ひとむれ

  このコーナーでは、家庭学校の月毎の機関誌である『ひとむれ』から一部を抜粋して掲載しています(毎月上旬頃更新予定です)。   職員が、家庭学校を通じて感じたことや伝えたいことを表しています。是非、ご感想をお聞かせください。

※都合により『ひとむれ』本誌と内容が異なる場合がございます。ご了承下さい。
2019年01月号

「「児童福祉」と「少年司法」」

校長 仁原正幹

 新年おめでとうございます。北海道家庭学校は創立百五年目を迎えました。今年も家庭学校と子ども達のこと、宜しくお願い致します。

 北海道家庭学校にお客様が多いことはこれまでも記述したとおりです。社会的養護に対応する児童自立支援施設ということで、来客の中心は「児童福祉」関係の方々になるのですが、他方「少年司法」関係の方々も多く、家庭裁判所の裁判官や調査官、少年院や少年鑑別所の職員、保護司会や更生保護女性会の会員等々の皆さんが年間を通して来校されています。さらには校祖留岡幸助が家庭学校創設前に教誨師をしていたことのご縁もあってか、刑務所の職員、教誨師会の会員などの皆さんも時折来校されます。そのような日頃のお付き合いもあって、私自身も保護司会、更生保護女性会、教誨師会などの皆さんからの要請に応じて講演に伺うことがあります。

我が国では、「児童福祉」と「少年司法」という、少年非行に対処する二つの分野が戦後ほぼ同時期にスタートし、爾来約七十年の星霜が流れています。ところが、行政の管轄が厚生労働省と法務省に分かれていることもあって、互いに相手のことがよく見えない状況にあるように思います。

これが一般の方になるともっとわかりづらいようで、「少年司法」の分野と「児童福祉」の分野が時にはごっちゃになって混乱することもあるようです。北海道出身の作家佐々木譲は『廃墟に乞う』という小説で平成二十一年に直木賞を受賞しました。その受賞作品の中で、かつて犯人兄妹を北海道岩見沢児童相談所が一時保護所に保護していた件があるのですが、そこのところの書きぶりが「児童相談所からやってきた保護司に引き取られた」という記述になっています。読んだ当時岩見沢児童相談所長だった私は、一瞬…目が点になりました。どうやら「児童福祉司」と「保護司」を混同したようなのです。文藝春秋という大手出版社の発行で、作家以外にも編集者など多くの人がチェックをしているはずなのにこんな初歩的なミスに誰も気づかなかったのかと驚きました。近年では児童虐待問題で児童相談所がクローズアップされることが多くなってきているのですが、まだまだ一般の方には馴染みが薄いのかなというのが、そのとき私が抱いた感想です。

 余談ですが、児童相談所のことで申しますと、その昔昭和の終わり頃、北海道中央児童相談所の移転が計画され、現在地の札幌市中央区円山西町が候補地として浮上したときに、当時の円山住民から反対運動が起こりました。児童相談所が来ると夜間に女性が一人で歩けなくなるといったデマが流れ、その模様を地元の民放テレビ局が『狼が来たか』というタイトルで放映したことを覚えています。

 最近も東京都の港区南青山で児童相談所の新設に反対する住民の動きが連日報道されています。一時保護所に収容された触法少年や貧困家庭の児童が高級住宅地の南青山の小・中学校に通うのは危険なので児相設置に断固反対するという住民の声とそれに対する識者と称する出演者の的外れなコメントには唖然としています。児童相談所の一時保護所は身柄の安全を図ることを主目的に緊急避難的に短期間活用されるもので、そこから地域の学校に通うことなどはあり得ないのです。平成の世になって三十年が経過しても児相への理解は深まらないようです。

本筋に戻りますが、「児童福祉」と「少年司法」の分野の違いについて、あるいは関係性については、今一つ理解されておらず、また、縦割り行政の弊害もあってか、関係機関同士でもお互いがよく見えずに濃やかな連携が図れないでいることもあるような気がしています。

 幸いなことに北海道家庭学校には前述のとおり「少年司法」や「司法」の関係の方々にも多数来校していただき、相互理解を深め、連携を図ることができており、大変有り難く思っているところです。

中でも網走刑務所の職員の方には近年は年に数回、性教育や薬物濫用防止教育などで家庭学校にお越しいただき、直接子ども達にご指導いただくなど、格別なご協力をいただいています。

 そうしたことも校祖留岡幸助と網走監獄典獄の大谷友次郎(礼拝堂の『難有』の揮毫者)の交友に始まるお付き合いが百年以上続いていることによるものであって、大いなる遺産なのだと考えており、時折百年前に思いを馳せています。

