このコーナーでは、家庭学校の月毎の機関誌である『ひとむれ』から一部を抜粋して掲載しています(毎月上旬頃更新予定です)。
 職員が、家庭学校を通じて感じたことや伝えたいことを表しています。是非、ご感想をお聞かせください。
※都合により『ひとむれ』本誌と内容が異なる場合がございます。ご了承下さい。


2011年11月号

家庭学校と分校の研修旅行

校長 加藤正男

本館から桂林寮を通り礼拝堂に向かう道は、桂の甘い香りが漂います。冬の知らせを呼ぶ雪虫が飛び交い、木々の落ち葉が道を覆い尽くしています。

礼拝堂の木造部分や古い校舎の木造に赤げら(きつつき)がこんこんと穴をあけているのが見えます。礼拝堂やみそ小屋のあちらこちらにブリキで修理した跡があります。森の中にある木造建築建物には、この被害が避けられないものかもしれません。

10月5日から2泊3日の研修旅行を生徒と職員・分校の先生と共に私も同行していきました。今までは出張があったり来客の予定が入ったりで、初めて生徒たちとの研修旅行でした。

みんな決まりを守って楽しい思い出にしようという目標が、ひとむれ会(生徒会の名前は従来からひとむれ会との名称です)理事生徒により決めました。

前日にはひとむれ会が開かれ、研修の目的・内容についてそれぞれ担当の理事から説明があり、その後一人ひとりが個人の目標を発表しました。「みんなに迷惑をかけない」「テンションを上げすぎない」「ひとの話を聞く」「理事として、みんなの模範となる」等決意を皆の前で発表しました。

当日は天候もよく、足寄に向かい、最初にペレット工場見学・足寄の動物化石博物館での体験学習・化石のレプリカづくりです。ネイパルあしょろで宿泊です。施設には体育館があり、生徒たちは夕方食事前にバスケットで汗をかいています。夕食後のレクリエーションでは8チームにわけて体育館でのフロアカーリングを行いました。小学6年生も16歳の中卒生も和気あいあいとゲームを楽しんでいました。

3人の生徒と同じ部屋で泊まりました。一緒に風呂に入ったのですが、寮長先生も日頃指導はしているのですが体をきちんと拭いて出ることはできません。寮長から、やり直しを言われ身体を拭き直して、浴室から出ます。次の日雨となってしまい外でのカヌー体験は中止となり、室内でオカリナのデザイン・彩色です。絵の苦手な生徒も楽しそうに取り組んでいます。午後は、雨もやんできました。帯広の動物園です。人はあまりいませんでしたが、カンガルーの格闘している姿や、ゾウやチンパンジー・キリンなどの動物が見られました。歩いているとエゾリスが木々の間を飛び回っています。遊具を特別に動かしてもらいます。その日は十勝川温泉の宿泊です。自由時間は同室の生徒と五目並べや囲碁をしましたが、いずれも生徒に勝てませんでした。夕食はホテルのバイキングでご飯やそばを何杯もお代わりしている生徒、それぞれが普段とは異なる食べ方を楽しんでいます。ソーダやコーラそしてアイスなど何度もお代わりをしています。

次の日は大雨となりました。阿寒湖コタンでの古式舞踊やムックリ講習・アイヌについての講話です。午後は阿寒湖遊覧船に乗り、チュウルイ島マリモ観察です。雨の勢いは強く、雨のカーテンで山々は隠れてしまいましたが、阿寒の自然を守り、阿寒を大切にした人々の志を感じながら、遊覧船の中から阿寒湖をめぐりました。買い物の時間にはそれぞれが、3000円と言うお小遣いの範囲で考えながら買っています。光りものは対象外です。3日目の夜7時40分、家庭学校の本館前で解散式です。

留岡幸助先生、27歳の1891年、5月に空知集治監の教誨師として赴任しました。その年の9月23日から10月28日にかけて、釧路分監の教誨用のため出張を命ぜられ道内を馬や船でめぐる旅に出かけています。札幌までは汽車です。札幌在住の支援者に受刑者のための雑誌発行の件について協力を求めた所、その維持継続の難しきこと諭されています。9月24日、新渡戸稲造氏に初めて会います。「予は初めて新渡戸君に面す。実に快活の人にして才気、面にあふれる。しばし談話中監獄のことに及ぶ。・・氏は米にありて、しばしば監獄の書を読みまた監獄を訪問したりと。おもに見しものは米国フィラデルフィアおよびドイツベルリンの監獄なり。実に整頓したるはベルギーの監獄なりきと。話は弾み翌日も新渡戸稲造氏の家を訪問し、種々の監獄上の意見を語りあい、新渡戸氏のメリー奥さんと3人で夕食を囲んでいます。

