このコーナーでは、家庭学校の月毎の機関誌である『ひとむれ』から一部を抜粋して掲載しています(毎月上旬頃更新予定です)。
 職員が、家庭学校を通じて感じたことや伝えたいことを表しています。是非、ご感想をお聞かせください。
※都合により『ひとむれ』本誌と内容が異なる場合がございます。ご了承下さい。


2024年03月号

「地域とともに」

校長 軽部晴文

 ちょうど十年前、本校の創立百周年の記念事業の一つに百年記念誌の刊行が企画されました。その時の企画されたものが「北海道家庭学校110年 ―北の大地の暮らしと教育―」というタイトルで六花出版社より留岡幸助先生没後九十年となる二月五日に上梓されました。

 執筆を頂いた大泉溥先生、河原英男遠軽町前教育長、森田穣先生、富田拓先生、清澤満前校長、椿百合子先生、家村昭矩特別顧問、仁原正幹理事長、執筆に加え全体の調整を担って頂いた二井仁美編集委員長に心より感謝申し上げます。

 有難いことに早速本を読まれた方から多くの反響が本校に寄せられています。そして何よりも、今現場で子ども達と向き合っている者として、家庭学校のこれまでの歩み、家庭学校が子ども達に伝えてきた事を体系的に知ることが出来るのはとても有難いことです。

 留岡幸助先生が東京での十五年の実績の後に、サナプチに新たに作ろうとしたのは単に感化施設を作ろうとしたのではなく、理想的な農村を作るというものでした、その農村が醸し出す雰囲気で施設を包む事が、子どもの育成環境として最適だとの考えに基づいています。その考えから当時ほとんど未墾に近いサナプチを選ばれました。北海道家庭学校の歴史はゼロからのスタート、大正三年鈴木良吉先生が数名の生徒と共に最初の鍬を入れた時からの開拓の歴史そのものです、その開拓の歴史は現在も進行中です。

 現在のサナプチは過疎化が進み幸助先生が描いた通りの農村とは言い難いのですが、今でも家庭学校は地域の方々と共にあります。二月二十五日の日曜日、私たちは湧別原野オホーツククロスカントリースキー大会に参加してきました。今年の当地は降雪量が少ない上に、二月中旬に気温がプラス十度を超える日があり、予期せぬタイミングでの雪解けが進んでしまいました、その為大会の目玉である八十キロや五十六キロといった長距離コースは雪不足から中止となりました。私たちの参加する五キロコースもコース整備上の理由でコース自体が変更され距離も三キロに短縮されました。それでも全面的な中止とならなかったのは大会関係者の努力があってのことと思います。

 当日の天候は青空が広がる穏やかなスキー日和でした。会場の駐車場には道内各地のナンバーに混じり、本州ナンバーの車も見受けられ、多くの方が楽しみにしている行事なのだと感じて、改めて中止とならないでよかったと思えました。 私たちは、この日のスキー大会に向け、遠軽太陽の丘クロスカントリースキークラブの方々にスキー講習会を四度開催して頂き、ゲレンデのスキー技術とは違う、クロスカントリースキーの基礎を教えていただくことが出来ました。そのうち一度はワールドカップへの出場経験もある宗方博文さんによるトップ選手から直接教わる機会もありました。講習会の他にも校内のグランドに練習コースを整備し連日の練習にも励みました。

 大会本部が用意したパンフレットによると三キロコースには百三十名がエントリーされています。私はスキーに慣れていないTさんと一緒に滑ることにしました、Tさんはこの冬初めてスキーを体験している六年生です。彼はまだスケーティングの技術が体得できず、二本のポールを使ってひたすら体を前に押し出す滑り方のみで、スケーティングを身につけている子供に比べると最初からハンディがあります。スタートの合図で他の参加者が飛び出すのを横目に、私はマイペースで大会を楽しもうとしましたが、Tさんを見ると必死にポールで前に進むことに専念しています。コース脇の数箇所に職員が立って声援を送っていますが、それも彼に聞こえたかわからないほどの懸命な姿です。私のように楽しもうなどという気配は微塵も感じられません。コースは折り返し地点から湧別川に沿ってスタート地点に戻ります、本格的な雪解けになっていない湧別川は緩やかな流れでした。思わず「こういうスキーもいいな」と自然の中のスキーを楽しんでしまいました。一方のTさんですが、結局一度も休む事なく完走しました、腕の力だけで滑り切った姿に大変な体力だと感心してしまいました。

