ひとむれ

  このコーナーでは、家庭学校の月毎の機関誌である『ひとむれ』から一部を抜粋して掲載しています(毎月上旬頃更新予定です)。   職員が、家庭学校を通じて感じたことや伝えたいことを表しています。是非、ご感想をお聞かせください。

※都合により『ひとむれ』本誌と内容が異なる場合がございます。ご了承下さい。
2011年10月号

北海道家庭学校創立97年記念日にあたり

校長 加藤正男

急に朝夕の温度が下がり始めました。楢や桂や楓の木々の葉が落ちています。小さめで明るい緑色のどんぐりが落ち始めました。今年のどんぐりは不作で札幌市郊外にもヒグマが出没しているとのことです。遠軽町立東小学校の1年生の児童がバス1台でドングリ拾いの遠足に来ました。

雨が上がった次の日には「きのこ」があちらこちらに出ています。生徒が舞茸を見つけています。らくよう・ぼりぼり・紫シメジなど食べられるものがたくさんあるのでしょうが、きのこの見分け方は難しく、大丈夫と確信できないため、楢林に点々と生えているきのこをながめながら礼拝堂に来られるお客さんを案内しています。

9月24日は、礼拝堂で創立97年記念日の会を生徒と職員で行いました。

私たちの学校の誕生の由来と留岡幸助先生の思いが97年綿々と生きつづけていることを生徒たちに伝えました。

北海道に分校を作ったのは幸助先生50歳の時です。60歳の時神奈川県茅ヶ崎にも分校を作りました。家庭にして学校、学校にして家庭という、世界にも類のない家庭的な雰囲気の中で子どもを育てると言う、画期的な試みです。世界でも普通の家庭の中で育てていくと言うシステムを続けているところは少ないのです。

最初の生徒は、家庭学校と言う名前のせいで、家庭に関する専門学校と勘違いした親御さんから、女子の生徒の問い合わせがきました。初めて留岡家の家に預かった生徒が来たのは、1899年11月24日でした。幸助先生の家には9歳の長男から、四男で1歳の清男さん、長女富恵さん2歳の5人のお子さんの家族です。

夏子奥さんは、最初家庭学校を始めるのは反対でした。我が家の子どもでさえなかなか育てるのは難しいのに、人さまのお子さん、しかも、家での居場所や学校での居場所をなくした生徒たちの世話です。

幸助先生が監獄改良と言う大きな夢をもって北海道に渡り、夫婦ともども3年間、苦労を共にしました。その後、2年間のアメリカでの留学を支え、いよいよその目で確認した監獄改良の知見を日本で実践してくれると思ったのです。いくら犯罪者を作りださないためには小さい時の養育環境が大事との幸助先生の説得に対しても、なかなか同意はできないのです。このことについて夏子夫人は日記にこう記しています。「主人アメリカより帰国後色々ここにしるすことのできる心の苦しみ、誠に誠に2年間のわが心苦しみのみ。わが愚痴より起こるかは知らねども、失望と悲しみにて日を送る、これ主人と私の考えるところの違う故なり。今日まで家の貧しきこともあり、いろいろ困難なることにもあいたれど、失望に陥りしはこの時なり。この時わが心を知りたもうは、神と主人の他はなし。しかし、神の御力により失望に陥りしも後には勝ちました」

生活があまりにも苦しい時代が長すぎたのです。空知集治監に勤めていた教誨師をやめ、単独でアメリカへの留学です。自費です。それまで蓄えた貯金をつかい、幸助先生のアメリカ留学中は、子ども3人をかかえながらの苦しい生活です。生活の支援はありません。空知集治監の宿舎で生まれました二男の励さんは、留岡家のご両親に預け育ててもらいました。三男の幸男さんは、幸助先生がアメリカに留学する1か月前に岡山で生まれました。幸助先生が2年の留学後帰国しても生活は安定しませんでした。私立の施設をやるにはあまりにもお金がかかることです。資産は全くなく、行き詰まる危険性の方が心配です。

帰国して8か月後、東京赤坂霊南坂の牧師として就任しました。次の年、巣鴨監獄の教誨師として採用してくれました。その宿舎で四男清男先生は生まれました。しかし、仏教側からの反対運動にあい、国会でも問題となりました。当時採用されていた教誨師さんは一斉に辞任をしました。東京府の議会では仏教教誨師復旧の要望がなされました。キリスト教は非公認教だと談じる人もあらわれ、キリスト教の教誨師を採用するのはおかしいとの意見でした。しかし、幸助先生の処遇を巡って、さまざまな人が支援しようとしました。当時新たに創設された警察監獄学校の教授として採用され、巣鴨監獄の教誨師を降りることで、この問題は一応おさまりました。警察監獄学校の教授になることによって生活は何とか安定していったのです。

