ひとむれ

  このコーナーでは、家庭学校の月毎の機関誌である『ひとむれ』から一部を抜粋して掲載しています(毎月上旬頃更新予定です)。   職員が、家庭学校を通じて感じたことや伝えたいことを表しています。是非、ご感想をお聞かせください。

※都合により『ひとむれ』本誌と内容が異なる場合がございます。ご了承下さい。
2010年06月号

開拓

校長 加藤正男

 命の泉から少し登ったところの沢に水芭蕉が群落しています。ザゼンソウが咲いています。

 エゾノエンゴサクの薄紫色があたり一面に広がりました。

 五月の四、五日に行われた校長杯ソフトボール大会は温かく昼食はグランド周りでトン汁や次の日はバーベキューを楽しめました。グランドの土手には今年、日本鯉のぼり協会からいただいた鯉のぼりがはためいていました。

 そして、オジロワシがグランドの上空を横切った姿に生徒たちは歓声をあげました。

 五月の一二日に行われた桜の花見会は雨にたたられ、体育館で行われました。

 さくらは咲いていませんでした。チューリップも小さなつぼみを固くしたままです。なかなか咲きません。上湧別町のチューリップ公園の一二0万本のチューリップが満開になるのが普段より二週間近く遅れました。

 五月中旬から寒さと雨が続きました。一四日の朝は雨に雪も交じっていました。

 五月一六日にやっと暖かい日になりました。その礼拝の帰り、牧野林のところに「ひめぎふちょう」が、一頭でしたが飛んでいました。

 からまつの木々が冬の色から緑の葉をつけるようになりました。

 神社山には三年前から毎年百本ずつ若木を北海道新聞社からご寄付をいただき植林しています。山の上にある桜の若木はつぼみを持っていますか、寒さが続き咲く開化が遅れました。

 二十日の午後は、全校生徒と分校の先生方と 一緒に神社山に百本植えました。

 今まで植えた木も雪のため、あるいは鼠の害により、五十本近く育ちきれません。二十年後には植えた桜を見に来た時、神社山は桜でピンク色に染まっていることを想像しながら植えました。

 寒さと雨が続き農作物にとって厳しい状況です。昨年の七月も雨にたたられ農作物は不作でした。今年もまた不作の年かと不安の日々が続きます。

 留岡幸助先生は大正三年この地に家庭学校の分教場を拓きました。

 北海道から一000町歩近い山の払い下げを受けました。

 世界でも例のない、農業を起こし、それを家庭学校の支えとして考えたのです。理想的な農村社会建設を目標としたものです。

 北海道遠軽での分校開設の先遣隊として指名された鈴木良吉先生は尊敬する留岡幸助先生の命を厳粛に受け止めました。

 家庭学校の土地は重粘土質でかつ平らな地ではないので開墾は厳しいのです。

 気候の厳しさ・自然の厳しさが開拓に入った方に大変な貧しさを呼び込みます。途中でやめてしまう人も多いのです。

 先日昭和二十年に大阪から遠軽に開拓に入り七年間ぐらい生活された姉妹の方が来られました。家庭学校の近くの山に開拓に入ったのですが、米ができず、食事は麦やすいとんなどがほとんどでした。貧乏でお兄さんは中学をまともに行けなかったと語っていました。貧乏はつらかったと言います。

 スズランの香りと雪の深さを懐かしみながら、家庭学校の礼拝堂にご案内しました。

 お母様が元気な時ここに連れてきたかったとふるさとに五十年ぶりに訪ねられたことを大変感謝していました。

 家庭学校の小作として十二年間生活した祖父のお孫さんご夫婦も、祖父一族の生活がどうだったのか、どこに住んでいたのか、見に来たいとのことで家庭学校を尋ねてこられました。

 家庭学校図書館にある古い資料で、祖父の方の名前を見つけることができました。家庭学校のどこの場所で暮らしていたのかを調べることはできませんでした。しかし、昭和三年に小作料として玄米を納めている記録を発見することができました。

