このコーナーでは、家庭学校の月毎の機関誌である『ひとむれ』から一部を抜粋して掲載しています(毎月上旬頃更新予定です)。
 職員が、家庭学校を通じて感じたことや伝えたいことを表しています。是非、ご感想をお聞かせください。
※都合により『ひとむれ』本誌と内容が異なる場合がございます。ご了承下さい。


2011年09月号

慰霊祭

校長 加藤正男

夏の日差しが続きました。蝉の声が森にこだましています。

恵みの谷の小川にはカジカがいます。かつて川には様々な魚が群れるように泳いでいたのですが、減ってしまいました。

30度を超える暑い日が続きました。私は、北海道の生活が通算、8年ぐらいなので、関東や関西で生活していた夏の厳しさから比べると、楽なのですが、夏の暑さに慣れていない北海道人にとっては、厳しい暑さです。事務所や校長室に扇風機はありませんし、網戸もついていませんので、すこし窓を開けるとアブやハチや蝶々が変わるがわるに入ってきます。

慰霊祭を8月3日に行いました。朝7時に近くの学田墓地に各寮の代表の生徒と職員で家庭学校に長く勤務された方々のお墓と生徒のお墓にお花を供え、讃美歌を歌い、黙とうし、一人ひとりの家庭学校に残された偉大な功績を忍びました。寺崎家のお墓には、「平和山に御二人の恩師を仰ぎ見る」の言葉が記されています。

在校中になくなられた生徒の一人に「青ちゃん」と呼ばれみんなに親しまれ、短い人生を送った生徒がいます。巣鴨の本校からきたのですが、「家庭的には恵まれてなく、体も弱く、貧乏の家に生まれ、幼い時からあらゆる虐待を受けていたらしい。青ちゃんの臨終は他の子供たちに深い印象を与えた。彼が死に近づいた時大きな声で讃美歌の233番(285番)を歌った、・・主よ御手もて、ひかせ給へ、ただわが主の・・・みむねならわれはいとわじ・・・そしてまた、しきりに君が代を歌った。」

「大正8年5月誌 可憐児青ちゃんは小壮作家藤森成吉君の筆で彼の著書「悩み笑よ」の最初に書かれています」(創立当初の掬泉寮寮長品川義介著『我羊独語』から)

北海道家庭学校を訪れた藤森成吉氏は「少年の群」で家庭学校の生活ぶりを生徒と寮長との交流のなかから描き出しています。

6月26日、北海道開拓村の旧浦河公会会堂で、NHK文化センター新さっぽろ朗読教室松井信子クラスの方々による朗読会が行われ、そのなかで「少年の群」が取り上げられました。

『少年の群』藤森成吉著(大正13年8月10日発行・発行所 家庭学校)から

北見のはてからの帰りに、私はその感化院の農場へ立ち寄った。

停留場から一里余も歩いてしばらく幅広な並木道を登っていくと、ちょうど山と山の谷間のようなところにあっちこっち離れて院の木造の平屋が棟を並べていた、そこを中心に、四方二里ばかりも農場の地面は広がっていた。

まるきり見ず知らずの人間にもかかわらず、教育主任の石川氏はひどく快く私を待遇してくれた。・・・・・

やがて彼は、ひときわ見事なナラの林の中へ私を導いた。そこはふっくらとした輪郭をもった大きな岡だった、その先に教会堂らしい木造の尖塔が突ったって、その手前には長い質素な腰かけが幾列となく並んでいた。

「これは野外授業をするところです、天気のいい日は、家の中で授業をせずに、この広々とした空気の中でやるんです、ここではできるだけ、子供たちと自然を接触させる方針でやっているんです、自然の力って言うやつは、子供たちにとって何より大きな効能がありますからね、そいつと、もう一つは労働です、もちろん労働のための労働ではありません。僕はそれを流汗鍛錬と呼んでいますが、この流汗鍛錬ほど子供たちの精神をまっすぐにし、また丈夫にするものはありやァしません。・・・・」

「北海道の大自然の中で家庭学校の理念と教育の様子を温かい目指しと深い愛情の伝わってくる作品を、じっくりと聞かせて頂きました」「流汗悟道の姿が見えるようでした」等朗読会に参加された方々の感想です。朗読教室の方々は、事前に訪ねてこられ、作品に書かれている場所、命の泉や礼拝堂を散策し、見られ、生徒たちの生活も見て頂きました。