 幸助先生は子どもたちを育てるに相応しい環境を整える事を第一に考えました、先生が理想とする農村を今のサナプチに百パーセント求めることは難しいものはあります。しかし、現在の遠軽町に家庭学校はすっかり溶け込んでいると感じることがあります。子どもたちに不測の事態が起きた時、町民の方全体が見守ってくださっている雰囲気を感じます、望の丘分校に赴任された教員の方々のネットワークを通して家庭学校に対する理解が進んでいるように感じます。年間を通して開催される家庭学校の行事を多くの方が応援してくださります。

 Tさんが、スキー大会に参加し個人的に成績は振るいませんでしたが、彼なりのスタイルで最後まで投げ出さず走り切れたのは、あの日参加していた方達からの無言のエールによって支えられたからだったのではないでしょうか。

 家庭学校の子どもたちが育つのに最適な環境を提供するのは私たちの仕事です、しかし先ほども述べたように、私たちの周囲には多くの町民の方の応援がある事を忘れてはならないと思います。創立以来百十年、北海道家庭学校は遠軽町という大きな地域に包まれています。

2024年03月号

事務員さんの仕事

本館職員 椛山可奈子

 入職して丸三年になります。執筆の依頼がありましたので職務の内容をおおまかではありますが書こうと思います

 私の仕事は主に施設の預金や小口現金の管理、児童の入退所の手続きや貴重品の管理、職員の福利厚生・給与、振込や納税、支払、郵便物の仕分、管理その他こまごまとした雑務を担っています。毎月だいたい同じ流れで仕事をしますが、年に一度しか提出しない更新書類なども多数あり毎月それなりにバタバタしています。そのなかで夏の労働保険、冬の年末調整が私の中での一大イベントとなっています。こちらが始まって提出完了となるまでが俗にいうピリピリしている期間であり緊張している状態だと思います。忙しくはしていても、職業柄一日中机に向かう事があっても全く苦ではなく、むしろひとつひとつ課題をクリアし、次の日に仕事を持ち越しせず退勤できた時は自分の中での達成感があります。地味な仕事ではありますが大変やりがいを持っています。

 普段は事務所で仕事をしていますが年に二、三回ほど給食棟での調理の仕事があります。普段給食当番にはいっさい入っていないので、あまり役には立てていないかもしれませんが、昨年は花見の会・晩餐会・残留行事のお餅つきで給食棟に入らせていただきました。花見の会では、三年連続の焼きそばの太巻きを担当しました。掬泉寮母の美香先生に教えていただき、三年目でようやく何本か焼きそばとアスパラが中心にくる綺麗な太巻きが出来たようにと思います。

 晩餐会ではプレートのメインである鶏の足を前々日から毛や余計な脂を処理し、味付けして当日にオーブンで焼く工程がありました。鶏の足の下処理は個人的に興味がありましたが、年末調整などの業務と重なり多忙で毎年出来ずにいました。昨年は何とか都合がつき、前々日から給食棟に入ることができました。

 晩餐会当日は午前中が調理、午後から順番に盛り付けや配膳等をして女性職員で手分けをして豪華な食事が並んだテーブルを作り上げました。晩餐会で児童やお客様が美味しそうに食事を楽しむ姿を見るのは、とても嬉しかったです。私も美味しくいただきました。

 給食棟での業務は年に数回だと、どうしても思うようには動けず職員やパートさんに助けていただき、指示されて動くだけになりがちで申し訳ない気持ちになります。それでも「忙しいのに給食棟に入ってくれてありがとうございます」と声をかけてくれるので足手纏いにならないよう、教えてもらったこと、自分の出来る事は確実にやろう、と心がけています。そんな私ですが普段と違う場所での仕事はとても新鮮であり、充実した時間を過ごせています。女性職員の皆様今年もどうぞご教示よろしくお願い致します。

