやく適当な家に辿り着く。それも束の間、野良猫の時にあめた残飯や腐りかけた魚などを空腹に耐えられず食べては下痢を繰り返していたのが再発、ついに絶命し庭に埋葬された。結局、「浮浪生活といふものは絶壁」であり、「人生を短縮する」ものだという。これは当時かなり評判となり、第十一号の編集後記にも特記されています。

 「しっかり勉強して立派な人間になり、新しい日本社会をつくるために頑張ろう」という表現は「覚悟」とか「決心」などとともに、よく見られます。家庭学校の常任理事会(東京)決定として交付金の打ち切りと独立自営を今井校長より何の方策もなく、一方的に通告された社名渕分校。食料配給の受け取りで運賃が支払えず、巷に溢れる浮浪児たちに対処できないだけでなく、運営難から生徒数が二〇名を切って存続の危機に陥っていた。分校職員たちは「家庭学校同志会」を結成し、主体的に復興再建を志向し必死に模索している姿があった。『一群』再刊それ自体が当時の生徒たちの心意気を示すものでありました。

二、大自然の感化とは

 年が明けて、昭和二十四年は大吹雪が幾度も襲来、まさに厳冬でした。積雪で埋もれた校門から樹下庵までの三〇〇間道路の道付け(除雪)に奮闘した作業結果を個人別に集計した記録が掲載されています。上位の一〇名には「いくらか賞金を差し上げます」という付記には、ちょっと驚きました。

 第五号(二十四年三月六日発行)から「ひとむれ日記欄」が始まります。これがなかなか味のあるものでした。

たとえば、

「三月一日 火曜日 雪のち曇

 昨日ヨリ吹雪ハ朝ニハ雪ガ弱マリ、少シ降ッテイルダケデアル。雪ハ一日デ三尺位モツモッタ。石上館ナドハ雪ニウヅモレテ(本館からは)見エナイ位デアッタ。午前中ハ学科、本読ミヲシタ。午後ハ全員各寮ノ仕事、主ニ除雪デアッタ。夜ニハ天気ガスッカリ良クナリ、空ニハ星ガキラキラト光ッテイタ。」

とあります。二日続きの大吹雪のさまがとてもリアルに表現されており、生徒たちのウンザリした気分が伝わってきます。しかも、その翌日の記録は、さらに魅力的なものです。

「三月二日 水曜日 晴

 今朝ハ本当ニ寒カッタ。北海道ノ寒サトイウモノガ、ツクヅク身ニシミタ。先生ヨリ、『此ノ寒サヲ防グニハ薪ヨリ他ニナイ』ト言ハレ、薪ヲ沢山作ラウト思ッタ。今日モ午前中ハ学科ヲシタ。午後カラハ、各寮ノ仕事、教場ノ除雪等デアッタ。昼間ハ晴レテイタガ、夜ハ星一ツ無イ曇空デアッタ。」

 この号には、この日記の記事とは別のページに、グラフが掲載されています。そのグラフによれば、二日の朝は零下三〇度で他の日よりも二〇度も差があります。そんな時には、何をどうやっても寒さが「骨身にしみる」。そこでの「薪より他にない」という先生の言葉が、山林からの薪出し薪割りの辛さを乗り越えさせ、やはり「薪を沢山作ろう」という生活の必要となり納得した。「大自然の感化」はそのままでは寒さに震えさせるだけで、何にもならない。それが生徒たちにとって価値ある生活となるには、先生の言葉かけが不可欠だった。その機会を逸してしまい、後からクドクド言われても、生徒には煩わしいだけ。もう寒くはないのですから。

三、自然を愛し、これを生かす人の力

 そのような観点からすれば、第十号(四月一〇日発行)の、次の日誌も興味深い。

「四月八日 金曜日 吹雪

 今日は道付けに行く日だが、雪降りのため行けず。午前中は学科、午後は各寮の除雪。……(中略)……尚、○村君のお父さんが此の雪降りの中をわざわざいらっしゃった。」

「四月九日 土曜日 曇後晴

 二日続けて降った吹雪も、今日は休んで晴れて来た。……(中略)……今日は、僕達と一年半以上も一緒に暮らした○村君が、お父さんと一緒に卒業された。」

 至極簡単な記事ですが、息子を引き取るために「二日続きの吹雪」の中を遠軽の駅から四キロ、徒歩でやって来たお父さんの姿を目の当たりにして「わざわざ」と記し、それによって実現した○村君の卒業を祝福し見送る生徒たち。それは、自分の家族を思い、明日の姿と重なっていたことでしょう。そうなるには、大自然の中で一緒に暮らしてきた人間としての「まともさの感覚」がとても大切です。なぜならその感覚が惹起する感動だからこそ、人格の陶冶となるのだから。つまり、これは「生活が教育している」事実を示す卓抜な記録です。

 以上、戦後初期の生徒たちが残してくれた記録を「大自然の感化」との関係で見てきました。それにしても、なぜ、校祖留岡幸助先生は南国の温暖な所ではなく、こんな極寒の北辺をあえて校地に選ばれたのか。従来よく語られてきた「力田而食」、「流汗悟道」などで働くことの意義は分かるのですが、それだけでは前問への答にはならない。それで、彼らの生活記録、自然のきびしさとそこから逃げずに生きる主体の変化に注目してみた。大自然における感化は潜在的なので、少年だけでは感得具現できないこともある。自然は「人の力」によって初めて「生活」の問題となり、生活は「人の力」によって家庭や学校、地域の社会的課題となっていく(奥田三郎『ひとむれ』第二〇四号)。つまり、大自然の感化は暗渠精神などとも響き合って、留岡清男先生の記念碑にある「造化の功」の基盤的理解に繋がり、教護職員の位置と役割を考える上で重要な視点だとした次第です。   (大泉溥:日本福祉大学名誉教授)

『ひとむれ』欠号の探索(お願い)

      百年史編集委員会事務局

 『百年史』編集の関係で、『ひとむれ』バックナンバーのデジタル化に取り組んでいます(担当:大泉溥)。しかし、家庭学校所蔵のもには以下のものが欠落して在りません。もし当該の号をお持ちの方、その所在がお分かりの方は、是非ご一報ください。

・第七一号(昭和二十五年七月二十三日 発行)第二~三ページ欠落

・第八六号(昭和二十五年十二月?発行) 全部欠落

・第一二九号(昭和二十八年五月?発行)

 全部欠落…『ひとむれ』五〇〇号所蔵 の総目次によれば、作業部だより(野 菜、木工、兎蜂、掃除衛生、養鶏、山 林、各部)

・第一三〇号(昭和二十八年八月?発行)

 全部欠落…『ひとむれ』五〇〇号所蔵 の総目次によれば、みえざる手、サナ プチを歌える(矢部)、お便り。(なお、 婦人会復刻「見えざる手」全四頁の文 末に「一九五三・七・二〇」とあり、時 期が少し合わないかもしれない)

・第一五六号(昭和三十年九月?発行) 全部欠落

・第二二二号(昭和三十六年六月七日発 行)三~四頁が欠落

・第二二六号(昭和三十六年十一月九日 発行)全道教護研究協議会(於:北海 道家庭学校)報告資料(挟込付録)B4

四枚の数表にはファイル用パンチによ る数字欠落部分の復元が出来ない。

 以上です。よろしくお願いいたします。