このコーナーでは、家庭学校の月毎の機関誌である『ひとむれ』から一部を抜粋して掲載しています(毎月上旬頃更新予定です)。
 職員が、家庭学校を通じて感じたことや伝えたいことを表しています。是非、ご感想をお聞かせください。
※都合により『ひとむれ』本誌と内容が異なる場合がございます。ご了承下さい。


2016年03月号

「社会的養護の一翼を担って」

校長 仁原正幹

 誰にとっても「家族」は掛替えのない存在でしょう。特に子どもにとっては、この「家族」で構成する「家庭」が重要な意味を持ちます。「家庭」において、信頼関係をベースにして、愛されているという安らぎ感、守られているという安心感を得られることによって、子どもは健やかに育っていくことができます。

 ところが、児童虐待や子どもの貧困などの問題により、「家庭」において適切な養育を受けることができない子どもも残念ながら少なくありません。これらの子ども達に対しては、「家庭」に代わる公的な機能によって養育や保護を行うことが必要となってきます。

 近年「社会的養護」という言葉がよく使われるようになってきました。保護者のいない児童や、保護者に監護させることが適当でない児童を、公的責任の下に社会全体で養育し、保護するとともに、養育に大きな困難を抱える家庭への支援を行うことを意味しています。

 児童福祉の体系の中で、「社会的養護」の対象となる児童の受け皿としては、乳児院、児童養護施設、情緒障害児短期治療施設、里親、ファミリーホーム、自立援助ホーム、そして児童自立支援施設があります。中でも児童自立支援施設の場合は、とりわけ対応が難しくなった子どもの最後の砦のような存在となっており、保護者や学校、市町村、警察、家庭裁判所、他の児童福祉施設などからの熱い期待のもとに、児童相談所の措置決定により、子ども達が入所してきています。

 北海道家庭学校には、家庭から直接入所してくる子どももいますが、児童養護施設や情緒障害児短期治療施設、里親からの措置替えで入所して来る子どももいて、常時全体の三分の一ほどを占めています。中にはその前に乳児院の入所歴もあって、生まれて此の方ほとんど家庭で育ったことのない子どももいます。

 施設や里親宅での生活の中で問題行動が顕著となり、いろいろな事情が重なって家庭学校に来ざるを得なくなった子ども達ですが、私としてはなるべく短い期間で改善させて、元の施設やできれば家庭に戻してあげたいと思っています。いくら開放処遇といえども、児童自立支援施設は社会と隔絶された指導・支援の場です。お金もケータイも持てず、通信も制限され、外出もままならないので、あまり長くいると社会適応に支障を来たし、自立が遅れると思うからです。

 家庭や養護施設や里親さんから一方通行で家庭学校に辿り着くのではなく、早めに来て早めに元の場所に戻れることが理想だと考えています。

2016年03月号

百年史の編纂について

編集委員 校長 仁原正幹

 北海道家庭学校は百年の歴史の中でどのような歩みを進めてきて今日に至ったのかを検証し、そして今後何を目指していくべきかという大命題を考察するために、創立百年目を迎えた平成二十六年度から、創立百周年記念事業の一環として『北海道家庭学校百年史(仮称)』の編纂作業を進めてきています。

 編集委員長には永井信理事長が就き、副編集委員長には近代日本の感化教育史研究の第一人者で『留岡幸助と家庭学校』の著者としても知られる北海道教育大学旭川校の二井仁美教授に引き受けていただいています。

 その他の編集委員をご紹介しますと、日本福祉大学の大泉溥名誉教授、国立きぬ川学院の富田拓医務課長、遠軽町教育委員会の河原英男教育長、北見市立東小学校の森田穣校長など、外部の識者の皆さんにも就任していただいています。法人役員としては、名寄市立大学特任教授の家村昭矩理事、北海道家庭学校博物館長の佐藤京子理事、前校長の熱田洋子理事、現校長の私も参加しています。施設の現職員の中からも、軽部晴文企画総務部長、泉親志自立支援部長、平井敬二次長、姜京任心理士が加わり、総勢十四人で編集委員会を構成しています。

 編集委員の中には、愛知県や埼玉県など遠方にお住まいの方もおられ、また、各委員それぞれが多忙であることから、調査、研究、執筆などの作業に大変ご苦労をおかけしています。今のところ平成二十九年九月の創立記念日を目途に百年史の「本編」を発行することを目指しており、二月十二日に開催された第三回目の編集委員会では、二井副編集委員長から執筆要項案が提示され、編集方針や今後の具体的な作業の進め方などを確認し合うとともに、執筆者毎に進捗状況などが報告されたところです。

 また、編纂作業がいよいよこれから佳境に入ることから、作業全体の調整・推進役としての編集局長の設置が必須ということになり、軽部企画総務部長が選任されました。

 これからは時折『ひとむれ』誌上で百年史編纂作業の進捗状況やトピックスなどをお伝えしていきたいと考えています。今号はまずは第一回目ということで、副編集委員長の二井教授と校長の私から、百年史編纂の考え方や編集委員会の概要などをご紹介させていただくことにしました。