2024年03月号

悩みながら頑張ってます

がんぼうホーム職員 丹野準子

 昨年四月よりがんぼうホームに務めさせていただいています。

 以前十年以上前に、まだ給食棟が古い時に、一年だけお世話になったことがあり、その頃は寮の数も多く、中で生活している人も沢山いたと記憶しています。縁があり、また勤めさせてもらう事となり嬉しく思っております。

 地元が遠軽の私は、小さい頃から「家庭学校は悪い子どもの行く学校…」と聞いて育っていました。十年以上前に家庭学校で働かせてもらうと決まった時に、親しくしている友達から「大丈夫なの…」と言われたことを思い出します。今回働く事になった所の名称は“がんぼうホーム”友人曰く「へ~そんな所あったんだ…。何のホームなの?」と興味を持たれました。

 ホーム内で生活している子ども達の年齢が十七・八歳で、我が息子と同年齢なので、接していくうちに、何とかなるでしょう…と思っていました。とても甘く考えていました。育った環境、その子の性格、周りからの影響、その他色々あり、人それぞれ同じ様な人はいないと思っていましたが、私自身こうすればこんな感じで話したら、接したらきっとこんな風に帰ってくるはずだ?それが常識で当たり前だからと思って行動していたことが、ここでは全くあてはまりませんでした。なので初めは戸惑うばかりでした。なぜなんだろうと私が思い考え感じて今まで生活していた事は間違っていたのかな?「当たり前」って何?「普通は」って何?と、どれが本当で、どれが違うのか分からなくなっていきました。このままで良いのか、どうしたらよいだろうと悩んで働いていましたし、何が何なのか分かりませんが、モヤモヤとして生活していました。

 今もイライラが募る事もありますが、今までとは違う自分が発見でき、あらためて考えさせられる機会が沢山ある「がんぼうホーム」に来てよかったと思っています。

 私も子ども達と共に少しずつ成長していると思います。

2024年03月号

望の岡分校教員の声

望の岡分校教諭 高山修一

 第七十三次教育研究全国集会にて高山修一教諭が「自治的諸活動と生活指導分科会」で発表した文書を編集して二回に分けて掲載します。

「望の岡分校」という学校の子どもたち        

 望の岡分校に赴任して六年。児童自立支援施設の施設内学校という特殊な環境はそれまでの教育実践や経験が簡単には通用しない教育現場だった。心にも体にも傷を負い、きっとこれまで「学校は楽しいところ」とか、「家庭は安心するところ」なんて思ったこともないだろう子どもたちと向き合った六年間を振り返り、その現状や実態、実践をまとめるとともに改めて今後の課題を浮き彫りにし、これからの実践にいかしたいと思っている。そして、何よりこんな学校とそこで学ぶ子どもたちがいるということを、多くの人に知ってほしいと思っている。

望の岡分校

 遠軽町立東小学校望の岡分校と、遠軽町立遠軽中学校望の岡分校は、児童自立支援施設「社会福祉法人 北海道家庭学校」内に併設された男子対象の施設内学校である。二〇〇九年、施設への公教育導入に伴い開校し十五年目を迎えるまだ新しい学校である。

 同じように、児童自立支援施設の施設内学校として、道内には大沼学園の鈴蘭谷分校(男子対象)と、向陽学院の陽香分校(女子対象)の二校がある。

 現在望の岡分校には小学生六人、中学生十五人の計二十一人(七月二十日現在)の子どもたちが在校している。その内、特別支援にあたる子どもたちは十三人で六十二%(情緒十一人・知的二人)となっている。

 施設が随時入所・退所なので入学式はなく、年間をとおして子どもの在籍数は大きく変化する。教職員数は小学分校四人、中学分校十一人、事務職員一人、養護教員一人、教頭一人(分校のため校長はそれぞれの本校長)の計十八人。名目上、東小学校の分校と遠軽中学校の分校となっているが、実際は小中学校に近い教育活動を行っており、中学校分校の芸能教科担当者が小学生の授業も行い(合同・TTもあり)、校務分掌をはじめ行事等も合同(各行事は家庭学校も含め)で分担、実施している。小・中両分校で、分校・教育委員会と北海道家庭学校との協定書に基づいた、一部独自の教育課程が実施されているのも望の岡分校の大きな特徴である。