 留岡幸助先生は小作の方々を分家の方々と呼び、手厚い支援を行いました。冬になると男女青年のための冬期学校を、夏には幼児のための保育所「木陰の家を」経営しました。家庭学校の敷地に小学校の設立を支援しました。産業開発のために、造田の魁を助成し、副業のため養鶏を奨励し、酪農のために乳牛を貸し付けました。そして「平和鶏卵貯金金組合」「平和飼牛組合」をつくり、それぞれを発展させ、下社名淵産業組合を結成し指導しました。

 昭和六、七年ころ、天候不順で作物がほとんど取れなかったと言います。このことでOBの川口正夫先生にお聞きしましたところ、昭和の六、七年のことを昨日のように覚えておられました。

 学校には、弁当を持っていけなかった。戦後の食糧危機以上に厳しかったと話してくれました。世界的にも不況となり、乳価の下落、特産物はっかの暴落等によって農家経済は極度にひっ迫されました。

 留岡幸助先生の体調が思わしくなくなっていた昭和四年八月から法政大学の文学部の教職を捨てて四男の清男先生は、五年間家庭学校の教頭として着任しています。

 北海道の農場を刷新することが課題でした。

 そこで小作の方々の指導や小作料の取り立てなど難しい問題にあたられる中で、小作をする根拠そのものの疑問にぶつかります。農地解放以前に自作農への転換です。

 「私はこの五年間の間に、二つのことを学んだ。それは大学や研究室では到底学びとることのできないもので、汗と膏のにじみ出る現場でこそ、学びとることのできるものであった。一つは不良少年の正体は何であるかということと、他の一つは農業経営の実際はどういうものかということである。」

 戦争中に入ると作物転換等で家庭学校の酪農もほとんど壊滅してしまいました。

 戦後の立て直しに請われ、校長を任せられた留岡清男先生は、昭和二七年金策のため出かけた旅先から書簡を送っています。

 「遠軽の諸先生、

 今年は天候が不順で、作柄が心配だと聞き及んでいます。短い夏の間に、一年中の食べ物を収穫しなければならない北海道では、諸先生も生徒諸君も除草に追いまくられているでしょう。胡瓜も、スイカも、今年は全滅だと聞き及んでいます。なすはどんな具合でしょうか。玉ねぎはたくさんみのったでしょうか、馬鈴薯はきっと心配ないだろうと思います。せめて、キュウリや玉ねぎや、馬鈴薯を、腹いっぱい食べ、そして食べさせたいものです。・・・

 私たちの学校は貧乏です。ずいぶん無駄な苦労と不自由を我慢してきました。貧乏は一切の禍根です。貧乏を断じて克服しようではありませんか。だが、貧乏は生やさしいことでは克服できません。貧乏は、人さまのお情けにすがったり、人さまの力におんぶしたりしては、克服できるものはありません。自力です。自立です。自力によって、自ら立ちあがる外に、道は絶対にありません。・・・・」

 教育は胃袋から始まるとのスローガンを掲げ、外部の人からの熱い支援をいただき、乳牛を購入し、農具を整え、耕地を拡張し、山林の植林や養鶏にと生産設備を整えていきました。

 清男先生は少年たちに生活力を育てていきたい。少年たちに基礎学力つけるとともに社会に出て自立していく力を涵養することが大事であると力説されていました。

 貧しさに耐え続けた家庭学校職員とともに実践をされた記録として「教育農場五十年」を書かれました。この本は、北海道家庭学校創立満五十周年を機会に岩波書店から出版されたものです。