 ところで、網走刑務所さんとのお付き合いにつきましては、このほど一層深まることになりました。十月に網走刑務所の矯正医官として着任された児童精神科医の富田拓(ひろし)先生が、週に二日、家庭学校の中でも医療活動をされることになったのです。富田ドクターはかつて家庭学校に医師として勤務し、同時に掬泉寮長としても仕事をされた方で、その後長らく国立の児童自立支援施設である「武蔵野学院」と「きぬ川学院」の医務課長として活躍されてきた方です。久々に北海道に戻って来られたので、北海道家庭学校としても道内の発達障害児と保護者を対象とする診療所を開設すべく、新年度に向けて準備を進めているところです。

 富田ドクターには早速裁判所などからの講演要請が来ているようで、今後の富田ドクターの活躍により「児童福祉」と「少年司法」の一層の連携が進むものと、大いに期待しているところです。

 北海道家庭学校の精神的シンボルとして望の岡に聳え建つ「礼拝堂」は、築百年の節目の年を迎えています。

2019年01月号

「~ラオスで考えたこと」

主幹 鬼頭庸介

 私なりの二〇一八年を振り返って特に印象に残ったことを書きたいと思います。書いてある内容が、家庭学校や児童の自立支援とは少ししか関係のないことになることをはじめにお断りしておきます。

 一月いっぱいで九ヶ月だけ任された石上館の担当から離れました。その後、少し休暇をいただくことができました。二月五日の留岡幸助先生の命日に日本を出発し、タイのバンコクで暮らしている家族と一緒に、長いこと訪れてみたかったラオスという国を旅してきました。ラオスは、東南アジア唯一の内陸国、つまり海に面していない国で、そのためか経済発展がかなり遅れている国のひとつです。発展途上国の中でも後発開発途上国と言われており、国土の面積は日本の約三分の二ですが、大半が険しい山地と密林です。人口は日本の二十分の一。国全体のGNPは、鳥取県の経済規模の約三分の一程度。国民の78%が農業に従事している農業国です。私の協力隊時代の任地であるタイとはメコン川を境に国境を接しており、言葉も文字もタイ語とよく似ており、会話はタイ語でも通じる場合もあります。海がない代わりに、メコン川という大河が国土を南北に貫いて流れており、人々の暮らしと密接に結びついています。

 一九九二年に協力隊でタイに赴任する前の語学訓練のときに知り合ったラオス語のセンファー先生は、とても控えめで穏やかな人でした。こんなに控えめで穏やかな人が世の中にはいるんだと思うぐらい。ラオス語とタイ語が似ていることから、私達タイ派遣隊員とも食事の席でよく隣の席に座って私たちのつたないタイ語で会話をしてくれたことが印象に残っていました。それ以来いつかこんな穏やかな人が暮らしていた国に行ってその暮らしぶりを見てみたいと思っていたのでした。また、ラオスからの協力隊派遣要請の職種には「養蚕」という今ではあまりお目にかかれない職種があったことを記憶しています。その協力隊の同期のラオス隊員が休暇で私の任地であるチェンマイに来たときに、同じ途上国でありながらもラオスの生活と比べてタイの生活や人々の暮らしが豊かであることに驚くと共に羨ましがっていました。私の暮らしていたチェンマイの田舎も相当に不便なところでしたが、そのラオス隊員の話から、同じ協力隊でも行く国によってその大変さが異なることを気づかされ、当時まだ若く体力も気力も十分にあった私は、いつかラオスのような最貧国に行って何かの役に立ちたいといった気分になったことも記憶しています。その後、ラオスのことは気になりながらも、行く機会がないまま時間が過ぎていたところ、村上春樹の「ラオスにいったい何があるというんですか?」という紀行文を読み、バンコクからも近いこともあって訪れることにしました。

 ラオスに行くに当たっては、首都のビエンチャンにも行きたかったのですが、休暇期間の都合上ひとつの街にしか滞在する時間がなく、家族の意見と「ラオスにいったい何があるというんですか?」の中の「大いなるメコン川の畔で」の紀行文に出て来るルアンプラバンという小さな街を選ぶことになりました。その村上春樹のルアンプラバンに関する記述の中に「僕の会ったこの街の人々は誰しもにこやかで、物腰も穏やかで、声も小さく、信仰深く、托鉢する僧に進んで食物を寄進する。動物を大事にし、街中ではたくさんの犬や猫たちがのんびりと自由に寛いでいる。たぶんストレスみたいなものもないのだろう。犬たちの顔は柔和で、ほとんど吠えることもしない。その顔は心なしか微笑んでいるようにさえ見える。街角には美しいブーゲンビリアの花が、ピンク色の豊かな滝のように咲きこぼれている。」という一文があり、どんなところなんだろうと楽しみにしてバンコクから空路ルアンプラバンに向かいました。