 ちなみに、望の岡分校独自の校舎はなく、家庭学校の本館を間借り・増築し分校としての日々の教育活動を行っている。職員室も家庭学校職員の教務室に間借りの形となっており、同じ空間に間仕切りもなく福祉施設と学校教育の二つの組織が同居している。赴任間もないころは、この空間に何だか落ち着かなさを感じたものである。

子どもたちの施設(北海道家庭学校)への入所と退所

一.施設への入所理由

 子どもたちの入所理由は様々で、育児放棄や育児怠慢が起因の社会・集団生活への不適応等による非行および触法行為等で、ほとんどの場合不登校状態・傾向にある。子どもたちは児童相談所に一時保護された後、保護者・児童相談所・本人とで話し合いを行った結果、児童相談所の措置として施設に入所してくる。その他、家庭裁判所の審判の結果、児童自立支援施設送致される場合もある。

 子どもたちは施設入所前に施設見学に訪れる。本来は、この見学後に本人の意思として北海道家庭学校への入所を希望し、入所してくるという流れなのだが、その本人の「意思」=「納得」というところに子ども本人と保護者、児童相談所との間にかみ合っていない「何か」があることがしばしば見られる。これがその後の施設・分校での生活に大きな影響を与える要因でもある。

二.退所

 子どもたちの施設入所期間は平均すると一年七か月程度だが、短い子では半年間、長い子だと三年間(中学校三年間)という子どももいる。施設の暫定定員は四十一人だが、例年年間で十五人前後の出入りがある。

 子どもたちと私たち教員の別れは「突然」やってくる。子どもたちの入所期間についてはあらかじめ入所時にある程度の期間が決められている。しかし、子どもたち一人ひとりの成長の度合い(課題の克服状況)や、退所後に受け入れる家庭もしくは養護施設の準備、施設(家庭学校)と児童相談所の判断により必ずしもそのとおりになるわけではない。

 小学六年生と中学三年生は卒業式後の退所が一つの目安となるが、小学校卒業後も措置変更されず、そのまま中学校分校に入学してくる子どもが例年半数ほどいる。また、中学校卒業後は高校進学や就労により基本的に措置変更され退所を迎えるのだが、中には高校進学も就労もせずそのまま中卒生として家庭学校に措置される子どももいる。ほとんどの場合、その子たちは次の年に高校進学や就労をめざし、家庭学校職員から「学校教育に準ずる教育」としての学習と就労指導を受けることになる。退所後に家庭復帰できる子は一握りである。

子どもたちの背景(背負っているもの)一.家庭環境

 全国の児童自立支援施設の入所児童の現状と同じく、ここ十年ほどの間、家庭学校入所の子どもたちの約七割が家庭で虐待された経験を有しており、また、入所以前から他施設(家庭以外)で育ってきた子どもたちが五割を超えている。このことからもわかるとおり、家庭学校の子どもたちの多くが家庭環境に恵まれなかったと言える。家庭環境に恵まれないということは、その子の人格を形成するための基礎そのものが不確かなものであったということを意味する。

二.発達しょうがい

 これも全国の自立支援施設と同様の傾向であるが、ここ十年ほどの家庭学校入所の子どもたちのうち、年度によって多少のずれはあるものの平均すると八割を超える子どもたちが精神科的な診断を受けている。その主なものは、ADHD(注意欠如・多動症)、ASD(自閉スペクトラム*アスペルガー症候群含む)、LD(学習しょうがい)などである。

作業班学習と子どもたち

一.作業班学習

 家庭学校開設以来、「流汗悟道」の教育理念のもと子どもたちの活動として続いてきた作業班は、分校開設後は作業班学習として月、火、木の午後に実施されている。教育課程上の位置づけは主に総合的な学習の時間(五・六・七時間目)とし、五つの作業班に分かれ施設職員主導のもと分校教員も協力し活動が繰り広げられている。