「親切なる母なきために悪少年となってしまった子どものことを思い、家庭の悪しきために悪少年となりたる人のための母親となりたく、常に神様の御力と御助けとを祈り、私は母となるの力なきことを知りたまうとも、神よ、あなたの御力によりて母となしたまへと願いおりしに、神様は、明治32年11月23日に家庭学校に1人の子どもを与えたり、実にその人が愛らしく、その子どものために神に祈り常に望みを持って世話をいたします」と当時の感想を記しています。夏子奥さんは、わが子と同じように面倒を見たのです。腹膜炎をおこし体調が悪い日が続いていても、幼児を背負い、畑作業をしました。2年後、家庭学校の生徒は6人となり、教師もみな一致して熱心に仕事に当たり、やっと一息ついたときに、夏子奥さんは腹膜炎にかかり、胎児の命も危うかったのですが、五男の健介君を奇跡的に出産しました。その後2ヶ月、4度目の腹膜炎にかかり亡くなられました。

毎月1回「人道」という新聞を家庭学校では明治38年から幸助先生は発行しました。大正3年4月15日・第108号に「感化農場と新農村」との題で社論を載せています。

『・・・家庭学校は、いかなる主義方針を持って進んできたかというに、第一は宗教に基づく徳育である。その宗教とはもちろんキリスト教である。第二は温情にみちた家庭制度である。この制度を教育上に採用したのは、日本においては、おそらくわが校をもって嚆矢とすべきであろう。第三は体育に重きを置くのである。けだし身体の健全なることは感化の基礎をなすからである。第四は教育である。教育をわけて義務教育、実業教育および補習教育の三つとなし、さらに付帯教育として、体操、遊戯および音楽をもってするのである。第五は境遇の転換である。けだし不良少年は境遇の感化に負うところが多い。不健全なる家庭、淫靡なる場所等は不良少年を発生せしむる重大な要素である。・・・第六は趣味の教育である。寓目接耳の物象に趣味をもたしめ、彼ら少年をして居心地のよいものにすることである。・・・この六綱領によって行った過去一六年間の成績は百中七十の改善者を出している。・・・』

当時の家庭学校職員による家庭学校日誌の生徒たちの行動記録を見ると、連日の無断外出、タバコ事件あり、けんか、わいせつ事件、盗み、建物は壊す、授業放棄、作業をしない、すぐ病気に訴える、職員を困らせる行動の連続で、困り果てて校長に相談することが多かったのです。

幸助先生は、そのつど直接生徒に説諭したり、日誌にコメントを書いて職員を激励しました。『人の子なるがゆえにわが子と思って教育すればきっと普通のものになりうる資質を有していることを信ずる。彼らを感化するには時間を要する。時間が彼らを教育する』

家庭学校のあった巣鴨は開設当時、栗林、狸や狐が出没する田舎だったのですが、あっという間に都会化してしまいました。自然の感化力を信じていた幸助先生にとって大掛かりにするには自然厳しい北海道こそがふさわしいと考えこの遠軽に来たのです。

北海道から千町歩の払い下げを受け、感化農場と新農村を作る大きな志でした。『・・・新農村の経営は、農事に門外漢なる自分にとって、艱難の事業たるを知るがゆえに、一切の設計は、専門の農学者および老農に委嘱して実施しつつあるのである。・・いまだ容易にその前路を楽観するわけには行かぬ。去れば自分は背水の陣をしいて、粉骨砕身斃れて後やまんと決心して居る』

大正2年、3年は遠軽地方が冷害で作物もあまりとれず農家の方々も大変困っていたのです、家庭学校をスタートさせるに当たって多い時は30人近く農家の人々を雇い、家庭学校の生徒職員ともども一緒に原始林に道路をつけることから始めました。たどりついて楢林の林にぶつかりました。そこに伐採した楢の丸太に十数個の腰かけをつくり屋外の礼拝場をつくりました。

大正3年8月24日、北海道分校場の開庁式です。その日は雨でどしゃぶりでした。恵みの谷丘上における露天会場式は近隣の人々を含め150人、雨のため丸太の椅子に座ることはできませんでしたが傘で人があふれていました。

