ひとむれ

  このコーナーでは、家庭学校の月毎の機関誌である『ひとむれ』から一部を抜粋して掲載しています(毎月上旬頃更新予定です)。   職員が、家庭学校を通じて感じたことや伝えたいことを表しています。是非、ご感想をお聞かせください。

※都合により『ひとむれ』本誌と内容が異なる場合がございます。ご了承下さい。
2011年06月号

生徒の背景

校長 加藤正男

5月10日前後には、みぞれが降る寒い日が続きました。

11日は花見の会です。遠軽町の市街地では五分咲きぐらいになっていますが、ここではまだつぼみの状態でした。

平和山にも桜の木があります。

雨が続いたりして、昨年に続き体育館で昼食会と、お楽しみ会を行いました。

18日、ようやく桜が満開です。本館の壁に大きく描かれた昭和38年当時の家庭学校の風景には、ピンク色の桜風景が描かれています。その後老木となり、その勢いは少し落ち着いています。

家庭学校は、北海道新聞が主催している千本桜の運動に参加しています。

今年で5年目です。毎年、100本ずつ植え、今年で500本目です。

19日に植樹会を生徒と分校の先生、職員でしました。

神社山のスキー場の隣、グランド上に植えています。まだまだ樹木が細いので山がピンクに染まるまでいくには時間がかかるかも知れませんが、ここで植樹した生徒が、退所し、家族を連れてここを訪ねてくるときには、大きく育っていると思います。

平和山でエゾフクロウに出会いました。朝の8時です。平和山頂上の下にある朝陽亭のあたりでほーほーとの鳴き声がしました。この時期よく鳴く「つつどり」の声かなと思いながら記念碑のあるところに登っていきました。さらに鳴き続けており、ほーとの声に上を見ると、清男先生の記念碑の前の大きなトドマツの木の上にいたのです。高いところなのでかすかにしか見えず、デジカメで撮ってみました。さらに近づこうとしたら、羽根を広げ幸助先生の記念碑の後ろの木に静かに飛びおり、いなくなりました。

撮って拡大した写真には確かにエゾフクロウの姿がありました。

当学校にある博物館にあるはく製のエゾフクロウ、旭山動物園で見るつがいのフクロウと変わりないのですが、実際、山の中で出会うと、とても幸せな気持ちになります。

無断外出が連休中にあり、その後も続き、寮の中で生徒たちは、落ち着かない集団となってしまいました。作業班学習の時間をさいて、生徒一人ひとりの面接や、落ち着かない原因に対する指導を特別に行いました。無断外出をあおるような言動をした事、無断外出してお店から盗んだDVDを隠していた事が分かりました。生徒の行動をいちいち疑っていては、ここでの生活は成り立ちません。

しかし、間違った行動をとる要因を的確に把握しないと、その後の困った行動の連鎖を止めることはできません。

生徒が抱えている背景の理解と、その生徒が抱えているつまずきにあった的確な子どもへの向きあい方を、今までの生活体験や医療面、生徒指導の中から見つけていくのです。医療面からの支援も私たちの生活の中では大切にしているところです。学田病院の田端医師、旭川六条医院の太田医師には、直接生徒の面接や投薬等助言を受けています。

北海道子どもの虐待防止協会は、長年にわたり活動を展開し、それぞれの支部をも含めて地道な取り組みを続けられています。3月5日に専門職のための子どもの虐待に関する研修会の場で、「家庭学校の子どもたちと留岡幸助」の標題で話す機会を与えて頂き、その際、協会代表の間宮先生との対談を行いました。間宮先生は、留岡清男先生が、医師奥田三郎氏と協力して著した『教育農場五十年』(岩波書店、1964)を、生活と教育の結び付けを論じた我が国における記念碑的な作品であると評されていました。

間宮先生は、教育にとって労働と生活の結びつきが必要との意見とともに、引きこもりや不登校になってしまっている人が多数に及んでいる現在の状況を憂い、親、家族に対する支援を実際に他機関と連携して進めていかなければならないと強く主張されていました。