 現在も寮周りのハウスでは野菜の苗、花の苗を育てています。

 寮生活で自分たちの食する野菜をつくり、花を植え、自分で育て、成長をしっかり見守ります。

 自分たちでつくった野菜はおいしいのです。味噌をつくり、まきをつくり、風呂を沸かします。

 自然とともに成長する生徒たちに生活力をつけて社会で自立をしていってほしい。その願いを家庭学校は持ち続けています。

 分校を開いてから九六年、留岡幸助先生の精神は引き継がれています。

2010年06月号

テロワール

蒦本 賢治

 去る2月22日、紋別市に於て「オホーツク地方自然公園構想国際シンポジウム」が開催されました。このシンポジウムは、フランスの地方自然公園制度に倣い、オホーツク圏の風土に根ざした持続可能な地域振興を探ろうという趣旨で開催されたものです。前パリ・ソルボンヌ大学総長であり、フランス地理学会会長を務められる、ジャン・ロベール・ピット氏の基調講演で幕を開き、円卓形式のパネルディスカッションでは産官学の各界からの登壇があり、私もオホーツク地区の歴史のなかで、地方改良を語る上で欠かせない存在である家庭学校の職員として、パネラーとしてこの会議に参加させていただきました。

 シンポジウムでは「地方自然公園」と「テロワール」をキーワードに、食文化と、風景、農村に暮らす人々の密接な関係についてフランスの事例を学び、オホーツク地区で何ができるかを討議しました。「地方自然公園制度」とはフランスにおける、景観と地域産業の保全を目的とした制度です。目標憲章を定め、統一性のある農村風景を造ります。具体的には、地域の自然風景、産業を考慮し区域内の家屋の屋根勾配や色、家畜の品種、飼養方法など、細かな指針を策定します。この指針は強制的なものではありませんが、そこに暮らす人々の手によって策定され守られていきます。フランスの美しい農村風景は、ただ自然現象と生産活動に任せてでき上がったものではなく、人々が知恵を出し守ってきたものだということです。「テロワール」という言葉には適当な和訳はありませんが、 それは食品の持つ風土、風景を指すようです。 私なりの解釈では農産食品の風味を構成する要素の一つと捉えています。ワインを語るときなどにはよく用いられる言葉で、そのときは生産地の風土や地質を意味するそうです。 農業生産はその生産物の独特の農村風景を造りますが、その農村風景がテロワールとして農産物の味の一部を形成するのです。このように「地方自然公園」と「テロワール」は密接に関係しあって互いにその意義を強めています。風景と食文化、生産活動を上手くバランスをとりながら結びつけ、観光産業など新たな価値を創造しています。また、美しい景色と安定した産業はそこに暮らす人々に豊かさと誇りを与えてくれます。

 私はこのシンポジウムに出席して、テロワールを意識して家庭学校を見つめ直すと、そこに見えてくるものがあることを感じました。家庭学校は公園のように広大な土地を所有します。その中で人々が暮らし、山林、農業等の疑似的な産業を形成します。景観を強く意識し、園芸にも力を注いでいます。自分たちで食べる野菜を自らの手で作り、自前で味噌を醸造し、食のあり方についても強くこだわってきました。こうして考えてみると、テロワールと地方自然公園制度は私たちにとって全く無関係のこととは思えないのです。

 今回の講師であったピット氏はフランスの有名な青カビの生えたチーズについて、こう説明しました。「ロックフォールチーズを作っているところは、山岳地帯の岩の多い、非常に条件の悪いところでした。でもそういうところだったが故に、非常に特殊で個性のあるチーズが作られました。」

 私たちの暮らすこの地も決して条件の良いところではありません。冬は極寒、夏は猛暑が襲います。畑は傾斜地も多く、その土は重粘土で耕作可能な作物を選びます。しかし、そのことは私たちにさまざまな事を教えてくれます。留岡幸助先生は敢えてそういう土地を選びました。そして、非常に特殊で個性のある教育を子供たちに提供することができるのです。

 テロワールに関してこういう話もあります。どこか景色の良い地方に行ってその土地の個性的な特産物を食べたとします。それは、その地で食べるのが一番おいしいのです。けれども、家に帰りしばらく経った後、その特産品をどこからか手に入れ、口にしたとき、いつしかの風景が鮮明に蘇るというのです。