今後は各編集委員、執筆者の皆さんからリレー方式で寄稿していただきながら、『予告編』のようなイメージで断片的にでも少しずつご紹介できたらと思っています。多くの皆さんにお目通しいただき、『北海道家庭学校百年史(仮称)』編纂作業へのご意見やご感想などもお寄せいただければ幸いです。

2016年03月号

百年史編集委員会について

副編集委員長 北海道教育大学 教授 二井仁美

 北海道家庭学校に長年お世話になり、『留岡幸助と家庭学校』を刊行させていただいたご縁で、永井理事長さんからご依頼を受け、百年史の編纂に加わらせていただくことになりました。副編集委員長を仰せつかり大変光栄に存じます。

 編集委員会では、この度の百年史編纂の目的を、北海道家庭学校百年の歩みと理念・現状・課題を社会に伝えることだと考えています。換言すれば、北海道家庭学校とは何か、そのアイデンティティを熟成させるということです。

 編纂の基本方針として、一点目は、職員と在籍児童に焦点をあて、地域との関係を視野に入れ叙述すること、二点目は、家庭学校の現職員とその他の編集委員との協働により作成すること、以上の二点をとくに意識することを確認しました。

 さて、校長先生からもご紹介のありました外部編集委員について、私からも少し補足してご紹介させていただきます。

 まず、大泉溥先生は、北海道家庭学校の職員でいらした大泉栄一郎・ヒサ夫妻(掬泉寮長・寮母などを歴任)のご子息で、長じて研究者となられた方です。『障害者の生活と教育』、『日本心理学者事典』、『日本の子ども研究』、『教育と保護の心理学』等、数多くの編著書を発表されていらっしゃいます。障害児学校寄宿舎研究会代表として寄宿舎研究を牽引され、かつ心理学史研究に貴重な業績を重ねられてきました。家庭学校の『創立百周年誌』に先生が寄稿された文章は、夫婦制寮舎に育った職員の子としての省察に、研究者としての洞察が加えられた、既往の研究にはない魅力的な家庭学校職員論です。編集委員として先生がお書きになる原稿は今からとても愉しみです。

 次に、富田拓先生は一九九五年から五年間、北海道家庭学校に「教護」として勤務され、山林部二班の部長と、後半の三年間は掬泉寮長として奥様と共に寮舎の運営にあたられた、児童精神科医です。現在はきぬ川学院と武蔵野学院という二つの国立児童自立支援施設の医務課長を兼務されています。医師として児童自立支援施設の子どもと職員を広い視点からみつめることのできる専門性と、寮長、作業班部長として、また生活者として家庭学校を知る先生が、多忙な時間を裂いて家庭学校の歴史を分析してくださることは、全国の児童自立支援施設の研究にも資するものになると思っています。

 第三に、地元遠軽町教育委員会教育長の河原英男先生です。一九九七年の児童福祉法改正により、児童自立支援施設の在籍者に就学を保障することになりました。それを受け二〇〇九年、遠軽町は北海道家庭学校の本館内に遠軽中学校と東小学校の望の岡分校を開設しましたが、その際、河原先生は、流汗悟道という言葉に象徴される家庭学校の作業教育や自然の中での教育を大切にされ、家庭学校の歴史と理念を生かしながら学校教育を実施する道を準備されました。全国的にも注目すべき分校の開設となりました。そして、河原先生のご指名により分校開設の一年前からその準備に当たられ、初代望の岡分校教頭として家庭学校との連携協力の道筋をつけられたのが森田穣先生です。森田先生も、家庭学校の楽山寮の寮長・寮母であった森田芳雄・多恵子ご夫妻のご子息として家庭学校で育った方です。河原先生と森田先生が共同で編纂にご協力くださることが、百年史をより豊かなものにしてくれると思います。

 未熟者の私は、多彩な歴史と膨大な資料を前に、仰せつかった重責に身の引き締まる思いでおります。しかし、素晴らしい委員の方々のご協力を得て家庭学校の歴史を紡ぐことができますことは本当に有り難いことです。『ひとむれ』の読者の皆様におかれましても、どうぞご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いします。

2016年03月号

冬の風呂焚き

石上館生 ショウ

 冬の風呂焚きはとても大変です。なぜなら夏に比べて温度が低く温まりずらいからです。夏だとだいたい1時間をきるくらいで焚けますが、冬だとそうはいきません。前の日に焚き終わりで80℃あっても、次の日の朝には40℃をきっていることもあり、さむくなればなるほど焚く時間がどんどん長くなります。

