先人の足跡

このコーナーでは、家庭学校の主な名所についてご紹介しております。

※本校は児童福祉施設ですので、見学にお越しの際は、必ず本サイトトップページにある連絡先にご連絡の上、ご来訪ください。

礼拝堂

 礼拝堂は、本校のやや奥まった「望の岡」と呼ばれる小高い丘に、開設5年目の大正8年に早々と建てられました。ラテン十字形の平面、大屋根上の小尖塔、木地を露わにした内外壁や床・天井など、スティックススタイルの簡素な造形です。基礎の集合煙突は軟石積みとなっていますが、木材をはじめ、こうした材料は、農場の山林から掘り出したり伐り出したりしたものです。日曜日には、木立の中に少年たちの祈りが響き、安らぎの場ともなっています。

留岡幸助先生胸像

 留岡幸助先生の胸像は本館の前庭にあり、その台座の裏面には次のように記されています。

 留岡幸助先生は、明治二十七年監獄改良事業を勉強する目的をもって、アメリカ合衆国に留学、エルマイラ感化監獄に起居し、勤続52年の典獄ブロックウェイに師事す。ブロックウェイに座右銘あり。
“this one thing I do “先生はこれを邦語に翻訳して、「一路到白頭」となし、永く自戒の指針とす。

 碑正面の五文字(一路到白髪)は大正12年の幸助自筆です。一日庵は先生の雅号で、「一日の苦労は一日にて足れり」の意からとっています。

平和山記念碑

 本校のほぼ中央にそびえる平和山の山頂に、留岡幸助先生の遺髪を納めた記念碑が建てられています。碑には先生の辞世の句『眠るべきところはいづこ平和山興突海(オコック海=オホーツク海)を前に眺めて』が刻まれています。毎月5日、私たちは先生の命日を憶えて、この平和山に登り、記念碑の前で、しばし黙想の時を過ごします。本館と山頂の標高差は180mあります。

 北方遙か、直線距離にして約20キロ、湧別の山なみの向こうに、オホーツクの海を望むことができます。

留岡清男先生記念碑

 昭和53年、私たちは校祖の平和山記念碑の隣に、第4代校長の清男先生の記念碑を建てました。 碑には先生が愛誦された

経 営 漫 費 人 間 力 大 業 全 依 造 化 効
が刻まれています。句は蘭学者前野良澤の語。今日の管理社会の弊を戒め、固く天地自然の力に依拠して、偉大な事業を達成すべきことを教えています。

牛舎とバター小屋

 北海道家庭学校における酪農経営は、大正3年の本校創立の翌4年から、ホルスタイン種乳牛2頭を導入して、酪農部という名称で創設されました。

 以後、周辺農家の産業の振興と、本校に学ぶ少年たちの生産教育の上に、酪農部は大きく貢献しました。

 現在家庭学校の酪農部は、乳牛41頭を飼育し、担当職員夫婦と少年たちに管理されています。年間146トン余りの牛乳を生産しており、その一部は少年たちの食事に活かされています。また、冬季には、バター小屋でバターを自家製造しています。このバターは、市販されておらず、本校と関わりの深い方々に感謝の意味をこめて、贈られています。

醸造場

 家庭学校の醸造小屋では、春から秋にかけて、年間500キロ程度の味噌を手作りして、少年たちの食卓に供しています。食品添加物は一切使わず、大豆、米、塩、麹だけのシンプルな材料から作り上げますので、製造から熟成期間を含めて約2年程度かかります。在校期間との関係で、製造に直接携わった生徒たちは、自ら造った味噌を食べることは出来ませんが、後輩たちの豊かな食生活のために労を尽くしてくれます。