 家庭学校で学ぶ生徒は、長い人生のほんの一時期をこの地で過ごすだけです。したがって家庭学校の暮らしの中で多くを学んでも、時間の流れとともにその記憶は薄れていきます。ですから、ここを卒業した生徒が、社会の生活の中でつまずきかけたとき、ほんの少しのきっかけで、この厳しくも美しい風景、個性豊かな教職員、自らの手で拵えた野菜、味噌、牛乳の味を思い起こさせる、そのような場所をここで学ぶ子供たちに提供できればと私は思うのです。

2010年06月号

日々の思い

伊藤 久美子

 私が初めて子供たちと暮らし始めた五年前、精神科に通院している子どもはいませんでした。いま、一緒に暮らしている子どもたち六人のうち、精神科に通院している子どもは二人います。

 家庭学校に入校してくる子どものたちの入校理由は非行、行為障がいだけではありません。親から虐待を受けた子供たちも少なくないのです。

 親からの虐待によって人間不信に陥り、一番身近な大人を信用できないために触法行為を繰り返し、学校でも居場所をなくし、家庭学校に入校してくる子どものなんと多いことでしょう。

 一口に虐待といっても様々で身体的暴力、性的虐待、無視・放任、子どもに食事を与えないような虐待などがあります。そんな環境で育ってきた子どもたちを受け入れるためには、規則正しい生活を定着させ、安心できる環境を提供し、寮長寮母を信頼してもらえるように生活していきます。その中でも精神科に通院している子どもの多くは発達障がいを抱え、意思疎通を図るために薬の助けを借りながら生活しているのです。

 また、家庭学校の親子制度(新入生の世話係を先輩の在校生が行うこと)で、同世代、異世代との人間関係を学び、子ども同士でお互いに成長できる場を与えています。新入生に対して子どもたちはとても寛大で、構えたりせず、仲間として受け入れ、生活の基本をきちんと三ヶ月にわたり教えてくれるのです。その結果、心も落ち着き、生活も落ち着く子どもがほとんどのように思います。寮長寮母はそのための環境作りに全力を挙げているのです。一人一人の子どもとの関係を作っていく上で必要なのが、いつもいつでもあなたのことを見ているし、どんなときも私たち(寮長・寮母)はあなたの味方だよ。そんな言葉かけや態度で接し続けること。それ以前もいまも変わりませんが、いまの子どもたちに必要なことは、子どもたちが力を発揮できる環境を大人が整えることです。これこそが、大人の責任だと感じています。

 自分の意図したとおりの活動を組み立て、指示や干渉し、叱るだけでは、いまの子どもたちに通用しません。叱るという行為は叱る側の人間と叱られる側の人間の気持ちが通じ合ってこそ成り立つ行為で、関係ができていない段階では通用しないと感じられるようになりました。

 普段の何気ない会話の中で、意思疎通ができ、自分の気持ちを私たちに話せるようになると、叱るという行為も活きてくると感じられます。私たちは子どもたちの変化に応じ、その都度の対応をしなければなりません。具体的に寮母は、寮内掃除ができない子どもには、その子どもがどうすればできるようになるかを試行錯誤し、できることからやらせてみることをすると、自信がつき、達成感を得て、表情が変化していきます。

 また、炊事を一緒にするときも、その子の能力を見極め、まずはその子のやりたいことをさせ、寮母はサポートに徹する。そうする方が、料理ができあがったときの充実感が、その子に残る気がします。

 家庭学校に来る子どもたちは、学校からはじかれ、両親からの愛や援助を受けてこなかった子どもたちがほとんどです。やっとここにたどり着き、笑顔を取り戻して卒業できる子どもは氷山の一角で、まだまだ社会の中には躓き、苦しみ、人生を投げ出している子どもがたくさんいます。家庭学校で仕事をしている私たちは、ささやかではあっても、児童相談所の職員、地域の保育士、教師、精神科医の方々と連携し、子どもたちの成長の手助けをしていきたいと思うのです。