 風呂焚きは、焚きつけ、薪たし、お湯入れと作業は多くありませんが、薪たしのタイミングを間ちがえると火が消えてしまったり、多く入れすぎると温度が高くなってカマに負担がかかってしまいます。なれるまでは、時間がかかり、うまく焚けないとまわりから文句をいわれることもあります。

 それでも前にいた柏葉寮よりずいぶん焚きやすくなりました。柏葉寮だと2時間から2時間半ぐらいかかっていました。今では、自分もだいぶなれて冬場でも1時間半ぐらいで焚けるようになりました。あと、薪がかわいていたら、もっと早く焚けることもあります。薪は、焚きつけに使うまでに半年はかわかさないと、もえるようにはなりません。

 こんな大変な風呂焚きですが、いいこともあります。カマのそばにずっといるので、冬場の作業では、一番あたたかいです。あと、作業の間に手伝いにでるととてもたすかるとよろこんでくれます。自分は、今後は風呂焚きをするきかいはありませんが、ほかのところではすることもできないので、大事な思い出になりました。

2016年03月号

楽しかったスキー学習

楽山寮生 コタロウ

 僕は、此処に来てスキー学習を体験しました。僕は、殆どスキーやった事が無くて、此処では沢山スキーやると聞いて、正直嫌だなと思いました。家庭学校では、敷地内にある大きな山に、リフト等も自分達で設置しています。最初その山を見たとき、此処をスキーで滑るのかと思うと、とても怖かったです。

 一月一八日から、スキー学習が始まりました。家庭学校の先生の他に、遠軽の自衛隊の人達が来て、スキーを教えてくれました。初めのうちは、山の平らの所まで登って滑り降りてくる事も怖かったので、山の頂上から降りてくるみんなを見て、すごいなと思いました。それでも、二日間で、山の頂上から、綺麗ではないけれど降りてくる事が出来るようになりました。その時は、とても達成感に満ちていました。

 スキー学習は一月一八日から一週間で終わりなのですが、スキー大会があります。一月二十八日にスキー大会一種目目の『距離』がありました。坂道を長い間スキーで登って最後に滑ってゴールといった競技なので、四種目あるスキー大会の中で、一番疲れました。みんなより記録は劣っていたけど、完走できたので、良かったです。二月五日に二種目目の『滑降』がありました。いつもとは違う山で滑りました。滑降は、ゆるやかな坂道のコースを早いスピードでゴールに向かう競技で、滑っている時、とても気持ち良かったです。二月十二日に三種目目の『大回転』がありました。四本のポールをターンでくぐり抜ける競技で、大きく回る事が難しかったです。二月二十三日に四種目目の『回転』がありました。前日に小回りの練習をしたので、今までの大会の中で一番上手く滑ることが出来ました。

 スキー学習開始時の自分と今の自分を比べたら、スキーがとても上手くなったなって思います。自衛隊の人や、先生に色々な技術を教えてもらいました。まだ、みんなのレベルにはついていけないけれど、二月二十五日の『寮対抗リレー』のときに『距離』の大会と同じコースを滑ってみたら、今の方が約九分早く滑れるようになりました。たった一ヶ月で、こんなに上手くなれるとは思っていませんでした。最初は、スキーが嫌だったけど、今はちょっと楽しいと思えるようになりました。来年もスキーを頑張りたいです。

2016年03月号

雪像制作でがんばった事

掬泉寮生 トモヤ

 雪像制作に取り組み始めて、作る前にコンテナというわくの中に雪を入れて、準備をしました。ふんでみた時、初めてなのでどうなっているか、分かりませんでしたが、ちゃんと作れていて良かったです。

 そして、僕が雪像制作でがんばった事は、まず形を作る事です。かたっぽずつほってて、少しほっては反対へ、少しほってまた反対へやっていきました。少しほって上ほって形を整えていきました。一番むずかしかったのは〝えんとつ〟です。中を少しほり、上の4㎝くらいを残して下のはばをせばめました。次に〝小部屋〟もむずかしかったです。最初は窓にしようと思って、ほっていましたが、こわれてしまい、小部屋にしました。次の、ドアもむずかしかったです。最初、とって(持つ所)はほらずにいましたが、とれてしまったので直しました。次の窓は、向きの違う四角にして、ほりやすくしました。最後は〝家の中〟です。作るには、自分くらいすわって入れなければいけないと思い、僕は入れるようになりました。他にも、工夫はありました。後ろのかべに屋根をほって立体にしてみました。

 自分のは、少し低くて、けずる時間が短く、良かったです。ボリュームは、減りましたが、無事に作れたので、良かったです。作り始めの時、かたっぽずつ掘っていて、両方のバランスがとれてなくて、少し小さくなりました。ですが、少しでも作品といえば作品らしい形になっていて、よかったです。

 賞はもらえませんが、自分の持つ技術を最大限、フルにだせたので、賞以外に、自分のものにできたのでよかったです。これからもやるべきことを、がんばっていきます。