博物館

 家庭学校の博物館は、大正5年当時、家庭学校の敷地内から大量の土器や石器が出土する状況を見て、こうした遺物を核とした博物館の設立計画からスタートしました。その後、留岡幸助先生の指揮のもと当時の寮舎講堂を利用して博物室とし、「動物部、植物部、礦(こう)物部、地理歴史参考部」の4部門に資料を分類して展示をおこないました。その後、博物館は専従の管理者を置くことができず、また建物や展示品の老朽化が進んで、その対策が課題となっていまたが、創立100周年を機に旧桂林寮の内部を全面改装してリニューアルオープンしました。

留岡幸助先生頌徳碑(しょうとくひ)

 頌徳碑の裏側にはつぎのように刻まれています。

 留岡幸助先生は、我が国の社会福祉と地方自治の先覚者。
 一九一四年、この地に家庭学校と付属小作制農場を創設した。
 乳牛の導入、水田の試作、産業組合の結成、冬期学校、季節保育所の開設、神を讃美する一羊会の例会、小学校の誘致、石北線開通陳情等、先生の発意と努力の賜物である。就中一九四〇年、附属小作制度を開放し自作農家を創設したが、それは既に早くより先生の抱懐した意志である。
 頌徳会一同は、先生の遺徳を末長く讚仰するために一九四〇年、八月十五日、頌徳碑を建立し、更に一九六六年八月十五日遠軽町の有志とともに、これを再建した。
(碑文は畏友国沢新兵衛の自筆。碑面上方の八字(力田而食布衣亦尊)は先生が好んで口ずさんだ先生の自筆、一日庵は先生の雅号)

※『力田而食布衣亦尊』 「一生懸命田を耕して生活(食)している。質素な衣服もまた尊いものだ」

図書館(留岡幸助君古稀記念文庫)

 本校の創立者留岡幸助は、感化教育の研究のため欧米の監獄における教育を視察した際、刑務所の中に図書館が設立され、囚人たちの更正に大きな役割を果たしていることを知りました。

 彼は東京の家庭学校本校に図書館を設け、さらに大正12年6月、社名淵分校校内にも図書館を設けました。その特色は、校内の教師、生徒ばかりではなく、付近農村の人々にも広く図書の利用を進めたことでした。

 昭和9年には幸助の古稀を記念して、独立した図書館「留岡幸助君古稀記念文庫」が完成しました。当時の蔵書は約1000冊でしたが、昭和50年代には、約1万1千冊に増えています。

 現在、一般に公開する図書館活動は休眠状態にありますが、平成13年から蔵書目録の作成が進められ、国内の国公立図書館等には所蔵されていない貴重な図書の存在も、確かめられています。

北海道支湧別家庭学校第二農場

 大正3年、遠軽社名淵に第一農場を創設した留岡幸助は、白滝支湧別の広々とした豊かな土地に目を向けました。そして、大正5年春、上支湧別の国有林地305町歩の払い下げを受け、この地を第二農場としました。その後、様々な沿革を経て、現在は農場としての役割を終え、歴史的建造物として、行事等の際に時折活用されています。

大町桂月歌碑

 樹下庵の向かいに湧き出ている生命の泉、そのほとりに蝦夷松に囲まれて、ひっそりと建つ石碑があります。

 刻まれた和歌は、

『あなたふと平和の山に湧き出でゝ 人の命をすくふ真清水』
(あな尊と 平和の山に湧きいでて 人の命をすくう真清水)
 歌を詠んだのは、大町桂月(1896-4925)。彼は明治大正期の詩人、評論家として知られますが、旅と登山をこよなく愛し、日本中をめぐって多くの旅行記を残しました。

 桂月は家庭学校の後援者たちと親しく、家庭学校長留岡幸助の知人でもありました。

 1921(大正10)年、大雪山、阿寒を始めとする北海道の景勝地をめぐっていた彼は、9月5日、突然、社名淵を訪れました。そこで、家庭学校の自然、諸先生と少年たちの生活にふれ、感激して数々の俳句や和歌を残したのです。 桂月は「層雲峡」の名付け親であり、初めて北海道の風景を全国に紹介した人物としても知られています。