「流汗悟道」は、私たちが生徒と接するあり方そのものです。

大正10年の秋、大町桂月氏が来訪された時、当時掬泉寮の寮長であった品川義介氏は「余は農場を案内しながら、その教育の主義を流汗悟道の四字をもって説明した。働いて汗を流すことが教育の本領であり、宗教の真骨頂であることを語った」

品川義介氏は大正3年、同志社でストライキをやって退学を余儀なくされ、地元長州で浪人生活を送っていました。

全国の地方改良の講演会が長州で行われた時、留岡幸助先生が話され、その時の出会いが縁で、北海道に勤務する機会を得ました。生徒とともに自然と格闘しているなかで、大量の遺蹟旧石器時代から新石器時代、縄文、続縄文時代の狩りの道具や土器等が大量に出てきました。それを生徒たちに実物教育に役立つようにと博物館として展示するよう幸助先生に提言し、現在の博物館にいたっています。

寺崎先生は晩年博物館の説明を来訪者になさっていました。

昭和25年に建てられた博物館は、谷側に傾き、壁は、ひび割れ、早い時期に移動しなくてはならなくなりました。

品川寮長ご夫妻は10年間掬泉寮長を運営し、家庭学校を退職し、昭和2年、札幌市郊外琴似村に白雲山荘を立て、自立援助ホームの先駆けとなる家族寮をつくり、青少年の自立を助ける活動を展開しました。ここのホームを設計したのは田上義也氏です。幸助先生も時々白雲山荘に訪ねてこられています。

児童文学者の中川李枝子さんのお父さまが、当時学生で生徒とともに白雲山荘で生活を送り、そこでの体験が子供である中川李枝子さんたちに語り継がれています。幸助先生の大きな声と豪放磊落ぶりと、家庭学校の精神と品川義介・貞子ご夫妻の子供の育て方が中川家に伝わっています。

慰霊祭は3日の午後1時半から礼拝堂で行われました。礼拝堂の正面の壁の右側には、亡くなられた理事の方々、留岡幸助先生をはじめとする職員の方々そして左側には生徒の方々、生徒も2300人の卒業生を出していますが、亡くなられた名簿の名前は100名を越えています。

礼拝堂の側面に飾られた幸助先生と清男先生の写真は正面に飾られ、各寮で作られた作物、スイカやメロンやナスやキュウリ等がお供物として飾られます。今、収穫の時期です。朝作業、夕作業で寮長と生徒とが苦労してつくられた結果です。ここで新鮮でおいしいものを食べられるのです。

8月5日から16日は、生徒たちの夏の一時帰省です。一人ひとりの期間は違いますが、15名の生徒は、保護者のもとですごします。入校したばかりの生徒や、無断外出のあった生徒や、保護者の都合で帰省を受け入れられない生徒は残留日課を送ります。4日にはひとむれ会を開き、この間の生活の目標を立てました。

保護者に戻って生活する生徒たちは、家庭学校の生活で身に付けた生活、そして成長した姿を家の人に見てもらう、そしてルールを守った生活を送るとの決意を述べていました。残って生活する生徒たちにもさまざまな日課が組まれます。映画を見る会、オホーツク海舟釣り招待、北見市文化センター、近くの川へ化石掘り、カラオケ大会、釣り堀・やまめ釣り大会等です。

16日には帰省した生徒たちが全員戻ってきました。

19日からは二学期が始まりました。一学期は無断外出が重なったり、たばこ問題もありました。落ち着かない時期もあったのですが、二学期は集中して生活がいとなまれるよう、一人ひとりの目標をしっかり立てると共に、中学3年生、そして中卒生にとっては高校受験という大きな課題に一歩、進めていってほしいのです。

人の話を聞くことのできる器の大きさと、人の気持ちをしっかり考えられる人となるためにも、ここでの生活で先生や仲間らと汗をかき、学び合い、自分の道を切り開いていってほしいと願うのです。先生たちの後ろ姿からしっかり学んでいってほしいのです。

