創設

 家庭学校は、1899(明治32)年、近代日本の指導的社会事業家であった留岡幸助(1864-1934)により、東京に創設されました。  当時、東京家庭学校に活動の拠点を置いていた留岡幸助は、新たな教育の理想を求めてこの厳寒の地、遠軽に北海道家庭学校を創設しようとしました。家庭学校という校名には、家庭の愛と学校の知にあふれた、家庭であり学校でありたい、という願いが込められています。キリスト教精神を基本にすえ、少人数の生徒が職員と共に生活し、学ぶ「家庭学校の感化教育」は、画期的な実践でした。

創設の地を北に求めた理由

 当時、東京家庭学校に活動の拠点を置いていた留岡幸助は、新たな教育の理想を求めてこの厳寒の地、遠軽に北海道家庭学校を創設しようとしました。  当時、東京家庭学校に活動の拠点を置いていた留岡幸助は、新たな教育の理想を求めてこの厳寒の地、遠軽に北海道家庭学校を創設しようとしました。なぜ、南の地ではなく、この北の果てに学校を作ろうと思ったのでしょうか。『少年たちと生きる』(谷昌恒・日本基督教団出版局)の中につぎの記述があります。

 『当時留岡先生は東京で仕事をしておられました。東京から暖かい南の地に向かっていくことも出来たはずです。けれども、留岡幸助は北に行くのです。南の土地はだめだと言う。南の土地は早熟だというのです。気候がいいから草木もどんどん成長する。しかし教育というものは早熟の人間を創るべきものではないのだ、じっくり育つ人間、しっかり大地を踏みしめ踏みしめ歩く人間、そういう人間を創るためには南に行っては駄目だと彼は考え、北海道に行くわけです。私どもの土地は、例えば冬、オホーツク海がぎっしり流氷で閉じこめられると、しばしば朝マイナス30度を越えることがあります。その厳しい自然の中で子供を育てたいと考えました。  そういう厳しい土地ですから、地面の下は約1メートル凍ります。家の基礎は1メートル50㌢くらい深く掘らないとなりません。それよりも浅いと冬の間に凍土といいますが、凍って家が持ち上がってしまいます。北海道の遠軽のような土地では、家を一つ建てるのにも深く基礎を掘ります。人生も深く基礎を掘らなくてはならない。自分は豊かな自然がほしいけれど、その自然は北海道のような厳しい自然でなくてはならない。留岡先生はそう思ったわけです。』