 訪れてみたルアンプラバンの街は、予想どおり美しい街でした。街のすぐ前にはメコン川が流れています。長くフランスの植民地であったため、同じ東南アジアの国でも隣接するタイの街とはいくぶん趣が異なり、どこか洒落た西洋とアジアの雰囲気が混在した独特な雰囲気の街並みです。ラオスという国は、まだグローバル経済の波に飲み込まれておらず、就中ルアンプラバンは世界遺産にも登録されている関係からか街には高層ビルが全くなくあまつさえ三階建てより高い建物がない。大型ショッピングセンターはもとよりコンビニやファストフード店もなく、滞在中は気持ちの芯のあたりが落ち着いて来る街で住んでみたくなる街の佇まいです。街を貫くメコン川に面した通りと街の中心の通りにはフランスパンを焼く店や洒落たカフェがそこかしこにあり、どの店にも長くこの街に滞在していると思しき欧米人がオープンカフェの洒落た店の前に置かれたテーブルに座ってゆっくりと寛いでいる姿が見られます。日本人はあまり見当たりません。

 ルアンプラバンの街に来て私がいちばん驚いたことは、街に信号機がひとつもなかったことです。ルアンプラバンの街は観光地なので、確実に遠軽の街より人の行き来やクルマとバイクの数も多いのですが、信号機がひとつも見当たらない。そんな道路事情でもクルマや原付バイクは普通に走り、人も通りを自分たちの目で判断して渡っていました。更に驚いたことに小学校と思われる敷地の中から小学五、六年くらいの少年が二人乗りで原付バイクに乗って出て来たのを見たときでした。ふたりの少年は当然のようにノーヘルメットでした。日本ではあり得ない、このような光景はアジアの発展途上国ではよく見かけた風景です。私が一九九二年に協力隊でタイのチェンマイに暮らしていた頃には、チェンマイの田舎でもそうした規則の緩い風景には普通に接していました。ただ、タイでも経済発展や経済のグローバル化とともに交通ルールが厳しくなり、最近ではそうした緩さとかいい加減さ、よく言えばおおらかさが失われつつあると感じています。ラオスで出合った光景には、懐かしさとともに、こうした緩さが長く続いてほしいとさえ思ったのでした。

 懐かしい風景と言えば、街を散歩しているときに見かけた小学校の校庭で、子どもたちが元気よく走り回っている姿を見たときにもそう感じました。そのとき、放課後の校庭で大勢の子どもたちが子どもたちだけで自由に遊んでいる景色を日本では長らく見ていないことやかつては日本にもこうした情景が当たり前のようにあったことを思い起こしました。私が過ごした小学校時代は昭和四〇年代で、子どもの数も多く、休み時間や放課後の校庭は子どもたちがドッジボールや野球などをして夢中になって遊ぶ姿でいっぱいでした。それと同じ風景がそのときのルアンプラバンの街の小学校の校庭で展開されていました。男の子はサッカーに興じていたのですが、その少年たちの足下を見ると日本のようにサッカーシューズや運動靴を履いている子どももいますが、中には裸足でボールを蹴っている子もいました。ただ、その少年たちの目は子どもらしくキラキラと輝いて見えたものです。あんな瞳を輝かせて遊んでいる子どもには今の日本では滅多に出合うことがありません。このことは、協力隊時代にタイで暮らしていたときから気がついていたことですが、物質的な豊かさがそのまま幸せにはつながらないということです。残念なことに最近の家庭学校の児童の中には「お金がいちばん大事」と公言する子もちらほらと見受けられるようになりました。そういう子には一度このような世界を見せることがいいのかなと思います。

 ラオスはタイと同じく仏教信仰の篤い国で、中でもルアンプラバンの人々はとりわけ信仰心が篤く、毎朝五時前からオレンジ色の袈裟を着た僧侶たちが托鉢に出ます。人々はカオニヤオという餅米を竹で編んだおひつに入れ、道端に座って、一人ひとりの僧侶にひとつかみずつ順番に寄進します。僧侶たちは寺院単位で列をなしてひたひたとやって来ます。ルアンプラバンには数多くの寺院があり、ひとつひとつの寺院には平均して二十から三十人くらいの僧侶が所属しており、列の先頭には位の高い僧侶が立ち、後ろに行くに従って若い僧侶が続き、後ろの方には十代前後の少年、最後尾になると小学校低学年くらいの子どもの見習い僧侶たちが続きます。彼らは終始無言で、余計な口はいっさいきかずに歩きます。もちろんスマホなどをチェックしている姿は見られません。街の人々も早朝からカオニヤオを用意して、僧侶たちが列を作って道をやって来るのを待ち受けていました。このような儀式を毎日欠かさず続けることは結構な手間のようですが、ルアンプラバンでは、それが人々の日々の営みの自然な一部になっているようでした。