2011年09月号

家庭学校の園芸について

坂本 英人

私はこの家庭学校という地に足を踏み入れてから早や4年が経ちました。この園芸の仕事に就くきっかけはになったのは何故か。今から20年位前に家庭学校を退職された斎藤益晴先生(81歳)が退職後嘱託として20年以上もの長い月日を家庭学校のために営繕、美化、園芸の仕事に勤められた。その後継者として私が今現在に至っているわけです。

斎藤益晴先生との出会いで私が直感的に感じたものは想像を絶するものでした。それは多彩な知識、高価な道具、技術力それに記憶力。どれも私には無いものばかりでした。私は昨年の4月から斎藤先生と一年間付き人で仕事をし、今年の4月から独り立ちとなった。本音を言うと、たかが昨年の1年間で斎藤先生から全てにおいて教わったわけではない。恐らくほんの一部に過ぎない。でも今年からは何が何でも一人でやらなければならない。そう思いながら仕事をし早や4か月がたった。

自分の理想は斎藤先生のように何でもでき、家庭学校の環境をより良くすることです。しかし現実はそうではなかった。花の事に関すると、毎朝、昼、晩花の観察、温度管理、水やり、消毒等様々なことに気を遣いそれだけで自分は毎日追い込まれていた。花の事以外に環境整備であれば草刈や花壇、宿根草周辺の除草等とても一人ではやりきれる量ではなかった。次に道具の手入れに関しても、刃物であれば切れなくなったときには必ず研ぐことと自分の心の中で決めていた。あれもこれもと気持ちだけが前へ進み、現実的には環境整備も道具の手入れも斎藤先生から引き継いだ事も何一つ中途半端になっていた。これが今私の現状の力なのか。それともやり方が間違っているのか。と、自分を責める様にもなった。どうしたらいいんだろう。どうやっていけば一番効率よく園芸作業ができるんだろう。実際のところ何から何をやればいいか自分でも解らなくなっていた。それから学校や職員にも色々と相談し、職員及び生徒の力を借りることとなった。それからというもの自分の気持ちも見違えるほど色々な形で前へ進み出れた。とても自分自身が安心し、尚且つ仕事への原動力ともなった。

これまで今に至る1年4か月間を振り返ると、1年間はただひたすら斎藤先生に付いて歩き一緒に仕事をさせてもらいました。改めて今何を学んだか考えてみると、大きく3つほどある。

1つ目は、花に関してである。花というのは生きていますから人間と同じで呼吸をしています。すなわち土からしっかり作り種をまき、太陽光線、保水力、通気性を必要とします。やがて発芽し、ここからが手がかかるのです。温度管理や保水力、病気等には最善の注意を払わなければならないという事。

2つ目は、道具に関してである。道具は使い方を間違えれば凶器です。その様々な道具をいかに効率よく上手に使うかである。例えば斧、鉈等で刃がある物は割れていたりヒビが入っていたりすると危険だし使い物になりません。でも新たに刃をしっかり研ぎ整備することによって危険も回避し尚且つ安全に効率よく使える事を学ぶ。従って道具は最良な状態で使用することが一番望ましいという事。

3つ目は野菜作りである。家庭学校にも絶対的に必要な事であり、私も是非身に付けたいと思っていた。斎藤先生は私に野菜の育て方、実り方、食べ物の有難さを教えてくれた。それを聞いて私も「心のこもった甘くて美味しい野菜を作るぞ」と決意。そして特に私から見て斎藤先生が野菜作りで一番に心掛けていた事は生徒のためだったと思います。毎回園芸部の生徒達が作業の途中に休憩をする時に何かおやつ代わりにと作っていたように思います。そんな優しく生徒の事を思い気遣える人こそ家庭学校の職員であるべき姿なんだろうなぁと実感しました。私も生徒の事を考えて野菜作りに励んでいきたいと思います。

最後になりますが、園芸の仕事は楽しみもあり悲しみもあり苦難もあるが決して適当にやってできる仕事ではない。本当に色々な所に気を遣ってやらないと植物が駄目になってしまうし、家庭学校の環境が美しくなくなってしまう。だから私もできる限りの事を尽くしていきたいと思っています。この先も色々な人達にご迷惑をおかけすると思いますが、職員が一丸となり支え合い乗り越えていきたいと思っています。どうか今後とも暖かい御指導、御鞭撻のほど宜しくお願い致します。