家庭学校農場創立5周年記念会は大正8年8月31日、礼拝堂の献堂式をかねて行われました。留岡校長は新しき礼拝堂の壇上にて次のように語りました。「東京巣鴨に少年感化の目的をもって今をさかのぼる二十年前に家庭学校を創設し、それ以来十六年間の実験を以て、その感化の目的を達せんには、かなり広き土地を要するをもって、各地物色の末、ついに社名淵を選定した。大正三年六月鈴木良三氏は、四名の生徒を引率し、東京本校よりこの地に移住し、私は一ヶ月遅れてこの地に到着せり。それ以来五年間を経過したが、意志と違い、思いの十分の一だも成りえず、失敗に失敗を重ねて今日に至れり、然るにもかかわらず我が農場が依然として存立し、今日のごとき盛大なる五周年記念会と礼拝堂献堂式を挙げるに到りたるは、まったく神の特別なる恩寵と、我が校に厚き同情を寄せられたる先輩知友の賜物とに外ならざるなり。遙かに前途を望めば幾多の難関、われらの前に横たわるを見る。幾多の難関横たわるといえども、神の大能の聖手にすがり、先輩知己の鞭撻にまち、大成せんことを期してやまず。常に諸君の指導と援助とを得て、有終の美を収めんことを祈ってやまざるところなり」次に大倉理事から今回の工事について報告された。礼拝堂・家族寮(掬泉寮・石上館)牛舎・鶏舎・豚舎等あわせて1万7300円の工事費の報告がされました。

昭和4年の家庭学校の会計は9000円の赤字でした。そのため基金を集めるべく留岡幸助先生は全国に飛び回っています。当時の1円の価値は今の3000倍に近いものです。昭和3年3月、掬泉寮は全焼しました。その再建は無理だと北海道分校の大谷事務長は電報を打ってきます。

なんとか9500円のお金を借りて、建物を完成させています。その落成式を兼ねて北海道家庭学校15周年記念式が1929年8月24日行われました。

留岡幸助先生最後の礼拝堂での演説です。

現在その掬泉寮は4度目の建物を建築中です。現在生徒は39名となり、経営的にはその生徒数の受入れでは、社会福祉法人北海道家庭学校としては極めて厳しい経営状態です。それでも生活環境を整えていかなければなりません。このたびのトイレ改修工事や掬泉寮の建替えは、多くの支援なさってくださる方々のお陰です。やっと生徒たちのトイレがいわゆるボットントイレではなくなりました。多くの生徒たちが卒業後ここに尋ねては語ってくれるのです。家庭学校の生活はここで体験してよかったと思えることがほとんどだが、トイレは、どうしてもなじめずいやなので後輩のためにも何とかしてほしいと強く言われていたのです。早く直してほしいとの訴えがやっとかなえることができました。生徒によっては、児童相談所でこのトイレがある家庭学校には行きたくないと訴える生徒もいました。

現在、家庭学校では夫婦寮の寮長・寮母の募集をしています。夫婦での生活です。生徒との生活を成り立たせていくことは困難を伴う事が多いのですが、子どもの成長をま近かで実感する教育の原点の職場です。この歴史的な、そして森の生活を生徒とともに暮らそうとする熱意のある方、ぜひこちらに実際に見にきてほしいのです。

2011年10月号

「平成23年度東北・北海道地区児童自立支援施設協議会」

千葉 正義

平成23年7月21日、22日に福島県福島学園において開催された平成23年度東北・北海道地区児童自立支援施設協議会職員研修会に参加させて頂きました。今回の研修では、会津大学短期大学部社会福祉学科の鈴木崇之先生より「処遇理念の変遷〜教護院からの伝承と改革〜」というテーマで基調講演をいただき、その後それに沿ったいくつかのテーマでグループディスカッションが行われました。

まず最初に行われた鈴木先生による基調講演では、児童福祉についての今日までの変遷やそれに伴う児童に対する処遇のあり方などを学ばせていただきました。1998年の改正児童福祉法施行により、「教護院」が「児童自立支援施設」に名称変更され、それに合わせて施設の目的も主に「児童の非行をなくすこと」であった「教護院」に対し、「児童自立支援施設」は「個々の児童の特性に合わせて自立を支援すること」と改められることになりました。これにより入所児童の幅が広がり、被虐待児や発達障がいを抱える児童の入所が増えてきているという特徴があげられます。このように、教護院であった頃の入所形態と異なっているため、児童自立支援施設は時代のニーズに合っていないのではないかという議論もあるようです。私の勤務する北海道家庭学校においても、入所児童が抱える問題は様々で、対応に頭を悩ますところです。

