このコーナーでは、家庭学校の月毎の機関誌である『ひとむれ』から一部を抜粋して掲載しています(毎月上旬頃更新予定です)。
 職員が、家庭学校を通じて感じたことや伝えたいことを表しています。是非、ご感想をお聞かせください。
※都合により『ひとむれ』本誌と内容が異なる場合がございます。ご了承下さい。


2011年07月号

生徒の背景(その2)

校長 加藤正男

6月7日は、マラソン大会でした。中学生以上は10キロ、小学生は4キロです。グランドから礼拝堂に向かう道を左に曲がり、山林道を登りながら平和山の頂上近くのナラ林を折り返していくコースです。三日前に全員で試走をしました。この日は、気温が25度近く上がり、日差しの強い日でしたが、林間コースです。

アップダウン多いコースではペースをつかむのは大変です。私は、病院で一年近く生活を送って入校した生徒と最後尾で走ったり歩いたりしながら走り終えました。戦後、植林した「から松林・トドマツ林」は大きく成長し、貴重な財産として伐りだされるのを待っています。

森が青々と茂り、温度が上がるとエゾハルゼミの合唱がにぎやかに朝から響きます。本州で鳴く「ひぐらし」のカナカナという音とカエルの鳴き声が一緒になった音です。

その後、いわゆるエゾ梅雨なのか温度が下がり、朝夕ストーブをつけるような温度になり、冷気が森に漂っていいました。15日には日差しが戻り、周辺の環境整備に生徒たちは遅くまで草刈り機を動かしています。

運動会が26日なので何とかオホーツクの青い空のもとで開催されることを祈っています。

全国児童自立支援施設長会議が5月26日、27日に大阪で開かれました。昨年は公設民営化についての議論がなされ、家庭学校の立場から、民営化することの困難性について話しました。民営化の道は開かれ、制度としては可能となりました。しかし、実際に家庭学校の経営を分析したある施設長の方は、県立施設を民間に委託し児童自立支援施設として質の落ちない運営がなされるにはとても困難があると語っていました。

公設民営化の道がとても困難にも関わらず民間で運営されている当校にとって、留岡幸助先生の精神をつないでいくことの重要性を感ぜざるを得ませんでした。

講演として長年、阿武山学園の家庭寮を担った元園長の下川先生から「児童自立支援施設における育て直しの教育について」がありました。

「ほとんどの子どもが深い悲しみと、容易に癒えぬ心の傷をおっている。また、他者への依存や愛着形成などに何らかの障害をかかえ心理面、身体面、発達面などで問題を抱えている。」

愛された体験のなさや、他者とつながった体験をもっていない子どもたちに、どう向き合ってきたのか。「人から愛が必要な子ほど、愛されないような言動をしていく。人からよい評価が必要な子ほど、評価されないような言動をしていく。」

とんでもない行動と言動を繰り返す子どもたちに、長く苦しく、そして成長を願う粘り強い実践から「子どもたちは、注意や指導を受けて成長するのではない。基本的な欲求が満たされ、愛着の対象ができることと、自尊感情の高まりによって成長する」等育て直しの教育について語られました。

家庭学校の子どもたちも一人ひとりさまざまな事情でここに来ます。

親から見放された経験、あるいは虐待、育ての放棄。虐待との言葉からは暴力的なイメージも強いのですが、広い意味を指しています。心理的な虐待、子育ての放棄、また、親同士の激しい争いを間接的に経験することも心に大きな傷として残っています。

子どもを愛情深く育てたいとの気持ちは本能的に人に備わっているわけではないと言われます。お母さん、お父さんもそのお母さんやお父さん、周りの大人から大事に時には激しく、そして自立していくよう育てられます。その体験が次の世代に引き継がれていくのです。

その体験がないままに、自分が大事にされたとの実感がない親が子育てに向かうには、大変な難しさにぶつかります。どのように子育てをしたらよいか学習していないからです。親の思うように子どもは育ってくれません。