次の日は、札幌地方監獄で300名の受刑者に講話をしています。

29日、朝7時馬に乗って苫小牧をめざします。途中島松にて実業家の中山久蔵氏の家に休憩しつつ苫小牧についたのは夜9時でした。

次の日、馬を雇い太平洋沿いを行きます。アイヌの人たちと出会い、日記にこう記載してあります。「・・・総じて容貌日本人より鋭く品格あり。ただ欠けたるは教育の点のみ。余の考え誤りなくんば、教育のいかんによっては「アイヌ」は日本人よりはるか上等の人種と思わる。アイヌの美風 老人を尊ぶという。老人の一言非常に価値ありと言う。また「アイヌ」の「メノコ」即夫人はけっして裸体を人に見はす事を恥ずという・・」

さまざまなアイヌの習慣について貪欲に学んでいます。

10月10日には釧路の集治監にたどりつき教誨師原胤昭氏とともに出獄人保護会社の設立・雑誌の発刊等につき規則書および意見書を作っています。

その後網走分監獄そして佐呂間湖を周り遠軽です。囚人を道路建設に充てるという当時の明治政府の方針に沿って網走から旭川を目指し縦断道路の建設です。道路建設のため途中に作られた9の小屋(現在の遠軽町瀬戸瀬)での教誨です。「水腫病に罹患しているもの72名あり、苦悶の声もっとも哀れなり。この夜、隙間より漏れて吹く風のためにさらされて、一夜を辛くすごす」その後も12の小屋で、182名に30分の話をしています。受刑者は1年ぶりの教誨に感謝はされたのですが、気候の厳しさ、労働の厳しさ、特に食糧事情から病気になり命を落とす受刑者も少なくありません。各小屋を周り受刑者と共に宿泊しながら話をして夜、記録をとっていた幸助先生の思いはどうだったのでしょうか。空知集治監でも炭鉱の事故により、受刑者の命が失われています。炭鉱労働に従事することを何とかやめさせよう月形監獄の大井上氏と語りあったのに違いはないのです。(留岡幸助日記第一巻133㌻から153㌻)

10月12日はマラソン大会でした。6月にもマラソン大会はありました。その時に試走したAくんは入校したばかりで、ほとんど歩いていました。

私は、10キロレースで一番最後のところを任されたのですが、私自身の練習不足で前半A君に離されてしまいます。追いついたのは折り返し地点で、そのほかの生徒たちも当然のことながら、登り道の厳しいところを、途中諦めることなく走ることができました。各寮で毎日走るとかのトレーニングをしているわけではありませんが、家庭学校の寮生活・本館での学習・作業場面等日常の積み重ねが、生徒たちの体力をつけていると実感しました。

特にA君は、今年の6月のマラソン大会では、完走も厳しい体力でした。前回の記録は2時間近くかかったのです。今回は、1時間20分です。体力の成長は非常に見える形で出ると言う事を実感しました。

学習面での成長・心の成長も直接関わる分校の先生、寮長寮母、担当職員には実感する時を感じるときはあるのでしょうが、日常的には、混乱した授業態度になったり生徒間同士で似顔絵を描いて馬鹿にされたと感じた生徒が暴れてしまったり、対人関係の未熟さをかかえた生徒たちに関わっていくことのむずかしさを常に感じざるを得ません。

ひとむれ会を開き全体に自覚を促します。分校の先生と一体となり、学びの環境を確保していかなければなりません。

生徒たちは、ここに来る前にもそれぞれの場において、大人を困らせる、仲間から相手にされない行動の連続となってしまったのです。生徒たちの気づきを、本人の成長を自分で実感できる生活の場がここにあります。

ここでも失敗の連続です。

日頃の先生方の苦労と工夫の積み重ねにより、家庭学校の生活を成り立たせていくのです。

2011年11月号

願い・・・。

高橋 徹

この稿を書くために本館にパソコンを取りに行った。車を降りた時ふと空を見上げた。夜の打ち合わせ後のことであるから時刻19時を回っており、そこには遠軽町留岡らしい夜空〜満点の星空〜が広がっていた。

私は別に天文ファンではない。しかし、父は地域の天文クラブの創立時メンバーであったりして熱心な天文ファンであった。そのため子供の頃の私は随分天体望遠鏡を覗いていた経験がある。観察したことを覚えている天体は、土星や火星などの惑星やオリオン星雲、そして当時話題となっていた(と思う)ハレー彗星を観察した記憶がある。日本における天体は冬の星空が最も美しくかつ有名な星空も多いため自然に天体観測も真冬が多くなる。北海道の田舎の晴れた真冬の夜の寒さは、雪国の住民なら分かってくれると思うが、あまり愉快な気温ではない。下手をすると鼻毛も凍るような「しばれる」夜なのである。そのような環境での天体観測だったが、そういえば私は喜んで夜空を眺めていた。