 ラオスでもタイでもこのように仏教信仰が人々の生活に深く根ざしていることは同じで、それが子どもたちの教育とか倫理観にも強く影響を及ぼしていることは想像に難くありません。タイでは、期間の長短はあれども、男子は一生に一度は出家することが義務づけられています。その制度は、おそらくラオスにもあるはずです。私が協力隊で二年間仕事をしていたタイの少年院でも、退所後の行き先がない少年たちの受け皿として、お寺の僧侶見習いになるという選択肢がありました。お寺が社会保障制度の中で生きており、セーフテイーネットの役割を果たしていることに気がつきました。お寺の僧侶になれば、厳しい修行はあるものの、寝食に困ることがなくなります。なにより毎朝読経と瞑想をすることでこの世界に生まれて来たことの意味を知り、他者に対する慈悲の気持ちが養われ、自分自身の心の平安も得られるでしょう。悲しんでいる、困っている、弱い立場の側に立つこと、そういった思いやりの心を身につけることができるラオスやタイのお寺は、非行少年や被虐待などの要保護児童にとっては、日本でたとえると養護施設や自立支援施設と同じような役割を果たしていると感じます。私が見た早朝の托鉢に出て来た僧侶の隊列の後ろの方にいた少年たちが、どのような経緯でお寺に入ったかは知るよしもありませんが、日頃、あの少年僧侶と同年齢の子どもたちと接している私の目からは、あの若い僧侶が、はっきりした理由はわからないのですが、眩しいものとして目に映ったのでした。そして家庭学校児童が、仮にラオスでもタイでもいいから出家してお寺に入り、短期間でもそのような暮らしを体験したとしたら、大きく人間が変わり、成長するかもしれないと思い至ったのでした。

2019年01月号

初めての冬を迎えて

望の岡分校教諭 吉村綾乃

 北海道に来て初めての冬、そして年越しを迎えました。運転が怖く、三〇分かけて徒歩で買い物に行くようになりました。すでに一回転び、凍った路面におびえながら生活する日々です。この冬は雪が降るのが遅いだとか、雪が少ないだとか、暖冬だとかいわれていますが、雪のない地方で育った身としてはこんなにも降るのか寒いのかといった状態で、せめてひどい年でなくて良かったとほっとしています。

 子どもたちはというと、飛び跳ね、走りまわり、滑ってスケートさながらに移動する始末。転んでけがをしないか、見ているこちらがはらはらします。これが雪国生まれのたくましさなのでしょうか。厳しさも楽しさに変える、そんな姿に脱帽です。

 北海道の冬は思っていた以上に厳しいですが、家庭学校は子どもにとってはさらに厳しい環境なのではないでしょうか。娯楽は制限され、自由な時間も少なく、作業はしんどく、なにより実の家に帰れません。寮での子どもたちと接することはあまりありませんが、黙々とする草刈り、延々と続く落ち葉集め、暗い中での薪割りなど、与えられた役割をこなす子どもたちを見かけると、よくがんばっているなと感心します。

 分校での生活も、遊ぶ時間はほとんどなく、一〇分間の中休みですらさまざまな制約がつきます。そんな中でも仲間とふざけて笑い合い、たまにケンカになっては仲直りしているのですから、やっぱりたくましいものです。

そんな分校にも十二月に入るころから、家庭学校と時を同じくして新入生が次々と入校してきました(当たり前ですが)。小学生も一人だったのが三人になり、随分賑やかになりました。人数が増えて思うのは、人との関わりの大切さです。

討論や発表など、授業の中でも他者と関わって行う活動はたくさんありますが、児童一人の教室では、否定も肯定もありません。考えが行き詰まっても、周りから他の視点が与えられることもありません。また、授業以外の場面でも、ケンカもありませんが遊び相手もいませんでした。けれど、そこに新入生が加わって、楽しそうに遊ぶ姿やお互いに教え合う姿などが見られるようになりました。

一方で、相手にイライラしたり口論になったりすることもあります。人付き合いの苦手な子どもたちには、むしろうまくいかないことの方が多いかもしれません。しかし、こうして交わった相手と、折り合いをつけ、さらには助け合うことができるようになるために、非常に大切な学びの場となると思います。