留岡清男先生は、母を早く失いその喪失感について、次のように語っています。

「私には、お母さんはいないのです。いいえ、いたんですよ、いたのですが、満3歳の時に死にました。だから、今もって母さんの顔形を知らないのです。お母さんのやさしい声も知らない。お母さんはどんな顔をしていたのだろう、どんな人だったんだろう、・・・私も本当のお母さんのあとにきたお母さんに対して、不平ばっかりもつことが多かったです。子どもに対して継母が悪いというよりは、子どものほうにいじける根性があるようですね。しかし、だんだん年をとってきますと、私のお母さんは、一体どんな人だろうと言う事を心の隅で追い求めてきます。私は継母に育てられたが、この継母は大変立派な人だと、今は思います。だけど、小さい時にはね、母親を求めていくでしょう。それで、実際にいる継母に対しては、不満ばかり出るんです。その不満に私はやりきれなくてね。家を飛び出して・・・よい言葉でいえばそとへ行って、自分の大学の学資を稼いだりして、人の家の住み込みの家庭教師をしたのです。20歳くらいの時に、私はこの悩みを自分で解決しなくちゃいけないと思った。それで、どういう風に時解決したかというとね、うちの継母は、私から言えば継母でしょう。継母に対していろいろの不平なりぐちをもつという事は間違っているのだと思ったのです。私のお母さんと考える考え方がまちがっているんじゃないか。あの継母は、私の大好きなお父さんの最愛の妻だと考えたらいいだろう。これは、私とお母さんとの関係を「縦の関係」で考えるのをやめて、私のお父さんとの関係「横の関係」で考えると、最愛の私のお父さんの最後(?)の妻だということになる。そうしたら、私は自分の継母を大切にしなくちゃいけないんじゃないかという心に変わってきたのです。これでね、一応、私の悩みというものは、きっぱりときれいになった。継母に対する愚痴とか不平じゃなしにきれいになったけれどもね、ほんとうのお母さんを追い求める気持ちは変わらないですよ。そこで、私はこういうふうに思った。お母さんを殺さない運動というものを日本中に起こしてみたい。子どもを産んだお母さんは絶対に死んじゃいけないのだ。母親を殺さない運動を起こさなくちゃいけない。こういう事が人知れず私の心の中にあったのです。・・・」(日本の子ども研究 第7巻 留岡清男の子ども研究と生活教育論クレス出版 ページ565-566)

寮の生徒が落ち着かない状態から安定した状態になることはなかなか難しく時間がかかります。人は基本的にいい加減な方向に進むのです。でたらめな生活を送っている生徒の波長に合わせていきます。特に成功体験や愛された経験を実感していない生徒にとって、間違った学習なのか、いい加減な生活の人に流されます。この流れを止めるためにも、生徒一人ひとりの特性を理解し、寮生活、学習、作業場面などを通してつながりのある人間関係から生徒の成長を育んでいくのです。

健康な愛着関係を結び直す体験を地道に重ねることにより、生徒たちは変わっていきます。私たちは生活と教育を一体として家庭的な雰囲気の中で、個々の生徒の自立を図ることを続けていきます。  

2011年07月号

家庭学校に来て

工藤 誠

4月より北海道家庭学校に勤めさせていただくことになりました。日々、驚きや喜び、戸惑いを感じながら、子供たちと過ごしています。

家庭学校の歴史や伝統について理解が乏しかった私に加藤校長先生は留岡清男先生の『教育農場五十年』を推薦して下さいました。私はその中で特に2つのことに感銘を受けています。

1つ目は「三能主義」ということです。よく食べ、よく働き、よく眠る。この事は家庭学校に来る前の子供たちに欠けていることが多かったのではないかと思います。偏食、怠惰、夜遊び等、『衣食足りて礼節を知る』の通り、腹を空かせた子供に道徳を説いても身につかず、睡眠が不十分な子供に勉強を教えても頭に入らず、体を鍛えていない子供が社会に出ても体がもたない。私も3週間の寮回りで子供たちと共に生活をしてみて三能主義がどれだけ大切な事なのかということを身を持って知ることができました。

2つ目は、「精神的支柱」ということについてです。清男先生は著書の中で「眼に見えるもの手にとって触れることが出来るものはたいしたことではない。本当に知ってもらいたいのは、眼に見えず、手に触れることの出来ない精神的なものである。」と(いう内容を)おっしゃっています。

私が初めて家庭学校を見学させていただいたのは3月でした。その時、私は自然の美しさに驚くばかりでした。この本を読み終わった後も「精神的支柱」とは何かよくわかりませんでした。そうした中、作業で礼拝堂周辺の清掃がありました。その日の作業が礼拝堂の清掃と聞いて私は、特別な感情はわきませんでした。清掃を進める中で落ち葉をどいてみると立派な苔が緑の絨毯の様に一面に広がっていました。この苔を見る中で、この礼拝堂の歴史と先人達の礼拝堂を尊重する気持を感じることが出来ました。大正時代から現代に至るまで護り続けられてきた家庭学校の歴史と伝統の中で、一所懸命の思いで私自身頑張っていきたいと決意しています。