次に、3つのグループに分かれ、①「入所児童の多様化」、②「『自立』への支援」という2つのテーマに沿ってグループディスカッションが行われました。各グループで熱い議論がなされており、児童福祉に関わっておられる先生方の熱い思いが伺えます。私は家庭学校で働き始めてまだ4年目なので、「教護院」と呼ばれていた頃の指導形態はわかりません。しかしながら、先にも述べた通り入所児童の抱える様々な問題に対しての処遇の難しさは感じており、児童とどのように接するのかが適切なのか、またどのように関わるのが支援であるのかなど色々考えながら日々を送っています。それぞれのグループでまとめられた意見によると、やはりどの施設も処遇のあり方等を模索しているようでした。あるグループからの発表で、本来個別処遇が望ましい児童にあっても、昔からの流れで集団生活をさせなければならない現状があるが、やはり適応できないという意見があり、改めて難しさを痛感させられました。

その後施設見学では、福島学園を見学させて頂きました。北海道外の施設を見学させて頂くのは私にとって初めてのことであり、今回の研修会の中でもとても楽しみにしておりました。本館廊下には入所児童が作成したと思われる作品が並んでおり、どれも良い出来栄えで努力を惜しまず取り組む児童の生活ぶりが目に浮かぶようでした。体育館に案内して頂いた時、3月11日に起こった震災の影響でまだ雨漏りがするとお聞きしました。他の施設の先生方からもその時の様子や被害の状況をお聞きし、正直北海道で暮らしていると実感はなかったのですが、自然の猛威による恐怖とそこで生活される方々のご苦労を深く考えさせられました。寮舎では、入所児童たちの元気で気持ちの良い挨拶が印象的でした。

その後、場所を移して行われた懇親会では、各施設の状況や支援のあり方等色々な話を伺うことができ、充実した時間を過ごさせていただきました。同じ思いを持った先生方と悩みや喜びを共有できたことをうれしく思い、同時に、今後家庭学校で児童達と生活していく上で、決意を新たに頑張っていかなければならないと思いました。

研修2日目、この日は2つのグループに分かれてのディスカッションです。テーマは、①「所内プログラム」についてと②「問題行動への対応」で、ここでもやはり熱い議論がなされておりました。①「所内プログラム」については、性問題を抱えている児童に対しての支援について各施設とも苦慮されているようでした。性暴力治療プログラムを実施しているが、知的障がいを持つ児童については理解させるのが難しいという現状もあるようです。②「問題行動への対応」についても様々な意見がありましたが、やはり重大な問題行動があった場合、児童相談所等関係機関との連絡、連携が重要となってきます。このテーマの中で特に印象に残っているのは、集団処遇ならではの問題行動があるという事です。具体的にいうと、軽度の知的障がいを持つ児童が入所しており、日常生活において何をするにも時間がかかってしまうそうです。今までは時間がかかっても最後までやり遂げさせることが本人の自信となり、能力の向上や生活の安定につながっていたらしいのですが、集団処遇では集団での生活や日課を維持しなければならないため、結果的に「時間がかかってしまう」ことが一つの集団としての問題となっている、との事例の報告がありました。私も家庭学校で似たような経験があり、これは児童自立支援施設で児童を処遇していくにあたり、非常に複雑で難しいことだと思われます。

今回参加させて頂いた2日間の職員研修では、各先生方から大変貴重なお話を伺うことができ、また児童を支援していく上で起こり得る問題等を皆様と議論することができ、私にとって大変有意義なものとなりました。児童自立支援施設には様々な児童が入所しています。当たり前のことですが、その入所してくる子ども達は一人一人違います。同じような問題行動をしていたとしても、育った環境等を見ると、やはり全く違うことが多いのです。そのことをよく理解し、支援していくことが大事なのではないかと感じています。児童自立支援施設ならではの処遇の難しさを皆様と共有できたことが、私にとっては一番うれしく思っております。

最後になりますが、今回、東日本大震災の影響もあり色々と大変な状況の中、会津大学の鈴木崇之先生はじめ福島学園の職員の皆様には、素晴らしい研修にして頂き、感謝の気持ちでいっぱいです。この場をお借りして厚くお礼申し上げますとともに、この度の東日本大震災で被災された施設の皆様、地域の方々に謹んでお見舞いを申し上げます。