今、生活している段階で、子どもたちがこの家庭学校という空間を快適だと感じることは難しいでしょう。けれども、そのしんどさや厳しさの中に、楽しさや良さを見出して、それを乗り越えた先でひとつ上に成長してくれる子どもたちだと思います。その成長を少しでも助けられるよう、長い冬に負けず周りの方々と共に精一杯支援していきたいです。それにしてもやはり、あたたかい春が待ち遠しいものです。

2019年01月号

がんぼうホームの二年目の動きを振り返る――

がんぼうホームホーム長 熱田洋子

 オープンしてから丸二年、この一年を振り返り二年目の報告をします。

 支援職員の四名体制は継続し、入居の状況は、今年度の四月には定員通り六名の入居になりましたが、現在は十六歳から十八歳の男子四名が入居しています。

私たち職員が子どもたちとのコミュニケーションをきちんと取れるようになって、希望する自立をすすめてやりたいと願いながら二年目に入りました。職員の関わりを望まなくなった子ばかりでなく、子どもたちは不調になってもなかなか職員には気持ちを話してくれないもので、自立への目標や進路の希望を再確認するため、児童相談所の担当児童福祉司や家庭学校の心理職職員の協力をお願いするとともに、日頃から子どもたちの生活の様子を、間合いを考えながら見守り、毎週一回、職員間で、一人ひとりにその時必要と思われる接し方を話し合い、支援に生かすようにしています。

・就労は自立の推進力

子どもたちの様子をみていると、就労、学業、生活面のすべてうまくやれるということにはなっていません。就労を継続していることが自立の推進力になっているのは確かで、それに加えて学業を継続できて高校卒業を目指している子がいる一方、学業をあきらめて就労一本に絞った子もいますが、ホームでの生活面になると、就労の順調な子ほど、約束事の生活ルールにルーズになったり、職員にあまり関わってもらいたくないという態度が出てきています。そうなると、その子の自立にとって何が第一なのかを考えさせられます。いまのところは、就労をしっかり継続できていることを評価し、進路に向けて車の運転免許を取った子もいて、退居の時期の近いことを思い遣りながら、ホームの生活環境を快適に保つことや必要な弁当の用意など最小限の支援にとどめています。実際に、昨年の六月、就職退居第一号の子を送り出したところで、その子のように、就労をしっかり続けられると自分で進路を見出して退居、独り暮らしへと進んでいけるようですが、逆に、就労意欲がなえてしまうと、生活面も崩れて退居した子が二名いました。

順調に就労している子はもとより、転職を繰り返している子も、就労を通じて成長していくことを実感しています。就労先は、建築・設備業、大型スーパー、飲食店などで、働いている状況をお聞きすると、どの子もしっかりと働いていて、お客さんからも評価されています。子どもの中には発達障害のある子もいて、不調の時もあるのですが、土日の勤務も嫌がらずに出て、任される業務内容も広がっているようです。若年で初めて働く子どもたちに対して職場の皆さんが温かく支えてくださり、社会人となれるよう勉強させてもらっていることを思い感謝の外ありません。また、一人の子は、就労して三カ月くらい経つと突然休んでしまい、それからしばらくは復帰できず、一回は仕事に戻ったのですが昨夏の二回目の時は働きもしないでゲーム三昧の期間が長引きました。やっと児童福祉司の面接を受けて将来の目標を立て直し、一年間くらい働いて一人暮らしをするための自立生活資金を蓄えることを確認し合い、新しい仕事も何とか見つかり就労を再開することができました。この子も突然勤めを休む理由や、昨夏は学業も同時に休学となり、その後はどうしたいのかなど、気持ちを打ち明けてくれないので、毎日の行動を見守るほかはないのですが、このような繰り返しの中でも周囲の人たちに温かく支えられていることで人間的にも成長している様子が見られ、就労の継続を期待しているところです。

・新しい入居児を受け入れています。

昨年の三月に、高等養護学校に在学する子を一時保護委託として受け入れ、四月から入居になったのですが、これは、自立援助ホームの対象児童が平成二十九年度から広がり、就学中で就労できない児童も受け入れることができるようになったことによるもので、この子は諸事情から寄宿舎利用が認められず片道二時間半かけて通学を始めましたが、学校との関係が不調で、九月半ばからホーム待機の生活を送るようになり、いま、この子にふさわしい自立の進路を模索しています。この子を受け入れたことから新たに特別支援教育との関わりや、発達障害に伴う児童精神科の定期的な受診などの支援も求められています。