【目的】自然環境とそこで暮らす人々との関わりについての教科横断的・探究的な体験学習を、児童生徒とともに多くの人たちが一体となってとりくむことにより、自己有用感を高めながら、他者と協力して問題を解決することの大切さを体得し、未来に向け望ましい職業観・生活観をもち「生きる力」を育成する。

【各作業班のとりくみ】

山林班:学校林下草刈り・間伐、風倒木処理(枝処理・運搬)、植苗、登山道・林道草刈り、林道補修、山菜取り

蔬菜班:土焼き、育苗培土つくり、ハウス設営、各種野菜栽培、草取り・草刈り、天地返し、追肥・中耕、収穫

園芸班:土焼き、種まき、仮植・定植・植えかえ、花壇設計・整備、草取り・草刈り、たい肥・土づくり

酪農班:牛舎清掃・整備、餌やり、牛舎周辺草刈り・植生調査、電牧整備、牧草ロール搬入、バターづくり

校内管理班:校地内建物修繕、温床・物置建設、校地内スノーポール設置、みそづくり、スキー場リフト設置

全校作業:草刈り、植樹、除雪、冬季間伐、作業班学習発表会

二.作業班学習と子どもたちの変化

 家庭学校に入所してくる子どもたちのほとんどは様々な事情から不登校または不登校傾向だった経験を持つ。そのため入所(転学)当初は、生活面では集団生活集団行動に慣れていなかったり、学習面では欠学のため基礎学力が定着していなかったり、体力的にも乏しい子どもたちが多いと感じる。だから、子どもたちにとって(教員にとってもだが)一時間一時間の授業は大変なとりくみである。そして、それは作業班も同様である。

 それぞれの作業班の学習(作業)内容は前述したが、週三回正味二時間から二時間半の作業は大人でも大変ハードなものである。特に夏の暑い時期や冬の除雪作業はこたえる。三十度を超える強い日差しの中畑で草取り、極寒の中で背丈を超える雪山を除雪、林の中の蒸し暑さや群がる虫に追われながらの丸太運び、いつ終わることなく繰り返す天地返しなどなど、数えればきりのない大変な作業と経験を、子どもたちは時に不調になりながら繰り返していく。そして、少しずつ少しずつ慣れていき、たくましくなっていく。

 作業班学習の時間は、子どもたちにとって大事な「評価される場」であり、自分自身の行動一つで「信頼を積み上げていく場」であり、体験をとおして「自己肯定し自信を身につける場」であると実感している。もちろん、子どもたち一人ひとりの個性やしょうがいの特性、発達段階に応じてではある。(次号へ続く)

2024年03月号

「留岡幸助生誕一六〇年・没後九〇年」

理事長 仁原正幹

 校祖・留岡幸助は「家庭であり学校であること」が課題を抱えた子ども達に最も相応しい生活環境であることを明治の時代に予見し、一八九九(明治三十二)年に東京で家庭学校を創設しました。

 留岡は東京での十五年の経過の中で、「天然の感化力」と「理想的な家庭生活」による人間形成の重要性に着目するようになり、北の大地の豊かで厳しい自然環境こそが感化教育に最適であるとの考えに至り、北海道オホーツクの地に分校と農場を開設し、広大な北の大地で純粋な意味での「感化教育」を始めたのです。

 今から一一〇年前の一九一四(大正三)年のことで、我々はこの時点を北海道家庭学校の起源としていることから、今年、北海道家庭学校は創立一一〇周年の記念の年を迎えています。

 北海道家庭学校には、一一〇年の間に総勢二六〇〇名もの児童が、共に暮らし、共に学び、共に汗しながら、皆それぞれに自己を変革し、大きく成長して、元気に巣立っていった歴史があります。それらの児童の周りには常にウィズ(With)の精神で寄り添い励ましながら指導・支援に邁進してきた多くの職員がおり、側面から支えてきた多くの役員がおり、そして地元遠軽をはじめ全国の数多くの支援者・協力者の存在があります。