『教育農場五十年』のあとがきとして留岡清男先生はこう記しています。「この本は、ありのままの実践記録である。そのなかに、登場する人物は、悉く、仮名を避けて実名にした。言いにくいことや、さしさわりのあることが多かったが、かまわずに書き綴った。もともと、私は、普通の意味の著述を、余り好まない。著述する暇があるなら仕事をしろ、と自分に言いきかせてきた。けれども、この本は、どうしても書かないわけにはいかなかった。なぜなら、北海道家庭学校の創立満五十周年を機会に、第一に、創立者留岡幸助先生に、先生なきあとの、北海道家庭学校の歩みを報告したかったし、第二に、いつも深い理解と同情をもって、北海道家庭学校を支援して下さった多くの方々に、いささか精進したあとを報告して、御恩に酬いたかったし、第三に、同士同僚の弛まざる努力と絶えざる労苦とに対して、共艱同苦の感激を披瀝したかったからである。・・・ところで、私たちのこれまでの実績は、のろのろとしたもので、ホンの地ならしの程度に終っている。為すべきことは、むしろ、これから先に残されている。・・・」

そこから50年近くたち、清男先生の教育論は、色あせることなく、後世の私たちに引き継がれています。

この本にて、留岡清男先生は家庭学校の生徒を一人ひとり観察した記録の中から、そして、面接して話し合った結果、次の特徴を述べています。第一に、よくものを破壊する。第二に、ものを忘れっぽい。第三に、異常な程度に不平を言う。

この三つの特徴は今の生徒にも変わることのない言動や行動としてあらわれてきます。

当時は、生徒の発達に関して現在のように発達障害という言葉はありませんでした。当学校の生徒は現在41名ですが、疑いを含めて6割近くの生徒が、発達の問題を抱えています。2005年には「発達障害者支援法」が定められ、さまざまな支援がなされるようになってきています。その法で発達障害とは「自閉症、アスペルガー症候群その他の広汎性発達障害、注意欠陥多動性障害その他のこれに類する脳機能の障害であってその症状が通常低年齢で発現するもの」と定義されています。

そして虐待という養育環境の厳しさも子どもの発達をゆがめさせます。ただ、子どもの育ちに必要なさまざまな生活体験の少なさは、本人だけの責任ではないのです。

家庭学校の生徒は、ものにあたって壊したり、人に攻撃的にけがをさせたり、そして場合によっては自己を傷つけたりします。不平不満をぶつけます。そして人との関わり方の苦手な生徒が多いのです。対人関係の取り方が下手です。

もちろん発達の問題を抱えた人が、ノーベル賞や芸術面での世界的評価を受けたり、たくさんの才能を開花させます。普通とは異なるのです。普通とは異なる特性をもつ故、社会に適合しなくてよい、閉じこもって社会と関わりなく生きていけばよいとは言えないのです。生徒たちの可塑性は大きく、望ましい養育環境の中で変わっていくのです。変わっていくことで、社会で一人前の大人として自立した生活を送っていくのです。

もうやっていられません。疲れました。投げやりな言葉をはなつ生徒の心の中には、違う気持ちがたくさんあると思うのです。

A君は、最初のころよく校長室に来て、「面倒くさい、やっていられない」と話していました。授業中も集中できなくて、先生から怒られて校長室に来たこともたびたびありました。しかしある時から来なくなったのです。

ここにきて、ここで頑張ると気持ちを切り替えたのです。学田病院の田端医師にも投薬等を受けました。人は成長していくのです。困った行動を続けている生徒もどこかで気づくのです。

気づかないまま生活を送っていても10年後に気づいて変わっていくことであってもいいのです。私たちは忍耐強く本人の成長を待つしかないと思うのです。

忍耐強く支えていく寮長、寮母そして職員、分校の先生方の支えが生徒たちを成長に導くのです。

(文章中の「分校」は、遠軽町立遠軽中学校望の岡分校と遠軽町立東小学校望の岡分校のことを指しています。)