初めて化石掘りに行ったのも父とである。

私の田舎には割と有名な地層があり、そこに初めて行ったとき確か貝の化石を発掘した。それから暫くの間、暇を見つけては化石発掘に行っていた。ある日、タガネを打ち込んだ土の割れ目から薄茶色の物体が姿を現し、私の手の中に入った。おそらく何かの動物の歯の化石である!円柱が6本ぐらいくっついた様な形をしていた。その地層では昔、地元の中学生が【デスモスチルス】という古代生物の歯の化石を発掘した事があり、私が発見した化石とそっくりであったので、おそらく同じ生物の歯ではないかと今でも信じているが、その化石は小学生の頃であったため宝箱に隠しておき、引っ越しの時に紛失して以来行方不明である。今なら北見文化センターに寄贈して、名前付きで展示してもらうのになあ。惜しい事をしたと思う。

父は本読みであった。そのためか私をよく本屋に連れて行ってくれた。その本屋は今はもうないが、私が高校生の頃までは北見市内にあって参考書など買いに行っていた。古くから北見市内に住んで居る人は誰でも知っている本屋に殆ど毎週のように連れて行かれた。父が偉かったと思うことは、必ず私にも本を1冊買ってくれた事であるが、それより偉い事は、その内容が何であれ何も言わず買ってくれた事であろう。だから私は興味のある書物を学研の科学雑誌からギャグマンガまで幅広く手に入れることができた。だから今までも書店は大好きな場所であり、書店でなら何時間でも時間をつぶすことが出来る。そして本を読むことは今も大好きである。ただし【読書】が趣味ではないが。

当時私は父があまり好きではなかった。勉強の教え方も下手だったし、あまり良いところを子供に見せることが出来なかった様に思える。非常に生意気な様で不愉快に感じる方もおられるかも知れないが、父のことを見直す様になったのは本当にここ最近の事である。思い返してみると先に記したように私は父から多くの影響を受けている事に気づいた。そしてそれはただ生活していれば経験できる事ばかりではなく父が子供と父らしく接しようとしていたと思われる事が多いのである。父が生き返って目の前に居たとして私が素直に感謝ばかりするとは思えないが、思い出の父には感謝することも多くなってきた。私も大人になってきたなあと思う。

考えてみると家庭学校の生徒たちと寮長や職員の関係も割とそのような事があるのかも知れない。寮長と生徒は親子ではないのでその事を前提としてであるが。

家庭学校には非常に優れた自然があり、それを活かした作業が日課として取り入れられている。それは或いは野菜作りであったり味噌づくりであったり或いは山野に分け入っての木材切り出しや薪材切り出しであったりする。作業の一つひとつを取ってみるとかなり辛い作業も含まれるし、寮での作業も一時間ぐらいかけて薪で風呂を焚いたり(毎日である)全員の洗濯をしたりと大変な作業量なのである。しかもその作業の殆どが家庭学校を退所後の生活や学校で直接役立つという性質のものではなく、どちらかというと自然体験や作業を通して掴むことが出来るであろう精神性や人生を長い目で見て必要な人間性の涵養を重視したものとなっている。また、生活指導も多岐にわたる。日常の生徒同士の言葉遣いやレクレーション、職員からの指示に対する返事の仕方などから食事・入浴の仕方、買い物や服装指導、部屋の清掃等の他、学校の授業の受け方についても指導の対象としている。不適切な事柄があれば職員は指導していくのであるが、生徒の方でもいつも素直に指導を受け入れる訳ではない。もちろん非常に順調に精神的にも肉体的にも成長を示す生徒も居るのであるが、生徒によっては指導に対して暴言で返したり、ふてくされたり、無断外出したりして反抗の気構えを示す。その理由も実に様々である。或いは単に大人への反抗であったり、或いは指導そのものが理解出来なかったり、或いは発達障害を抱えていたりである。寮長としては生徒が生徒自身の未来に向かって適切に歩んでいけるようにと考えて指導しているのであるが、当の生徒はむしろ職員よりも自分の現在や未来について深く考えていないかの様に不適切言動を繰り返してしまう生徒も中にはいるのである。しかし、反抗しながらでも家庭学校の枠の中で生活・学習しているのであるから、全くその成果が無いと言うことは無いであろう。きっと生徒のどこかでは家庭学校で学んだことが息づいている筈である。たとえ退所後すぐにはそれが発現しなくても、もっと大人になって振り返ってみた時に家庭学校の教育は少年の心に息づいていると信ずる。

家庭学校の少年たちは前途有為な少年たちである。その少年たちの人格形成に大きな影響を与えうる時代に関わる一人として、これからも「不正はしないで普通に責任感のある割と勉強する大人」として生活したい。

いつか少年が「あのオヤジから聞いた事が今役にたっているなあ」と思って貰えたら良いと思う。順調なのが一番だが。