 十五年前の二〇〇九(平成二十一)年からは、公教育を担う「望の岡分校」の教職員がその輪に加わり、家庭学校の職員との緊密な連携の下に、課題を抱えた子ども達への手厚く力強い指導・支援が行われています。児童福祉と学校教育の協働による目覚ましい相乗効果が現れていることを、私自身の校長六年、理事長四年の十年の歳月の中で実感しており、大変心強く思っています。

 そして私は、この十年の実体験の中で、「感化の力」の大切さについても、強く意識し、実感するようになっています。「感化」とは「人に影響を与えて心を変えさせること」をいいますが、児童自立支援施設の日常はこの「感化」の連続であり、発達障害、愛着障害の子ども達が大半を占める児童自立支援施設における教育は、将に真の意味での「感化教育」ではないかと考えています。

 これまでも何度か書いてきましたが、児童自立支援施設では少年院の指導手法である「矯正教育」は行わず、強制力を伴わない「環境療法」的な手法により子ども達を指導・支援しています。家庭学校での日々の暮らしを見ていると、子ども達はそれぞれの集団のグループダイナミックスによって大きく変化し、成長していくことがよくわかります。新入生は北海道家庭学校の豊かな環境に少し長く暮らしている先輩の所作や物言いを真似ながら、知らぬ間に感化され、成長していくのです。もちろん指導者たる大人が子どもを指導・支援する感化の力は大きいのですが、子ども同士が感化し合う力はそれに匹敵するほど大きく、有効であると感じています。

 留岡幸助は、一八六四(元治元)年に備中高梁(現在の岡山県高梁市)で生を受け、一九三四(昭和九)年に東京で七〇年の生涯を終えています。ということで、今年二〇二四(令和六)年は、校祖生誕一六〇年・没後九〇年という大きな節目の年でもあります。

 また、一九一四(大正三)年の北海道家庭学校創立は、校祖自身が五〇歳のときのことであり、二十年の時を経て七〇歳で亡くなられました。年齢や経歴の数字を追うだけでも、几帳面で厳格な方だったことが窺われるような気がします。

 校祖没後九〇年の記念の日が、今年の二月五日でしたが、その二月五日付けで『北海道家庭学校一一〇年 ―― 北の大地の暮らしと教育』という本を刊行しました。この本については、北海道家庭学校創立百周年記念事業の内容を検討する中で「百年史」の編纂が俎上に乗ったことが端緒となっています。諸般の事情から、編集作業に十年もの歳月を費やしてしまい、紆余曲折を経てタイトルの年数も結果的に「百年」から「一一〇年」になりましたが、このほどやっと日の目を見ることになりました。新旧の多くの編集委員、執筆者の皆さんに、それぞれご多用の中、長きにわたり調査研究、執筆、編集等の大変骨の折れる作業にご尽力いただいた成果が結実したものです。

 学術書形式の四〇〇頁超の大冊ということで、一般書店の店頭に並ぶほどの大量の部数は発行していませんが、ネット通販でお求めになれますし、北海道家庭学校に直接ご用命いただければ著者割引価格(税込三〇〇〇円)でご提供できますので、ご一読いただければ幸いです。過去の出版物同様、公式ウェブサイト「家庭学校へようこそ」でも紹介しています。

 私は二月中旬、所用があって上京しました。その折りに、この本の共同監修者である家村昭矩特別顧問と、編集委員長の二井仁美・奈良女子大学教授のお二方と合流して、三人で校祖の曾孫の留岡伸一さんにお目にかかり、創立百周年の年以来十年振りに親しく懇談させていただきました。さらには、留岡伸一さんのお計らいにより、初夏のような好天の下、多磨霊園をご案内いただき、初めて校祖のお墓参りをさせていただきました。墓前に新刊本をお供えしながら、現理事長として、新世紀・北海道家庭学校の現況をご報告をさせていただいたのでした。

 家村特別顧問は、この四月から名寄市立大学の学長に就任されるご予定です。これまで理事、理事長、特別顧問として、実に十八年の長きにわたり北海道家庭学校を支えていただきました。そうしたことの集大成が、『北海道家庭学校一一〇年 ―― 北の大地の暮らしと教育』にも結実・反映されていると考えています。